子どもの学力を伸ばせていない、いじめを見過ごしている――。何かとたたかれる日本の教師。でも、本当に日本の教師はダメなのでしょうか。国際機関の見方は、ちょっと違うようです。これまでも子どもの高い学力を維持することに成功してきたし、さらに高みを目指そうと意欲をみせている、と高い評価をしているのです。
「もっと学びたい」と考えていると絶賛
国際教員指導環境調査(TALIS)。経済協力開発機構(OECD)が実施しているもので、先ごろ日本が初参加した最新調査の結果が発表されました。新聞各紙の見出しでは「勤務時間が最長」「女性教員の割合が最低」などと打たれ、記事の中でも、自信の低さや授業以外の仕事が多すぎる問題などが強調されていました。
しかし、ちょうどOECD非公式教育大臣会合に出席するため来日していたアンドレアス・シュライヒャー教育局長は日本向け発表記者会見で、日本の教師について「非常に素晴らしい。PISA(生徒の学習到達度調査)で最も良い結果を出しているのに、もっと学びたい、もっと力をつけたいと考えている」と絶賛したのです。
確かに、必要だと考える職能開発(研修)を尋ねると「担当教科の指導法」56.9%(同9.7%)、「担当教科の知識と理解」51.0%(参加国平均8.7%)、「生徒の行動と学級経営」43.0%(同8.7%)、「進路指導やカウンセリング」42.9%(同12.4%)、「個に応じた学習指導」40.2%(同12.5%)など、多くの項目で参加国平均より飛び抜けて高くなっています。そうした高いニーズがあるにもかかわらず、「日程が仕事のスケジュールと合わない」との回答は86.4%(同50.6%)に上っており、文部科学省も「職務が多忙であることが参加を困難にしている状況がある」と分析しています。
ただ、シュライヒャー局長が研修意欲の高さを称賛したことには理由があります。これからの国際社会では、さらに新しい能力を子どもたちに身につけさせることが不可欠であり、そのためにも教師には新しい指導法を学んでもらう必要があるからです。
「21世紀型」の学び 日本は「優位」
シュライヒャー局長は会見で、「21世紀型スキルの獲得には、21世紀型教授法が必要だ」と強調しました。21世紀型スキルとは、もともとインテルやマイクロソフトなど世界的IT(情報技術)企業が出資する国際プロジェクト「ACT21S」が提唱しているスキル(技能)で、「創造性とイノベーション(革新)」「批判的思考、問題解決、意思決定」「コラボレーション(協働)」「情報リテラシー(活用能力)」など10項目を挙げています。
以前から「キーコンピテンシー(主要能力)」という形で次世代に必要な能力を探ってきたOECDも、ACT21Sに参加してきました。シュライヒャー局長が「知識はグーグル(のような検索サイト)の中にある」と指摘する通り、これからは知識の量よりも、知識を活用して他者と協力し、新たな価値を生み出す力がいっそう重要になってくるのです。
実は日本でも、文部科学省が全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で「活用」の力を問うB問題を出題しているように、国際的な動向に敏感に反応してきました。21世紀型スキルに関しても、日本版ともいうべき「21世紀型能力」(国立教育政策研究所)として次の学習指導要領に反映させられないか検討しています。シュライヒャー局長は会見で、東日本大震災の被災地で創造的な学びが展開されていることを例に「21世紀の学び、21世紀型の教授法、学校間の協働で、日本は優位にある」と断言していました。
もちろん、課題はあります。1週間かかる課題を生徒に与えたり、少人数グループで共同の解決策を考えださせたりする指導が、他の国に比べて少ないことです。だからこそ研修に参加しやすくし、授業にもさまざまな活動ができるよう余裕を持たせることが必要でしょうし、それには行政の責任も重いと言わなければなりません。いずれにしても日本の教師はもっと自信を持って、未来志向の教育にまい進していいのかもしれません。
(渡辺敦司/教育ジャーナリスト)
たとえば先日のワールドカップにおいて、日本人サポーターが試合終了後のゴミ拾いをした活動など、海外にメディアに言わせればこれは日本の教育の勝利である。日本人の資質の高さは、幼稚園から小中高校に至るまでの長い長い人間教育のおかげだと口をそろえて言う。それは日本人のDNAに染みついた美徳だとかよき伝統だとかで片づけるものは、少なくとも海外にはいない。しかるに、日本のマスコミ上では、それは「教育以外のなにものか」のおかげなのだ。
子どもの学力を伸ばせていない、いじめを見過ごしている
そんな日本の学校に、道徳教育ができるはずがない、それが前提なのだ。
しかし言っておくが、使った施設を掃除することや行った先を汚さないこと、出たゴミを回収して帰ること、順番をまもってきちんと並ぶこと、楽しみも苦しみも皆で分かち合うこと、そういった基本的な道徳を毎日延々と教育している存在は、少なくとも組織としては、学校以外にない。日本のメディアはまずそのことを認めるべきだ。
しかし実際には(産経新聞の好きな用語をもじれば)日本のメディアは「自虐教育観」に覆われていて自国の素晴らしさを絶対に認めようとしない。諸外国が自国の公教育と比べて(あるいはOECDが世界各国の公教育と比べて)、いくら日本が素晴らしいといっても、「あるべき理想的な公教育」に比べたら、あれも足りないこれも足りないと不足ばかりをあげつらっていつまでも不平を言っている、それが国内メディアの実情である。
おそらく彼らの口を借りると、
確かに、必要だと考える職能開発(研修)を尋ねると「担当教科の指導法」56.9%(同9.7%)、「担当教科の知識と理解」51.0%(参加国平均8.7%)、「生徒の行動と学級経営」43.0%(同8.7%)、「進路指導やカウンセリング」42.9%(同12.4%)、「個に応じた学習指導」40.2%(同12.5%)など、多くの項目で参加国平均より飛び抜けて高くなっています。
も、
必要だと考える職能開発(研修)を尋ねると「担当教科の指導法」や「担当教科の知識と理解」はかろうじて50%を越えるものの、「生徒の行動と学級経営」「進路指導やカウンセリング」、「個に応じた学習指導」などはかろうじて40%を越える程度。実に教員の半数以上は進路指導やカウンセリングの研修の必要性を感じていないのだ
ということになろう。
新聞各紙の見出しでは「勤務時間が最長」「女性教員の割合が最低」などと打たれ、記事の中でも、自信の低さや授業以外の仕事が多すぎる問題などが強調されていました。
教員が熱心に働けば「勤務時間が最長」になるのは当然だし異常に勤務時間の長い現状では家事を任せられやすい女性の比率は下がらざるを得ない。自信の低さはメディアや世論が作ったものだし、授業以外の仕事=修学旅行など各種行事の計画や下見、複雑で高度な授業の準備、部活動、PTA活動、こうしたことをすべて排除して授業に専念すれば誉めてもらえものではないだろう。
教育は有機的なものであってすべての部門で最大値を目指せば必ず破綻する。例えば学力で頂点を目指すなら、学校行事を減らして小学校でも教科担任制を敷くしかない。しかしそうなると「児童をトータルに知る学級担任が、特別活動を通して体験的に学ぶ道徳」という極めて優れた日本の道徳教育は崩壊する。部活動もPTA活動も、そうした大枠の中で考えていかなければならないものである。
それをいじるとしたら、そこには相当な覚悟がなければならないはずだ。