キース・アウト
(キースの逸脱)

2014年 8月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2014.08.07

体罰厳禁に苦悩する教員たち “武装解除”だけ求められ…


[産経新聞  8月5日]


 体育の時間。体操着の着方を注意した20代の男性教諭に、中学2年の男子生徒はカッとなって教諭の胸ぐらをつかんだ。教諭が生徒の体をつかんで押さえ込もうとした瞬間、生徒は大声で叫んだ。「体罰や! みんな見たか! じゃあ俺もやってええんや!」。生徒は教諭に殴りかかった。

 今年1月、西日本の公立中学校で起きた暴行事件である。教育困難校であるこの学校の男性教諭(45)は「頭を小突いただけで体罰、手を引っ張っただけで体罰。学校は“体罰被害”の訴えが横行していて、生徒指導が難しくなっている」と嘆息する。

 原因は平成24年12月、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部員が顧問の教諭から激しい体罰を受け自殺した事件だ。そもそも体罰は法で禁止されているが、これを機に教師の間で体罰禁止を過度に意識する風潮が強まり、問題行動を起こす生徒たちがそれを“悪用”する構図ができあがった。

 結局、殴られた教諭は被害届を出し、生徒は傷害容疑で逮捕された。

■警察通報で恨みも

 文部科学省の調査によると、24年度の国公私立校の校内暴力は、小学生が前年比896件増の7542件、中学生は883件減ったものの3万4528件。このうち小中合わせて1647件で教師が病院で治療を受けるけがをしている。

 「次の事件を起こさせないためにも、教師を守るためにも、今は警察に被害届を出すしか方法がないんです」。高知県の公立中学校の男性教諭(44)は苦渋の思いを吐露する。

 学校教育法では、校内暴力などに対し、教育委員会が加害生徒の出席停止を命じることができると規定している。だが命令にあたっては、保護者への意見聴取や、出席停止期間中は家庭訪問して学習支援などを行う必要がある。教諭は「学校にはそんな人手もないし、出席停止を命じても、また事件を起こすから無意味」と断じる。実際、出席停止の適用は少なく、24年度は全国でわずか25件だ。

 約20年前には、多くの教員が体罰禁止を承知の上で、時には手を上げる指導をしていた。「昔は“愛のムチ”が親や地域にも理解される社会環境だったが、今は厳禁。現場の教員は、いわば『武装解除』だけを求められ、最前線に立たされている。暴力の連鎖を止めるためにも『見せしめ』として警察に届けるしかないんです」

 岐阜県内の公立中学校で生徒指導担当を務めてきた男性校長(54)は「警察沙汰にさせないため、教員には生徒に殴らせない指導を心がけさせている」と話す。

 校長には苦い経験がある。担任時代、問題を起こす生徒を粘り強く指導していたが、顔面を殴られて限界を感じ、警察に通報。家庭裁判所の決定は不処分だったが、生徒は卒業後、学校のガラスを毎朝、割り続けた。「子供は『教員に警察へ売られた』と思うので、警察への通報は恨みしか残らない」

■体罰ではなく暴力

 一方、明らかに行き過ぎた体罰により、子供がけがをするケースが後を絶たないことも事実だ。

 7月31日、私立豊田大谷高校(愛知県)の野球部監督(33)が、1年生部員に対する傷害容疑で逮捕された。同校は夏の甲子園に2回出場経験のある名門だが、愛知県警によれば、この監督は昨年7月、練習中に疲れて座り込んだ1年生部員を殴ったり蹴ったりし、肋(ろっ)骨(こつ)骨折の重傷を負わせたという。

 東京都内の元中学校長(69)がこう嘆く。

 「以前は体罰をする側の教師に余裕があり、手を上げるにしても、けがをさせないよう加減していたが、最近は教師に余裕がなく、キレて何度も殴るようなケースが目立つ。そうなると体罰ではなく、暴力だ」

 指導力のあるベテラン教員が大量退職していく今、学校現場はより厳しい時代を迎えている。

 ■「懲戒」との区別徹底、文科省が通知

 大阪市立桜宮高の体罰問題を受け、文部科学省では学校現場での体罰厳禁を徹底するよう、繰り返し指導している。昨年3月には、学校教育法で禁止されている「体罰」と、生徒指導上認められている「懲戒」との区別を明確に示す通知を全国に出した。体罰行為として、子供を一切教室から出さず、トイレにも行かせないことなどを例示する一方、放課後の居残りや練習に遅刻した生徒を試合に出さないことは、懲戒に当たると規定している。

 だが、学校現場からは「放課後の居残りぐらいで問題行動を起こす生徒の態度は改まらない」との声が根強い。

 民間の有識者でつくる「教育再生をすすめる全国連絡協議会」では、場合によっては小・中学生にも停学や退学などの懲戒処分が必要であると指摘。「10の提言」の中で、組織的なルールづくりに取り組むよう求めている。




 これは半分は語の定義の問題であり、その部分さえ押さえれば、難なく過ごせるケースがいくらでもある。
 たとえば、
 中学2年の男子生徒はカッとなって教諭の胸ぐらをつかんだ。教諭が生徒の体をつかんで押さえ込もうとした瞬間、生徒は大声で叫んだ。「体罰や! みんな見たか! じゃあ俺もやってええんや!」。
 これなど大したことはない。そう言われた瞬間に次のように叫ぶのだ。

「ジャッカマシーわ! 体罰なんかじゃねェ! 教師の暴力じゃ! おまえが胸倉掴んだから押さえ返しただけじゃ、お前が殴り掛かれば殴り返すだけじゃい!」

 ここでのポイントは「体罰なんかじゃねェ、教師の暴力じゃ!」である。
 世間一般にはまだまだ “体罰”より“暴力”の方が悪いという思い込みがあるから、教師の側から「(これは体罰ではなく教師の)暴力だ!」と叫べば一瞬のスキができるはずである。
 また“体罰”なら自ずと限界があるが、“暴力”はどこまで発展するかわからない。それで相手が怯めばこの勝負はもう半分は勝ったようなものなのだ。

 そして落ち着いた話ができる状態になったら、その“教師の暴力”が、犯罪として警察に行くべきものなのか、正当防衛ないし緊急避難あるいは安全確保などのために必要なものだったのか、一緒に考えればいい。
 警察官だって犯人を逮捕するときは暴力も振るえば手錠もかける。必要な範囲で物理的強制力を使っていいのは教師だって同じだろう。そのまま暴れていれば子ども自身が危険だとか周囲が傷つくとか、傷害や器物破損の加害者になってしまうとか、落ち着いたあと必ず後悔する子だとか、そんな場合はいくらでもある。
 ところが
同じ暴力でも、“体罰”だと無条件に教師が悪い”、それが現実なのだ。
 だからとりあえず“体罰”は認めてはならない。“暴力”で認め合ってあとは条件闘争に持ち込むだけだ。
 
 さて、それにしてもたとえば、
生徒がつかみかかってきたので抑え込もうとしたのどこに“体罰”の要素があるのだろうか。
 「体罰」は肉体に訴える懲戒であり、Aという罪を犯したのでBという懲戒が行われるという、きわめてシステマチックなもののはずだ。教室で騒いだから正座、宿題をやってこなかったからビンタ――昔の体罰は実にわかりやすかった。そこに単なる教師の、怒りに任せた暴力が入り込むので混乱が生じたといえる。
 
 
練習中に疲れて座り込んだ1年生部員を殴ったり蹴ったりし、肋(ろっ)骨(こつ)骨折の重傷を負わせたという。

 これなどはまさに
体罰ではなく、暴力だの代表例である。大人の発達障害が6%〜10%(NHK)というなら教員の中にもADHDなどは相当数含まれているはずである。かつてはそうした人々の暴力も許されていたが現代はそうでない。 
 最近は教師に余裕がなく、などと説明する必要もない。
 
カッとなりやすい人は特別な訓練でもしなければストレスの多い学校現場で安定して暮らすことはできない。しかし都道府県教委も市町村教委も特別な訓練を実施する余裕もストレスを減らす方策も持っていないのだ。
 残念なことだが、そうした傾向を持つ教員にはこれからもどんどん辞めてもらうしかない。それで学校がよくなるわけでもないのだが。
 
 さて、では根本的な方策として、何をどう考えていったらいいのだろう。
 私は基本的な罪と罰の関係を明文化し、容赦なく適用するシステムをつくるべきだと思う。
 “容赦なく”というのは過酷ということではない。適用するのに範囲に含みを持たせたり、場合によっては適用そのものを棚上げにしたりといった判断を、教師に任せないということである。そうしないと結局指導の不統一を招き、制度自体が崩壊してしまうからである。
 校内の器物破損については家庭による弁済と本人の強制労働(トイレ掃除など)5日、
 教師暴力は出席停止3日。反省文、原稿用紙10枚。その間の学習支援はしない。
 それでいい。
 
 現状では出席停止なんてできるはずもない。
 命令にあたっては、保護者への意見聴取や、出席停止期間中は家庭訪問して学習支援などを行う必要がある。
 本気で行えば非行少年は無料の家庭教師を1セット(全教科)雇うことになり、その間、学校は教科担任不在のためにたくさんの授業が自習になる、そんな“悪者圧倒的有利”を学校が我慢できるはずがない。

 家庭裁判所の決定は不処分だったが、生徒は卒業後、学校のガラスを毎朝、割り続けた。「子供は『教員に警察へ売られた』と思うので、警察への通報は恨みしか残らない」
 警察へ売られたから恨むのではなく、もうこれ以上関わりたくないと(親兄弟がしたように)学校までもが見放したと思うから恨むのだ。
 子どものことを本当に思うなら、“決して見捨てない”という態度を明確にし、守り続けるしかない。
 
 





2014.08.20

中学生:教諭への暴行など逮捕相次ぐ 警察介入是非で議論


[毎日新聞  8月19日]


 今年4〜6月、埼玉県内の男子中学生6人が、教諭への暴行や傷害の容疑で同県警に相次いで逮捕されていたことが分かった。いずれも「胸ぐらをつかんだ」「胸を殴った」などで学校側が通報し、警察官らが現行犯で逮捕した。被害の程度が軽いケースでも学校への警察介入を進めるべきなのか、校内の問題は現場の責任で解決すべきか??。識者らの意見も割れている。【川畑さおり】

 ◇埼玉「制止利かず通報」…教師の胸ぐらつかみ

 4月15日、草加市の中3男子2人が暴行容疑で逮捕されたケースは、同級生への指導が「気にくわない」と50代男性教諭の胸ぐらをつかみ、壁に押しつけるなどしたのが逮捕容疑となった。教諭にけがはなく、同市教委は「複数の教諭で対応しても制止が利かなかった」と通報理由を説明する。

 5月7日には、さいたま市の中3男子が頭髪を注意されたことに腹を立て、30代男性教諭の胸を殴るなどした暴行容疑で浦和西署に逮捕された。市教委は「以前から段階的に指導を積み上げてきた(が改善しなかった)」と強調。同署は「証拠隠滅の恐れがあるなど(法的な)要件がそろえば逮捕する。決して逮捕権の乱用ではない」とした。

 中学生の逮捕は全国で散見され、今年2月に札幌市で教諭の顔や胸を殴るなどし3週間のけがをさせた例や、同3月に兵庫県朝来市で教諭の顔付近を拳で殴った例などがある。しかし暴行の程度が軽く、短期間に逮捕が集中した点で埼玉県は異例だ。

 同県では、これまで積極的に学校と警察が連携してきた。2002年度に全国に先駆けて「スクールサポーター」制度を導入。県警の非常勤職員が要請を受けて校内をパトロールしたり、問題を起こす生徒とその保護者への指導を行ったりしてきた。現在は元警察官37人と元教員3人の計40人が活動する。03年度には、学校と警察が「必要に応じて協力する」と明記した協定が結ばれた。

 1980年代に放映されたテレビドラマ「3年B組金八先生」は、主人公の生徒が逮捕されるシーンが話題を呼び、「問題生徒を『腐ったミカン』のように排除すべきではない」とする教育論が優勢だった。しかし近年は体罰が社会問題化し、いわゆるモンスターペアレントなど保護者対応もより難しくなった結果、教諭による生徒への抑止が利かなくなっている事実がある。
 中2の息子がいる同県内の50代男性高校教諭は「暴力を目撃した他の生徒のショックは大きいし、自分の子が被害に遭わないか心配。警察の介入は仕方ない」としつつ、教諭の立場から「大人に暴力をふるうのはそれまでの不信感や不満が積み重なった結果。日ごろから生徒とコミュニケーションがとれる関係を作るべきだ」と話す。


 「夜回り先生」で知られる水谷修・花園大客員教授は「もう学校だけでは対応できなくなっている。教諭にゆとりはなく、礼儀などを含む全ての指導を求めるのは無理がある。子供を育てるのは社会全体の責任。学校が警察を含む各機関と連携しながら子供たちを良い方向に導こうとするのは、間違いではない」と理解を示す。

 一方、教育評論家・尾木直樹さんは「生徒の評価権という絶対的権限を持つ教諭が、さらに警察権力を使うのは安易ではないか。学校の自殺行為でとんでもない話だ。背景には教諭の力量不足があり、他生徒への『見せしめ』の意味もあるのだろう。心の琴線に触れるような指導をせずに、生徒が更生するとは思えない」と厳しく批判している。

<今年度の中学生逮捕事案>

●発生場所・容疑者
(1)発生日(2)逮捕容疑(3)被害教諭(4)容疑の概要

●草加市・3年男子2人
(1)4月15日(2)暴行(3)50代男性(4)胸ぐらをつかみ壁に押しつけるなど

●寄居町・3年男子
(1)4月23日(2)傷害(3)30代男性(4)頭突きや腹蹴りで1週間のけがをさせる

●さいたま市・3年男子
(1)5月7日(2)暴行(傷害で送致)(3)30代男性(4)胸の殴打や足蹴りで打撲の軽傷を負わせる

●越谷市・3年男子
(1)5月12日(2)暴行(3)20代男性(4)胸ぐらをつかむ

●比企郡・男子
(1) 6月16日(2)暴行(3)20代男性(4)胸ぐらをつかむ



 新聞記事に素人の発言が出てくると私は身構える。
 中2の息子がいる同県内の50代男性高校教諭
 義務教育にも高校教育にも精通していて、適切に記者寄りの発言をしてくれる、こうした人材をどういう手づるで手に入れたのか、私は相当な不信感を持って思う、
 
この人は実在するのだろうか?
第一、 現場の教師だったら、
暴力を目撃した他の生徒のショックは大きいとは言わない。
 暴力を目撃しても平然としている生徒の姿にショックを受けるのは私たちの方だ。

 自分の子が被害に遭わないか心配
も現職の教師だったら普通は言わない。そんな言い方をして後で恥をかいた“加害者の親”を何人も見てきたからだ。自分の子が“加害者”になる可能性を全く考えないのはいかにも素人くさい。

 さらに、
日ごろから生徒とコミュニケーションがとれる関係を作るべきだは、「オレは優秀な教員だからできるけどね、最近の教師たちはレベルが低すぎて・・・」と――。
 実在の教員だとしたら、この人は相当におかしい。公共の場で発言させるべき人ではない。

 さて、余談はここまでとして――、
 子どもを簡単に警察に突き出すことの是非についてだが、これは簡単に言うと次の二者択一なのだ。

  1. 児童生徒を決して警察などの外部権力に渡さず、学校内でねちっこく粘り強く、果てしなく続けようとする指導。時には家庭内にずかずかと入りこみ、力づくでも子どもを正そうとする強権的で情熱的な教員の個人的指導。
  2. 社会の善悪および罪と罰のルールを早くから教え、“こう”すれば“ああ”なるという合理的・制度的な指導
 かつて@であったのが次第にAに移行してきただけなのだ。もちろんそうした変化には理由がある。

 第一に、そうした情熱的教育から生まれる過度の緊張関係――教師による体罰、児童生徒による対教師暴力、そうしたものに社会が耐えられなくなったこと。
 第二にプライバシーの尊重。
 教師が家庭内に入りこむことに関する過度の警戒心、問題が取り返しのつかないレベルまで行かないと情報を出したがらない風潮。教師への不信。
 そして第三に、教員の疲弊。
 制約が爆発的に増える中で昔のような指導をしようとすれば、尋常ではない努力や才能が必要となる。尾木の言う「教諭の力量不足」その意味では正しいのであって、現在の教員が要求される“力量”は私が教員になった時代とは(もちろん尾木が教員であった時代とも)全く違う。そのレベルに至らないばかりに、毎年5000人を越える精神疾患による休職者が生まれているのだ。
 
 心の琴線に触れるような指導をせずに、生徒が更生するとは思えない
 私もそう思う。かつてはそれが教職の醍醐味だった。しかし優秀な教員が次々と病気に倒れ、体罰に追い込まれ、不祥事に巻き込まれるとなると、もうこれ以上はやっていられない。

 尾木も「学校の自殺行為でとんでもない話だ」というなら、現状で学校を生き延びさせるための方法を提示すべきだ。
 「教諭の力量不足」を言い立てても何も始まらない。それこそ評論家の力量不足というものだろう。







2014.08.25

忙殺される日本の先生たち、自信を持って
日本漢字能力検定協会代表理事・高坂節三


[産経新聞  8月23日]


 昨年、アラブ首長国連邦の大統領補佐官で教育部門担当をしている方が、日本の初等教育の現場を見せてほしいということで来日された。

 かつて私が学校運営連絡協議委員をしていたつながりから地元の小学校にお願いして学校内を案内していただいた。校長先生の案内で校内を見て回った後、昼食は学校給食を一緒にし、地元の教育委員会の指導担当の主事にも参加してもらって、教育事情について意見交換をした。

 大統領教育担当補佐官は、「アラブ首長国の方が教育予算は多いのに、教育内容が低いのは先生に問題があるように思える」と話し、「多くの先生は教育を天命だと思わず、他の仕事とかけ持ちをしたり、小銭がたまったりするとすぐ辞めてしまう」とこぼしておられた。

 近隣諸国からの「出稼ぎ先生」にも問題があるようだ。日本の教育事情の説明の後、校長先生は「日本の先生は一般的に一生涯、学校教育に尽くす気持ちで毎日を過ごしている」と答えられた。
 
 事実、海外に駐在していると、2部制の半日授業も多く、学校の授業だけでは食べていけないので、内職をする先生の多いことに気づかされる。ブラジルに赴任していた時代の私の秘書は、英語の先生を辞めて、私の所に来てくれるという状況であった。

 一時期、世界で最も進んだ教育をしているのはフィンランドであるといわれ、競い合ってフィンランドに視察に行ったこともあった。フィンランドを代表する通信機器メーカーのノキア社の代表が、「なぜノキアは業績が伸びないのか」と聞かれたときに、「フィンランドの教育が悪い、平均点は高いが、個性的かつ独創的な人材が育たない」と言ったという報道もある。

 教育問題を話しだすと限(き)りがないほど議論が沸騰する。しかし、私は多くの学校訪問をし、授業参観もした印象では、日本の教員の能力と熱意については、大したものだと評価している。

 6月に新聞報道された、経済協力開発機構(OECD)の中学校教員を対象にした勤務環境などの国際調査結果を読むと、「生徒指導に対する自信のなさ」と「生徒に向き合う時間が少なく、学校運営業務や一般的事務業務に忙殺されている」と報告されている。

 こうした結果をみると、学校の先生に責任があるよりも、むしろ周りの環境がそうさせているように思える。

 「自信のなさ」については、保護者の過剰な要求と、なにか問題が起これば、それだけを大きく取り上げるマスコミなどが先生にことさらに心配の種を植え付けていないだろうか。

 「生徒に向き合う時間が少ない」のも、監督官庁や教育委員会が何か起こるたびにアンケートなどの調査を学校に依頼し、先生方はこれの応対に忙殺されているのではないか。

 学校と保護者(PTA)をつなぐためには、教員資格はなくとも、企業などで活躍した退職者に協力をお願いして、こうした事務の仕事とか、不登校対策、いじめ対策に手を借りることはできないものか。先生が天命と考える生徒指導に全力尽くせるような環境整備とともに、先生自身がもっと自信を持って教育に専念してもらいたいと思う。


                   

 もちろんこの記事に文句はないが、
なぜ産経新聞は10年前にこうした観点に立って日本の教育を見ることができなかったのか、なぜ今になって日本の教育を高く評価する記事を載せるようになったのか、説明してほしいところである。ほんのしばらく前まで、産経新聞は日本の教育を罵ることに最も熱心なメディアだったはずだ。私はそれを産経新聞の“自虐教育観”と呼んだが、いつから宗旨替えをしたのだろう。
 
 一時期、世界で最も進んだ教育をしているのはフィンランドであるといわれ、競い合ってフィンランドに視察に行ったこともあった。
 たしかにそんな時代はあった。しかしその時代でさえ私は疑問だったし、その疑問に答えてくれる人は誰もいなかった。それは単純な問いである。一言でいえば、
「学力世界一だと何がいいの?」
 ということだ。

 学力世界一だからフィンランドが世界の科学・文化をけん引してきたという事実があるわけではない。ノーベル賞受賞者が他を圧倒しているというわけでもない。国民所得が飛び抜けて高く人々が豊かに暮らしているというわけでもなく、経済規模で言えば日本の方が圧倒的に上だ。

 ノキアがある、と言った人がいる。しかし裏を返せばノキアしかなかった。そのノキアの凋落傾向がはっきりして携帯電話部門がマイクロソフトに売却されると、とたんに出てきたのが、
 
ノキア社の代表が、「なぜノキアは業績が伸びないのか」と聞かれたときに、「フィンランドの教育が悪い、平均点は高いが、個性的かつ独創的な人材が育たない」と言った
 といった話である。

 まさか教育のあり方が変わったわけでもあるまい。
 マスコミは恣意的に情報を操作し、日本の教育や教育行政を弄ぶ。記事が売れれば国民教育や国家そのものがどうなろうとも構わない――その点では産経も朝日も似たようなものだ。