キース・アウト (キースの逸脱) 2014年10月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2013年度に全国の小中高校などが把握したいじめは約18万5800件だったことが16日、文部科学省の問題行動調査で分かった。このうち小学校は約11万8000件で、2年連続で10万件を超え過去最多。暴力行為も1997年の調査開始以降、初めて1万件を超えた。
過去の調査では、いじめが社会問題化した直後に急増し、翌年以降は大幅に減る傾向だったが、大津市のいじめ自殺事件後の12年度調査から連続で高い数字となった。同省児童生徒課は「いじめ防止対策推進法の施行などで、積極的に対策に取り組む意識が高まり、継続的な把握が進んだ」と話している。 小学校のいじめは前年度比約1500件増の11万8805件。一方、中学校は5万5248件、高校は1万1039件でともに減少した。学年別では中1の約2万7000件が最多で、小1〜小6、中2がいずれも2万件前後だった。 いじめの内容(複数回答)は「からかい、悪口や脅し文句」(64.4%)、「遊ぶふりをした軽い暴力」(23.3%)、「仲間外れや集団無視」(20.2%)などが変わらず上位。パソコンや携帯を使ったいじめは8787件(4.7%)で0.7ポイント増え、特に中学で増加が目立った。 「からかい、悪口や脅し文句」「遊ぶふりをした軽い暴力」「仲間外れや集団無視」――。 言葉には幅がある。 「可愛がってあげる」という言葉も、母親が幼児に言うのと色っぽいお姉さんが若者に言うのと、ヤクザのおっちゃんがケンカの場で言うのとではまるで意味が違う。 買ったばかりの車を見て女の子が「いい車ね」といったら半分以上は「乗せて」という意味だと考えてよいが、見知らぬ男が2〜3人が「兄ちゃん、いい車だなあ」と言いながら近づいてきたら身構えなければならない。決して車を誉めているのではないからだ。 「からかいや悪口」「遊ぶフルをした軽い暴力」「仲間外れや集団無視」が全くなくなった世界は、果たして健全な社会といえるだろか。人をからかったり小突いたりするのは絶対悪なのだろうか。どんなに嫌な奴でも悪い人間でも、本人が望まない限り仲間はずれにしてはいけないのだろうか。そう強制する社会は望むべき社会なのだろうか。 かつて私は仲間外しの指導の中で、首謀者の女の子からこう言われたことがある。 「いじめじゃない。ただあの子のことが嫌いになっただけ。前から嫌だったけどついに我慢ができなくなっただけ。そしたら他の子も一緒に我慢するのを止めちゃった。だってあの子、嫌な子なのだもの。それでも仲間にしておかなければいけないの? 人を嫌いになっちゃいけないの?」 また『「ニッポン社会」入門―英国人記者の抱腹レポート』 (生活人新書 2006/12/1)にこんな一節がある。
精査せず、一律に「からかい、悪口や脅し文句」「遊ぶふりをした軽い暴力」「仲間外れや集団無視」はいじめだといえば、いじめは永遠になくならない。そしていつまでも不毛ないじめ対策に奔走させられるだけなのだ。 もういいかげん、このあたりで見直さなければいけないはずなのだが……。 「透明人間になったら何をしたいか」。小学6年生にこんな質問をすると、7人の児童から驚くべき答えが返ってきた。「人を殺す」「強盗する」。2年前、岐阜県の公立小学校の卒業文集にそのまま掲載され、保護者に配布されて大騒ぎになったことがある。
▼「チェックが不徹底で児童や保護者に申し訳ない」と学校は平謝りだった。もちろん、問題の本質はそんなところにはない。かわいそうに児童たちは、家庭でも学校でも、「人を殺してはいけない」ことを、教えられてこなかったに違いない。 ▼小中学校での道徳教育の教科化が、平成30年度にようやく実現する運びとなった。検定教科書も導入されるという。「子供の心の自由を侵害する」。相変わらずの批判の声は、大人の無責任としか受け取れない。価値観がますます多様化するなか、子供たちは大量の情報にさらされている。だからこそ、小学生のころから、社会の一員としての規範をきちんと教える必要がある。 ▼中学生に対しては、それぞれの心に踏み込んだ教育も可能だろう。「なぜ人を殺してはいけないのか」。重いテーマの作文に挑ませるのもひとつの方法である。もちろん、模範解答を求めるものではない。古今東西の数え切れないほどの識者が悩み論争してきた、人類永遠のテーマなのだから。 ▼テロリスト組織の残虐行為を是とする理由は何か。先日のコラムで、イスラム過激派「イスラム国」に戦闘員として参加しようとした、北海道大学の男子学生(26)について疑問を呈した。 ▼彼もまた、徳育の欠如した戦後教育の被害者なのかもしれない。テレビのワイドショーの路上インタビューに対して、北大生には行動の自由があると答えた若者も、同様である。 慰安婦問題で捏造だ歪曲だと攻撃し、朝日新聞にほぼ完全勝利した産経新聞、しかしやっていることは朝日と五十歩百歩だ。何の検証もなく次々と想像でものを言う、自分に都合のいいようにしか世界を見ない――。 「透明人間になったら何をしたいか」。小学6年生にこんな質問をすると、7人の児童から驚くべき答えが返ってきた。「人を殺す」「強盗する」。 ところでこの学校の小学6年生、母数はいくつなのか。それは基本的な問題である。最上級生が400人もいる学校だったら7人は誤差の範囲だ。逆に10人しかいないような小規模校だったら70%もおチャラケた子どもがいたわけで、それはそれで問題であろう。 しかし実際は何人だったのか――。 答えは60人前後(2年前なので正確な数は分からない)、7名は12%ほどである。きちんと指導しないとこの程度のふざけた発言は必ず出てくる。 生涯に渡って手元に残るかもしれない「卒業文集」というものの性質を考えると、指導も点検も甘かったことは否めない。書いた本人が後悔するような文章は指導して変更させるべきだ。それは本人のためである。 しかし「人を殺す」「強盗する」と書いたからといって、その子が殺人を犯したり強盗をしたりするような道徳観の欠如した人間だと言い出すのはあまりにも大人げない。 喧嘩の最中に「殺したろうか」とか「死ね」とかいう人がいてもそれで殺人に至る例は1%もいないだろう。関西人の常套句「ケツの穴から手を突っ込んで、奥歯をガタガタ言わせたろうか」を実践した人はいないだろうし実際可能だとも思わない。産経新聞氏はそのあたりのことも分からない。 しかしこのあたりまでなら「愚か」「未熟」で済む。それで済まないのはそれ以下である。 かわいそうに児童たちは、家庭でも学校でも、「人を殺してはいけない」ことを、教えられてこなかったに違いない。 アホか。 そんなことはそもそもきちんと正座して学ぶことではない。私自身、父からも母からも「人を殺してはいけません」と教育されたことはないし、教師から教えられたことも教師として教えたこともない。そんなことは当たり前だからだ。 当たり前のことを説明することはできない。できるのはそうした当たり前のこと(=真理)の周辺を固めて真の像を浮かび上がらせるだけである。それは例えば紙面の周辺から黒を塗り込んで中央に白い像を塗り残すように、周りを押さえて姿を浮かばせるのが精一杯なのだ。 真理というのはそういうものである。一言で語りつくせる真理は真理ではない。 だから私たちは膨大な時間を使い、学校の全教育課程を使って道徳を練り上げてきたのだ。そしてそれは、おそらくかなりうまく行っている。 徳育の欠如した戦後教育などといった虚偽を平気で新聞に載せる嘘つきを育ててしまったことは痛恨だが。 徳育の欠如した戦後教育――裏を返せば「戦前の道徳教育は充実していた」ということだろうが、そんなことはない。 上の記事の主旨を生かして殺人事件について調べてみると、(昭和51年犯罪白書およびwikipedia「殺人」) 人口10万人当たりの殺人発生件数は,1926年が3.4であるのに対し1975年は1.7、2002年に至っては1.1しかない。この数値は先進国の中で最低水準である。 産経の徳育の欠如した戦後教育に依拠するなら、戦前は負の道徳教育が行われていたとしか考えられない。そもそも「人を殺してはいけない」教育が徹底していたら、あの戦争は起こせなかったはずだ。 産経新聞はことあるごとに朝日新聞の自虐史観を攻撃してきた。しかし戦後史に限れば産経新聞も明らかに自虐史観を持っているのであり、教育についての虚報の垂れ流しは目を覆うばかり、朝日に匹敵するのである。 その自虐教育観がいかに日本の教育を歪めてきたか、改めて検証する必要がある。 |