キース・アウト
(キースの逸脱)

2015年 2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2015.02.07

文科省:考える道徳へ転換…学習指導要領の改定案

[毎日新聞  2月 7日]


 文部科学省は4日、小中学校の教科外活動「道徳」を格上げし2018年度から本格導入する新教科「特別の教科 道徳」の学習指導要領改定案を公表した。現行の指導要領を踏襲しつつ、いじめ問題への対応を重視し「公正、公平、社会正義」を小学1年から扱う。また、討論しながら課題の解決策を探る「課題解決型学習」を取り入れ、「教材を読む道徳」から「考える道徳」への転換を図る。3月5日まで意見公募した上で今年度内に改定。夏ごろまでに教科書検定基準などを作成し、小学校は16年度の検定を経て18年度から、中学は17年度検定で19年度から、教科書を使った授業が始まる。【三木陽介】
 ◇いじめ対応重視

 道徳の目標を「物事を多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」こととし「特定の見方や考え方に偏らない」と明記した。

 授業時数は現行と同じ年間35時間(週1時間)で、学習内容は「節度、節制」「公正、公平、社会正義」など、指導の狙いを明確にした項目ごとに分類。道徳教科化のきっかけになったのが大津市の中2いじめ自殺事件(11年)だったことから、現行では小学校高学年以降で扱う「公正、公平、社会正義」を低学年から導入。小学1・2年で「好き嫌いにとらわれないで接すること」、小学3・4年生で「誰に対しても分け隔てしないこと」を新たに盛り込んだ。

 グローバル人材育成の視点から、低学年の項目に「他国の人々や文化に親しむこと」も加えた。中学は学習内容の変化はない。また、小学校では情報モラル、中学では科学技術、生命倫理なども扱い、課題解決型学習や体験学習で指導することを求めた。

 子供の評価は「学習状況や道徳性にかかる成長の様子を継続的に把握する」とし、数値ではなく、プラス面を記述式で評価する。ただ「道徳性」の評価法が確立されていないため、同省は専門家会議を設置し、今秋までに具体例を示す。教科書を使った授業は18年度からだが、新指導要領に沿った授業を先行実施できるように来年度中に教員用の資料を作成し、配布する。

 ◇教科化で充実図る

 「特別の教科 道徳」の学習指導要領改定案が4日公表された。文部科学省は教科化によって道徳教育の充実を図りたい考えだが、授業の進め方や児童生徒の評価を巡り、教員の指導力をどう向上させるかが成否のかぎになりそうだ。

 学習内容は「教科外活動」である現行と大きな変更はない。「愛国心」に関わる項目も、小学1・2年で扱う「郷土の文化や生活に親しみ、愛着を持つこと」の冒頭に「我が国や」という文言が新たに挿入された程度だ。

 学習内容を大きく変更しないのになぜ教科化が必要なのか。中央教育審議会の答申(昨年10月)は「学校や教員によって指導の格差が大きく、不十分な状況」と指摘。現状の改善を狙いに挙げる。東京都内の区立小校長は「映像を流すだけや本を読ませて主人公の心情を追うだけ、という授業があるのは事実」という。中教審の専門部会で主査を務めた押谷由夫・昭和女子大教授(道徳教育学)は「今は教科外活動なので教科より格下という意識の先生もいる」と背景を指摘する。

 文科省が2012年度に全国の公立小中学校を対象にした調査で、道徳教育の課題として多く挙がったのは「指導効果の把握が困難」「効果的な指導法が分からない」「適切な教材の入手が困難」など。教科になれば、評価や教科書が導入される。同省は「評価することで指導の効果を把握でき、教科書が指導の土台になるので課題の解消につながる」と教科化の必要性を強調する。

 授業方法は、クラスでの討論や議論を通じた「課題解決型学習」や体験学習を取り入れることを求めている。一方的な「教え込み」でない授業だ。いじめ問題を扱う場合も「なぜいじめが起きるのかを考えさせる。人間の弱さやねたみの感情に気付かせ、どうすれば克服できるか議論させてもいい」と押谷教授は授業例を示す。
 ◇難しい学習評価

 だが、肝心の指導体制は心もとない。中学教員を対象に経済協力開発機構(OECD)が実施した13年の「国際教員指導環境調査」(TALIS)では「生徒の批判的思考を促す」「さまざまな指導方法で授業」といった項目に対し「良くできる」と回答した日本の割合は、他国に比べて軒並み低かった。

 学習評価も課題だ。今年度から文科省の研究開発校として、独自教科「徳育科」を研究している東京都武蔵村山市立第八小の道徳専任教員、小山直之教諭は「子供が日常の中で道徳的な行動がとれているかどうかは見極めが難しい。授業ごとに評価を積み重ね、学校生活の中の行動も見て評価していくことになるだろう」。福岡県の公立中教員は「『評価』されると、生徒は教員が求めそうな建前しか言わなくなる可能性がある」と懸念する。

 教員や専門家の中には教科化への抵抗感も根強い。政治的中立を保った教科書になるのか。教科書が逆に教員の自由度を奪わないか。日本教育学会会長の藤田英典・共栄大教育学部長は「単純な正解がない事柄を教えるのが道徳であり、評価はなじまない。指導や評価を巡り、現場の先生は悩むだろう」と指摘する。【三木陽介、坂口雄亮、岡礼子】
 ◇学習指導要領◇

 小中高校の教育の指針と内容に関する国の基準。ほぼ10年に1度改定される。現行指導要領の改定は2008?09年。昨年11月、中央教育審議会に次期改定の内容策定が諮問され、小学校での英語教科化や高校での日本史必修が議論される。道徳は▽いじめ問題への緊急対応の必要性▽初の教科書作成のため他教科とは別枠にした方がよい??などの理由から先行改定する。



 道徳の教科化の愚かしさについては何度も書いてきたが、これがニュースになるたびにさらに一歩一歩悪い方向に進んでしまう。今回もそうだ。
「教材を読む道徳」から「考える道徳」への転換
これは何なのだろう?

そもそも一般に考えられる「道徳の教科化」と言うのは、
1 道徳免許の創設と授与
2 中学校では専科道徳教員の配置
3 教科書の採択
4 評価
ということになる。
 その中で1と2はやらないことになっており、4については数値によるものは行わず、文章による評価という方向で進んできた。
 教科化の柱のうち、他教科と同じように実施するのは唯一教科書の採択だけだったはずなのに、それも重視しないと言う。その上で
「考える道徳」というのは、いったいどうなっているのか。


 そもそも道徳を論理でつめられると考えているところが間違っている。
 
 たとえば私は列への割り込みといったことをしないが、それはなぜか。
 ずっと辛抱強く並んでいる人が気分を悪くするからか。
 社会ルールに反する行為だからか。
 そんなことをして非難され、場合によってはケンカになったりするからか。
 否、否、否である。

 私は商店で万引きをしようなどと露ほども考えない人間であるが、それは、
 見つかったら警察に捕まるからか。
 それによって社会的地位を失うからか。
 家族や親族に迷惑がかかるからか。
 これも否、否、否である。

 それは、自分の利益のために、ルールを破ったり法律違反をしたりすることが恥ずかしいからだ。不道徳な行為は“みっともない”のであって、それを行う “みっともない自分”は、想像しただけで鳥肌が立つほどにおぞましいものであるからだ。
 それを道徳心という。
 道徳心は理知的な判断ではなく、“かくありたい”という願いなのである。

いじめ問題を扱う場合も「なぜいじめが起きるのかを考えさせる。人間の弱さやねたみの感情に気付かせ、どうすれば克服できるか議論させてもいい」
 こうした議論から出て来るのは
「なぜいじめが起こるのかと言うと、それは人間に弱さや弱さから生まれる妬みがあるからだ。したがって人間性を鍛え、他人を妬まずに済むような強い精神を育むことが大切である」
 という判断ないしは結論である。その先にあるのは、
「だから皆さん頑張りましょう(ぼくも頑張るけど)」
 といった一種の他人事である、

 ここには「いじめをなくしたい」とか「自分は絶対にいじめる側に回りたくない」とか「いじめられる人間を助けたい」といった「願い」がない。「何とかしなくては」とか「今すぐ動かなければ」といった切迫感もない。
 
 私が道徳の教科化に批判的なのは、ひとえにそれが道徳教育を貧しくするからである。

「今は教科外活動なので教科より格下という意識の先生もいる」
 それがほんとうなら、そうした教師の思い違いを正すだけでいい。
 ちなみに私の周辺では、学校の教育内容は「知育・体育・徳育(道徳教育)」、
 具体的内容としては「教科・道徳・総合的な学習の時間」ということになっている。
 教科化は、前者で言えば徳育を知育の中に含めてしまうこと、後者は学校教育の中身を「教科と総合的な学習の時間」の二つに限定し、道徳を国語や数学と同列に引き下げることだと考えられている。少なくとも概念的に“教科化”を格上げと考える教員はいない。

 ただし、
 討論しながら課題の解決策を探る「課題解決型学習」を取り入れ、「教材を読む道徳」から「考える道徳」への転換を図る。
 がほんとうなら、文科省は本気で、情操としての道徳から国語や数学と同じような理知の道徳への転換を図っているのかもしれない。
そこから生まれてくるのが、やたら道徳に詳しく、他人には道徳的であることを要求しながら自らは道徳的ではない――、つまり現在も少数ながら存在する“ああいうタイプの人”たちだとしても。







2015.02.20

「集団いじめで不登校」=中3男子、同級生と市提訴
―佐賀地裁


[時事通信  2月19日]

 佐賀県鳥栖市の市立中学3年の男子生徒(15)が2012年から不登校になったのは、集団的ないじめと学校側の不適切な対応が原因として、生徒とその家族が19日、同級生らと保護者計23人、鳥栖市を相手に計約1億2800万円の損害賠償を求める訴訟を佐賀地裁に起こした。
 訴状によると、生徒は入学直後の12年4月から学校内外で首を絞められるなどしたほか、現金計100万円以上を脅し取られた。心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、同年10月24日から通学できない状態が続いている。
 原告側は、恐喝と暴行で精神的に追い込まれ、PTSDを発症したと主張。市は早期対応や学習環境の回復など発覚前後で取るべき措置を怠ったと訴えている。 


 一般社会で同じことが起ったらこれを「いじめ」と呼ぶだろうか。
 学校内外で首を絞められるなどしたほか、現金計100万円以上を脅し取られた。
 となれば、これは原告側も言っているように明らかな
恐喝と暴行である。それを「いじめ」などという分かりにくい概念に押し込めようとするから話が厄介になる。

 もちろん記事が短いせいもあるが、この事件は謎が多すぎる。
 暴行の上に100万円以上も脅し取られるような事件を、学校が内部処理できると考えたとしたら、校長が太っ腹すぎる。
 学校が仲介して弁済させ「ごめんなさい」で済まされるのはせいぜいが1万円どまりだ。それ以上になると学校の手には負えない。100万円以上となればだれが考えても警察沙汰にしなければ納得できないだろう。

 中学生である子どもが100万円も抜き出せる家庭というのも理解できない。私の家など、財布から1万円なくなったってすぐにわかる。千円だったら分からないかもしれないが、それが一千回(100万円)になるはるか以前に気がつくはずである。特別なことのない限り、家庭内に5万円以上の現金があることもないからまとめて持って行かれることもない。

 別の記事によると訴えられた加害生徒は8人だそうである(その二人の保護者約2人を合わせて全部で被告が23人)。となると平等に割って12万5千円。半年間だから平均して2万円余り。
 加害の8家族、10数人の保護者の誰一人、我が子が異常に豊かになっている事実に気づかなかったというのも解せない。
 しかし理解できないのは私たちだけなのかもしれない。
 
 子どもがいくら持っているかどのくらい使っているのか、まったくおかまいなしに暮らしている家は意外と多いのかもしれない。
 事件はそうした家庭間で起る。
 しかし責任を取るべきは学校なのだ。