キース・アウト
(キースの逸脱)

2015年 4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2015.04.16

国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい

[東京新聞  4月14日]


 国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。

 国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。

 先週9日の参院予算委員会で次世代の党の松沢成文氏が取り上げた。同氏の求めで文部科学省が各大学に聞き取り調査したところ、今年3月の卒業式で国立大86校のうち、国旗を掲揚したのは74校、国歌を斉唱したのは14校にとどまったという。

 これに対し安倍晋三首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している。

 下村博文文部科学相は記者会見で「適切な対応が取られるように学長が参加する会議で要請することを検討する」と述べた。文科相は「お願いであり、するかしないかは各大学の判断」とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ。

 大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。小学校の学習指導要領解説書にも書かれている。

 人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない。まして「大学の自治」を損なうものでもない。

 実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう。学長の判断で適切に行ってもらいたい。

 小中高校での国旗掲揚、国歌斉唱をめぐっては反対する教職員との板挟みで平成11年に広島県の高校校長が自殺する痛ましい事件が起きた。これをきっかけに国旗を日の丸、国歌を君が代と規定した国旗国歌法が制定された。

 国旗国歌に敬意を払う国際的な礼儀に背を向け「強制」と批判することこそ恥ずかしい。

 国歌の斉唱時にあえて起立せず式を混乱させる教員が相変わらずいる。自然に敬うことを妨げる動きがあるから東京都などで教職員に起立斉唱する職務命令が出されている。

 祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい。

 日の丸・君が代が国旗国歌になって久しい。
 小中高校での国旗掲揚、国歌斉唱をめぐっては反対する教職員との板挟みで平成11年に広島県の高校校長が自殺する痛ましい事件が起きた。
とあるが、それももう16年も前の話である。
 以来、小中学校はもとより高校の卒業式でもさほど問題はなくなってきている。そしていよいよ大学だ。
 もはや既定のことなのでいまさら賛成だの反対だの言わないが、いつになったら産経新聞は国会での国旗国歌について語るようになるのだろう。

国旗国歌に敬意を払う国際的な礼儀に背を向け「強制」と批判することこそ恥ずかしい。

 それはそれでいいが、
国会の開会式で歌うことのない国歌に疑問を持たないジャーナリズムというのもほんとうに胡散臭い。

 環境教育も人権教育も国旗国歌も、その他諸々もすべて社会の体制が整う前に学校に押し付け、そうした追加教育に右往左往していると「本来の学力はどうなった」と叩く。

「できることから始めよう」が「弱いところから叩こう」と同義で会うようなやりかた、何とかならないものだろうか。








2015.04.22

<学力テスト>活用法で迷走…内申利用、結果公表などで混乱

[毎日新聞  4月21日]


 21日に全国で一斉に始まった文部科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)。今回からその結果を高校入試での内申点の基準づくりに活用することを決めた大阪府では「直前対策」を強化する学校が出てくるなど競争激化の兆しがみえる。文科省は「テストの信頼性が損なわれないようにしてほしい」と想定外の使い方をけん制。一方、結果公表を巡って知事と県教委の対立が繰り返されてきた静岡県は教育長の退任、不在という異例事態が続く。学校からは「『学テ騒動』はこりごり」と嘆きも聞かれる。

 「過去問も含め、対応できる力をつけないといけない。対策が必要だ」。大阪府教委が高校入試への活用を決めた直後の今月中旬、大阪府のある公立中学の職員会議で、男性校長はこう切り出した。

 府教委が決めた高校入試への活用策はこうだ。府独自の統一テスト「チャレンジテスト」(中2の1月に実施)から算出した府内の平均内申点を基準に、全国学テの平均正答率が府平均を上回った学校はその分を加点、下回った学校は減点。結果がよい学校は、より多くの生徒に「5」や「4」の評価を付けられ、振るわない学校は高評価の生徒が少なくなる。個人の内申点に直接、反映されることはないが、学校全体の結果が振るわなければ、その学校の生徒が入試で不利になる可能性がある。

 校長は「学テの趣旨をゆがめているのではないかと思うが、生徒が入試で不利になるのは避けたい」。校長の提案に教員から異論は出ず、テスト前、生徒に過去問を解かせた。「他校も対策をするだろうから仕方ない」

 大阪市のある中学は、理科の授業2時間をテスト対策に割き、国語と数学の対策プリントも配った。府内のある学習塾は生徒の要望を受け、18日に無料で対策講座を開いた。

 大阪府の中学3年の結果は全国学テが再開された07年度以降、毎回、全国平均を下回る。昨年度も全科目で全国40位台と低迷した。府内のある自治体の教育長は「今回は成績が上がるかもしれない。しかし、それで本当に学力がついたと言えるのか」と指摘する。

 文科省幹部は「こんな使われ方は『想定外』。不正行為や過度な競争につながらないようにしてほしい」と懸念を隠せない。

 全国学テの都道府県別結果の不調に端を発した結果公表を巡って知事と県教委が対立した静岡県。昨年は、川勝平太知事が独断で市町別の平均正答率を公表したため、文科省は今年度の実施要領を改正し「調査の実施、公表は教委の職務権限」と明記した。川勝知事は20日の定例記者会見で「(公表は)多分ないだろう」と述べ、今年は矛を収める姿勢を見せた。

 だが、結果公表に反対した県教育長が今年3月、任期1年を残し退任。川勝知事は後継人事案を県議会に提出したが、県議会が「資質に問題がある」と同意せず、教育長不在のまま。県教委幹部は「騒ぎになるのはこりごり。今年は授業改善など子供のためになる施策に集中したい」と話した。【大久保昂、平塚雄太】



 途中分かりにくい部分があるが要するに、同じ内申点「5」でも学校のレベルによって差があるから、その不平等を全国学テで是正しようというのである。
 学力テストの成績が高い学校で「5」を取るのは容易ではないから「5」の人数を増やし、成績の低い学校では簡単に「5」を与えないために「5」の人数を減らす。この場合、それぞれの人数は一定の数式から計算されるから、公平性は非常に厳密に保たれる、そう考えるらしい。

 ここで「義務教育の評価は絶対評価だから『5』や『4』の人数が限られるのはおかしい」といってはいけない。あんなものは10年以上前に滅びてしまっている。平成14年指導要領改訂の際、全国の教員が死ぬほど努力して作った厚さ3センチほどもある「絶対評価表」は、もはや形骸すら残っていない。

「こんな使われ方は『想定外』。不正行為や過度な競争につながらないようにしてほしい」
と文科省は言っているらしいが、そもそも「全国学力学習状況調査は授業改善のため」自体がフィクションもしくはお題目であって、本来は学校や教員を評価し競わせる道具として実施されているものである。先の発言も「過度な競争につながらないように」と言っても「競争につながらないように」とは決して言わない。具体的なやり方は「想定外」でも、全体の方向としては大阪は間違っていないのだ。

 
私は厳しい競争を促しながら「全国学テは授業改善に寄与すべきもの」「過度な競争につなげてはならない」と言い続けるその欺瞞が我慢ならない。なぜ我慢ならないかというと、この学力偏重によって何らかの問題が起った時、政府・文科省は「だから学テはそういうものではないと言い続けたじゃないか」と言い訳するに決まっているからである。そしてそのとき責任を取らされるのは現場の教員・学校なのだ。

 実は政府も文科省も学校の現状を良く知っている。
 学校はもう満杯なのだ。何かを入れれば何かが飛び出してくる。学力、学力と国語や数学、理科、英語といった教科教育を深く突っ込めば生徒指導や道徳教育があふれ出てしまう。
 もちろん政府・文科省は生徒指導や道徳教育の必要性を声高に叫んでいるが全国学テのような強力な武器を振り回されればどうしても教科教育が肥大する。さらにそれに対抗するために生徒指導や道徳教育に武器を与えれば今度は教職員が負担に耐えられず枠からあふれ出てくる。そこで部活動のような大きなものを学校から外すと今度は児童生徒があふれ出てくる。
 いずれにしろ教育制度はいじればいじれるほど悪くなるのだ。
 
 学力王国の秋田県や福井県の子どもたちはほんとうによく勉強する(特に家庭学習では他を圧倒している)。それには頭が下がる。しかしこの両県が社会・経済・文化面で日本全体をけん引しているようには、失礼だがとても見えない。東大・京大に大量の生徒を送り込んでいるともつとに聞かない。
 世界に目を転じれば学力大国の中国・韓国・台湾・香港・シンガポール・フィンランド、これらはほんとうに日本が目指すべき国家・地域なのだろうか?
 
 全国学テの意義を問う。