キース・アウト
(キースの逸脱)

2015年 6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2015.06.06

英語新テスト、英語力向上対策の起爆剤に
「学テ」モデル導入で自治体の危機意識触発


[産経新聞  6月5日]


 文部科学省が全ての中学3年生を対象にした英語の新テスト導入の検討を始めた背景には、伸び悩む英語力の向上対策の“起爆剤”としたい狙いがある。全ての小中学生を対象にして、国語と算数・数学の学力定着に効果が認められた全国学力テストと同じ手法を英語にも活用することで、それぞれの自治体や学校現場の意識を高め、英語教育の拡充を加速させる考えだ。

 国は中学生の英語力の目標として、平成29年度に全ての生徒の半数が卒業時点で「英検3級程度以上」を身に付けさせる目標を定めている。だが、26年度の状況は3割程度と低迷。高校生の半数にも卒業時に「英検準2級〜2級程度以上」を求めているが、こちらも3割にとどまっている。

 中高ともに29年度の目標達成は困難な情勢となり、抜本的な改善策が必要となる中、文科省は今回の新テスト導入により、12年後の39年度までに中高の目標をそれぞれ7割まで高めたいとしている。

 新テストは全ての学校現場が対象となる全員参加型で制度設計が進められる。文科省の担当者は「全員を対象とすることで、自治体側にも当事者意識を持ってもらえる」と強調する。
 現行の学力テストでは、全員参加に加え、都道府県別に平均正答率が公表されるため、保護者らの学校現場への関心を促し、下位校が指導法を改善させる動機付けにもなっている。全国的に成績の上位校と下位校の交流を促進する効果もうかがえる。

 沖縄県では学力テストが全員参加型となった19年度以降、ほぼ最下位だったが、26年度には小学生の算数が全国6位と大幅に向上。中学生は依然最下位だったが、全国平均との差が縮まり成績が上がる傾向が確認された。成績上位の秋田県と教員の人事交流を行い、指導法などの改革が行われたことが大きな要因になったとみられる。

 高知県でも同様に秋田県に学んだ指導法を取り入れ、25年度に顕著な改善をみせている。

 文科省幹部は「(学力の底上げにつながった)学力テストの仕組みを英語にも持ち込めたらいい」と期待感を示す。都道府県別成績の公表の可否については現在未定だが、公表も検討項目の一つになる見通しだ。


 またつまらないことを考えて・・・と思う。政府は教育というものも学校というものも分かっていない。
 私はこれ以上の英語教育に反対である。学力学力と騒ぎ立てるのもいい加減にしてほしい。学校はすでに“教えること”で満杯なのだ。
 英語教育を徹底させるためにキャリア教育をやめにするとか道徳教育の比重を下げるとか、あるいは防災教育をやめてしまうとか何らかの方策を打つならわかるが、ただひたすら詰め込んで行けば名目的には残っても実質が失われてしまう。
 私に言わせればなくなるのは道徳教育だ。
「きちんと並びなさい」「大切な儀式では畏まるものです」「人は分けあわなくてはなりません」「協力というのはこういうことです」「自分の責任を果たしなさい」・・・
 こういったことは生徒会や学校行事を膨大に経験することによって身につくものである。それらを削って何の英語教育か、それが私の思いだ。

「学テ」モデル導入で自治体の危機意識触発
 確かに成績をつけて順位を出せば各自治体は慌てる。
 高校生の半数以上が「英検準2級〜2級程度以上」となると、子どもにも相当な努力を強いることになる。しかしその目標を果たした時、
各自治体あるいは政府は、獲得した英語力に見合う職業を用意してくれるのか?
 英検2級といえばカタコト英語である。日常的に英語が使われ、しかしカタコトでかまわないという職業を、私は思い浮かべることができない。
 さらにその高校生が英検準一級・一級と進んだ場合、それでも地元に引き留めておくだけの魅力ある職業を、47都道府県はすべて用意できるというのか?
 
下手をすると地方は、大変な努力と資金をつぎ込んで人材を都会に排出する大規模な草刈り場になりかねない。

 ただし、これについて非常に賢い例がある。全国学力学習状況調査でトップを走る秋田県、大学進学率の全国順位は37位、高校生100人当たりの東大合格率は33位で全国平均よりかなり低いのだ。
 
小中学生の学力全国トップで名声をほしいままにして、しかし人材はしっかりと確保して都会に出さない。
 しかしそれでほんとうにいいのだろうか?

 中学生の英語力を高めてしかし地方に封じ込める、あるいは英語力を高めた以上人材流出は甘受する。
「学テ」モデル導入で自治体の危機意識触発
――触発されそうな自治体は、今から覚悟を決めるべきだ








2015.06.12

小学校での英語教育の教科化のまえに、やることがある

[東京新聞  6月10日]


「グローバル化に対応した教育」として、文部科学省は2020年までに小学校3年生から英語教育を開始し、5年生で教科化する方針を打ち出している。

英語教育の早期化には、批判も多い。すでに指摘されているのは、1)英語ができる教師が少なく指導体制がない、2)グローバル化で英語が必要なのはエリートに限られる、3)効果的な教授法がわかっていない、4)日本語が確立されない段階で英語を教えて弊害がないか疑問、5)拙速な政治主導、6)受験科目化した際英語塾に投資できる家庭か否かで格差が開く、などである。どれも、もっともだ。

そもそも「グローバル化に対応した教育」とは何を意味するのか。「世界を飛び回るエリート」などではない普通の人にとって、グローバル化とは、生活のなかで「異文化の他者との出会い」の可能性が日々大きくなることではないだろうか。今、20年前には予想もつかなかった速さで、たくさんの情報やお金や物や人が、国境を越えて動いている。今の子どもたちが大人になる頃には、教室や職場で異文化と出会う機会はずっと増えるだろう。そのとき重要になるのは、「違いを言葉にして伝え合う」異文化コミュニケーションだ。

一方、日本の学校の教室で支配的なのは、空気を読み、ノリを合わせるものだ。本当は、一人ひとり個別の事情を持つはずなのに、違いに目を逸らし、空疎な言葉で「私たちは同じ」と確認する。たとえば、「昨日のあれ見た?」「見た見たーまじうけるよね」「ていうかキモイよな」「ほんっとまじキモイ!」――のようなやりとり。それは中身に何が入っても変わらない、ノリが同じ限りにおいてだけ意味を持つコミュニケーションだ。

だが、「ノリが違う」どころか、民族も文化も言語も異なる相手と出会ったとき、これだけでは何も始まらない。関係を築くには、「自分がどのような人間か」を相手にわかるように伝え、「相手がどのような人間か」をその言葉に耳を傾けながら理解する姿勢が重要になる。こうした異文化コミュニケーションは、身体に染み付いた作法のようなものだから、日ごろからやっていなければ、いざ異文化を前にしてもできるものではない。

これは、英語以前の問題である。英語ができても、まずは日本語で内容のあるやり取りができなければ、訳すことさえできない。逆に言えば、「違いを言葉にして、その上で通じ合う」という作法が身についていれば、英語の習得は中学生に入ってからでも遅くない。

まずは学校自体が、子どもたちにとって、異文化との出会いやコミュニケーションを育む場として、多様性に開かれる必要がある。

異文化とは何も「外国人」だけではない。たとえば、障害を持つ人と持たない人は互いに異文化だ。両者が同じ教室で学ぶ意義は大きい。しかし実際には、学校は「違い」を持つ存在との共生をますます避けるようになっている。2007年の設置から2013年までに、特別支援学校に通う幼児・児童・生徒は10万8千人から13万3千人へと増えている。

「グローバル化に対応する教育」が、「異文化の他者と出会う準備」なのであれば、今そこにある異文化を包摂する実践が重要だ。生徒たちが異文化コミュニケーションを学ぶとすれば、英語の拡充よりも、そうした社会の共生への取り組みからであるに違いない。


 小学校における早期英語教育に反対する私の立場を、補強してくれる内容かと思ったらそうではなかった。
 英語という言語を学ぶ前に、
「自分がどのような人間か」を相手にわかるように伝え、「相手がどのような人間か」をその言葉に耳を傾けながら理解する姿勢
を学ばなくてはならない。それが主旨だ。英語の重要性は前提であって、その部分を考えなおす気はない。
 ところで、なぜそうした姿勢が必要かと言うと、
 今、20年前には予想もつかなかった速さで、たくさんの情報やお金や物や人が、国境を越えて動いている。今の子どもたちが大人になる頃には、教室や職場で異文化と出会う機会はずっと増えるだろう。
 という予測があるからだ。しかし現在の状況は、
 日本の学校の教室で支配的なのは、空気を読み、ノリを合わせるものだ。本当は、一人ひとり個別の事情を持つはずなのに、違いに目を逸らし、空疎な言葉で「私たちは同じ」と確認する。
 (中略)
 民族も文化も言語も異なる相手と出会ったとき、これだけでは何も始まらない
 そのために、
 
まずは学校自体が、子どもたちにとって、異文化との出会いやコミュニケーションを育む場として、多様性に開かれる必要がある。
 となる。


 ところが、
 今の子どもたちが大人になる頃には、教室や職場で異文化と出会う機会はずっと増えるだろう。
 という予測自体が私には分からない。
 
 小学校での英語学習の可能性を示した総合的な学習の時間は2000年に始まったが、実はその数年前から試行的に行っていた市町村がかなりあった。私も当時そうした小学校に勤めていて、英語専任の講師とともに初めて研究授業を行ったのが96年である。かれこれ20年近く以前のことだ。そのころも「来るべき21世紀はグローバル社会で・・・」とか言われ、実際に多くの外国人子弟が学校に編入し始めていた。しかし受け入れた私たちが強く英語の必要を感じたかというとそうではない。
必要だったのは中国語とポルトガル語で、英語で語りかけても返してくれる子どもたちではなかった。
 そうした状況は、あと20年たっても変わらないと思う。日本の、しかも私の住むような地方都市に、大量にやってくるのは発展途上国の人々だ。決して英語を堪能に話す人たちではない。
 そうなると私たちが英語を勉強し彼らも英語を学んでともに英語でコミュニケーションを図るというのはいかがなものであろう。
せっかく日本にいるのだから彼らが日本語を勉強すればいいと思うのは僭越だろうか?逆に考えて、中国やブラジルで仕事をしながら英語を学ぶ人もいないと思うが。
 
 20年たっても変わらないと言えば、
 
空気を読み、ノリを合わせる
 学校の様子もおそらく変わらない。なぜなら日本社会がそうだからだ。
 記事はことさら学校を問題にするが、学校だけが「読み」と「周囲に合わせること」の
 好きな特別の場ではない。それは日本文化そのものである。
 日本の場合空気を読み、周囲に合わせることができるようになると「大人」とみなされ、やたら自己主張してひかない生き方は子どもっぽいものとして忌避される。それがこの国のやり方だった。
 そのために曖昧な日本語表現があり含みのある言い回しがあったはずだ。
 それが「空疎な言葉」となれば、英語教育ではなく、日本語撲滅に舵を切った方がいい。
 
 
まずは学校自体が、子どもたちにとって、異文化との出会いやコミュニケーションを育む場として、多様性に開かれる必要がある。
 そうではないだろう。もし本気で異文化との出会いやコミュニケーションを大切にしたいなら、まず社会をそうすべきだ。入国ビザを大幅に緩和し、移民や難民を無制限に受け入れれば、あっという間にこの国は多様な異文化のるつぼになる。もはや日本語は用をなさない。
 英語の信奉者たちは、それでも英語は大切だと言ってくれるに違いない。

 
 




2015.06.13

QSアジア大学ランキング2015…東大はTop10圏外、国内2位は阪大に

[リセマム  6月11日]


 世界大学評価機関の「Quacquarelli Symonds(QS)」は、2015年のアジア大学ランキングを発表した。総合評価第1位はシンガポール国立大学、第2位は香港大学、第3位は韓国科学 技術院(KAIST)だった。東京大学は2014年の10位よりランクを落とし、12位だった。

 同ランキングは2009年から実施されているもの。調査の指標となるのは「学者の評価」「企業の評価」「学生数と教員数の比率」「在籍教授の出版論文数 と被引用数」「国外教員数と学生数」「受け入れ交換留学生数」「送り出し交換留学生数」などで、各指標に基づいた総合点により300大学がランキング形式 で発表される。

 2015年の結果は、第1位は「シンガポール国立大学(NUS)」100.0点、第2位は「香港大学」99.3点、、第3位は「韓国科学技術院 (KAIST)」99.0点。シンガポール国立大学は2014年のランキングでも1位を獲得しており、香港大学は2014年2位より1ランク上昇。以下、 4位は「南洋理工大学(NTU)」98.6点、5位は「香港科技大学」98.0点が続く。

 日本からは東京大学が国内トップで12位に94.9点でランクイン。2014年の10位からはランクを落とした。続く13位には大阪大学が94.7点、 14位には京都大学が94.3点でランクインした。京都大学と大阪大学は2014年ランキングに比較し順位が逆転した。そのほか、トップ50入りを果たし た国内大学は12校で、国公立大が多く選出される結果となっている。

 東京大学が同ランキングでトップ10から外れたのは2015年が初めて。2014年同様、トップ20位は僅差でランクが決定される接戦となった。


 またもや聞いたことのない大学ランキングだと思ったら2009年から始まったものだとかでまだ歴史は浅い。よくこんなものを見つけてきたと感心するような代物である。
 
 さてここ数年、毎年のようにさまざまなランキングを取り上げてきたが、最初に確認し合っておかなければならないのは、これは大学、つまり教える側のランクを表したもので、中にいる学生の質を評価するものではないということである。
 うっかりすると国内にあまたある受験生のための大学ランキングの延長にあるものと勘違いされやすいが、まったく違う。
 しいて言えば「世界大学建物立派ランキング」とか「「世界大学標高トップテン」とかいったニュアンスのものだ
 
 さてそのうちのひとつである今回の「QSアジア大学ランキング2015」。
 東大はついにアジアのトップテンも滑り落ちた・・・とテレビなどが大々的に取り上げないように切に願う。過去の例からすると取り上げられる場合、そこに出されるフリップボードにはきっとこんなふうに書かれるからである。
 
 1位 シンガポール国立大学(NUS)
 2位 香港大学
 3位 韓国科学技術院
       ・
       ・
       ・
       ・
       ・
 10位 浦項工科大学校
 11位 精華大学
 12位 東京大学
 12位 東京大学
 13位 大阪大学
 14位 京都大学
 15位 東京工業大学


  日本の名だたる大学が束になっても追いつかない・・・。
 しかしこのとき、間に入る4位から9位までの大学がどこなのか、調べてみようとする人は案外少ないかもしれない。
 答えは
    4位 南洋理工大学(NUT) 
    5位 香港科技大学 
    6位 香港中文大学 
    7位 北京大学
    8位 ソウル大学校
    9位 香港城市大学

 なんか聞いたことのない大学ばかりである。どうしてこんなことになるのか。
 評価の基準がまさに「世界大学建物立派ランキング」とか「世界大学標高トップテン」だからである。普通の人は大学の建物の立派さや標高など考えたことなど知る由もない。
 
 もちろん「QSアジア大学ランキング2015」は建物の立派さや建っている場所の標高が評価基準ではない。記事にある通りそれは、「学者の評価」「企業の評価」「学生数と教員数の比率」「在籍教授の出版論文数 と被引用数」「国外教員数と学生数」「受け入れ交換留学生数」「送り出し交換留学生数」などだ。では日本の大学はそうした指標の何が劣っていたのだろう。
 
 その答えは実は同じリセマムの別の記事にある。
 トップ10から外れた東京大学だが、世界42,561人の学者たちからのアカデミック評価指標では1位となっている。世界11,657人の雇用主からの 評判でも最高点を獲得。また、教員/学生の比率が高く、論文被引用数など研究業績への高い影響力が現れ、ランキング中の指標の75%を占めている。
 つまり東大の得点94.5点のうちの実に75%は前半四つの指標(「学者の評価」「企業の評価」「学生数と教員数の比率」「在籍教授の出版論文数 と被引用数」)によって出されたものであって、それに対して他の指標があまりにもお粗末だったので12位以下に沈んでしまったのである。

 では他の評価は何だったか。振り返ると、これが「国外教員数と学生数」「受け入れ交換留学生数」「送り出し交換留学生数」などなのである。

 簡単に言えば外国人の教授准教授があまりに少なく、外国人学生も留学生もあまりにすくない。だからトップに入れないのだ(実は他の大学ランキングでも東大がトップ10になかなか食い込めないのは、同じ部分が足を引っ張っているからである)。

 逆に言うと、
日本の大学のランクを飛躍的にアップするのはまったく簡単だ。
 
日本人の定員を大幅に引き下げ、外国人枠を飛躍的に大きくする。必然的に授業は英語で行われるようになるから、ほんとうに英語の堪能な日本人しか入学できないようにする。
 そしてもう一つ大切なことがある。
世界の先進国に合わせて9月入学にしないと外国人学生は入ってこれない。
 政財界が9月入学にこだわるのはそのためである。
 
 英語がまるっきりできなくてもノーベル賞の取れる(益川 敏英)この国で、日本人の入れない大学を増やすことで世界ランクを上げることにどういう意味があるのか、もう一度考えてみたいところである。
 
東大が「アカデミック評価指標」で1位…QSアジア大学ランキング2015
                                       2015年6月11日(木) 11時43分

QS大学ランキング
 世界大学評価機関のQuacquarelli Symonds(QS)は、大学ランキング「アジア2015」を発表した。1位はシンガポール国立大学、2位は香港大学。日本の最高順位は東京大学で12 位とアジアトップ10から初めて外れた。しかし、アカデミック評価指標では1位となった。

 毎年、アジアのトップ300の大学を「学者の評価」「企業の評価」「学生数と教員数の比率」「在籍教授の出版論文数と被引用数」「国外教員数と学生数」「受け入れ交換留学生数」「送り出し交換留学生数」の総合点を算出しランキング形式で発表している。

 2015年の1位は昨年同様「シンガポール国立大学」(100点)、2位は昨年3位だった「香港大学」(99.3点)、3位は昨年2位だった「韓国科学 技術院(KAIST)」(99.0点)。日本の大学のトップは「東京大学」で12位(94.9点)。昨年10位からのダウンで、アジアランキングで初めて トップ10から外れた。13位は「大阪大学」(94.7点)で昨年同様、14位は「京都大学」(94.3点)で昨年の12位からランクダウン、15位は 「東京工業大学」(94.2点)で昨年同様だった。私立大学では37位に「慶應義塾大学」(77.5点)、39位に「早稲田大学」(73.6点)が入っ た。

 トップ10から外れた東京大学だが、世界42,561人の学者たちからのアカデミック評価指標では1位となっている。世界11,657人の雇用主からの 評判でも最高点を獲得。また、教員/学生の比率が高く、論文被引用数など研究業績への高い影響力が現れ、ランキング中の指標の75%を占めている。

 日本の著名な大学は外国人教員、交換留学生制度の指標では向上。アジアトップ300の大学に日本の大学は68校がランクインした。一方で、論文ごとの教員数、交換留学生の受け入れでは低く評価され、全体的にランクが下がる結果となった。

 QSインテリジェンスユニットのBen Sowter氏は、世界大学ランキング、アジアランキングの結果から「日本の大学は世界トップグループに入る大学を輩出しているが、日本政府は高等教育シ ステムに対してさらなる国際化のため投資するべきだと示している」。さらに、「2020年までには世界30万人の留学生に対して、アジアのトップ大学とし てもっと効果的に学生を魅了しなければいけない」と述べている。







2015.06.25

校門前でコソコソ喫煙 教職員スモーカーに賛否両論

[西日本新聞  6月24日]


敷地内全面禁煙で

23日、福岡市議会で教職員の喫煙問題が取り上げられた。休み時間や昼休み、校門近くの路上で喫煙する教職員がたびたび近隣住民の目に留まっているのだ。
市教育委員会は市立学校の敷地内を全面禁煙にしている。人目を気にしてこそこそと紫煙をくゆらせる教職員の様子は、かつての不良少年の姿とダブる。「教育上いかがなものか」「分煙すればいいのに」。
教育現場の戸惑い、賛否が割れる街の声をリポートする。

教職員の声は・・・

市内のある中学校。校門前でたばこを吸う40代の男性教諭に声を掛けると「すみません。生徒にたばこは危険と教えている立場上、肩身が狭い」と恐縮しきりだった。
学校の敷地内が禁煙になったのは2005年度。公共施設に受動喫煙対策を求めた健康増進法の施行を受けての決定だった。
別の小学校を訪ねると、校門に敷地内禁煙を告げる看板を掲げていた。ベテラン教諭は「校外で吸えば、税金をもらってサボっていると言われそうだし」と困惑顔だ。通勤用マイカーの窓を閉め切り車内で吸ったり、市教委に内緒で校長が喫煙所を設けたり、現場は対応に苦慮している。

街の声は・・・

街の声はさまざま。中学校とは目と鼻の先のバス停にいた女性(73)は「子どもの手本なんだから、示しがつかんよ」と厳しい口調。庭の手入れをしていた女性(69)も「先生たちは灰皿持参で吸いにくる。マナーはええけど手本にはならんばい」と苦笑した。
同情論もある。「別にいいじゃないか。大人と子どもの領分を教えることも教育だ」(65歳男性)。本紙のフェイスブック(インターネット交流サイト)にも「非喫煙者から見ても、学校敷地全禁煙とか異常」との投稿があった。

全面禁煙か分煙か

この日、一般質問で問題を追及した平畑雅博市議(みらい)は「正直、見た目もよくない。どうにかならないか」とただした。
酒井龍彦教育長は「地域の皆さまに不快感を与えるとともに、児童・生徒に喫煙する姿を見せることになり、教育上好ましくないと考えている」と答弁。「場所、時間帯などに配慮するよう指導する」とも述べたが、あくまで校内全面禁煙は譲らない方針だ。
JT(東京)の広報担当者によると、高校、大学も含め教育現場の禁煙化が進む一方、大学では敷地内の完全禁煙化に伴い灰皿を撤去したことで、たばこのポイ捨てが増え、分煙に戻す学校も少なくないとか。
ちなみに、愛煙家にとって煙たいお達しを出した市教委は、天神の市役所に事務局がある。市役所内は喫煙所なら、たばこはOK。いずれにしても、たばこを吸うならマナーを守ること。愛煙家の記者も肝に銘じたい。



 どこの自治体でも見受けられる奇妙な風景だ。
 私の住む自治体では
「背広の男たちがタバコを吸いながら一斉に学校の方を見ていた」ということで警察が動いた。まさか先生たちだとは思わなかったのだろう。
 では、敷地内禁煙が決まるまではどのようにしていたのか。
 
実は大半の場合、倉庫を改装して喫煙室にしたり、袋小路のベランダにヨシズがけで目隠しをしたりと、生徒や周辺の人々から目につかない場所で吸っていたのだ。それが公開の場に引きずり出され、この妙な風景となってしまった。どちらが教育的だったのか。

「できることから始めよう」という言葉がある。全部が全部、全員が全員と行かない場合に、一歩でも進めようとするときに使われるものだ。ところがしばしばこれは「弱いところから叩こう」と同義になる場合がある。そして学校がしばしば選ばれるのだ。
 今は誰も使わなくなった“ダイオキシン”という言葉が大流行(たぶんあれは流行だったのだ)したとき、真っ先に焼却炉が撤廃されたのも学校だった。
 社会の週休二日制が進展しない時、指導要領も変えずに五日制を強制されたのも学校だった(準備もなしに始まったので非常に困った)。
 コメ余りが問題になった時、真っ先に目をつけられたのは学校で、米飯給食が突然増えた(それ自体は困ったことではないが)。
 道徳心が薄れたと思えば「道徳教育の充実」、ニートが増えれば「キャリア教育」、選挙権年齢が引き下げられれば「有権者教育」、あちこちに目配り気配りしていたら「本来の学力向上はどうなった」。
 とにかく学校が生贄となる。

 
一般質問で問題を追及した平畑雅博市議(みらい)は「正直、見た目もよくない。どうにかならないか」とただした。
 これは常識的な意見だ。これに対する答えが、
 
「場所、時間帯などに配慮するよう指導する」
 具体的には「各校、周辺住民の目に配慮して喫煙場所、喫煙時間を見直すように」と指示が出るだけである。そんな場所はほとんどない(山の学校は森の中に入り込んで吸うのだろうか?)。しかし分煙を言いだせば必ず「教育者が校内で喫煙と何事か」といった話になるので教育委員会も言いだせないのだろう。
 
 ちなみに、愛煙家にとって煙たいお達しを出した市教委は、天神の市役所に事務局がある。市役所内は喫煙所なら、たばこはOK。
 とのことだが、こんなことを問題にすれば市役所の職員がタバコを吸いに外に出されるだけだ。
 ついでに言っておくが、市の施設でおそらく絶対に禁煙にならない場所がある。それは市民芸術館とか市民劇場と呼ばれる場所だ。なぜならそこを敷地内禁煙にしてしまうと出演者が来なくなってしまうからである。
 権力を持つ者は煙草を吸い、弱い者は禁煙を強いられる。まことに「士・農・工・商・学校教師」とはうまく言ったものである。
 
いっそのこと市の敷地および市道(を通過する車の車内も)の全部を完全禁煙にしてしまえばわかりやすくていいのではないかと思うが・・・

 *ところで、
 いずれにしても、たばこを吸うならマナーを守ること。愛煙家の記者も肝に銘じたい。
 この記事の結論、何とかならなかったものか。