2015.07.25
岩手中2自殺:担任「文章と行動に差…予期できなかった」
[毎日新聞 7月25日]![](../gazo/b012lis.gif)
岩手県矢巾(やはば)町の町立中学2年、村松亮さん(13)がいじめを苦に自殺したとみられる問題で、クラス担任の女性教諭が学校側の調査に対し、村松さんが生活記録ノートに書いた自殺をほのめかす文章と、教室での村松さんの言葉や表情にギャップを感じ、本当に自殺するとまでは予期できなかったとの趣旨の説明をしていることが分かった。こうした認識が、同僚教諭らとの情報共有をはばむ一因になった可能性があり、同校は26日にまとめる調査報告書に担任の当時の認識を盛り込む方針。
村松さんは、担任に毎日提出する「生活記録ノート」の6月29日の欄に「ボクがいつ消えるかはわかりません。もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」などと記載した。担任教諭は「明日からの研修たのしみましょうね」と返信を書き込んでいた。
関係者によると、担任がこの記載を確認したのは、ノートの提出を受けた同30日の給食の時間帯だった。担任席の近くに村松さんの席があるため様子を観察したが、笑顔で友人と話しており、食欲もあるように見えたという。
担任は給食の後、村松さんを呼んで状態を尋ねたところ、「大丈夫です」「心配しないでください」という趣旨の言葉が返ってきた。その直後、バスの席など翌日に控えた研修旅行に会話の内容が変わったことから、担任はノートに「研修たのしみましょう」と書いたと説明しているという。
村松さんはそれ以前にもノートに自殺をほのめかす記載をしていたが、担任は同様に村松さんが明るく振る舞っているように見えたので、本当に自殺すると思わず、生活指導担当の教諭や、定期的に訪問してくるスクールカウンセラーに報告や相談はしていなかったという。【二村祐士朗、近藤綾加】
生活記録ノートに書かれた二つの文章、
「ボクがいつ消えるかはわかりません。もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」と、
「明日からの研修たのしみましょうね」
その間に生まれるなんとも説明できない違和感。それをマスコミは「教師のはぐらかし」というキーワードで解いた。それ以外の可能性はまったく浮かばなかったようだ。
私は最初から「その間に何かある」と考えた。
当初の予想では「担任は村松君ときちんと話をする予定があった。だから返答はどうでもいいようなものとなった」と考えたが、記事を読むとさらに具体的で担任の思考のたどれるものであることが分かる。
@ 担任は生活記録ノートを読み、
A 記述内容について目の前の村松君と話し、
B 話題が研修会のことに移ったので、
C ノートに目を戻して「明日からの研修たのしみましょうね」と書いた。
その結果、ノートに@とCしか残らないからとんでもないやり取りとなってしまったが、実質的にそれで問題があったわけではない。それは村松君が了解すればよいことであって、他人が見て理解できるかどうかはどうでもいいからだ。
しかし今回はそれが問題となった。
もしかしたら今後、生活記録ノートも公開されることを予定して、記述に慎重にならざるをえないのかもしれない。
担任は給食を食べながら、あるいは大急ぎで食べ終えて、その場で生徒たちの顔を見ながら生活記録ノートを読み、返事を書いていた。それはまさに私たちがしてきたことと同じだ。
ほんとうに時間がなくなると、私たちは食べながら読み、書く。
担任はその場で席の近い村松君に話しかけ、様子を聞く。こうしたことは早いに越したことはない。その上で素早く様子をうかがう、観察する、そしてこれは切羽詰った話ではないと判断する。
言うまでもなく結果からするとこのとき担任は判断を間違った。村松君はほんとうに自殺してしまったのだから。
判断を誤った以上、担任はその責任を負わなければならない。退職するか、重い十字架を背負ったままなおも教員を続けるか、それは本人と周囲で決めて行けばいいことである。いずれにしろ責任は取らなければならない。しかし同時に、「はぐらかした」「逃げた」「いい加減に扱った」という意味での責任は取る必要がない。その時彼女はすべきことをきちんと行っていたのだから。
今回のことは、事件としてはこれで終わるだろう。仮に遺族が損害賠償を求めて裁判に訴えても担任に決定的な瑕疵のないこの状況で勝訴することは難しい。
しかし今後見ていかなければならないことが二点残った。それは“加害者”に対する社会の動向と教員社会のあり方の変化だ。
前者について言えば、「ネット社会は“加害者”を特定して断罪するかどうか」ということである。
カンニング竹山を“イジる”ザキヤマのような人間は全国いたるところにいる。自殺した村松君を“イジった”同級生たちが断罪されるなら、(まだ)自殺しない同級生を“イジる”子どもたちも名を晒されて糾弾されるべきである。村松君は自殺したから加害者が糾弾され、死なないAを“イジった”加害者は糾弾されないでは筋が通らない。
注目したい。
第二の点について言うと、「今後、教員は死をにおわせる表現に対して、すべてを報告し校内および教育委員会との間で情報共有を図るように動くかどうか」ということである。
たとえば喧嘩の最中、
「てめぇ殺すぞ!」
と言った子どもがいた場合、指導が終わって和解が果たされても、担任は市町村教委および都道府県教委に対して「殺人企図を持つ生徒がいる」と報告しカウンセラーの派遣を要請するかどうかということである。
正直に言うと私は、ここまで極端な例でなくとも、教委への報告は一時的に増えると思う。
「もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」
が字面だけで報告すべき対象となるとしたら、“死”に関わるすべてのことは報告対象にならざるを得ない.
それは明らかに教員の“保身”ある。万が一のことを考えて“保険をかける”やり口だ。
逆に言えば報告さえしておけば「給食を食べながら生活記録ノートを読み、考え、観察し、判断して返事を書く」といったアクロバティックなことをしなくて済む。
日本の公務員には無責任体質があるということがよく言われる。それは報告を上げるたびに責任を分け合い、最終的には不明確になることによる。直属の上司に報告しただけで責任が半分になり、その上司が更に上にあげると責任が三分の一になる。最上位への報告の過程が16段階だとするとひとりの責任は16分の1、わずか6%である。それは「責任がない」のと同じだ。
今回の事件を機に、報告することで責任を回避するような動きが学校に広がらないよう切に願う。