キース・アウト
(キースの逸脱)

2015年 9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2015.09.16

学校でのコンピューター使用、成績向上に効果なし
OECD調査


[AFPBB News  9月15日]


 学校にコンピューターを導入しても生徒の成績が著しく向上することはなく、それどころか学業を妨げることさえあるとの報告を15日、経済協力開発機構(OECD)が発表した。

 世界の学校におけるテクノロジーの影響を初めて調査したOECDの報告によると、調査対象となった国の4分の3近い生徒が学校でコンピューターを使っていたが、学業成績に目立った向上はみられなかった。

 反対に、スマートフォンやコンピューターが人々の生活に欠かせない一部となっているアジア地域の成績優秀な学校では、授業におけるテクノロジーの普及の程度はずっと低かった。

 学校でのコンピューター使用時間の平均を比較すると、多いのはオーストラリアの58分やギリシャの42分、スウェーデンの39分など。一方、韓国はわずか9分、香港(Hong Kong)も11分だった。

 OECD教育技能局のアンドレアス・シュライヒャー(Andreas Schleicher)局長はこの報告書の前書きで「授業でのコンピューター使用をみると、生徒たちの成績への影響は良し悪しが混在しているといったところで、しかも学校でかなり頻繁にコンピューターを使う生徒の学習結果は、社会的背景や人口動態的要素を考慮した後でも、ほとんどの場合、かなり悪いものだった」と述べている。

 今回の調査では、世界数十か国で行われているOECDの学習到達度調査(PISA)などの国際学力テストと、デジタルスキルを評価する試験などの結果から、学校におけるテクノロジーの影響を評価した。その結果、情報通信技術に多大な投資をしたところでは、読解力、数学、科学の成績に「目立つ向上はまったくみられなかった」としている。(c)AFP


 要するにこれは学力をどうとらえるかという問題である。

 コンピューターをどう活用しても計算力や読解力、科学力が高まらないということは、CAI(computer-assisted instruction:コンピュータ支援教育)創生期からかなりはっきりしていた。子どもたちはモニタをみながら楽しんで計算問題をやったりしたが、それもすぐに飽きてしまった。
 応用問題も、画面を見ながら手元の紙にあれこれ書きながら考えるとなると、何のためのコンピューターかということになる。いちいち顔を上げ下げしてモニタと紙を見比べるより、その紙に問題が書いてある方がよほどやりやすいからだ。
 また、最初のうちはコンピューター自体が2人に1台、3人に1台といったふうだったから、一人がコンピューターに向かっている間ほかの二人は普通のドリル帳をつかって手計算で練習をするといった滑稽な事態も生まれた。
 
 
結局、わざわざコンピュータールームに行ってアプリケーションを立ち上げる面倒くささに負けてコンピュータールームには閑古鳥が鳴くようになった、それが10数年前のできごとだ。
 
 ところが学校にネット環境が整うと、事態は全く違ったものになった。
 例えば社会科でオーストラリアについて学ぶとき、かつては大きな写真資料(例えばオーストラリアの鉄鉱石採掘場)を一枚示して、「さあこれで考えましょう」とやるのがせいぜいだった。図版が限りなくあるわけでもなく高価でもあったからだ。しかし今は違う。
 コンピューター・ルームに行ってネット検索で「オーストラリア」と入れれば、限りない写真資料が立ち現れてくる。それを見ているだけでも「オーストラリア」は確実にとらえられていく。
 プレゼンテーションの能力も飛躍的に高まった。
 大きな模造紙を使ってのポスターセッションも、かつては手書きの下手な絵と文字ばかりで見るに堪えないうんざりとしたものだったが、今はいくらでもカラー図版が入れられ構成もうまくなった。
 
 ネットがなければ、一部の子どもたちは確実に文字に接する機会が減っただろう。さらに一部の子は文章を読む能力さえ失っていったかもしれない。
 またメールやツイッターは、子どもたちが文を書き続けるという点で、確実に社会に貢献した。
「わずか140文字の言葉の羅列を文章と言っていいのか」などと言ってはいけない。それらがなければ子どもの大部分は学校以外で一行の文さえ書かない生活を何年も続けていたはずだからだ。それが10年も続ければ、ひとははがきさえも書けなくなる。

 
コンピューターを導入したところで成績が上がらないならやめてしまえというのはあまりにも短絡的である。
 学力は読解力・数学・科学がすべてではない
のだから。







2015.09.22

<教師といじめ>多忙な教師、余裕なく
◎苦悩する教育現場/(下)疲弊


[河北新報  9月21日]


<家庭ないがしろ>
 仙台市立中1年の男子生徒=当時(12)=がいじめを苦に自殺した問題をめぐり、市教委の第三者委員会は報告書で学校対応の問題点を挙げる一方、当時の状況についてこう言及した。
 「男子生徒の件以上に注意を要する生徒間トラブルがあった」
 「教職員が置かれる多忙の中では優先順位を付けて対応することはやむを得ない面がある」
 教師たちが、授業や部活動と並行して生徒指導に追われていた様子がうかがえる。
 市教委の内部資料によると、2014年度に市立学校の教職員が勤務時間外に在校した時間は月平均で小学校37時間、中学校67時間、高校46時間。いずれも増加傾向にあり、中学は突出して多い。
 市内の中学校で学年主任を務める男性教諭(56)は「試験問題の作成や採点、評価を勤務時間内にする余裕はなく、自宅に持ち込む。土日の休みは顧問を務める部活でつぶれる。家庭は正直ないがしろだ」とこぼす。不登校の生徒も多いといい、「生徒や保護者への個別対応に膨大なエネルギーを使う」と打ち明ける。
 市内の別の中学校の男性教諭(59)は「生徒指導が優先され、授業が軽んじられている」と自嘲気味に話す。「時間的、精神的余裕をなくしている教師が生徒を追い詰めていないか心配だ」と顔を曇らせた。

<心の病 57人休職>
 教育現場の疲弊は、病気休職した教職員数に表れている。14年度は市立小中学校と高校で計168人が病休に入り、うち57人は心の病が原因だった。
 小学校長の経験がある市内の60代男性は「いじめをめぐり、保護者からの苦情などを気に病む教師は少なくない。(病休で)一人が倒れると他の教師にしわ寄せが及ぶ」と語り、多忙と疲弊の悪循環を指摘する。
 事態の改善に向け、校長と教育委員会の奮起を促すのは市内の公立高校の男性校長。「校長に責任を取る姿勢がなければ教頭以下の先生は混乱する。教委も命令するだけで責任を取ろうとしない。校長と教委の責任の所在と範囲が明確になっていない」と言う。
 今回の自殺では、遺族の意向を踏まえた市教委の判断で学校名などが非公表のままとなっている。前出の男性教諭(56)は「当該校の教師は生徒にきちんと説明したいはずだ。その責任を果たせず、苦しんでいると思う」とおもんぱかった。



1986年(昭和61年)に起った「葬式ごっこ」で有名な中野富士見中学いじめ自殺事件で最大のなぞは、なぜあれほど多くの教師が易々と子どもたちの悪い遊び(お悔やみの言葉の寄せ書きに参加する)に付き合ったかということである。しかし私は分かる。
 彼らは「それどころではなかった」のである。
 当時の富士見中はいわゆる「荒れた学校」でそれも半端な荒れ方ではなかったのだ。そうした状況で「葬式を遊びにするのはよくない」とか「死者にされた友だちの気持ちを考えろ」といった常識的な指導の余地はなかった。そんなつまらないことで貴重な時間を浪費し生徒と対立することはない、と多くの教師が判断した――それが決定的に被害者を追い詰めることになったという事実は、のちになって突きつけられる厳しい現実だったのである。
 もちろん関係し処分された教師たちに同情などしない。しかし非難されるべきは「葬式ごっこ」に参加したことよりも、普通なら当然対処すべきことにも対応できないまでに追い詰められた教師集団の力のなさである。そこまで追い詰められるずっと以前に、やっておくべきことはあったはずだ。

「男子生徒の件以上に注意を要する生徒間トラブルがあった」
「教職員が置かれる多忙の中では優先順位を付けて対応することはやむを得ない面がある」

 おそらくそうだろうということは事件を知った時から想像していた。
 自殺した生徒に関する情報が担任の段階にとどまり、それ以上広がらなかった、学校としての連携が取れなかった陰には、そうした事情があった。
 
 学校というところは、どうでもいいようなつまらない校則違反が大きな問題になったり、一人の生徒のつまらないつぶやきが大きく取り上げられている間は平和で問題も少ない。しかし一朝すべてのサイクルが狂い始めると、どれもこれも対処できなくなる。

 これをどうしたらよいのかの答えははっきりしている。学校は人手不足なのだから人を増やせばいいだけなのだ。

 一体世の中の組織で、どんなに仕事が増えても人員を増やさないものがどれくらいあるのだろう。
 学校の教員の数は仕事量ではなく学校の児童・生徒数によってのみ変わる。そこでは地域性や問題性は一切考慮されない。

 何とばかげたことか。

   参考:<教師といじめ>職員室の「雰囲気」次第 (上)情報共有