キース・アウト
(キースの逸脱)

2015年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2015.11.01

ごみ拾いに密着!
“ハロウィーン狂想曲”渋谷で見た「意外な光景」


[朝日DOT 11月 1日]


 
 サッカーW杯や年末のカウントダウンを思わせる混雑ぶりだった、ハロウィーンの渋谷。昨年は翌日のごみ問題などが報じられたが、今年はどうなっているのか。祭りの後の渋谷を歩いてみた。

 ハロウィーンである10月31日が今年は土曜に当たることから、渋谷区や東京都は事前に策をとっていた。東京都は、10月17日から31日まで都内で開催されるハロウィーンイベントの参加者に、「HALLOWEEN & TOKYO」限定の”カボチャのごみ袋”を配布し、「クリーンなハロウィーン」を呼びかけていた。一方、渋谷区は民間の団体と連携して「ハロウィンごみゼロ大作戦in渋谷」を実施、仮装の際に「家で着替え」することや、ごみの持ち帰りを呼びかけていた。

 これらの活動は効果があったのだろうか。11月1日の早朝、渋谷の街に降り立った。

 駅を出てまず目にしたのは、渋谷駅付近でごみ拾いをするオレンジ色のジャンパー姿の男女数人。聞けば、渋谷ライオンズクラブのメンバーだという。この日ごみ拾いをしていたメンバーのひとり、小林もよさんは次のように話す。

「渋谷ライオンズクラブの活動のひとつとして、もともと月1回、渋谷区でごみ拾いをしていたんです。今回はハロウィーン後のごみが大変だという話を聞いていたので、イレギュラーでごみ拾い活動を行っているんです」

 しかし、実際にごみ拾いをしてみると、意外な光景が見られたという。

「実際にやってみると、思ったよりごみが少なくてびっくりしました。昨日のハロウィーンも、子どもたち、小中学生くらいの子たちがごみ拾いをしていく光景が見られて。イベントを楽しむのはいいことなので、終わってからもそんな風に後片付けしてくれるといいですよね」

 続いてはスクランブル交差点を渡ってセンター街へ。日曜ということもあって、ここでは昨日に引き続き、まだ仮装姿のままの人も多い。ゴミ収集場所と思われる場所には、うずたかくごみが積まれており、なかには昨日使用したであろう、着ぐるみのようなものが捨てられている場所もあった。

 そんななか、白いごみ袋を持った人々と何度もすれ違った。よく見ると、ごみ袋には映画「ゴーストバスターズ」でおなじみのゴーストマークが描かれている。センター街をごみ拾いしながら歩く、彼らに話を聞くと、これは「SHIBUYAハロウィン・ゴーストバスターズプロジェクト」という活動の一環だという。参加男性は次のように説明する。

「これは西野亮廣(お笑いコンビ・キングコングのひとりで、現在は絵本作家としても活動)さんが発案した活動なんです。ハロウィーンのごみ問題が報じられていますけど、実際になくそう、と言うだけではなくならない。それなら片づけ自体も楽しめる活動にすればいいんじゃないかということで、ネットなどで呼びかけをして、集まってごみ拾いをしているんです」

 ハロウィーンはゴーストの仮装などをすることから、ゴーストが出したごみを片付ける、ゴーストバスターズになろうという活動だ。これは現在開催中のアートイベント「TOKYO DESIGN WEEK」の一環として行われており、集めたごみで最終的にトラッシュアートを作るという。

 ちなみに、センター街やハチ公前などの主要な部分は比較的きれいだが、「裏通りや細い路地はごみが多い印象」だと言う。参加していたのは20代〜30代の男女が多い印象で、なかにはまだ小さい子どもの姿も見られた。

 渋谷に降り立ったのは7時前だったが、時間を追うごとにこうしたごみ拾いの人々は増え、8時前にはごみ袋を手にする多くの人が通りを歩いていた。ごみ収集車がひっきりなしに走っており、主要な通りはどんどんキレイになっていく。昨年とはすっかり様変わりした街に驚かされた。

 サッカーW杯ではスタジアムでごみ拾いをする日本人の姿が報じられ、3.11の混乱時にも、レジで整然とした列をつくる日本人に海外から称賛の声が集まった。そうした日本人の美徳ともいえるものが、今年のハロウィーンには表れたのかもしれない。

 ただ気になったのは、今回ごみ拾いをしていた人たちに「ハロウィーンは楽しみましたか?」と尋ねると「家で普通に過ごしていました」と答える人が多かったことだ。ハロウィーンを楽しむ人が同じように片づける意識を持ってくれれば、よりよいイベントになっていくのではないだろうか。

(ライター・横田 泉)



 いい話である。こんなことができるのはおそらく世界中で日本だけだろう。

 どんな世界であろうとも人々に自由が認められている限り、パーフェクトな道徳性を求めることはできない。泥棒が一人もいない世界、すべての人々が互いを支えあう世界――想像すればそれはむしろ恐ろしい。
 人々がすべてのものをリサイクルに回し街にゴミのひとかけらも落ちていない世界――それを実現しようとすれば北朝鮮並みの貧困と強権が必要である。それを避けて自由を守れば、必ずゴミの投げ捨てをする不届き者が現れてくる。
 昨年のハロウィーンはダメだった。今年は一斉にボランティアが動き出し、見事なまでに清潔な街を取り戻した。それでいいのだ。過ちを犯し、そして改める、それだけのことだ。日本はそれができる。

 何を言いたいのかというと道徳教育のことである。これだけ優れた国に生きていながら、なぜ道徳教育をいじらなければならないのかということだ。
 現在の高い道徳性は、これまでの日本の道徳教育が優れていたことの証左だとなぜ考えられないのか。道徳教育の重視という変更によって、今よりも優れた道徳性を獲得できるという保証はどこにあるのか、中国や韓国のように教科書をつくり(文科省の調査では道徳が教科になっていて教科書を用いているのはこの二か国だけである)、日本全国同じような教科書で同じように学ぶと、今以上に優れた国民が育つという自信はどこからくるのか、私には理解できない。
 
 奇しくも今年もまた二人のノーベル賞受賞者が生まれた。それぞれ20年前〜30年前といった昔の研究に対して与えられた賞である。別な言い方をすれば、(少なくともノーベル賞を目指すという意味では)20年〜30年前の大学教育、研究のあり方は間違っていなかったということである。
 その後、大学か改革は進み、社団法人となって6年ごとに中期目標を定めて成果を確認することになっている。少なくともノーベル賞を目指すという意味では健全だった20年〜30年前の大学を、今の形に変えてよかったかどうかは今後20年〜30年という年月を待たねばならない。
 失敗だったら取り返しのつかない年月である。
 






2015.11.21

算数授業で「嫌なやつ(18782)」「皆殺し(37564)」

[TBS news 11月20日]


 神奈川県藤沢市の市立小学校で、女性教諭が4年生の算数の授業で「嫌なやつ(18782)+嫌なやつ(18782)=皆殺し(37564)」などと不適切な語呂合わせを使っていたことがわかり、市の教育委員会は保護者説明会を開いて陳謝する方針です。

 市の教育委員会によりますと、先月30日、藤沢市立・滝の沢小学校で、40歳の女性教諭が、担任している4年生のクラスの算数の授業で「嫌なやつ(18782)と嫌なやつ(18782)を足すと皆殺し(37564)になる」などと不適切な語呂合わせを児童に伝えたということです。

 市の教育委員会に対し、女性教諭は「語呂合わせは本かインターネットで見た」「数字に興味を持ってもらうためだった」と説明しているということです。

 「だめですよね。学校としてありえない」
 「(学校側の)説明を聞かないとわからない」(保護者)

 市の教育委員会は、「教育現場でこのような授業が行われるのは不適切」として、20日午後、保護者説明会を開き、陳謝する方針です。(20日11:18)



 誉められる話ではないが、全国ニュースになり保護者会を開いて陳謝するほどの問題か? そう考える私はよほど人権意識に問題があるのかもしれない。
 しかしそれにしても、これを「嫌な奴は一緒にして皆殺しにしてしまえ」と教師が授業中に言ったと解釈するのはやはり無理があるように思う。単に語呂合わせの妙を楽しみ、数字の世界にはこんな面白い偶然もあるんだよ、と言って見せたにすぎないように思うがどうか?

 これがダメとなると(こうした語呂合わせの例はネット上にいくらでもあるのだが)、
「184+184+184+184+184+184+184=1104(いやよ + いやよ + いやよ + いやよ + いやよ + いやよ + いやよ = いいわよ)」はセクシャルハラスメントを助長するからもちろんアウト。
「343343+343343+343343=1030029(さしみさしみ + さしみさしみ + さしみさしみ = 父さんはお肉!)」はジェンダー論からアウト。
「3564+2943+183+49+4=6743(見殺し+憎しみ+嫌味+四苦+死=虚しさ)」も「見殺し」や「死」が出て来るのでアウト(内容的に何かいいような気もするが)。

 語呂合わせていえば社会科や理科はその宝庫だが、
 
「(周期表)エッチ変態リッチなベッドボインでキュートなおっぱい(H,He,Le,Be,B,C,N,O・・・以下、不適切表現多々のため省略)」などというのは絶対アウトで、歴史の「人の世むなし(1467)応仁の乱」などは子どもに厭世観を植え付ける悪い例となるのだろう。「一夜むなしく(1867)江戸幕府の滅亡」もそうだ。
「人に不意打ち(1221)承久の乱」とか「一味さんざん(1333)鎌倉幕府の滅亡」も人の生き方としていかがなものか。
 中大兄皇子と中臣鎌足(ときどき「なかとみのカタマリ」と間違う生徒がいるが)が蘇我氏を討った大化の改新(645)は
「虫殺し」と覚えるが、蘇我入鹿の父である蝦夷の名に「虫へん」があるのでこれも生々しいと言えるかもしれない。
 
シェークスピアは「人殺し(1564)」に生まれて「いろいろ(1616)」やって死んだ。これは私の持ちネタだが、「人殺し」は教育の場では問題だろう。
 ところで、
「伊藤博文は1909年、ハルビンで朝鮮民族主義者の安重根に暗殺された」はどうか。「暗殺」という血なまぐさい言葉が教室で使われることに抵抗のある人もいるのかもしれない。

 確かに、学校の平和教育で被爆体験を語った元被爆者に、
「余りに残酷なことを低学年の人に伝えると、よる眠れないとお母さんから電話がかかってくるですよ。そんな話はしないでくださいって。家の子どもの心に傷がつきました。どう責任を取ってくれるんですかと電話がかかってくる」NHKスペシャル「あの子を訪ねて〜長崎・山里小 被爆児童の70年〜」《問題の個所は31分過ぎ》)
 そんな時代。
 死や殺人に関わる全てのことは、学校から放逐されなければならないのかもしれない。







2015.11.22

フランスで「小1の壁」に悩む母親はいない
やはり、働く女性にとって参考になる国だ

[東洋経済新報 11月19日]


 子どもが小学校に入学するとき、日本の働く母親が直面するのが「小1の壁」(*引用者注)だ。午後7時、あるいはもっと遅い時間まで子どもを預かってくれる保育園から一転して、学童保育は通常午後6時まで。長期休暇中の学童保育には給食がなく、お弁当を持参させなくてはならない。入学式、保護者会やPTAの集まり、授業参観など平日の学校行事もある。子どもの小学校入学を前に悩む母親は多い。

 フランスにはそんな「小1の壁」はない。まず、入学式はない。フランスの新学年が始まる9月、小学校に登校した1年生はホールに集まり、クラス分けが発表された後、担任とともにそれぞれの教室に入る。親も子も入学式用の服を用意したりしなくてよいのは、助かる。


 充実した学童保育は長期休暇中の強い味方

 1年生も初日から午前8時30分から午後4時30分まで授業がある。日本の小学校ではしばしば短縮授業があるが、フランスの学校は判で押したように、いつも同じ時間帯だ。午後6時まではエチュードという補習があり、低料金で預かってくれて宿題もみてもらえる。フランスの小学校では、低学年の子どもの送迎は保護者の義務となっている。残業の多い日本と違い、午後6時であれば、働く親も学校へ子どもを迎えに行くことができる。

 長期休暇中には、サントル・ド・ロワジールという学童保育が、公立の小学校で運営される。保育時間は午前8時30分から午後6時30分ぐらい。料金は各家庭の所得に応じて払う。給食があり、バスに乗って森へピクニックに出かけたり、気球に乗ったり、プールで遊んだり、楽しいプログラムが用意されている。

 フランスの学校では、万聖節(諸聖人の日)とクリスマスの休み、冬休み、春休みと、約6週間通学するごとに2週間の長期休暇がある。7〜9月まで2カ月の夏休みもある。いくら有給休暇の多いフランス人でも、すべての学校休暇に合わせて、仕事を休むわけにはいかない。強い味方がこのサントル・ド・ロワジールなのだ。祖父母も、働く親世代にとって頼りになる存在だ。長期休暇中は祖父母の自宅や別荘に出かけ、一緒にバカンスを過ごす子どももいた。祖父母と孫が関係を深めるよい機会になっている。

 フランスの小学校では、そもそも学校行事が少ないのだが、保護者会は平日の午後6時ごろから開かれた。校内を自由に見学できる学校開放の日と、学年末のお祭りは土曜日だった。


公立の授業料は無料、少ない不登校

 フランスの小学校は、家計にも優しい。公立の場合は、授業料は無料。給食代は所得に応じて支払う。また、年に数回、コオペラティヴという任意の援助金を学校に支払う。金額はいくらでもいいし、払わなくても構わない。この援助金は、生徒の課外授業費などに使われるということだった。課外授業では、映画を見に行ったり、観劇をしたり、美術館へ出かけたりした。豊かな文化のある国だけに、学校の外で学ぶこともたくさんある。

 教科書は1年間無償で貸与される。代々の生徒が使うため、ビニールのカバーをかけて使う。何冊もある教科書に一つひとつ、カバーをかけるのはひと仕事だった。連絡帳や各教科で使うノートが学校で支給されたのには、驚いた。親は筆入れと鉛筆など最低限の学用品を用意すればよい。学校指定の上履きや体操着、体育館シューズもない。

 日本では何万円もするランドセルを用意するが、フランスの子どもが背負うカルターブルという横長のかばんは安価だ。ナイロン製のカルターブルが数千円で購入できた。上等なカルターブルを子どもに持たせて、競い合うような雰囲気も皆無だ。

 1クラスは20人程度なので、担任の目が行き届く。下校時には、担任が校舎の出入り口で迎えにきた保護者に子どもを引き渡す。毎日のように顔を合わせるので、保護者は心配ごとがあればすぐに相談できる。少人数教育のためか、頻繁な長期休暇のためか、フランスの学校は不登校の生徒が少なかった。アフリカ系、アラブ系、東洋系など、さまざまな背景を持った生徒がいるので「皆と同じようにしなくては」という同調圧力が少ないせいもあるだろう。周囲を気にせず、自分らしく振舞え、気楽な面もある。

 一方で、小学校では落第もあれば飛び級もある。勉強についていけなければ進級できず、再び同じ学年で学ぶ。優秀な生徒は1学年飛ばして進級する。自分に合ったレベルで学ぶことは、どの子どもにとってもいいことだろう。親も落第について、日本の親ほどの抵抗はない。勉強がわからないまま進級して、ますますわからなくなるより、同じ学年の勉強をやり直して進級する方が、わが子のためになるという考えなのだ。同級生も落第した生徒を偏見の目で眺めることはない。


教師は雑務少なく教えることに専念できる

 職場として考えた場合も、フランスの小学校は働く母親に優しい。休み時間、教師は教室に鍵をかけ、生徒を外へ出す。寒い季節でも、生徒は校庭で遊ばなくてはならない。したがって真冬は、帽子に手袋、分厚いコートを身につけさせ、ブーツをはかせて、子どもを登校させなくてはならなかった。雨天の場合は、生徒はホールのような場所で過ごす。休み時間中、教師とは別の監視員が見守るので、教師は休憩できる。

 午前11時30分から午後1時30分の昼休みには、生徒は専任のスタッフがいるカフェテリアで給食をとり、監視員の監督の下、校庭などで遊ぶ。教師は教師専用の食事室で昼食をとってもよいし、学校の外に出て昼食をとっても構わない。2時間ゆっくり休憩することができる。校内の掃除は専任のスタッフが担当するので、教師が掃除をさぼる生徒を注意したり、掃除の監督をしたりする必要もない。

 入学式や卒業式、運動会はないので、その練習で授業時間が削られることもない。フランスの教師は、日本の教師よりも教えることに集中できる環境にある。休憩がしっかり取れることが示すように、労働者としての権利も守られている。筆者の滞在中には、教師のストライキもあった。同じ学校でも複数の労働組合があり、一部の組合のみのストライキだったため、あるクラスの担任はいないが、別のクラスの担任は授業をしているという、珍妙な事態が生じていた。


保護者にも外国人を受け入れる度量

 フランスの学校には、フランス語がよくわからない外国人の子どもを受け入れる懐の深さもあった。筆者の子どもを含めた外国人の数人は週2回、別の授業を受けてフランス語を指導してもらっていた。また、小学校入学時の最初の保護者会の際には、会が終了した後、担任は自分が話した内容を記した紙を、筆者ともうひとりの外国人家庭にさりげなく渡してくれた。

 同級生の保護者の中には、「何かわからないことがあればいつでも聞いて」と申し出てくれた母親がいた。別の母親はある日、「あなたは子どもの宿題をみるの、大変でしょう。うちの子と一緒に、私がみましょう」と声をかけてくれた。ちょうど、小学校の勉強も進んできて詩の暗唱や書き取りの宿題をみるのに困っていたときだった。その後、筆者の子どもは週1回、その同級生の家で宿題をするようになり、大いに助けられた。日本へ帰国する際には、20人の同級生が「日本でも頑張れ」などと一人ずつコメントを書いた寄せ書きを贈ってくれた。

 働く母親や家計に優しいフランスの学校の仕組みを支えているのは、税金だ。フランスの付加価値税は20%もある。しかし、次の世代を育てるという意義のある目的のために使われるならば、高い税金も無駄ではないと言えるだろう。



 すべてを満足させる完璧な答えはない。
 何かを得るためには何かをあきらめなければならないのだ。
 
 特に教育というものはほとんどの先進国で100年以上の歴史を持っている。それだけ長い期間続くと、必要なものが取捨選択され、残るべきものが残り、さまざまな面で調整が行われて有機的なつながりができ上がってくる。したがって真似をしようとしても一部を引っ張ってくると別のものも付いてきてしまう。それは覚悟しなければならない。
 この記事から学ぶべきはそういうことである。
 
 フランスの学校は不登校の生徒が少なかった。
 と不登校が少ないことを最優先とすれば
 
勉強がわからないまま進級して、ますますわからなくなるより、同じ学年の勉強をやり直して進級する方が、わが子のためになるという考えを受け入れなければならないのかもしれない。学業不振は不登校の大きな要因のひとつだからだ。
 約6週間通学するごとに2週間の長期休暇がある。7〜9月まで2カ月の夏休みもある。というのも学ぶべき状況だ。
 とにかく6週間だけ頑張ればゆっくり休めるのだ。そして頑張って通っているうちに、積極的に学校に通う楽しみが見つかることもある。
 あまり気づかれないことだが、
 フランスの小学校では、そもそも学校行事が少ない。(略)入学式や卒業式、運動会はないので、その練習で授業時間が削られることもないも重要なポイントかもしれない。
 不登校の専門家の富田富士也は、「不登校の子どもたちが学校にいけないのは、そこが集団生活を強制するからだ」と語っているが、その通りだと思う。

 入学式や卒業式といった儀式的行事は、一部の人たちにとっては虚礼だが、そうした行事を通して、子どもたちは「人の話を聞くこと」や「大切な場へ出席する場合の態度」「生活にメリハリをつけること」「繰り返し自己を問い直すこと」「四季の移り変わりや友達を見直すこと」――総じていえば道徳を学んでいるのである。運動会もしかり、文化祭もしかり、遠足や修学旅行も同じで、こうした大規模な行事によって、子どもは分担や協力、責任などといったことを学ぶ。
 清掃は日本の武道や芸道、寺社における修行などで見られるように、最も基本的な道徳教育だが、フランスでは
校内の掃除は専任のスタッフが担当するので、教師が掃除をさぼる生徒を注意したり、掃除の監督をしたりする必要もないとなる。
 だから、
教師は雑務少なく教えることに専念できる
 それでいいということであれば、この点についても導入すべきだろう。

 そうではなく、
 
授業料は無料(日本も無料)
 
教科書は1年間無償で貸与される(実は日本も無償貸与。ただ学校が使い古しの教科書を返してもらわないだけ)
 
連絡帳や各教科で使うノートが学校で支給された
 親は筆入れと鉛筆など最低限の学用品を用意すればよい。
 1クラスは20人程度なので、担任の目が行き届く。

という部分を重要視するなら、
 
フランスの付加価値税は20%もあるも受け入れなければならない。消費税を今後10%に引き上げるといった話でおたおたしているようではだめなのだ。

 
学校指定の上履きや体操着、体育館シューズもない。
 これはおそらく学校生活や体育の授業の質に関わることだろう。日本でも土足で校内を歩くようにすれば上履きは不要になる。体育をレクリエーション並みにしてしまえば休み時間のドッジボールと同じだから着替える必要もない。施設の保全ということもさして重要でなくなるから体育館も土足のままでいいだろう。
 それに、
 
午前11時30分から午後1時30分の昼休みには、生徒は専任のスタッフがいるカフェテリアで給食をとり、監視員の監督の下、校庭などで遊ぶということだから室内を清潔に保つこともいらないだろう。今の日本は教室で給食を食べたりするからダメなのだ。
 

 
下校時には、担任が校舎の出入り口で迎えにきた保護者に子どもを引き渡す。毎日のように顔を合わせるので、保護者は心配ごとがあればすぐに相談できる。
 この部分でフランスを真似したいのなら、
 夕方、低学年の子どもを迎えに行くのは親の役割だが、残業が多くないので働く親もOKだ。
 という部分も真似しなくてはならない。5時にはスパッと仕事を切り上げられるような社会状況をつくっておかねばならない。

 ちなみに
PISA2012によれば世界65の国と地域の中で。フランスは数学25位(日本は7位)、読解力21位(同4位)、科学26位(同4位)である。
 フランスに学ぶとしたら、それも考えておかねばならないだろう。
 制度も状況も、パッチワークのようにいいところだけを移すわけにはいかないのだから。


(*)主に、共働き家庭において、子どもを保育園から小学校に上げる際、直面する社会的な問題を、『小1の壁』という。