2016.04.14
2020年度からの小学校英語 増加分は朝や土曜日、夏・冬休みに!?
[ベネッセ教育情報サイト 4月13日]
小学校の新5年生は、必修の「外国語活動」が始まったことと思います。文部科学省は2020(平成32)年度から、これを中学年(3・4年生)に前倒しするとともに、高学年は教科に格上げすることにしています。そこで問題となるのは、必要な授業時間数の増加分を、どうするかです。次の学習指導要領を検討している中央教育審議会の部会は、10〜15分の「短時間学習」(モジュール学習・帯学習)を導入したり、土曜日や夏・冬休み、学年末などに集中して実施したりする案をまとめました。なぜ、こんな案になったのでしょうか。
現在の外国語活動は、「聞く」「話す」の音声が中心で、年間35時間を標準としています。週当たり1コマ分に当たります。文科省は、グローバル化に対応した「使える英語」を目指して、小学校から教科化するなどの方針を、既に決めています。しかし、小学校高学年で「読む」「書く」を含めた4技能をバランスよく実施するには、1コマ分増の年間70時間が必要になるといいます。中学年でも、新たに週1コマ分を割かなければなりません。
現在、指導要領に示された標準授業時間数をこなすため、ほとんどの学校では、週28コマの授業が行われています。コマ数を増やすには、5時間授業の日を6時間までやればよいわけですが、それでは児童会活動やクラブ活動、補充指導などの時間がなくなってしまいます。中教審でも「週28コマが限度」としています。それなら英語以外の授業時間数を減らせばよいわけですが、昨年8月の「論点整理」では、各教科などの学習内容は減らさないと早々に宣言しており、ましてやコマ数の削減は難しそうです。
そこで出てきたのが、冒頭のような案です。ただ、全国一律の実施を求めるのではなく、45分プラス15分で60分授業にするなど、地域や学校の実情に応じて実施してもらうことにしました。しかし、これまで朝学習や朝読書の取り組みをしている学校は、その時間を英語に譲らなければならなくなるかもしれません。それでも高学年は1コマ分が確保されているので、1コマの授業プラス会話などの習熟のための短時間学習……といった活用方法が可能ですが、そもそも中学年は、週1コマの確保すら困難です。
もちろん現在でも、特例の活用やさまざまな工夫などで、小学校低学年から外国語活動を実施したり、標準時間数を上回る授業を実施したりしている小学校は少なくありません。そのため、どの学校でも時間数を生み出すために苦労するとは限りません。
忘れてはいけないのは、どんな授業形態であれ、将来に必要な英語によるコミュニケーション能力の素地を、子どもたちに着実に付けさせ、中学校以降の学習につなげることです。ましてや土曜日や夏・冬休みなどの活用となれば、子どもへの負担も心配です。保護者としても、学校側の考え方をじっくり聞き、納得したうえで、協力していく必要が出てきそうです。
(筆者:渡辺敦司)
いとも簡単に、何のためらいもなく使われる言葉、
将来に必要な英語によるコミュニケーション能力
本当だろうか。
私は60年以上も生きてきたが“英語によるコミュニケーション能力”がないばかりにほんとうに困ったという経験はない。60年以上生きてきたにもかかわらず、だ。
それが今後10年、20年の後、英語でコミュニケーションが取れないと困る時代が来るとはとても思えないのだ。
むしろ必要な時、インカムのような装置を頭につけてスマートをフォンに接続すれば、自動的に翻訳してくれる素晴らしい機械の発明されることの方がよほど信じられる。今でも簡単な日本語を翻訳して音声にするアプリは存在するのだから。
私たちはコンピュータのおかげで多くの労力を省き、能力を肩代わりしてもらってきた。
今やエクセルに基本的な式を入れるだけでとんでもない分量の計算を瞬時に行えるようになった。だからといって暗算の能力に意味がなくなったわけでも、電卓が早く叩けたりそろばんができたりする能力が無意味になったわけではない。それらは必要で堪能な人が使えばいい特殊な能力になったのだ。日本人のほとんどはそれができなくてもよい。
同じように、かつて私のような悪筆の人間が肩身の狭い時代があった。今でも毛筆に長け、あるいはペン習字に習熟した人は尊敬されるべきだし彼らに頼らざるを得ない場面もあれば彼らが輝く場面もある。ただし今やどんなにひどい悪筆でも日々傷ついたり恥じたりすることのない時代だ。手紙も文書もワードで書けばいい。
もちろん冠婚葬祭の会場で記名しなければならないとき、ホワイトボードや簡単なメモなど手書きで行わなければならない場面もあるが、だからといって大金を使い大量の時間を費やしてペン習字に挑もうという人は少ないだろう。何といってもコンピュータやスマホで文章を書いている時間の方が圧倒的に長いのだから。
そうした事情は英語の場合もまったく同じだ。
英語ができなくて恥をかいたり切なかったりする機会は圧倒的に少ない。普通に生活している普通の日本人にとって10年にいっぺんあるかないかの災厄である。そんなめったにない事件のために、英会話を習うのはバカげた所業というしかない。何といっても日本語をしゃべっている時間の方が圧倒的に長いのだから(というより、普通の日本人は一日に一回も英語で会話したりしない)。
それにもかかわらず機械に頼らず、人間の能力で英語を習得しなければならない理由は何なのだろう。
これまで朝学習や朝読書の取り組みをしている学校は、その時間を英語に譲らなければならなくなるかもしれません。
ところでここ10年余り、“小中学生の読書離れ”という言葉をたえて聞かなくなっているが事情をご存じだろうか。実は子どもの読書時間はずっと増え続けているのだ。
それが朝読書を始めとする学校の真剣な取り組みの賜物であることは明らかだ。
その朝読書や朝学習を犠牲にして英語を学ぶ。
社会はその責任を取る覚悟があるのだろうか。
将来に必要な英語によるコミュニケーション能力
私はいっそのことこの国が日本語を排し英語を唯一の公用語のしてしまえばいいと思う。テレビも映画も書籍もすべて英語のみで行う、学校教育においても日本語を許さず官公庁の手続きも全部英語で行う、そうすれば英語によるコミュニケーション能力の重要性は肌身に浸み、日本人の英語能力は飛躍的に高まるだろう。
今も台湾や韓国には日本語の堪能な老人が多くおられる。
一国の国民全員が外国語を完全に身につけるというのはそういうことなのだ。
2016.04.23
小学校でのプログラミング教育必修化を検討 文科省
[朝日新聞 4月20日]
文部科学省は19日、小学校でのプログラミング教育の必修化を検討すると発表した。2020年度からの新学習指導要領に教える内容を盛り込む方向で議論する。技術の進化が飛躍的に進む中、コンピューターを制御する能力の育成が重要と判断した。
5月にも有識者会議を開く。プログラミングの新教科をつくるのではなく、理科や算数といった今ある教科の中に盛り込むことを話し合う見込みだ。現在の小学校では、課外活動として、パソコン画面上のキャラクターを動かすといったプログラミング体験はあるが、授業で教科として教えていない。
文科省は、中学、高校でも拡充を検討する。中学では「技術・家庭」でプログラミングについて教えているが、アニメーションづくりなど新しい内容を追加したい考え。高校では、現在は選択科目の中に含まれているため、学んでいる生徒は全体の2割だという。新学習指導要領では必修科目の学習項目に入れる方針だ。
小中高校でのプログラミング教育の必修化は、19日の政府の産業競争力会議で示された新成長戦略に盛り込まれた。(高浜行人)
やめておけ、馬鹿らしい。
学校教育法によれば小学校の目標は次のようになっている。
第十八条 小学校における教育については、前条の目的(注:《第十七条》小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする)を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
二 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
ここのどこにプログラミングが入ってくるのか。外国語だってかなり怪しいというのに、プログラミングに至ってはなにをかいわんやである。
中学校は違う。
第三十六条 中学校における教育については、前条の目的(《第三十五条》中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする)を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
三 学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。
かつて小学校にはなかった「英語」が中学校で初めて入ってきたのは、まさにその「国家及び社会の形成者として必要な資質」を養い「社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能」を手に入れるためだった。
「図画工作」ではなく「技術家庭科」や「美術」を学ぶのも、「算数」ではなく「数学」をやるのも、もはやそれが「日常生活に必要な」レベルではなく「国家及び社会の形成者として必要な資質」「社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能」というレベルだからだ。
コンピュータ・プログラミングは、「日常的に必要な」知識や能力か?
もちろん小学校の教育課程にたっぷり余裕があればいいが、算数も理科も時間を持て余しているような教科ではない。多くの子どもたちが完全に習得できないまま卒業せざるを得ないのだから。
それとも分数の乗除とか比例反比例あたりをざっくり削るとか、理科の天文や水溶液あたりをまるごと捨ててしまうとか、それなりの対案を出してくれるのだろうか? それならそれでわかりやすい。
分数どうしのかけ算も水溶液の性質も「日常生活に必要な」レベルのものではないからだ。もちろんそれに応じて、中学校の数学や理科もレベルを下げていくしかない。
すべての国民がコンピュータ・プログラミングを理解する日のために!
2016.04.25
中学校の部活動、教員は現状どう考えている?
[朝日新聞 4月24日]
子どもの成長に大きな役割を果たしてきた部活動は、曲がり角に来ているようです。朝日新聞デジタルのアンケートには2927人の声が集まりました。現状への不満が押し寄せています。中でも多かったのが、全体の4分の1を占めた教員の声です。その声を紹介するとともに、スポーツ系部活動の歩みに詳しい専門家に聞きました。
スポーツ系の部活動の変遷に詳しい中澤篤史・早稲田大准教授に話を聞きました。
◇
部活動の評価、期待や課題の感じ方が、生徒、保護者、教師、その他の人々で同じではないことがアンケート結果に示されています。とはいえ、全体的に「不満」が多く、自由記述でも「悪い面」がたくさん指摘されています。問題を強く感じる人が、積極的に答えたのでしょう。
部活動は教育課程外の活動なのに日本中の中学、高校にあり、大勢の生徒が参加し、多くの教師も顧問としてかかわっています。ただ、好きで参加している生徒ばかりではなく、顧問をやめたい教師もいます。やらなければいけないものではないのに、成立しています。
その歴史は戦前にさかのぼります。教師が教育の一環としてかかわるようになったのは戦後からです。自分たちがしたいことを追求したり、仲間と協力したりすることで子どもは成長するんじゃないか。そんな自主性を重視する戦後教育の考え方に、部活動はピッタリはまったのです。
1970〜80年代に、部活動の意味は大きく変わりました。学校の荒れが問題になり、管理や非行防止の手段として利用されました。生徒のしたいことを教師が支えるのではなく、部活動を通して生徒を管理する実践が広まったのです。部活動は生徒指導の手段として学校に不可欠なシステムになりました。「生徒はみんな入るべきで、教師もみんな従事すべきだ」。部活動は強制的で抑圧的になっていきました。
現在の部活動は、待ったなしの課題に直面しています。最優先に考えるべきは事故や暴力などから子どもの生命を守ることです。そして、教師の生活を守ることです。そんな深刻な状況を踏まえると、現状はやり過ぎのように映ります。そもそも、自主性が大事だといいながら、本当のところ全く自主的ではないことも多い。
部活動に教科書はありません。学習指導要領上もあいまいな位置づけです。自主性を重視するならマニュアルは作れず、あいまいにならざるを得ません。決められたことをこなすだけでは自主性は育ちません。やりたいことを追求し、力がつくよう工夫することが、人生を豊かにする可能性を生むはずです。
これからの部活動はどうあるべきか。少し肩の力を抜いて、部活動を「楽しむ練習」と考えたらどうでしょう。出発点には、生徒自身のしたい気持ちがあります。でも生徒は未熟で力不足でトラブルも起こすので、実は楽しむことは簡単ではない。そこで教師に支えてもらう。
野球をしたければメンバーを集め活動内容を考え、対戦相手を探さなければなりません。そのプロセスに教師が伴走する。見つけた対戦相手は倒すべき敵ではなく、ともに野球を楽しむ仲間になるはずです。
人生を素晴らしく、有意義にしてくれる「楽しむ力」を、部活は与えてくれるでしょう。(聞き手・片山健志)
◇
なかざわ・あつし 79年、大阪府生まれ。東京大教育学部卒業。一橋大大学院准教授などを経て4月から現職。専攻は体育学、スポーツ社会学。中学でサッカー、高校で硬式テニスの部活動に取り組み、東大でも体育会サッカー部に所属した。
■教員からの意見
第1回のアンケートには、現場の悩み、提案が寄せられました。800人近い教員からです。
◇
●「『もっと部活動の時間を長くしてください』という熱心な生徒。『他の学校と差がついたら困ります』『コーチをつけてもらえませんか』という熱心な保護者。『子どもに家でぶらぶらされても困る』という、部活動を託児所ととらえている保護者。土日の部活はあくまで顧問による有償のボランティアであること、教員の多忙さ、ぜひ保護者に理解していただけたら、と願います」(富山県・30代女性)
●「毎週土日、練習か試合になるのが当たり前になっており、平日に授業準備や事務作業がクラブ指導で進まなかった分を土日にクラブ指導後にせざるを得なくなり、朝早く子どもが眠っている中出勤し、子どもが寝付いた後に帰宅するといった日も多くあります。教師である前に一人の親なのに我が子と接する時間を削って休みなく働き、もらえるクラブ手当も4時間以上で3000円、6時間以上は一日中試合になり13時間になろうが3700円しかもらえず、試合会場への交通費は別にもらえるわけでもありません。それでも日々不満ばかりぶつけられます」(大阪府・30代女性)
●「自分もさんざん部活という制度によって成長させてもらい、部活がきっかけで体育教師になった。部活は、普段からその生徒の日常を見ている教師だからこそできる生徒指導も含めた多面的な教育的指導に大きな意味を持つ。外部指導者は、技術指導という役割では大変有効だと思うが基本はやはり教師が部活をみる方がより生徒の心身の成長につながると感じている。しかし、夫婦ともに中学校教師で3歳になる娘がいる私には話は別になる。切実に、部活動をやらない選択肢がここ数年間だけでも欲しい」(栃木県・30代女性)
●「与えられた部活動顧問で未経験であっても、何とか勉強しながら指導しています。競技の勉強、練習、部員のノート点検、練習試合のお願い電話、部活通信の作成、地区の協会役員にも自動的になっており、授業に費やす時間より部活関連の時間が多いのが現状です。これでも熱心な顧問というわけではありません」(山形県・50代男性)
●「ブラックと言われているが、果たして本当にそうか。教科教育・学級経営・生徒指導の3大業務を円滑に進める土台作り・環境つくりにも、部活動は有効であると考える。やりすぎや体罰は、それは悪。しかし、部活動を通して、社会に通用する子どもを育てることは十分にできる。文句を言う教員、まずやってみれ。関わり方を工夫しろ」(福岡県・30代男性)
●「部活の時間が長すぎて、子どもの学習にとって弊害になっている。子どもを家庭から引き離し、家族とのコミュニケーションの時間が少なくなる原因になってしまっている」(長野県・20代男性)
●「(教員歴33年)昨今の部活動半強制化と教員の全員顧問化が当然のようになっている時代に憤りを感じる。同僚は柔道の指導などの経験が全くないのに、今年から無理やり顧問を押し付けられた。事故が起きたら責任は誰がとるのか? 校長に問うたが無言だった」(東京都・50代男性)
●「教員が経験のない専門以外の顧問になることもあり、その場合、親の方が知識が詳しく、かき乱したりして、子どもの対応以外の心配もある。さらに連絡網で親同士の仲間はずしとかあったり、親指導までやらなくてはならない始末。年上だと親も遠慮するが、年下だと、だから教員はと、軽く見られ話を聞いてくれないことも多い」(埼玉県・40代女性)
●「教員間の評価までも部活の運営の良しあしによっているようにすら感じます。原因は、部活の方が教科などよりも保護者の目につきやすいこと、また学校、特に中学校が体育会系的イデオロギーに支配されていること、加えて部活に力を入れる人間の方が声が大きく幅を利かせやすいことなどが挙げられると思います」(埼玉県・40代男性)
●「本来の職務ではなかなか味わうことのできない、実感しづらい、達成感や充実感をクラブ活動の中で『お手軽に』得てしまい、クラブ中毒になってしまう教員が後を絶ちません。達成感を得るため、つまり試合に勝つために部員(生徒)を統制し、思考停止させ、自分に従順な『兵隊』にしてしまっています。将来、『兵隊』が教員になれば、それが『兵隊』を再生産してしまいます。この時代に逆行する負のスパイラルを一刻も早く止めるべきです」(京都府・30代男性)
●「部活動は生徒にとって、有意義な面も多い。部活動を通して、チームの一員としての協調性や、チーム・個人の課題を発見し、一人ひとりが解決策を考え適切な人へ相談し、話し合い、課題を解決していく過程を経験して欲しい。これらの学びは今の時代を『生き抜く力』につながると思う。ただ、部活動を通して生徒に身につけて欲しい力は、顧問によって異なる。また、部活動をしたい理由も生徒によって異なる。したがって、教員は顧問をする・しない、生徒は部活動に入る・入らないということを選択する権利がまずは与えられるべきだと思う」(山口県・20代女性)
●「生徒も保護者も管理職も、教員による指導を求めてきます。職務と位置付けるのであれば残業手当などの対価を支払うべきですし、教員免許取得課程への盛り込み、教員研修などの制度を整えるべきです」(兵庫県・30代女性)
●「顧問の先生との関係が密接で閉鎖的なことも多く、生徒も自身のバランスの悪さに気づくきっかけがつかみにくいと思います。複数の大人が協力して指導に関われれば生徒の発育上も良いと思います」(東京都・30代男性)
■4分の3が「不満」
今回のアンケートには40代から多くの回答が集まりました。過去、多くの回答を集めたアンケートにみられた傾向です。ちょうど中学生の子どもがいる世代に重なります。回答者の立場では「中学生の親」に「教員」が迫る勢いだったのが目を引きました。
今の中学校の部活動に満足か不満かを尋ねたところ、「大いに」と「どちらかというと」を合わせて4分の3が「不満」だと回答しました。
これまでのアンケートには、若い人があまり参加していませんでした。今回は30代以下が3割超。「中学生」の回答も66ありました。
テレビコマーシャルを見ているとしばしば、
「ご利用の方の98%の支持を受けています」
とか、
「お買い求めくださったお客様の95%が“満足”とおっしゃっています」
あるいは、
「満足度99%!!」
といった表現に出くわす。もちろんこれは嘘ではない。しかしどうやってその数字を得たのか。
これは基本的に商品に付属するアンケートの結果なのだ。「お客様アンケート」とか「声をお聞かせください」といったアレである。
ところでどういう人があれを書き、ポストに投函するのか。
答えは簡単である。あれを書くのは、基本的に常連の利用者で商品が気に入った人だ。一度購入して使ってみて、「コリャだめだ。二度と買わない」と思った人は、よほど腹を立てない限りあんなものは書かない。本当に腹が立ったら電話なり封書なりで直接文句を言うことになる。あんなアンケートの片隅に書いても何にもならない。
したがってアンケートの回答者は、心から気に入った商品が打ち切りにならないように応援する人、良い感想を書くことで何らかの利益があるのじゃないかと期待する人等々さまざまであっても商品に対して好印象を持つ人が中心となる。だから「満足度99%!!」といったことになる。
ウソはないが正しくもない、そういう数字だ。
この朝日デジタルのアンケート。
現状への不満が押し寄せています。中でも多かったのが、全体の4分の1を占めた教員の声です。
となっているがそもそも聞き方が悪い。リンクをクリックしてアンケートページに行くとそこにはこんなふうに書いてある。
第1回アンケートでは、中学校の部活動に期待すること、改善してほしいことなどを尋ねました。今回は、改善してほしいという回答が多かった活動時間と指導体制についてお尋ねします。
その結果が
今の中学校の部活動に満足か不満かを尋ねたところ、「大いに」と「どちらかというと」を合わせて4分の3が「不満」だと回答しました。
そりゃそうなるワナ。
現在の部活に不満のある方はお書きくださいと指示しているからだ。
これが、
「部活動には重要な意義があるという意見も多くありました。そこで日本の部活の意義や意味についてお尋ねします」
で始まればずいぶん違ったものになったはずである。
マスメディアはしばしばこんな我田引水を平気で行う。その上で我田に都合のよい“専門家”を呼んできて解説させるから記事はさらにメディア寄りになる。調査の前からあった結論にぴったりと収まり現実からどんどん遠くなる。
1970〜80年代に、部活動の意味は大きく変わりました。学校の荒れが問題になり、管理や非行防止の手段として利用されました。生徒のしたいことを教師が支えるのではなく、部活動を通して生徒を管理する実践が広まったのです。部活動は生徒指導の手段として学校に不可欠なシステムになりました。
もうほんとうに感動で泣きたくなるくらい教条主義的な文である。
教職に就くような人間は管理が大好きで、児童生徒の上に君臨するためにさまざまな方法を編み出した。校則も給食も清掃もそして部活も、すべて子どもたちを管理するために利用されてきた――メディアや一部の学者は本気でそんなこと考えているらしい。
ではそのような現在の部活を廃して、学校スポーツは何を目指していくのか。
野球をしたければメンバーを集め活動内容を考え、対戦相手を探さなければなりません。そのプロセスに教師が伴走する。見つけた対戦相手は倒すべき敵ではなく、ともに野球を楽しむ仲間になるはずです。
要するに部活を廃止して教師は待つ。
子どもたちの間で野球をしたいという気持ちが高まってくる(なぜ?)。
彼らはメンバー集めを始め、活動計画を立て始める。しかし経験がないのでうまく行かず、ときどき先生に相談に来る(来るか?)。
練習計画を立て対戦相手を探す(そこまでやるようなすごいヤツが学校に何人いるだろう?)がそこもうまく行かないので先生に相談して他の学校への電話の仕方などを教えてもらう。そして試合をする。
試合は勝っても負けてもムキにならず、“次は絶対に勝つぞ”などと思って練習が過剰にならないようにする(野球部を立ち上げるくらい意欲的な生徒の意欲を潰す?)。
そして次の年に持ち越さないよう、年度内に解散する(どうやって?)。そうしないとあっという間に現在の部活のようになってしまい、二度と「野球をしたければメンバーを集め活動内容を考え」ができなくなってしまうからだ。
アホくさ。
だから学者もメディアも現場を知らないと言われるのだ。それに比べたら現場の声は的確だ。
現場の教師は「生徒の管理に必要だから部活をする」などといったバカな考えはしない。
ブラックと言われているが、果たして本当にそうか。教科教育・学級経営・生徒指導の3大業務を円滑に進める土台作り・環境つくりにも、部活動は有効であると考える。
部活動を通して、チームの一員としての協調性や、チーム・個人の課題を発見し、一人ひとりが解決策を考え適切な人へ相談し、話し合い、課題を解決していく過程を経験して欲しい。
自分もさんざん部活という制度によって成長させてもらい、部活がきっかけで体育教師になった。部活は、普段からその生徒の日常を見ている教師だからこそできる生徒指導も含めた多面的な教育的指導に大きな意味を持つ。
こうして並べてみるだけでなぜ学校や生徒や保護者が部活に夢中になるのか分かる。
子どもを管理するなどといったうしろ向きのものではない。人々は大まじめで部活動が子どもを育てると信じているのだ。だから部活は廃りもしなければなくなりもしない。
そして不満は、
しかし、夫婦ともに中学校教師で3歳になる娘がいる私には話は別になる。切実に、部活動をやらない選択肢がここ数年間だけでも欲しい
というところにしかない。
要するに価値ある活動と十分にわかっている部活ですらできないほどに彼らは疲れている、多忙なのだ。
状況の克服は部活の縮小によってもたらされるべきではではない。どんなに潰そうとしてもそれが価値ある活動である限り繰り返しよみがえってくる。多くの生徒が熱烈に要求する、保護者が子どもの願いに呼応する、そして子どもを育てるためなら平気で生活を犠牲にできる教師たちが抜け道を探し始める。
問題は教師の多忙なのだ。その一点に絞れば解決策は簡単に見つかる。
教師の仕事を減らす? アホ!
こと学校となるとなぜそうした考え方になるのだろう? 役所だって企業だって「忙しいから仕事を減らしましょう」といった考え方は絶対に出てこないのに。
2016.04.28
菊池桃子さん「PTAは任意」
発言に広がる共感なぜ?
[朝日新聞 4月27日]
学校のPTAは、入っても入らなくてもどっちでもいいはずなのに、全員参加の雰囲気がある――。先月、タレントの菊池桃子さんのこんな趣旨の発言が、ネット上で話題になった。活動するもしないも個人の自由のはずなのに、なぜPTAの世界ではそれが難しいのか。
■共感の投稿相次ぐ
菊池桃子さんがメンバーを務める政府の「1億総活躍国民会議」終了後だった。発言は3月25日にあった会議で語った内容を明らかにしたものだ。ネット上で注目され、ツイッターには「よく言ってくれた」「正論だ」など共感するコメントが相次いだ。
菊池さんの発言に反響があったのは、PTAが一般的には「事実上の強制加入」だからだ。子どもが入学すると、入会するかどうか意思確認をせずに自動的に会員としたり、退会の規定がなかったりする学校がほとんど。会員になるだけでなく、「全員が一度は役員を」「一人一役」といったルールもある。活動を休んだり役員を断ったりすると、「不公平だ」「授業参観には来るくせに」などと言われることもあるという。建前は「任意」でも、「入会しない」選択は難しいのが実情だ。
この春に東京都世田谷区の小学校に長女が入学した女性(33)は、入学前の学校説明会でPTAの説明を受けた。入会の意思確認は何もなく、「毎年一つは係をしてもらいます」などと書かれた紙が配られた。PTA活動は任意と聞いたことはあったが、「子どもに何か不利益があったらと考えると、参加しないと言い出せる雰囲気ではなかった」。
■「加入義務はない」
首都大学東京の木村草太教授(憲法学)は「PTAに加入する義務は法的にはない。憲法21条が保障する結社の自由は、加入しない自由も保障している。任意であるものを強制かのように見せたり、子どもへの影響をちらつかせて強制したりすれば、詐欺や脅迫行為だ」と指摘する。
マスメディアというのはしばしば不満のはけ口、怒りのタンツボを積極的に担おうとする。しかしそれでいいのか。
PTAに加入する義務は法的にはない。
そんなことは百も承知だ。しかし法的に義務がなければ人は何をしてもよいのか。
大地震の被災地で身を挺して他人を助ける法的義務はない、
瓦礫を一緒に片づけなければならない法的義務はない、
避難所で配給の列にきちんと並ぶ法的義務はない、
食料をひとりでふたり分もらってはいけない法的義務はない。
地域の住民だからといって自治会に入らなければならない法的義務はない、
消防団に加わらなければならない法的義務はない、
地域の防災訓練に参加しなければならない法的義務はない、
PTAに参加しなければならない法的義務はない・・・。
いわゆる「おもてなし」に法的義務はない、
他人に親切にする法的義務はない、
家の前の並木に潅水する法的義務はない、
ボランティアに法的義務はない、
皆同じだ。
たしかに法的義務はないにしても、それをすること、あるいはそれに参加することが当然と考えることで成り立っている世界が世の中にはいくらでもある。
例えば子どもの虐待死や老人の孤独死があったとき、朝日新聞は「地域のつながりが薄くなった」と嘆くことはしないか。
公園から子どもがいなくなったとき「地域で子どもを見る目が少なくなった」と非難しないか。
すべて「するもしないも個人の自由」「しなければならない法的義務はない」で済ませることができるか。
(PTAに話を戻して)
PTAの活動は多岐にわたりしかも膨大であるから「一部参加」「やりたい人がやればいい」というわけにはいかない。「みんなで分担する」かそれとも「やらない」かである。
このまま「活動はするもしないも個人の自由」という風潮が広がり二人三人と抜けていくとしたら、しばらく入らない人は変人あつかいだが一定の割合を越えると雪崩を打って脱退し始める。そして滅びる。任意団体の末路はすべて似たようなものである。
マスメディアはそうした状況を喜ばしいと考えるのだろうか?
PTA作業で行ってきた環境整備(校庭の草取りや樹木の伐採など)は業者にさせるようにし、バザーや資源物回収で確保してきた資金も税金から回す、その方がいいと考えているのだろうか。PTAが用意してきた子育て講演会や研修会などもやらない方がいい――親が子育てについて勉強するのも個人の自由と突き放してしまうのだろうか。
さらに言えば、PTAの「T」つまり教員(この人たちもPTA会費を払って時間外に活動している)が、「活動するもしないも個人の自由」と言って脱退し始めたらそれも支持してくれるだろうか。
メディアは教育問題を取り上げるのが好きだが、長期的な展望に立って発言しているとは、とてもではないが思えない。
今、流行の言い方を借りるとこんなふうになる。
それは日本の将来にいいことかどうかは分からないが、間違いなく今日のわが社にとっては利益になる。
そういうことか?
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