キース・アウト
(キースの逸脱)

2016年 7月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2016.07.03

テレビに映った母親の言葉にはっとさせられ…学校が一夜で避難所に
教師の視点生かす


[西日本新聞 6月28日]


 <被災地の学校>自分に何ができる

 小学校の先生は木曜日、忙しくなるという。授業が終わるや、来週の打ち合わせ会議、翌日配布する予定表や学級通信づくりに追われるからだ。

 熊本地震の前震があった4月14日も木曜日。午後9時26分。熊本県益城町の広安西小学校の職員室にはまだ10人ほどの教諭が残り、作業を続けていた。

 3年担任の高松美穂教諭(34)もその一人。「すごい音で、視界が揺れた」。一斉に机の下にもぐった。心配だったのは家にいる夫と子ども2人の安否。スマートフォンの電話はつながらなかったが、LINE(ライン)で無事が確認された。

 午後10時ごろから、避難住民が押し寄せた。体育館、校舎1階の教室、グラウンドは人と車で埋まった。高松教諭らは手分けをして、人や車の誘導、教室のラジカセや保健室の布団を体育館に運び込んだ。

 「ただ無我夢中で」。気が付くと、夜が明けていた。


日々の経験を避難所運営に生かす

 特別支援学級を担任する川口久雄教諭(48)が学校に駆け付けたのはその朝6時。

 すぐに直面したのは水洗トイレの対応。断水に伴い、汚物があふれており、プールの水を運び、流した。午後からは同僚と児童の家々を回り、片付けを手伝ったりしながら無事を確認していった。

 続く本震から2日後の同18日。校内のトイレ前で母娘に出会った。障害がある30代の娘を母親が介助していて、「大ごつですね」と声を掛けた。

 その夜、テレビ中継の画面にあの母親が映った。「娘が心配で、食事配給の列に並べない。トイレにもなかなか行けない」。はっとさせられた。

 まず動いたのは「支援が必要な人の名簿づくり」。避難住民の中には、目が不自由な人や人工透析が欠かせない人もいた。だが、校内にいることは分かっていても、どこにいるのか? パソコンで調査用紙を作った。支援を求める人が一目で分かるよう、手分けしてクローバーを描いた紙マークを作り、首にかけてもらった。

 「障害って、人に伝えたり、説明したりするのが難しいから」。発達障害の子どもたちと日々、向き合ってきた経験を避難所運営に生かした。


「試練の中で学びながら、歩んでいる」

  井手文雄校長(58)も、こうした教諭たちの提案を臨機応変に生かした。体育館は避難所となり、グラウンドには今も、避難住民の車があり、半分しか使えない。体育授業でプール開きを5月末に前倒ししたのも、猛暑を逆手に取った、教諭からの提案が発端だった。

 ユニークな対応としては「大臣任命制」。全教職員を大臣に見立て、役割分担を決めた。

 司書教諭の資格も持つ高松教諭は「メリーポピンズ大臣」。外で遊べず、気分もめいる雨天時の避難住民や子どもたちの図書室活用が担務で、今は全国から届いた千冊超の絵本の整理に追われていた。

 川口教諭の小学1年の娘は地震後、夜を怖がり、熊本市内の自宅では眠れず、庭の車中に妻と交代で泊まり込む日々が続いているという。多くの教諭が、そんな家々の悩みも抱えながら、授業に取り組んでいる。

 取材で訪ねた6月2日も木曜日。同校では前日から、6時間授業が始まった。「子どもや被災者にとって何がプラスか。地域にとっての学校とは。自分に何ができるか…。先は見通せないが、私たち教師も試練の中で学びながら、歩んでいる」。井手校長は話す。

 夜の職員室では、その日も漢字ドリルの採点に追われる教諭もいれば、その脇で児童たちの委員会活動で「きょう、こんな提案があったの」とうれしそうに話す6年担任の姿も。あの時刻、高松教諭ら4人はその日も残り、作業を続けていた。

問われる学校のチーム力

 被災地の学校支援にも関わる福岡教育大大学院・西山久子教授(学校心理学)の話 地震から2カ月が過ぎ、学校では児童生徒の個別の課題がぽつぽつ噴出してくるころだ。新学期早々の地震だっただけに、教員と子どもの関係も、まだ十分ではなかっただろう。担任ばかりでなく、異なる目を持った多くの教員が子どもと関わり、学校全体のチーム力で対処していくことが、早期発見のためにも有効なようだ。

 地震直後の「短距離走」のような緊急対応ではなく、これからは子どもや学校、地域の将来を見据えた息の長い「マラソン型」の対応が必要。問題解決を急がず、子どものペースに合わせた指導も大切だ。教員自身も被災者で、家々の悩みも抱えている。課題を抱えすぎ、燃え尽きないよう、温かい雰囲気の中での管理職や同僚の配慮や声掛け、環境づくりも求められている。



 やはりな、と思わせる記事である。
 2016年4月21日のブログ記事にあるように、私は
教員に避難所運営をさせたらメチャクチャうまいだろうと信じている。
 組織を考え、配分し、連携させ、きちんと動かすということを、とにかく教員は毎年やっている。それが教員の主要な業務だからだ。
 しかもそのフィールドが自分の勤務校で、脚立ひとつ、工具1セット、釘の一本に至るまでどこにあるか理解しているのは職員を置いて他にいない。
 さらに――ここが一番重要な点だが――
教育機関としての学校を保全するためにも、教員は最初から避難所の中心にいなくてはならない。そうでなければ校庭も体育館も教室も占拠され、授業再開の窓など立たなくなってしまうからだ。
 そう思って西日本新聞の記事を読み直すと、広安西小学校がいかにうまく動いたかがわかろうというものである。見習いたいところである。
 
 ただし、震災の当夜、
まだ10人ほどの教諭が残り、作業を続けていた。というのは二重にいただけない。
 土曜日や日曜日の夜だったらそのようにならなかったということだからだ(もし休日の夜だったら何が起こっていたのだろう?)。
 もうひとつは、それが
 
午後9時26分
 だったということである。しかも(おそらく)幼い子どものいる母親である妻である教員が夜の10時直前にまだ職場に残っている――そのことが異常に見えない不思議。
 
小学校の先生は木曜日、忙しくなるという。授業が終わるや、来週の打ち合わせ会議、翌日配布する予定表や学級通信づくりに追われるからだ。
 などとのんきに書いているが、火曜日や水曜日だったら6時前に全員帰っているということもないだろう。木曜日の夜が会議と学級通信づくりに追われるなら教材研究や資料作り、実験や工作の準備、成績処理・評価、作品の整理、行事の計画や準備などは木曜日以外にやっておかなければならない。
 私は災害が起ったらすぐに職員が駆け付けて避難所の設営をすべきだと思う(*)が、日常的に待機している必要はないと思う。
少なくとも小さな子どもいる職員が定時プラス2時間ほどの時間外勤務で帰宅できるような職場であるべきだ。
 熊本地震を教訓に、もう一度学校の在り方と避難所になる場合の職員の動きについて考えておくべきだと思う。
 
 それにしても、これだけいい題材を発掘し、
 教員自身も被災者で、家々の悩みも抱えている。課題を抱えすぎ、燃え尽きないよう、温かい雰囲気の中での管理職や同僚の配慮や声掛け、環境づくりも求められている。
 暖かい言葉をかけながら、表題が、
「問われる学校のチーム力」
とはどういうことか。記事もそういう内容ではないと思うが。
 新聞はどうしても上からものを見て、学校を追い詰めないと気が済まないのかもしれない。

* 大きな震災が起ったら職員は大至急出勤し避難所の設営を行えというのは、一義的には教員に負担を強いるものである。しかし何といっても教員はこの仕事に向いているし、いずれ半分以上は丸投げされるに決まっているから、だったらごちゃごちゃにされてから投げられるより最初から受け取っておいた方が有利だと私は考える。







2016.07.09

給食の「食べ残し」はどうすれば減らせるのか

[JBpress 7月 8日]


 「一生懸命に作った農家の人たちに失礼だから、食べものを残してはだめ」

 かつて子どもは大人からそう言われ、食べ残しをしないようにしつけられてきた。だが近年、「食べ残しはしてもよい」とする傾向が現れ、さらに「完食を強要するのは体罰や虐待に関わる」という話題まで見られるようになった。

 「食べものを残すこと」は問題ではなくなったのだろうか。「食べものを残してはいけない」は時代錯誤の考え方になってしまったのだろうか。

■ 完食の強要が「体罰」「虐待」になりかねない時代

 学校教諭が子どもたちに給食を残さず食べさせる。これは、昔から小学校の教室などで見られた先生たちの取り組みだ。だが、そのやり方次第では「体罰」や「虐待」と言われかねない時代になった。

 2014年5月「弁護士ドットコム」が発信した記事「給食は残さず食べないといけないの?  先生が強要したら『体罰』か」が話題になった。解説者の弁護士は「無理矢理口に押し込むとか、はき出した物を食べさせるといった指導は、体罰」とする一方、「完食するまで給食が終わっていないと解釈して、児童をその場に残すという手法自体は、場所的・時間的にも、態様としても、著しく不当とはいえません」とし、判断はケースバイケースになるとの見解を述べている。

 教育評論家の尾木直樹氏も2014年にブログで、「子どもの健やかな身体考えること 確かにとても大切」としつつ、「完食はいかがでしょうか?  食事の押し付け 楽しい食事奪うことにならないでしょうか!?  完食は精神的な虐待になりませんか・・・」と綴るなどしている。

 身体的な苦痛を与えるだけでなく、子どもに厳しく指導することまでも「体罰では」「虐待では」と捉えられるようになった風潮の中、子どもたちに給食完食を強要することも非難の対象になり始めているのだ。

■ 1人あたり17.2kgの食べ残し

 子どもに給食を最後まで食べさせることがしづらくなると、当然ながら給食は残ってしまう。

 環境省は2015年4月、初の大規模調査となった「学校給食から発生する食品ロス等の状況に関する調査」の結果を発表した。それによると、2013年度、小中学生1人あたり年間で約17.2kgの食品廃棄物が出たという。また「残食率」つまり出席人数分の給食の提供量に対して残された給食の量の割合は、これを把握する全国約3割の市区町村での平均値で6.9%だったという。

 昭和50年代に小学生だった筆者もそうだが、一世代前の年齢層には、この量や率は「けっこう多いな」と感じられるのではないか。かつて、給食で出されたものはみな食べて、空になった容器を「給食のおばさん」に返すのが日常的だった。時間内に食べきれなかった子は、昼休みも食べ続け、給食のおばさんに「遅くなりすいませんでした」と謝りながら、給食皿を返していた。

■ 食べ残しの“拡大再生産”が進んでいく

 子どもが給食を残すことの問題点は何か。1つは、体の成長に影響を及ぼしうるということだ。このことは栄養学の研究から明らかになっている。

 お茶の水大学の赤松利恵氏ら研究チームは2013年、「学校給食の食べ残しと児童の体格との関連」という論文で、食べ残しの有無と児童の体格差に相関があることを示した。小学5・6年生を対象に、給食を残らず食べた「完食群」と、それ以外の「残菜群」で分けたところ、両群間で体重3.5kg、BMI(ボディ・マス・インデックス)0.9kg/m2
の差があったと報告している。同研究チームは、別の論文で「残菜群」の各種栄養素の摂取量が「完食群」より2〜3割少なかったことも示している。 成長面の影響も大事ながら、より懸念したいのは精神面の問題だ。子どもが食べ残しをしないように大人が仕向けなければ、彼ら・彼女らが大人になったとき、食べ残しを何とも思わなくなってしまう。そうした大人たちが、我が子に「全部食べなさい」と言う姿は想像しづらい。

 農林水産省によれば、既に日本は、年間5800万トンの食糧を輸入しながら、その3割を廃棄している「食品ロス大国」だ。年間5000万人分、金額換算にして11兆円分が捨てられていることになる。

 日本人には「もったいない」精神が宿っていると言われるが、裏腹に「すぐ捨てる」精神も兼ね備えていることは、あまり言われない。子ども時代、食べ残しについてがみがみ言われなかった世代が社会人になれば、当然、食べ残しの“拡大再生産”が進んでいくだろう。純粋に、利用するために用意された価値あるものを、利用せずに捨ててしまうことが徳のある美しい行為かと考えると、そうは思えない。

■ 独自プランで残食率大幅減の学校も

 教諭が「食べ残しはだめ」と子どもに言いづらくなった面はあるだろう。とはいえ、食べ残しは今も昔も「ないに越したことはない」とは言える。では、どうすればよいか。

 学校側が明確な方針や意思のもとで計画を立て、それを実践すれば、子どもたちの食べ残しを減らすことができる。そう言える事例がいくつもある。
 北海道浦河町は、文部科学省の「栄養教諭を中核とした食育推進事業(地域食育推進事業)」の一環で、食に関する指導の計画見直しなどを行った。子どもたちの発達段階に応し?た指導などを検討したそうだ。すると、協力校における小学5年生の給食残食率は、3カ月間で30.1%から25.5%に減ったとい う。取り組めばすぐに効果が現れることを示す事例だろう。

 また、新潟県三条市では、2003年度に11.8%だった小学校の給食残食率が、2015年度には3.3%まで減った。要因として同市食育推進室が挙げるのが「学校給食の米飯化」だ。同市は2003年9月から、公立小中学校の米飯給食の回数を週3回から毎日に移行し、2008年4月からは完全米飯給食化 を果たした。米飯がすべてを解決したのではないだろうが、地元で採れた食材を給食に積極的に取り入れたことは、教室での「残さず食べる・食べさせる」意識 につながっているのだろう。

 失敗事例からも学べる。大阪市立の中学校では、給食の3割弱が食べ残しになっているという。調理委託事業者が給食を弁当箱に詰めて学校へ配送する「デリバリー方式」が、「おかずが冷たい」などと生徒に不評なようだ。美味しいと感じられない給食を出しても、子どもたちは食べたがらないのは当然だろう。同市は「自校調理方式」か、近隣小学校で調理された給食を配膳する「親子方式」を検討中だ。

 食育に対する方針や意思のあるところに残食率低下の効果あり、と言えるのではないか。

■ 「明日は頑張ろうな」完食の喜びを分かち合う

 教室で子どもたちと接するのは教諭たちだ。自治体や学校での取り組みとともに、教諭一人一人の地道な取り組みにも大切になってくる。

 取材に応じてくれた公立小学校教諭は、「いただきますの前に、残しそうな子は減らさせます」と話す。それでも食べ残しをする子はいて、年間の残食率は 「7%くらい」。けれども「残す子には『明日は頑張ろうな』と声をかけ、完食できたときには一緒に喜びます。クラスみんなで完食できた日も拍手をしたりして、みんなで喜びます」と言う。食べ切ることに対してほめることで、子どもたちに完食を促そうとしている。

 この教諭はまた「命をいただいているので残さないでおこう、と呼びかけています。作っていただいた調理員さんに申し訳ないから、残さず食べようと伝え続けています」とも話す。子どもたちに残さず食べさせることによって、ものの大切さを教えることができる。逆に、子どもたちにものの大切さを諭すことで、残さず食べさせることもできる。

 食の多様化が進んだ。今の時代、たとえ嫌いな食べものを残しても、他の食べものから代わりの栄養素を摂取し、補完することはできる。栄養摂取のことだけを考えれば、完食を強要する必要はないのだろう。

 それでも、「食べ残すことを何とも思わない」という意識がだんだん社会に広がっていくことには、やはり引っかかりがある。きれいに片付けること、最後までやり切ること、命をいただくこと・・・。残した食べものの分だけ、人や社会が失うこともあるだろうからだ。
                                   漆原 次郎


 給食で完食を強要された、授業中も片付けさせてもらえなった、食べ終わるまで帰してもらえなかった――給食に対する恨みつらみはネット上でいくらでも見ることができる。何でも好き嫌いなくおいしく食べたような子は恨みももっていないはずだから、そうした書き込みをする人たちはすべて好き嫌いが多かったり極端に小食だったりする厄介な子どもだったのかもしれない。

 さて、この記事を読んで最も驚いたのは、弁護士ドットコムからの引用だという、
「無理矢理口に押し込むとか、はき出した物を食べさせるといった指導は、体罰」
の部分である。
ここまでやらないと法律的には体罰にならないのだ。

 一方、尾木ママの
「完食はいかがでしょうか?  食事の押し付け 楽しい食事奪うことにならないでしょうか!?  完食は精神的な虐待になりませんか・・・」
も極端だ。
みんなが自由に残せる給食が楽しい食事、人権にかなった食事というのはやはり不自然だからだ。

 こうしたアンバランスは実は両者がまったく現実を理解していないところからきている。弁護士ドットコムの記述者は拷問に近い給食の強要が行われているのではないかと疑い、尾木ママは到底食べきれない量の給食をドンと置かれ途方に暮れているような小学生を前提としている。しかし現実はそうではない。そもそも規定通りの給食を出している給食センターも(事項給食の)調理室もないからだ。
 
 何年も給食を出し続けていると適正な分量は自然に浮かび上がってくる。毎回毎回同じ分量の残菜が出されてくるとどうしてもその分を減らさざるを得ない。それを野菜や肉で調整するのは難しいから自然と主食が犠牲にされる。現在では大雑把にパンや米飯が規定の8割程度に減らされている、それが普通だ。

 教室へ入ってきた給食は全員に平等に配られるわけではない。給食費は一律だから配る量も平等にすべきだというのもひとつの論理だが、そんなことをすれば小食の子は(主観的に)山ほどの食事を前にうんざりし、食いしん坊はあまりの少なさに絶望するということになりかねない。そこで担任は食欲に応じて傾斜配分をかける。それが普通の教室で行われていることである。
 だから
給食の始まるとき、“食べられなくて困っている子”の目の前にあるのは、もともと規定よりも少ない量のさらに傾斜配分によって減らされた給食ということになる。それを残すとなると必要な栄養素・熱量が摂取できない(尾木ママ、給食は楽しければ栄養不足でも構わないのですか?)。

 さらに20分後、
“食べられなくて困っている子”の前に残っているのは全部の給食の(例えば)30%というようなものではない。好きなお肉と食べられる味噌汁と牛乳は済ませてしまい、たっぷりの白米と野菜と、ほんとうは大好きなのだけれど先に食べると絶対に怒られるデザートのプリン、それだけが残っている――完食に苦労する子どもたちのほとんどはそういう状態なのだ。
「白米と野菜だけで食べられるわけはないでしょ。食事というのはね、ご飯とおかずとお汁とを少しずつ、順番に回して食べるものなの、そうしないと全部食べるなんてとてもできるものじゃないんだよ」
と教えるのだがこれが悪名高い「三角食べ」。Wikipediaでも
「三角食べ(さんかくたべ)とは、和食を食べるときに飯と味噌汁とおかずを“順序よく食べる”方法のことである」
と紹介しながらも
「“和食をおいしく味わうため”として指導が行われたが、過度の管理教育につながった」
「従わない子には体罰も行われ、管理教育の手段にもなった」

とケチョンケチョンである。

 私は学校給食を完食すべきものと思う。極端に栄養不足・カロリー不足にならない範囲で量をその子に合わせて調整できるし、好き嫌いは克服すべき課題だからだ。そうした私から見るとJBpressのこの記事は非常に納得できるものである。
 ただしこれはJBpress がWebメディアだからできることであって私たちが簡単に接することのできる大手メディアにはまず載ってこない。彼らは「子どもに辛い思いをさせてはならない」という正義にがんじがらめにされているからだ。

 もうすぐ尾木ママも
「学校の勉強、全部理解させようなんて精神的な虐待になりませんか? 勉強の押し付け、楽しい学習を奪うことにはならないでしょうか」
 などと言い出すかもしれない。