2016.09.14
校教師が子どもを追い詰める――
「指導死」の現場から
[Yahooニュース 9月12日]
「悪いのはいつもオレだ」。そんな文字を遺書に記して2012年の夏、17歳だった新潟県の高校3年生が自ら命を絶った。それからおよそ4年。自殺の原因を調べていた第三者委員会はこの7月、「生徒指導が最大の要因」と考えられる、との結論を導き出した。いわゆる「指導死」である。教師の指導がきっかけで追い詰められ、生徒が死を選ぶ。そんな事例は1952年以降、全国で87件に上るとの研究もある。指導死はなぜ起きるのか。最悪の事態を防ぐにはどうしたらいいのか。(Yahoo!ニュース編集部)
新潟の高3自殺 父は「自責の念」
「こういった形で子どもを亡くした親で、自責の念のない親はいないと思います」
高校生の父、町山剛さん(仮名)は自宅の座敷でそう語り始めた。新潟県の県立高校に通う宏君(仮名)を亡くしてから、既に夏は4回通り過ぎた。
「いろいろ考えますよ。ああすればよかった、こうすればよかった、って。たぶん何か一つ歯車が違っても、結果は違ったんだと思います」
ラグビーに熱中した日々が…
目標を定めたら真っ直ぐに進む性格だったという。高校で始めたラグビー部が楽しく、自分から居残って練習することもあった。ラグビーをやるために学校へ通っているような日々。同時に「将来は数学の教師に」という目標も定め、志望大学を決めて勉強にも励んでいた。
だから、学校でのトラブル以外に自死の理由は考えられなかった、と父は言う。息子の部屋には、それを思わせる遺書もあった。
ルーズリーフに「悪いのはいつもオレ」
家族宛てのほか、ルーズリーフに計6通。そのうち、「悪いのはいつもオレだ 誰が正しくて誰が間違っていても関係ない」という書き出しで始まる遺書には宛名がなかった。いったい、何があったのか。
宏君の遺族の求めで立ち上がった第三者調査委員会がこの7月に発表した報告書によると、宏君は熱心に部活に取り組み、リーダー的な存在だった。そんな日々が続いていた時、宏君らはまとまりのない活動への不満をSNSに書き込んだ。それをきっかけに、ある生徒が部活を休んでしまう。
宏君ら3人は顧問の男性教員に呼び出された。
指導の教師「意図的に強めに」
その場で教員は「何でそういう人たちに優しくできないんだ」「こんな状況では部活動を行うことはできない」などと発言した。後に教員は第三者委員会に対し、「意図的に強めに言った。3人はガツンと言われたと感じたのではないか」と証言している。
それからの数日間、顧問も交えて部活動に関する話し合いが続いた。まとまりのない状態をどうするか、だらだらした練習を脱するにはどうしたらいいか―。高校生らしいと映る話し合い。そんな中で宏君は「このような状況になったのは俺のせいだから、責任をとって部活を辞めます」とミーティングで発言した。自殺の5日前である。
あれだけラグビーに打ち込んでいた息子。父によると、部活を辞めるのは「自分で考えうる最大の自己処罰」だったという。それでも、問題は解決しない。SNSの書き込みが生徒間で転送されるなどして拡散され、部活を休んだメンバーの保護者が「子どもが傷ついている」として学校側に対処を求めてきたからだ。
「1対1」の指導 そこで教師は
部活を休んだ仲間に向け、宏君は謝罪のメールを2度送ったが、再び顧問の教員に呼び出された。今度は「1対1の指導」だった。
報告書によると、教員は「おまえは教師を目指しているようだが、うまくいかない生徒に愚痴を言っても何も始まらない。どうしたら人がうまく動いてくれるかを考えた方がいい」などと言った。
誰もが進路を真剣に考え始める高校3年の夏。宏君は指導の後、部室に行き、友人に「俺、もう学校辞めるわ」と言った。その夜は8時頃に帰宅。夕食も食べずに自室に入り、二度と出てくることはなかった。
第三者委「指導が最大の要因」
第三者委員会は、自死と指導の関係について、「学校における一連の生徒指導が最大の要因」と認定した。さらに「指導死」の言葉も用いながら、「一般的に子どもは行動への批判を人格否定と受け取りやすく、大人が考える以上に精神的なダメージを受けやすい」と指摘している。
同委員会の川上耕委員長(弁護士)は報告書に関する記者会見で「過度な叱責などの指導でなくても、その生徒の置かれた状況によっては自殺につながる。このことは驚きでもあったし、逆に言うと、社会に対して警鐘を鳴らすべき事案」と強調した。
(後略)
非常に厄介な話である。
当該の生徒が自死した事実は動かせない。遺書が6通もあり事件を調査した第三者委員会が「学校における一連の生徒指導が最大の要因」と認定した以上、指導と自殺の因果関係は明白なのだろう。
ところがその指導の内容を見ると、どう読み直しても通常の指導、いやむしろ丁寧すぎる指導だったと言える。
それは第三者委員会も認めており、だからこそ過度な叱責などの指導でなくても、その生徒の置かれた状況によっては自殺につながるといった言い方になるのだと思う。
これはまさに驚きであり私たちを戸惑わせる。
指導が適切であっても子どもは自殺してしまうことがあるというのだからだ。
しかしだからと言って止めるわけにもいかない。一方でSNSの書き込みが生徒間で転送されるなどして拡散され、部活を休んだメンバーの保護者が「子どもが傷ついている」として学校側に対処を求めてきたという事情があるからだ。
指導しないと今度はこちらが自殺をしてしまう可能性がある――。
進むことも引き返すこともできない。
こうなるともう、生徒指導は超専門的なレベルの技能ということになり、とても普通の教師に任せられるものではなくなってくる。特に高校の場合、教員の多くは教科にほれ込んでこの世界に飛び込んでくる。生徒指導が専門という教員は極めて少ないのだ。
普通の生徒指導でも生徒が自殺することを常に念頭に置いて対応しなければならないとしたら、せめて各校にひとりは生徒指導の専門家を配置すべきではないか。
2016.09.16
悪ふざけ男児を怒鳴った父が勾留!
欧米の児童虐待の常識
[ダイヤモンド・オンライン 9月14日]
日本では当たり前に思えることが欧米では児童虐待に当たることがある。米国では一般的に、子供だけで留守番させたり、子供だけで街を歩かせるのは児童虐待だし、欧州でも基本的に子供を放置するのは逮捕・拘留の対象となる。そんな児童虐待に関する欧米の常識をまとめた。(有限責任監査法人トーマツ
ディレクター/デロイト トーマツ企業リスク研究所 主席研究員 茂木 寿)
日本でも海外でも、子供への肉体的な虐待については、当然ながら法律で処罰されますが、日本人が海外で児童虐待として処罰される例として、「放置する」という問題を忘れてはいけません。
この放置の問題は、欧米諸国では厳格に適用されます。例えば、米国では州、市によって、対象年齢はまちまちですが、一般的に子供だけで留守番をさせる、子供だけで町を歩かせる等の行為は児童虐待に当たり、逮捕・拘留の対象となります。
また、欧州においては、一般的に12歳以下の子供を放置すること(子供だけで留守番をさせる、自動車内で待たせる、学校に行かせる等々)は違法であり、米国同様、逮捕・拘留の対象となります。
そのため、欧米で子供を連れ滞在する際には、「決して子供だけにしない」ことが不可欠となっています。ちなみに、欧米の人が日本で居住した際に最も驚くことの一つが、「親もいない公園等で子供たちだけで遊んでいる」、「子供が1人で電車・バスに乗っている」、「学校に親が送り迎えをしない」とのことです。
米国では児童福祉全般について各州が第一次的責任を負っており、児童虐待についても、それぞれの州で独自の法令及び行政の取組みがなされています。1974年には、連邦レベルでの対応も必要との認識から、「児童虐待の防止及び対処措置法(CAPTA:Child Abuse Prevention and Treatment Act)」が制定され、各州における児童虐待の発見・確認、防止及び対処措置のプログラムが定められました。
その後も、各州に児童虐待を防止する政策を進めるための連邦法が数多く制定されています。ちなみに、各州では、児童の定義はまちまちですが、概ね12歳以下である場合が多い状況です(シカゴがあるイリノイ州では13歳以下、テキサス州は14歳以下を児童としていますが、同年齢以上でも児童として認定される場合も多いことに留意が必要です)。
それでは、実際にどのようなことを注意すべきかを在ナッシュビル日本国総領事館のHPから引用してみました。なお、児童虐待については、米国内の全ての在外日本公館(大使館・総領事館)のHPで「安全の手引き」等で注意喚起していますので、参考にして下さい。
● 「パパと一緒にお風呂に入るのがいや」 幼稚園の娘が書いた作文で…
在ナッシュビル総領事館HPより
■某日、小学生の子供を連れた邦人女性が近くのスーパーに買い物に行った。子供が、商品を買ってほしいと言ってねだるので、母親が子供の頭を小突いて叱った。
⇒ 他の買い物客が目撃して警察に通報したため、児童虐待容疑で母親が州政府の児童保護局(テネシー州ではDCS:Department of Children’s Serviceと呼ばれる)の取調べを受けた。
■某日、幼稚園に通う少女が、父親と一緒にお風呂に入るのがいやだと幼稚園の作文に書いた。
⇒ 幼稚園の先生が、児童虐待(性的暴力)容疑者として父親を州政府の児童保護局に通報し、調査活動が行われた。
■某日、小学生の男子が悪ふざけをしたので父親が注意したら、少年は近くの木に登ったので、父親が少年に対して下りてくるように怒鳴った。
⇒ 近所の住民が警察に通報し、父親が児童虐待(心理的威圧)容疑で勾留された。
■某日、乳児をお風呂に入れている写真を近所のドラッグストアで現像に出した。
⇒ ドラッグストアが児童に対する虐待容疑で児童保護局に通報し、児童虐待(性的虐待)容疑で調査活動が行われた。
■某日、邦人女性が5歳前後の息子と一緒に外出するため準備していたが、先に準備を済ませた息子が外に出たいと言ったので、先に息子だけを戸外に出させ、待っているように言った。息子は外に出された理由を母親に叱られたものと勘違いし、玄関は施錠されていたため、泣きながらベランダに回り、室内に入れてもらおうと窓を叩いたり、蹴ったりした。このため、慌てて邦人女性が息子を家の中に入れた。
⇒ 児童虐待をしていたと近隣住民が勘違いし、警察に通報し、警察官が駆けつけた。警察官に事情を説明したが、児童虐待と判断され、裁判所への出頭命令書が手交された。
■某日、日本人の女性が2歳の子供を連れて車でスーパーに買い物に行った際、食料品2品のみを買うだけなので車の中に子供を残して、約10分、車から離れた。
⇒ 通行人女性が警察に通報し、児童放置容疑で邦人女性が警察の取調べを受けた。
■某日、母親が7歳の子供を連れて大型スーパーに買い物に行き、車に戻った際にその店に忘れ物をしたことに気づき、子供を車内に残したまま車から離れた。
⇒ 通行人女性が警察に通報し、児童放置容疑で母親が警察の取調べを受けたほか、子供が1ヶ月間、指定の里親に預けられ、親との面会も制限された。
■某日、幼児がいる邦人夫婦が米国人ベビーシッターを雇って、夜、会食に出かけた。
⇒ ベビーシッターが、乳児のおむつを替える際にお尻の蒙古班を見つけて、児童虐待と勘違いし、州の児童保護局に通報したため、子供が収容されそうになった。
出典:「米国での生活上の注意事項」 (在ナッシュビル日本国総領事館ホームページ)
ニュースメディアの記事と言うものには、普通、必ず主張がある。ところがしばしば、論点のわからない文にお目にかかることがある。
上に引用した記事はまさにその典型で、読み終えた後、何をどう考えればよいのかさっぱりわからない。
日本では当たり前に思えることが欧米では児童虐待に当たることがある。
そこまでは分かった。その上で、
「だから欧米に行ったときは気をつけなさい」ということなのか、
「欧米に比べたら日本は20年遅れているから、早く法整備をし、警察や児童福祉士など関係者を再教育するとともに社会の風潮を根本から変えていくべきだ」という話なのか、
単なる「欧米、あるある」なのか(それにしては重苦しい口調だ)。
私の単純な感想は
そんな国には絶対にしてはいけない
ということである。
子供が、商品を買ってほしいと言ってねだるので、母親が子供の頭を小突いて叱った。
近くの木に登ったので、父親が少年に対して下りてくるように怒鳴った。
子供を連れて大型スーパーに買い物に行き、車に戻った際にその店に忘れ物をしたことに気づき、子供を車内に残したまま車から離れた。
こんな程度で警察に通報されたのではたまらない。
親もいない公園等で子供たちだけで遊んでいる
子供が1人で電車・バスに乗っている
学校に親が送り迎えをしない
子供だけで留守番をさせる、
自動車内で待たせる
学校に行かせる
それらが全部できない国――そんなのは異常だ。
そもそも
アメリカ司法省の統計(2012年)によると、行方不明者として報告される18歳未満の児童が年間79万7500人(1日当たり2185人)、そのうち家族間の子どもの奪い合いによる行方不明が20万3900人、家族以外による誘拐は5万8200人(うち115人が殺害、監禁、身代金などが目的の誘拐)という国が正常であるはずがない。
異常な国の異常な法律や社会風潮をこの国に持ち込まれても困ると思うのだがどうか。
しかしいったん事件があって“正義”が声を上げると逆らえないのが世の常だ。
2001年の大阪教育大学附属池田小学校で発生した小学生無差別殺傷事件のために今も毎年不審者対応訓練を欠かさない学校は多いし、2004年から2005年にかけてたて続けに起こった児童誘拐殺人事件(奈良・広島。栃木など)の際に始められた集団登下校や見守り隊は、多くの学校で多くの問題を抱えながら今も続いている。
事件が起こって誰かが「登下校は親が責任を持つべきだ」と言い始め、どこかの学校が保護者同伴を義務付けると瞬く間に広がって引き返せないということは大いにありうることだ。
もう一度記事をよく読み、来るべき未来に備えなければならないのかもしれない。
2016.09.20
「小学英語、半数近く反対…教員、授業増を懸念
20年度教科化…100人アンケート
[毎日新聞 9月17日]
次期学習指導要領の改定に伴い、2020年度に英語が小学校高学年で正式教科になることについて、毎日新聞が高学年を担当する小学校教員100人にアンケートしたところ、半数近くが正式教科化に反対した。賛成は3割しかいなかった。慣れない授業や授業時間の増加で負担が増すことへの懸念や不安が浮き彫りになった。【まとめ・伊澤拓也、高木香奈】
アンケートは8月下旬?9月上旬、47都道府県の男性49人、女性51人を対象にした。年齢は20代11人▽30代28人▽40代37人▽50代24人。
英語の正式教科化には半数近い45人が「反対」と答えた。「賛成」は29人、「どちらでもない」は26人だった。
反対理由で多かったのは教員の負担増だ。英語の教科化で授業時間が今より週1時間(45分)増えるが、他教科の授業時間が減るわけではない。東京都の30代女性は「毎日6時間授業をしている担任に新たな教科指導は負担が大きすぎる」と不安視し、兵庫県の30代男性は「授業時間の確保が難しくなるのは目に見えている。どこかにしわ寄せがいく」と他教科への影響を懸念した。三重県の40代男性は「他教科が特に減るわけでもなく、教員も児童も負担ばかりが増える」と答えた。
成績評価への不安も垣間見える。長崎県の50代女性は「小学校教員の多くは発音などのスキル(技術)がないのに、評価は困難ではないか」、香川県の20代男性も「どのような観点で評価すればいいのか」と答えた。
「外国語活動を楽しくできている。テストがなく評価がないため、肩の力を抜ける時間になっている」(福島県・40代女性)「楽しくという感覚から、勉強しなくてはならないという感覚に変わる」(滋賀県・30代男性)など、現行の外国語活動で十分との意見もあった。
正式教科化を巡る文部科学省の方針にも反対や疑問が目立つ。
3〜6年生は授業時間が年間35時間増える一方、授業が減る教科はない。このため文科省は増加分を15分程度の分割授業や長期休みの活用で補うことを想定しているが、これには73人が「反対」と答え、「賛成」は10人だった。長崎県の50代男性は「分割授業は教育の質を問うていない印象。適当にやれと言わんばかりの発想だ」と厳しく批判した。
また、英語を教える人材の養成のため、文科省は国の研修を受けた「英語教育推進リーダー」を増やし、リーダーから研修を受けた「中核教員」を全小学校に配置する計画。施策について「十分と思うか」を聞いたところ、59人が「思わない」で、「思う」は11人だった。
文科省や教育委員会に望む施策は、専門教員や外国語指導助手(ALT)の配置が多かった。岩手県の50代女性は「ALTか英語専門の教員と2人態勢で授業をできればと願う」と訴えた。
研修カリキュラム普及を
文部科学省が設置した英語教育のあり方についての有識者会議で座長を務めた上智大の吉田研作特任教授(応用言語学)は「小学校の外国語活動と、中学校の教科としての英語の違いに直面して英語嫌いになる子供が増える現状をみれば、学習のつながりを持たせやすい小学5、6年生の英語教科化は望ましい」と文科省の方針を評価。そのうえで、「相当の教員が懸念を持っているのはもっともで、教育態勢への不安が大きいのではないか。担任任せにせず、英語の専門知識を持った外部人材の協力を得ながら、教科としての英語を出発させることが重要だ。英語力を高め、教えるための知識を身に着ける教員研修のカリキュラムの普及も求められる」と話した。
英語の正式教科化
文部科学省が8月に示した次期学習指導要領改定に向けた審議のまとめによると、英語は歌などを通して楽しく学び、成績評価もない「外国語活動」(授業時間は週1時間)から小学校5、6年生で正式教科になる。授業は週2時間に増え、英語によるコミュニケーション能力の育成を図るとともに、中学英語へのスムーズな移行を促す。外国語活動は3、4年生に前倒しする。
現在の中学校英語程度の外国語教育は必要だと思う。
街中にはローマ字があふれていて、それがスラスラ読めなければ何かと不便だ。ローマ字は小学校で学習するものだがそれだけでは不十分と言える。
またマスコミの大量に排出される様々な英語、ファンダメンタルズだのアカウンタビリティだのサマリーだの、いずれも分からなければ調べればよいことだが、英語に対する抵抗感があまりにも強ければ調査にたどり着かないことだって考えられる。その意味でも中学校英語は必要だ。
しかし小学校から学ぶ必要はない。なぜならせっかく身に着けてもほとんどの日本人はその英語力をほとんど生かさないまま生涯を終えてしまうからだ。そんな役に立たない学習は、義務教育では最低限にしておけばいい(中学校からやればいい)――それが私の基本的な考えである。
しかし教員の多くが反対するのは、それとは少し違った方向かもしれない。
なんといってもこの計画があまりにもいい加減で胡散臭く、耐えがたいからだ。
3〜6年生は授業時間が年間35時間増える一方、授業が減る教科はない。このため文科省は増加分を15分程度の分割授業や長期休みの活用で補うことを想定
文科省は何を考えているのだろう。
「分割授業は教育の質を問うていない印象。適当にやれと言わんばかりの発想だ」
まったく同感である。
ただし35時間の授業増だとなぜ分割授業になるのか、一般には理解しがたく説明が必要なところだろう。
小学校英語年間35時間というのは毎週1時間ずつ35週に渡って行うということ、つまり学校の1年間は35週と仮定されているのである。35週の授業と17週の休み、それが学校の1年である。
したがってかつて、すべての教科の授業時数は35の倍数の形をとっていた。例えば昭和43年改訂指導要領小学6年生では国語は245時間、社会科140時間、算数210時間、理科140時間、音楽・図工・家庭科がそれぞれ70時間、体育105時間、道徳35時間である。
週に換算すると国語7時間、社会科・理科がそれぞれ4時間、算数6時間、音楽・図工・家庭科2時間、体育3時間、道徳1時間、それが毎週巡ってきたわけである。合わせて週31時間になる。
それを各曜日にどう割り振るかというと、当時は学校五日制ではなかったから土曜日に4時間、残りの27時間を月〜金の五日間で割る。つまり5時間授業の日を三日、6時間授業の日を二日置けばよかったわけだ。
ところが学校五日制が始まってさらに総合的な学習の時間(当時は年間110時間)が追加されて事態は一変した。
「教科は増えたのに週の日数は減る」というありえないことが始まったからである。
その二律背反をどうやって解消したかというと社会科100時間、音楽・図工50時間というふうに35で割り切れない授業時数を設定したのである。
週に換算すると社会科2.86時間、理科2.71時間、音楽・図工1.43時間、体育2.57時間といったふうである。
もちろん社会科2.86時間のうち2時間を二日で使い、3時間目は授業の86%(授業時間でいうと38分42秒)を終わったところで他の教科に切り替えるというわけにはいかない。そこで一年を分けて「この時期までは週3時間、この時期からは2時間」と割り振るわけだ。一年間の見通しと言う点ですこぶる面倒くさい方法がとられたのです(こんなやり方でもう30年近くもやっている)。
そこにまた小学英語35時間が入るのである。
このため文科省は増加分を15分程度の分割授業や長期休みの活用で補うことを想定
というのはそういう意味だ。
もうまとまった時間はどれないから、15分ずつにしてもいいからなんとか1時間(授業時間で45分間)、どっかでやりなさいと丸投げしたわけである。
しかし実際に取れるか?
実際に15分ずつ三日やってそれで意味ある授業ができるか?
英語力が伸びなかったとき、教師の指導力低下とか言わんか?
教員の英語力自体が不足しているとか、意欲が見られないとか言わんか?
教員が小学校英語に不信感を持つのはそういう意味だ。
え? その分、一日の授業コマ数を増やせってか?
東京や大阪のど真ん中に住んでいる人にはわからないだろうが、私の住んでいる山の学校など、7時間授業にしたら冬場、子どもたちは真っ暗な中を下校していくことになる。
ん? 子どもの安全より英語力の方が大切だって?
ま、それはそれで主張してみればいい考え方かもしれないけどね?
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