キース・アウト
(キースの逸脱)

2017年 3月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2017.03.16

「素行に問題」生徒13人の情報流出
埼玉・熊谷の中学


[朝日新聞デジタル 3月15日]


 埼玉県熊谷市の市立熊谷東中学校(西博美校長、生徒数525人)が、素行に問題があるとする生徒13人の名前と住所などの個人情報を記したリストを作り、学外の関係者が出席する会議で配っていたことがわかった。学校は資料を回収せず、その後「ネットに流出している」と保護者から抗議を受けた。学校側は「チェックが甘く反省している」と話している。

 市教委によると、同中は「地域ぐるみで見守る必要がある生徒」として、1〜3年生の男女13人の氏名などに加え、「けんかをした」「友人とトラブル」などの問題行動を記した資料を作成。リスト記載者のうち5人には顔写真も添えられていた。今年1月17日、学区内の自治会長やPTA関係者、県警熊谷署員らが集う「いじめ・非行防止ネットワーク会議」で配った。

 資料には「取扱注意」と書かれていたが、17人の出席者のうち13人が持ち帰ったという。会議後、リストに記載された生徒の保護者が「資料がネットに流れている」として抗議。同中は謝罪するとともに、熊谷署と市教委への配布分を除き、資料をすべて回収した。

 同中によると、「いじめ・非行防止ネットワーク会議」は2015年から始まり、今回が4回目だった。過去の会議で、出席者から「生徒の名前や顔などが分からないと対応できない」との声を受けて、今回初めて個人名の入ったリストを作成したという。

 同中の西校長は「(記載された)生徒たちに申し訳ない」と謝罪した。




 何が悪かったのか?

 「問題行動を起こした生徒」という資料を作ったことか。
 それを外部の人間に見せたことか。
 資料を回収しなかったことか。
 それを外部に漏らしたことか、ネットの上げたことか。

 
 しかし、
自治会長やPTA関係者、県警熊谷署員といったメンバーを前に、
 この中に情報を漏らす人がいると考えるのは難しいし失礼だ、
 こうした誠意の名士に対して「資料は回収します」と言うのも疑っているようで気が引ける――、
 ということで出しっぱなしになったのだろう。
 しかしネット公開という最悪の形で広められてしまった。
 
人はあてにならないのだ。
 
 私も30年以上前、「民生・児童委員との懇談」という席で生徒相談をかけてひどい目にあったことがある。
 その子の家庭状況、近所の評判、あるいは目についたこと等を教えてもらうとともに、それとなく気を配ってもらおうと話したのだが、委員の一人は懇談会帰りの足で生徒宅に向かい、「お宅の子どもが学校で困ったことをしているようなので、しっかり指導するように」と注意してきたというのだ。
 保護者はカンカンで学校に抗議に来た。

 その保護者が正しい。
 
 おかげで以後、私は生徒指導に関する資料は一切外部に出さないようにしてきた。
 そのようにして教員生活を終えたが今でも間違っていなかったと思う。
 
 世間の人たちは教育や指導の難しさを知らない。
 学校教育は子ども相手の楽な仕事と思われがちだがそんなことはない。
 極めてプロフェッショナルな仕事で、安易に素人を入れるべきではない、地域や家庭との連携などクソ夢物語だ。
 ――そう思わせる事件であった。







2017.03.20

ナゼ?小学校卒業式で袴姿
禁止する学校も


[日本テレビ 3月17日]


 大学ではなく、小学校の卒業式に“はかま姿”で出席する子供が増えていると話題になっている。なぜ、小学校の卒業式ではかまが人気となっているのか取材した。


■“はかま姿”ネットの反応は?

 今週から来週にかけて全国各地の小学校でピークを迎える卒業式。晴れ舞台の卒業式でみられたのは、はかま姿の子供たち。いま、はかま姿で卒業式に参加する小学生が増えている。

 ネットでは「華やかだなー」「わたしの頃はみんなブレザー」「『成人式並みだな』とびっくり」という声も。なぜ小学校の卒業式ではかま姿が増えているのだろうか。

 16日、夜明け前の朝5時ごろ、名古屋市内の公民館。この日、卒業式を迎えるたくさんの小学6年生が、はかまの着付けを行っていた。着付けを行っているのは写真スタジオを運営しているお店。着付けを始めた4年前はわずか6人だったが、今年は170人にまで増えているという。

 増えている理由について“アクエリアス”スタイリストの工藤さんは「当店が着付けを始めたのは4〜5年前からなんですけど、ファッションリーダー的な子がはかまを着て卒業式に出たのを5年生の子が“まねしたい”と、どんどん連鎖的に増えていった感じですね。親も自分たちが大学の時に着たのを思い出して子供にも着せたいという形ですね」と話す。


■理由は…親心と映画が影響

 いまでは定番となった大学の卒業式でのはかま姿。自分が体験したはかま姿を子供にもさせてあげたいと思う親も多いという。

 さらに“ちはやふる”みたいな着物はないですかという問い合わせが結構あったという。16年の春に上映された競技用カルタを題材にした映画「ちはやふる」。広瀬すずさんのはかま姿に憧れてはかまを選ぶ小学生も多いという。

 料金は着物のレンタルと着付けがセットになったもので3万円〜6万円だということだ。晴れ舞台を前にはかま姿で写真撮影する子供も増えている。神奈川・横浜市にある撮影スタジオでは着物の貸し出しも行っていて小学校の卒業式シーズンは成人式よりも忙しいという。

 写真撮影に訪れたのは、卒業式を控えていた小学6年生。友達同士の2人組。2人ともおそろいの紺色のはかまに花柄の着物を選んだ。こうした“双子コーデ”もはやりだという。はかまや和服は様々な柄や色が選べ、写真映えすることも卒業式で選ばれる理由になっているということだ。


■過剰になりすぎ?禁止する学校も

 一方では「ちょっとお金がかかりそうだと思った」「はかまを着るのはすごく良いと思うけど、過剰になりすぎて違う方向に行くのは残念かなと」いう声も聞かれた。

 実際に神奈川県や愛知県などの一部の公立学校では、経済的な理由で衣装にお金がかけられない子供もいることなどから“華美な衣装は控えるよう”にと呼びかけたり、“はかまを禁止にする”学校も出てきている。着付けを行っていた店でも派手になりすぎないように気をつけているということだ。


■工夫すれば費用を抑えられる

 こうしたブームでレンタル費用が大きな負担になることが心配されるが、工夫して費用を抑える人もいた。去年、小学校を卒業した藤田さんのはかまは、七五三の時の着物を再利用したという。

 手直ししたのは母親で子どもの身長は伸びているが、着物の裾の丈ははかまをはくため、手直しする必要はなかったという。肩の部分は、糸をほどいて生地を伸ばし、その糸をほどいて袖の長さを調整したということだ。




 どういう文章だ?
 私は特に最後の段でイラッとした。何が、
 工夫すれば費用を抑えられるだ

 私はかつて学校のきまり(校則)を四つの側面から説明した。その四つとは、

 まず第一は集団の秩序を守るための行為の基準としての校則。
「遅刻をしてはいけません」とか「授業中は静かにしましょう」といった類のもの。

 第二に危険回避のためもの。
 「ベランダに寄り掛かるな」「右側通行をしなさい」「廊下は走らない」など。
 
 三番目に平等を守るため。
 小中学校は義務教育だからすべての子どもが来なければならない。そうである以上、学校はすべての子が来られるだけの条件整備をしておかなければならない。高い服装や持ちもの、そういうものがなければ行きにくい学校にしてはいけない。そのための校則。
 学校給食に関するもの、制服や持ち物に関するものなどが代表。
 
 そして最後は服装の乱れなどによって生徒個々の心の揺れを発見できる、そのセンサーとしての校則。これについては長くなるので上記リンクを参照してほしい。
 
 もちろん小学校の卒業式の着物袴は三番目の理由に抵触する。
 

 しかしそもそも最初に始めた親子は何を考えていたのだろう? なぜ他の大多数と違った服装をしなければならないのか。
 
ファッションリーダー的な子がはかまを着て卒業式に出たのを5年生の子が“まねしたい”と、どんどん連鎖的に増えていった
 
 もっともアホな人間はどこにもいるし、「学校」は“すべての子どもが行かなければならな場所”だからアホな子も断れない。しかし
それを諭したりなだめたり叱ったりしながら方向づけするのもマスメディアの仕事ではないか。

 日本テレビともあろうものが、
過剰になりすぎ?とは なにごとか!
 
過剰に決まっているだろう!
 
他のテレビ局では「児童の貧困」が大問題だというの、日テレの感覚では
 
着物のレンタルと着付けがセットになったもので3万円〜6万円
 は「?」マーク付きで初めて「過剰になりすぎ?」というレベルなのだ。
 私など、3000円でも高すぎるくらいだ。
 

 それでもさすがに私のようなケチを慮ってか、
工夫すれば費用を抑えられるとやり方次第では何万円も払わずに済むすばらしい方法まで指南してくれる、それが
 
七五三の時の着物を再利用
なのだ。
 
信じられない!
 
 再利用というからにはレンタルではなく、七歳の年にあつらえた自前の着物のことだろう。
 その年の、たった一日のために買い揃えた着物――もしかしたらその家のタンスには、3歳の年のたった一日のための着物まであるのかもしれない(きっとあるだろう)? 一体いくらかかると思ってる?

 日テレ、どこまで金持ちに寄り添うのか? そもそも私たち平民とは金銭感覚が違うのだろうか?
 
 こんなテレビ局のニュースを見て、
「着物袴を用意できない我が家が間違っているのかもしれない」
 と誤解する家庭が出て来ぬよう、心から、切に願う。
 
 




2017.03.27

英科学雑誌 日本の科学研究の失速を指摘

[NHKテレビ 3月23日]


 世界のハイレベルな科学雑誌に占める日本の研究論文の割合がこの5年間で低くなり、世界のさまざまな科学雑誌に投稿される論文の総数も日本は世界全体の伸びを大幅に下回ることが、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」のまとめでわかりました。

「ネイチャー」は、「日本の科学研究が失速し、科学界のエリートとしての地位が脅かされている」と指摘しています。イギリスの科学雑誌「ネイチャー」は、日本時間の23日未明に発行した別冊の特別版で日本の科学研究の現状について特集しています。

それによりますと、世界のハイレベルな68の科学雑誌に掲載された日本の論文の数は、2012年が5212本だったのに対し、2016年には4779本と、5年間で433本減少しています。

また、世界のハイレベルな68の科学雑誌に掲載された日本の論文の割合は、2012年の9.2%から2016年には8.6%に低下しています。

さらに、オランダの出版社が集計した、世界のおよそ2万2000の科学雑誌に掲載された論文の総数は、2005年から2015年にかけての10年間で、世界全体では80%増加した一方で、日本の増加は14%にとどまり、日本は世界全体の伸びを大幅に下回っています。
特に、日本が以前から得意としていた「材料科学」や「工学」の分野では、論文の数が10%以上減っているということです。

こうした状況について、「ネイチャー」は、「日本の科学研究がこの10年で失速し、科学界のエリートとしての地位が脅かされている」と指摘しています。
その背景として、ドイツや中国、韓国などが研究開発への支出を増やすなか、日本は大学への交付金を減らしたため、短期雇用の研究者が大幅に増え、若い研究者が厳しい状況に直面していることなどを挙げています。

「ネイチャー」は、特集記事の中で、「日本は長年にわたり科学研究における世界の第一線で活躍してきたが、これらのデータは日本がこの先直面する課題の大きさを描き出している。日本では2001年以降、科学への投資が停滞しており、その結果、日本では高品質の研究を生み出す能力に衰えが見えてきている」と記し、長期的に研究に取り組める環境の整備が求められるとしています。
(以下略)



 つい一か月ほど前、どこかのテレビ局で「深夜の美容室」に取材した番組があり、そこに遅くまで働いた教員が登場したので興味深く見たことがあった。
 ただし今取り上げたいのは教員の勤務状況ではない。
 そこに登場したもう一人の若い男性、筑波大で睡眠の研究をする研究員の話だ。

 彼はその研究テーマで国と6年の契約を結び働いている、その6年の間に十分な成果が出せない場合、再任用はない、つまり無職になってしまうわけだ。そこで彼は夜も眠れない。
 夜の研究室から席を外し、美容院に行ってさっぱりしてからまた研究に戻る。
「睡眠の研究のために夜も眠れない」
と自嘲するが、そんなことで良い研究ができるものだろうか?

 ここ数年、日本は立て続けに
ノーベル賞受賞者を輩出し、その数は歴代世界8位。
 
21世紀に入ってからの16年間に限ってみると世界で第2位、16人もの受賞者を出している(自然科学部門のみ)。
 しかしノーベル賞はよく知られているように(IPS細胞の山中伸弥教授のような特殊な例を除くと)20年〜30年かかって歴史的に確定した業績に対してのみ与えられるものである。つまり現在の自然科学の興隆は20年〜30年前の日本の研究のすばらしさを証明しているにすぎないのだ。
 そのすばらしさというのはひとえに
“基礎科学に対する尊敬と信頼”、そして“継続的な支援”だった。日本の大学、研究機関というのは成果が出ても出なくても、ひたすら研究に打ち込めるという、ある意味膨大な無駄の上になりたっていた。
 短期間に成果に結びつくことが求められたら青色発光ダイオードもニュートリノもなかった。田中耕一の「生体高分子の同定および構造解析のためのナンチャラ」とか言った研究は絶対に世に出なかったはずだ。
 それをアメリカ張りの成果主義、報酬主義、投下資本の短期回収主義に置き換えてしまった、その結果が
 世界のハイレベルな科学雑誌に占める日本の研究論文の割合がこの5年間で低くなり、世界のさまざまな科学雑誌に投稿される論文の総数も日本は世界全体の伸びを大幅に下回る
 現在の状況なのだ。
 
  ノーベル賞受賞者を増やすために日本独自の「ノーベル賞受賞者を生み出す装置」を壊してしまった――。

 
ドイツや中国、韓国などが研究開発への支出を増やすなか、日本は大学への交付金を減らしたため、短期雇用の研究者が大幅に増え、若い研究者が厳しい状況に直面している

 研究者の身分を不安定にしたうえで、カネで釣れば低予算でより多くの成果が得られるはず――。
 いったい誰がそんな愚かな考えを持ち、広めたのだろう?

 さらにもっと安上がりに研究成果を上げようと考えた挙句が小学校英語とプログラミング学習だ。小学校相手だと基本的にタダで済む。
 しかしそれが
“世界に冠たる日本の初等教育”を根底から揺り動かそうとしていることに、政府も識者も気づかない。現場の教員たちは忙しすぎて反対の声を上げる暇もないのだ。

 日本の科学技術はまもなく終わる。