キース・アウト (キースの逸脱) 2017年10月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
町教育委員会が設置した調査委員会の報告書によると、生徒は生徒会の副会長を務めていたが、昨年10月、参画していたマラソン大会の運営で担任から校門前で準備の遅れを怒鳴られ、目撃した生徒は「身震いするくらい怒鳴られていた」と証言したという。 11月には、宿題を忘れた理由を、生徒が生徒会や部活動としたのを、副担任が注意。「宿題ができないなら、やらなくてもよい」とすると、生徒は「やらせてください」と土下座しようとしたとしている。 生徒は母親に「僕だけ強く怒られる。どうしたらいいのか分からない」と泣きながら訴えて登校も渋ることもあり、母親が副担任を変更するように要望したこともあったという。 だが、今年に入っても生徒会活動に関し、担任から「お前やめてもいいよ」と大声で怒られ、自殺前日の3月13日には宿題の提出ができないことを副担任に問われ、過呼吸を起こした。 過呼吸の際、事情を聞いた担任は自身で解決可能と考え、家庭や校長に報告しなかったという。報告書は「担任、副担任とも生徒の性格や気持ちを理解しないまま大声での叱責や執拗な指導を繰り返し、生徒が逃げ場のない状況に追い詰められた」としている。 こうしたニュースが出ると各メディアは一気に燃え上がり、さまざまな情報が行き交う。 ネット社会も同様で担任や副担任の探索が始まるとともに、学校内のできごとに不正の匂いをかぎ取ろうとやっきになったりする。しかしその実、事件自体が何だったのか、深く掘り下げられることはめったにない。 例えば、 昨年10月、参画していたマラソン大会の運営で担任から校門前で準備の遅れを怒鳴られ、目撃した生徒は「身震いするくらい怒鳴られていた」と証言したという。 といっても、その「準備の遅れ」が何で、どの程度のものだったか、「身震いするくらい怒鳴られていた」がどんな様子なのか、誰が見ても「身震いするくらい」のたいへんなものだったのか、その辺りは分からない。 「土下座しようとしたり」――結局はしなかったようだがなぜか、担任に止められたのか、そもそも「しようとした」のは意図であって外からは見えないものだったのか、前者と後者ではまるで意味が違う。 「僕だけ強く怒られる」は事実なのか。 なぜそれを問題にするのかというと、少なくとも記事を読む限り、これを自殺の原因とするのは無理があるのではないかと考えるからである。 簡単に言えば、宿題をやってこない理由を生徒会や部活のせいにする生徒に対して、普通、「宿題ができないなら、生徒会や部活なんてやめちまえ!」くらい言うだろう? ということだ。 細かく見てみよう。 「マラソン大会の運営の遅れ」については、他の記事によって「大会当日の朝、あいさつが書きあがっていなかった」ことだと分かっている。その状況を思い浮かべて、“さあこれから開会式だ”というときに「あいさつ文ができていません」と言われて、果たして教師はどういう態度をとるべきだったというのだろう? もちろん何も指導をせずに当日やっていなかったことを怒るのは、必ずしも適切とは言えない。しかしこういう生徒に対しては、普通は何度も指導しているのだ。 何度も何度も書き直させ、結局は時間切れで「ここまでやれば大丈夫だな、じゃあ明日までには必ず書いて来いよ」と言って家に帰して、それでもやってこない、 そうなると私だって「身震いするくらい」怒鳴ってしまう違いない。 「しかたないね。じゃあ今日は“あいさつ”なしで行こう」とはなかなか言えないのだ。 それを「大声での叱責や執拗な指導を繰り返し、生徒が逃げ場のない状況に追い詰め」たといわれると、教師を続けるのはかなり難しいことになる。 もっとも記事をよく読むと、この事件が一般化できない、特殊な状況下で起こったことも次第に分かって来る。 件の学校のある福井県池田町は岐阜県との県境にある山間の町で、人口はこの30年余りの間に35%以上減少し、高齢化率は2倍以上の43.2%に跳ね上がった典型的な過疎化の町である。 小学校も中学校も1校だけで、本年度の中学生は40名あまり。単級で一クラス13〜14人という小規模校である。 そんな学校では「ひとり」の重みが尋常ではない。部活も下手をすると全員がレギュラー、生徒会は持ち回りで全員が役員。 自殺した生徒は生徒会の副会長だったそうだが、普通の学校の副会長ほどの力はない。ただし力はなくても機会が山ほどあるから、そのまま頑張れば次第に実力をつけてくるに決まっている、だから担任もきつくなる、それが山の学校の不利と有利なのだ。 亡くなった生徒は、しかしがんばり切れなかった。それはなぜか。 報告書は言っている。 「担任、副担任とも生徒の性格や気持ちを理解しないまま――」 小さな学校は教師ものんびりとして、子どもにも丁寧に当たれると思われがちだがそうではない。 児童生徒も二役三役を背負って大変だが、教師も状況は同じだ。 ひとつの学校で必要な校務は大規模校も小規模校もほとんど変わりない。勢い教員は一人で何役も背負うことになる。 児童生徒数が少ないと書類は少なくなるが、その分深入りしてしまうので逆に大変でもある。 しかしそれでも、「生徒の性格や気持ちを理解」して、個々に合った対応がなされるべきだった――それが結論である。 この子は熱い鉄だったに違いないが、他と同じように叩いていい鉄ではなかった、そういうことなのかもしれない。 もっともメディアが報告書の深刻さをきちんと反映した記事を書いていないとなれば、話はまったく違ってしまうのだが。
松木委員長は、調査の中で担任は「もっと子どもを理解できればよかった」、副担任は「どうしてこうなったか分からない」と答えたことを明かした。担任の印象を「一生懸命」、副担任は「真面目で理路整然と話す」と説明。繰り返された叱責(しっせき)が原因と結論づけた報告書には「(2人とも)生徒のための指導と思っており、叱責と表現されていることには納得していない様子だった」と話した。 担任、副担任から同じ課題を何枚も与えられたとの訴えが遺族からあり、実際に同じ課題の答案7、8枚を持参したとする記述にも、担任らは「(生徒が)自由に持ち帰られる仕組みだった」と釈明した、とした。1年の女子生徒が9月に登校を渋り、保護者が「副担任から大声でしかられた」とアンケートに回答したことには「事実関係が分からない」とした。 会見には元裁判官で弁護士の安江勤・委員長代理、内藤徳博(なるひろ)教育長が同席した。松木委員長らは、報告書の目的を「自死に至ったプロセスを可能な限り浮き彫りにし、このようなことが二度と起きないよう提言をすること。個人の責任を追及するつもりはない」と強調。再発防止に向けての議論が「亡くなった生徒への弔いにもなると思う」と話した。 福井県池田町の中2年生徒自殺事件に関して、報告書をまとめた調査委員会の松木健一委員長(福井大大学院教授)は一方で担任や副担任の責任を厳しく指摘しながら、他方で教員を庇う発言も少なくない。 マスメディアやネットの中で両担任が極悪人のように扱われることを恐れ、この事件を機に全国の教員が強い指導や継続的な指導に対して消極的になられても困ると思っているからもしれない。 池田町の事件はある意味で普遍的で、別の意味で特殊なものだからだ。 普遍的というのは「どこの学校学級、どの教員にも」という意味で、特殊というのは「すべての生徒に当てはまるわけではない」という意味である。 実際、問題とされる担任と副担任はどこにでもいるような情熱的で熱心で、真面目で誠実な教師だ。 記事に言う、 担任の印象を「一生懸命」、副担任は「真面目で理路整然と話す」と説明。繰り返された叱責(しっせき)が原因と結論づけた報告書には「(2人とも)生徒のための指導と思っており、叱責と表現されていることには納得していない様子だった」と話した。 もとてもよくわかる話で、亡くなった生徒を特別視しない彼らには自分がしたことを理解できない、何が悪いのか分からない、仮に悪かったとしてでは他にどういう方法があったのか納得するのが難しい。 報告書が、通常は故人のプライバシーとして踏み込まない「自殺した生徒は発達障害が強く疑われる」という件に関してあえて記述したのも、つまりそれがないと事態が完全には理解できないからである。 例えばその前提を外すと、担任、副担任から同じ課題を何枚も与えられたとの訴えが遺族からあり、実際に同じ課題の答案7、8枚を持参したとする件も両人の邪悪な嫌がらせとしか思えない。 しかし事実はおそらく記事にある通り、 「(生徒が)自由に持ち帰られる仕組みだった」 だった。 もちろん生徒が嘘を言っているのでもない。それが生徒の主観的事実だったからだ。彼は同じ課題を7枚も8枚やらなければならない状況に追い詰められた(と思っていた)のだ。 さらに福井新聞は五日前の記事(2017.10.20 中2自殺「校長の方が責任重い」 調査委員長、報告書要約版を説明)でも、 報告書にあるように男子生徒が発達障害と想定した場合「担任、副担任は強い指導の後に(個別面談などで)ケアしているが、それはケアにならず、二度叱られていることになる」と述べた。 と記述しているが、それこそこの事件の本質である。 すべてはボタンの掛け違いなのだ。そして最初の一か所を間違えたままボタンは延々とかけられ続けた。 この生徒は発達障害が強く疑われる――、そうである以上、担任と副担任の二人に任せきることはできない、学校の責任として、全職員(と言ったって小規模校だからほんの10人足らず)で対応しなければならない。 具体的には各教科担任が連絡を密にして、心配な点はすぐに情報を共有しあう、当該生徒に対する対応を細かな点までそろえる、保護者を説得して医療に繋げる(この場合は校長・教頭・養護教諭が中心になるべきだろう)、全職員対象の研修の場を設ける、などである。保護者を招いての指導方法の共有なども必要となるはずだ。 それがなぜできなかったのか。それが私には理解できない。 発達障害者支援法が施行されてもう12年にもなる。福井県だけが対応が遅れているということもないだろう。そうでなくても教員を長く続けていれば発達障害を抱えた子の指導など一再ならず行っているはずだ。それにも関わらず誰も特別な指導の必要性を考えなかったとしたら、教員人事の方面からも確認しなければならないことは多い。 同じ教員が同じ地域だけで異動しているとしたら同じような経験しかできない。不幸にして誰も本格的な指導の経験をした教員がいなかった――そういうことももしかしたらあったのかもしれない。 しかしいずれの場合も指導の中心には校長がいなければならない。その意味で、20日の福井新聞の見出し「中2自殺「校長の方が責任重い」」はまったくその通りだと思う。 報告書で男子生徒の発達障害の可能性に触れたことについて「知的障害のない発達障害の子はたくさんいるが、学力や特性に合わせた支援がなかなかできていない。生徒一人一人に即した、学校全体での支援の仕組みが必要」とし「池田町だけでなく日本中で(知的障害のない発達障害の子に)目が届いていないことが根底にあり、その問題を伝えたかった」と述べた。 池田中学校2年生自殺事件の報告書はその意味でも誠意ある、意義深いものであると言える。
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