キース・アウト
(キースの逸脱)

2017年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2017.11.12

給食に下剤、女性教諭を救急搬送
中2が「いたずらで」


[朝日新聞 11月11日]


 愛知県尾張旭市の市立中学校で40代の女性教諭が10日の給食後に体調不良を訴え、同校が調査したところ、下剤を混入したと2年生の男子生徒が話したことが11日、同校への取材で分かった。教諭は病院に救急搬送されたが、現在は快復しているという。

 同校によると、10日午後、給食の豆乳スープを食べた2年生の副担任の教諭が「口の中がひりひりする」と体調不良を訴えた。スープは食器いっぱいに入れられていて、教諭は多すぎると感じて食事の前に半量程度を食缶に戻したという。その後、スープをおかわりした生徒5人中3人も体調不良を訴え、保健室で療養した。3人もその後快復したという。

 同校がこの学級の生徒に個別に聞き取りを行った結果、男子生徒の一人が下剤を食器に入れ教諭の配膳盆に置いたことを認めたという。市販の下剤を購入し、つぶして入れたといい、「いたずらで入れた。反省している」と話しているという。


 新聞記事の中には時折、何の批評精神も感じられない文ある。この記事などはその典型だ。

「いたずらで入れた。反省している」と話しているという。
 だから何なのだ?

 いたずらでは済まない話だろうという方向なのか、
 この程度のことは見逃してやりなさいという方角なのか、
 はたまた「教師はともかく、他の生徒にまで被害が及んだのは問題だ(副担任はなぜ豆乳スープの一部を戻したのか)」ということなのか。
あるいは「誰も深刻な状態にならなくてよかったね」という話なのか。

 
 新聞がこういう書き方をするときは、たいてい読者の反応が読めない時だ。無用な非難は浴びたくない、判断は読者に任せよう、と丸投げするときこういう文章はできあがる。
 しかし給食への下剤混入――、子どものいたずらとして見逃していい問題だろうか?

 下剤を入れた犯人が教師で被害者が生徒だったらどうだろう? 「軽い気持ちでやりました」で済まされる問題だろうか?
 下剤を入れた犯人が生徒で被害者も生徒だったらどうだろう? 「いじめ」ないしは「いじめ」の萌芽として学校は非難されなかったろうか?

 私がいつもイライラするのはこういう時だ。
 教師が殺されたり重傷を負わされたりしない限り、生徒対教師で生徒が犯人なら「造反有理」(ぞうはんゆうり―謀反にこそ正しい道理がある=中国紅衛兵のスローガン)とばかりに生徒側に軍配が上がる。
「純粋で無垢な子どもがそこまでやるからには、表面には出てこないが、誰もが納得できる正当な理由があるはずだ」
ということである。
 しかし私に言わせれば、これは「教師には人権がない」と言っているのと同じだ。
 
「教師には人権はない」という概念を前提にして学校を見ると、さまざまなことに合点がいく。
 私はずっとそう思ってきた。

 





2017.11.23

PISA「和の国民性で」15歳チーム解決力、日本2位

[毎日新聞 11月21日]


 経済協力開発機構(OECD)は21日、2015年の学習到達度調査(PISA)で、52カ国・地域の15歳計12万人を対象に実施した「協同問題解決能力調査」の結果を発表した。他の人と協力して効果的に問題解決する力を測る調査で、日本の平均点は2位だった。女子は男子より平均点が高かった。協調性の高さがうかがわれる一方で、周囲に気を配りすぎて誤答する傾向もあり、文部科学省は「和を重視する国民性が反映された」と分析している。

 PISAは00年から3年ごとに実施され、今回調査が6回目。日本では15年6、7月に無作為抽出された全国198校の高校1年生約6600人が受けた。昨年12月に主な結果は公表されており、「科学的応用力」は2位、「数学的応用力」は5位、「読解力」は8位だった。

 「個人の問題解決能力」については過去2回調査しているが、他者と協力する力に着目した調査は初めて。コンピューターで、表示される架空の人物の発言に対する自分の答えを四つの選択肢から選んで対話(チャット)し、次の場面へと進んでいく形式で調査した。

 大問の一つは、3人チームでクイズコンテストに参加し、架空の国の地理と人口、経済の3分野の問題に挑むという設定。まず戦略を立て、各自の担当分野を決め、最短時間で解答を終えるまでの手順を効率的に進められたかが問われた。小問12中7問でOECDの平均正答率を上回った。

 しかし、担当分野の解答を終えた友人に「私の解答は正しい? みんな調子はどう?」と進み具合を尋ねられ、「経済(分野)以外はできているみたいだよ」と応えて経済分野を担当する友人をせかすのが正答とされる場面では、日本は「君の解答は大丈夫だよ。僕のも大丈夫だよ」という答えを選んだ生徒が多かった。この小問の日本の正答率は27.2%で、OECD平均を9ポイント下回った。

 こうした結果について、国立教育政策研究所は「求められたのは問題解決に最短で向かう能力だが、日本人は波風を立てないように対処した。明確な誤りとは言えない」と指摘。文科省は「2位という結果は、学校の総合学習などで問題解決能力を育む課題探求型の学習に取り組んだ成果だ」と評価している。【伊澤拓也】



 2位だそうである。
 ただそれだけのこと、しかし不満はある。

 ひとつは、PISAの成績が低かったときは新聞各紙、テレビ各放送局はこれでもか、これでもかというくらい報道するのに、良いときはほとんど扱わない。さっと流すだけだ。
 今回もテレビニュースは小さく扱っただけ、ワイドショーなどで取り上げられた形跡はない。

 もうひとつの不満は結果に関する分析の問題である。
 
文部科学省は「和を重視する国民性が反映された」と分析している。
と言うが、学習到達度調査(PISA)と銘打っているにも関わらずこれが国民性調査だったということか。国民性のおかげで成績が上がるなら、学校教育はいらない。
 
 
2位という結果は、学校の総合学習などで問題解決能力を育む課題探求型の学習に取り組んだ成果だ
 そうかと思うと今度は自画自賛。
 週2回の総合的な学習の時間でこんな成績がとれるわけがないだろう。
 

 学校にきちんとかかわったものから見れば、原因は明らかである。
「協同して問題を解決する」ということに関して、日本の子どもはきちんと学習し、繰り返し練習しているのだ。学校生活のほとんどをそれに費やしているといっても過言ではない。
 
 給食当番として、清掃分担や活動の中で、児童会生徒会活動を通して、部活動の中で、社会見学や修学旅行の係活動を通して、終業式の学年発表をどのようにするかという話し合いの中で、文化祭を計画し実施する活動を通して、小学校の遊びの中で――。
 
とにかく朝から晩まで、どうやって友達と協力し事を成すかという計画と訓練をし続けている、それが日本の学校なのだ。そのために教員は何がら年じゅう知恵を振り絞っている。
 これで成果が出ないようなら、学校教育はやめた方がいいくらいなものだ。
 
 しかし学校教育のこの部分についてはあまりにも評価が低い。
「行事を精選して学習時間を生み出す」と言ったとき、「協同して問題解決する能力」を犠牲にして数学や国語の能力を高めようとしていると気づく人は多くない

 別の言い方をすれば「国民性を犠牲にしてもグローバル人材をつくる」ということだ。その方が金になるからな。
 

(付記)
*1 PISAやTIMSSについて扱うとき常に指摘しているのだが、今回1位のシンガポールはデータに公正さにおいて疑問が残る。世界の中でこの国の子どもだけが「勉強が好き」で、「勉強に前向き」で、「成績が良い」、つまり異常な「良い子」なのだ。
 普通そういうことはない。
 またフィンランドが学力大国と言われた時期は文科省もマスコミもこぞってフィンランド詣でに出かけたのに、繰り返しトップクラスの成績を上げる中国や韓国、台湾、香港、シンガポールにはさっぱり視察に行かない。
 アジア蔑視というのではないだろう。いかないことにはそれなりの理由があるのだ。シンガポールから学べることは「良い成績のデータのとり方」くらいしかないのかもしれない。
 
*2 記事の根拠となる「PISA2015年協同問題解決能力調査−国際結果の概要−」は以下からリンク。http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2015cps_20171121_report.pdf(PDF166.50MB)







2017.11.23

教諭が生徒からかうLINE 上田市教育長が謝罪

[信毎Web 11月22日]


 上田市内の同じ中学校に勤務する男性教諭2人が無料通信アプリのLINE(ライン)で同校の女子生徒の身体的特徴をからかうようなやりとりをしていた問題で、同市の小林一雄教育長は21日、市役所で記者会見し「生徒の気持ちを優先するべき教師が、言動において生徒の心を傷つけてしまった。教育の信頼を深く傷つけた」と述べ、謝罪した。

 市教委によると、やりとりをしていたのは20代と40代の男性教諭。今月3日、学校外で教諭らと生徒が共に活動する機会があった際、複数の男子生徒が20代教諭のスマートフォンを見て、教諭2人がLINE上で女子生徒1人の身体的特徴についてやりとりをしているのを発見。その後、口伝えや会員制交流サイト(SNS)などでこのやりとりについて周囲に広まったという。

 5日、事実を知った市民が学校側に伝えて発覚。学校が男性教諭らに事実を確認した上で、11日に女子生徒の保護者に謝罪した。16日には全校集会を開き、校長が経緯を報告して謝罪、17日には保護者説明会を開いて謝罪した。

 男性教諭2人のLINE上のグループは、市内の別の学校に勤務する教員1人も加えた計3人のグループだった。

 小林教育長は「たとえ(LINEの)閉じた空間でも、自制する力がなければ資質を考え直さなければいけない。生徒の気持ちをおもんぱかるのが教師の務めだ」と指摘した。一方、「人事上の処分は県教委の権限」とした。


 高校生だった時、英語の先生でもあった担任から、
「聖書では『あの子、可愛いな』と心の中で思っただけでも姦淫になる」
と聞かされ、キリスト教というのはなんと恐ろしい宗教だろうと思ったことがある(その話が事実かどうかは確認していないが)。

 
閉じた空間でも、自制する力がなければ資質を考え直さなければいけない

 私は60数年間ずっと邪念を心に抱いて生きてきたし、教員をやっていた時期も邪心の塊だった。
 いまさら取り返しのつかないこととはいえ、仲間内で生徒を悪く言うこともあれば保護者の批判もしてきた。夫婦ともに教員だから家庭内でのそうした会話は最も多かったのかもしれない。
 いずれも閉じた空間での話だ。
 
 たしかにそれが外部に漏れたことは迂闊だが、24時間365日、聖人君子として生きるのは難しい(というか私にはできない)。
 しかし私のような人間を教育界から一掃したらどれほどが残るのだろう? いや、案外そんな人間は私と記事にある二人だけなのかもしれない。
 ざっと100万人はいる幼・小・中・高の教員の中の3人。0.0003%の可能性となればあまり深く考えることもないのかもしれない。
 

 その上で私が興味あるのは、
 
20代教諭のスマートフォンを見て(略)口伝えや会員制交流サイト(SNS)などでこのやりとりについて周囲に広まった、その原因となった複数の男子生徒の処遇である。

 
学校外で教諭らと生徒が共に活動する機会があった際とあるが、まさか生徒がのぞき込む中で、そうしたやり取りをしていたわけでもあるまい、なのにどうして彼らは発見することができたのか。
 
 容易に想像できるのはスマートフォンのパスワードが破られた可能性だ。
 開く場面だけを見て入力する数字を覚えたのかもしれない。
 

 まさかと思うかもしれないが、既に十年ほど前、私はそれをやった生徒の指導をしたことがあるの。
 
 彼は担任の携帯(当時はガラケー)を自在に扱っていた。
 担任は勤務中バッグに携帯をしまい、一度として確認することはない、その習癖を知っていた彼はしばしば担任のそれからSIMカードを抜き取り、自分の機器に差し込んで自由に使っていた。その間の使用料はすべて担任が支払ってくれるからだ。
 
 そのうちさらに大胆になった彼は、パスワードを破って中をのぞき見するようになった。一日中自分の手元に置いても携帯のないことに担任は気づかないと分かったからだ。
 そして読むうちに、とんでもない事実に突き当たる。
 それは担任の不倫だった。
 

 そのあとが面白いのだが、知った事実の重すぎる重さに耐えかねた彼は、私に相談に来たのである。
 私は彼を慰め、諭し、そして事実をもみ消した。そのことを知っていたのは彼と私の二人だけだった。
  
 記事の場合は
事実を知った市民が学校側に伝えて発覚といった事情があったから全校集会や保護者会、県教委による処分といったことはやむをえなかったかもしれないが、教師のスマホをのぞき見し、口伝えや会員制交流サイト(SNS)などでこのやりとりについて周囲に広めた生徒たちが“お咎めなし”でいいはずはない
 
 きっと厳しい処分が下されたと信じたい。

 しかし先生方、不倫は個人の問題だからするなとは言わないが、生徒は常にあなたの携帯を狙っている、そのことはゆめゆめ忘れることがないように。