キース・アウト
(キースの逸脱)

2017年12月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。

















2017.12.01

中学生の制服値上がり
公取委が入札制度導入など提言へ


[NHK 11月30日]


 公立中学校の制服について学校側が長年、特定の販売店を指定したまま価格の見直し交渉を行わなかったことなどから価格が値上がりしているとして、公正取引委員会は入札制度を導入するなどして改善するよう全国の教育委員会に提言する方針です。

全国の公立中学校の制服の価格はこの10年で平均して5000円ほど値上がりしていて公正取引委員会は原因などを調べるため、去年からことしにかけて全国の公立中学校600校を対象にアンケート調査を行いました。

その結果、回答があったおよそ450校のほとんどが学校の制服を定めており、その8割以上に当たる323校が特定の販売店を指定したまま価格の見直しの交渉などを行っていませんでした。

価格交渉を行っていない学校では制服の価格の平均が男子の詰め襟で3万807円、女子のブレザーで3万2945円だったのに対し価格交渉を行った学校では、男子の詰め襟が2万8702円、女子のブレザーが3万458円と2000円余り安くなっていたということです。

また、管内の中学校の制服を統一した自治体では、そうでない自治体に比べて2000円から8000円余り価格が安くなっていたということです。

公正取引委員会は、適正な競争によって制服の価格が下がり保護者の負担軽減につながるとして全国の教育委員会に販売店の選定に入札制度を導入することや業者と価格交渉をすることなどを提言する方針です。



 学校に提案されることに「悪いこと」はあった試しがない。「良いこと」しか来ない。

 「生活科」がそうだ、「総合的な学習の時間」がそうだ、地域との連携がそうだ、キャリア教育がそうだ、小学校英語がそうだ、道徳の教科化がそうだ、全国学力学習状況調査がそうだ――しかしその
「良いこと」をかたっぱし引き受けていたら学校はパンクしてしまう、というか既にパンクしている。

適正な競争によって制服の価格が下がり保護者の負担軽減につながるとして全国の教育委員会に販売店の選定に入札制度を導入することや業者と価格交渉をすることなどを提言する方針
って

 その価格交渉、誰がやるんじゃ!!!!?


 価格交渉を行っていない学校では制服の価格の平均が男子の詰め襟で3万807円、女子のブレザーで3万2945円だったのに対し価格交渉を行った学校では、男子の詰め襟が2万8702円、女子のブレザーが3万458円と2000円余り安くなっていた
 
 管内の中学校の制服を統一した自治体では、そうでない自治体に比べて2000円から8000円余り価格が安くなっていた


 そんなことは十分想像できたが、やっている暇がないのだ。教員は、困ったことに彼らは日中、授業とか生活指導とか、そんなことにウツツを抜かしている。時には不登校やいじめの指導なんかしている。夜は夜で学級通信を書いたりテストの採点をしたり、行事の計画を立てたり教材研究をしたり――そんな彼らに制服の値下げ交渉にもっと努力せよと言ったって、ひねくれるだけで素直になんかなれるはずがない。

 しかも学校が業者を固定してしまっているのは制服だけではない。学生カバン、上履き、体操着、水着、時には柔道着、各種教材・消耗品、そのいちいちに入札をかけていたら、子どもの様子なんか見ている暇がないダロ!。


 
管内の中学校の制服を統一した自治体では、
 もちろんそういうやり方もある。その場合価格交渉は教育委員会がやってくれそうだが、だからと言って楽なわけではない。
 制服で学校がわかるわけではないので、それまで学校に直接入ってきた「おたくの中学の生徒が神社で喧嘩している」といった通報が、教育委員会や警察への「市内の中学生が喧嘩してる」に代わり、一手間よけいに入ることで学校の対応が遅れ、事実が見えにくくなる。
 いやその前に、もしかしたら違う学校に連絡がいくかもしれない。

 学校名が分からなくなった子どもたちの中には、制服のまま恐喝や万引きに向かうヤツも出てくるかもしれない。
 そもそも制服の持つ「一体感」とか「誇り」とかいったものに対する配慮がまるでない。
 
 いやいやそういった学校ごとの制服の持つ利便性のなくなった部分は、先生たちのご指導で、何とか・・・。
 そんな言葉が空耳のように聞こえる。
 
 働き方改革がナンチャラといった話の中で、要するに部活の時間を減らして入札に時間をかけるようにという話になっていることに気づかないのだろうか?
 
 
【参考】(平成29年11月29日)公立中学校における制服の取引実態に関する調査について







2017.12.23

「給食は休憩ではありません」10分で食べ終える先生
泣く、席を立つ…児童の素顔が噴出する時間


[西日本新聞(gooニュース) 12月22日]


担任らは悩み、考える

 給食の時間は単に「食べる」だけでなく、担任教諭にとっては実に興味深い時間だという。授業から解き放たれた児童生徒からは、さまざまな素顔や人間関係、背景がうかがえ、この時間にいじめなどの問題の芽を察知する教員もいる。先生たちはどんな様子で、子どもたちと一緒に給食を食べているのか。福岡市博多区にある堅粕小学校の給食時間を見せてもらった。

 11月24日金曜日、3年生20人のクラス。エプロン姿の給食当番が食器や料理を教室に運んでくる。この日のメニューは福岡米のライスコロッケ▽野菜のスープ煮▽くるみパン▽みかん。ライスコロッケは新登場の献立だった。

 担任の先生がまず、野菜のスープ煮を3皿分、器に盛る。当番はその量を手本に、順々に盛っていく。別の当番が手分けして配膳。袋入りのパンや牛乳も手際よく配っていった。

 堅粕小では、学級分のおかずやご飯はひとまず鍋から全部なくなるようつぎ分ける。「量が多い」という児童はその後に減らし、お代わりに回す。1人分の量を理解してもらう工夫だ。

 「普段の子どもの様子を見て、食べられそうな量を見極めるのも教員の腕の見せどころ」と入江誠剛校長(60)。低学年だと特定の料理をかなり減らす児童もいるが、この日は誰もいない。全員が減らさずに「いただきます」の合図で食べ始めた。


給食時間には「トラブルの種」がいくつも

 すぐにある男子がパンを落とした。自らのパンと交換した担任は、主食抜きの給食になってしまった。

 別の日、1年生のクラスでは体操服にスープをこぼした男子もいた。男児は着替え、担任は服を洗って窓際に干していた。

 会話が弾み、児童が動く給食時間には「トラブルの種」がいくつもある。席を立つ、口に詰め込みすぎ、椅子にちゃんと座らない…。教員が指導するポイントは無数にある。

 ふと思う。私の小学生の息子たちは今、どんな給食時間を過ごしているのか。自宅ではたびたび注意しているつもりだが、学校では果たして…。

 「給食時間も授業と同じ。休憩時間ではありません」。この日案内をしてくれた給食指導担当で、算数指導などで複数の学級に入る小島香教諭(39)は年々、給食を食べるのが早くなった。大半の教員が10分未満で食べ終えるのでは、とみる。

 「給食を食べない」と泣く女子もいた。小島教諭が理由を聞くと、配膳時の級友の対応にショックを受けたという。「友達はどんな対応が良かったのかな。あなたならどうする?」。丁寧なやりとりで心を解きほぐすと、その女子は給食を食べた。


(続きはgooニュース「給食は休憩ではありません」10分で食べ終える先生 泣く、席を立つ…児童の素顔が噴出する時間で、)



 教育について、地方紙はしばしば非常に良質な記事を書くことがある。
 地元と密着し、記者の顔が見えやすいので購読者の反応がもろに跳ね返ってくるからだ。下手な記事を書くと隣のバッ(婆)チャンから叱られる、各校校長も記者ご指名で平気でクレームを入れてくる――。
 
 上の記事もそうした環境の中から生まれたのだろう、現場を知る私から見ても、実に生き生きとした給食の様子がうかがえる。


【配膳の心得】
 学級分のおかずやご飯はひとまず鍋から全部なくなるようつぎ分ける。「量が多い」という児童はその後に減らし、お代わりに回す。1人分の量を理解してもらう工夫だ。

 標準ではないか平均的なやり方である。
 
「クラスには大食いの子もいれば小食の子もいる。それを同じように盛り付けて『食べろ』と強制するのは、ほとんどイジメに等しい」
 学校批判の立場からしばしばそんなふうに指摘されるが、全員に平等に盛り付けて食べろという教師はまずいない。悪意をもって考えても、そんなことをすれば結局指導の時間が長引いて教師自身が休めなくなる
 教師が子どもに給食を強要しているかのように見えるのは、多くの場合、十分に減らした給食でさえ好き嫌いのために食べようとしない場合である。必要な栄養をほとんど摂取しないような食生活は、改善されるべきだと教師たちは考えているのだ。

 
個人の食べられる量には多寡はあっても、クラス全体としては食べられるはず(食べるべき)だ――それが用意した給食室の意志である。栄養士が細心の注意と熱意をもってその計画を作成した。
 だとしたらに学級担任も“クラスとしての残菜ゼロ”に取り組まなければならない。渡された給食は “学年の子どもにとって必要な量”なのだ。

「普段の子どもの様子を見て、食べられそうな量を見極めるのも教員の腕の見せどころ」
 まさにその部分が重要なのだ。
 

【実践的道徳教育の時間】
 会話が弾み、児童が動く給食時間には「トラブルの種」がいくつもある。席を立つ、口に詰め込みすぎ、椅子にちゃんと座らない…。教員が指導するポイントは無数にある。

 教員が給食指導をする意味がここにある。給食は栄養補給の場であると同時に、大切な教育の場なのだ。
 
 ここで行われる指導――「食事中はきちんと座っているものです」「食べる分量は口に入れる前に計算し、一口ひとくちよく噛んで飲み込みなさい」「口にものを入れたまましゃべると他人に迷惑でしょ?」「あなたは昨日おかわりをしたのだから今日は譲ってあげなさい」「順番を守りなさい」「隣の子の食べ方を笑いものにしてはいけません」――そうしたすべてを、私たちは「道徳教育」と呼んでいる
 かしこまった道徳の授業と違って、実践的に、人間の生き方、繋がり方、協働と協調を学ぶ重要な場のひとつが、給食の時間なのだ。
 
 その具体的なあり方は、記事の中で女性教諭の姿として示される。
「給食を食べない」と泣く女子もいた。小島教諭が理由を聞くと、配膳時の級友の対応にショックを受けたという。「友達はどんな対応が良かったのかな。あなたならどうする?」。丁寧なやりとりで心を解きほぐすと、その女子は給食を食べた。
 「道徳教育の充実」というのは、こうした部分に力を入れることだ。
 それに比べたら「道徳の授業」の時間のなど、道徳の机上演習、基礎学習にすぎない(もちろんそれも大事だが)。
 
 
 【担任が食べられないことがある】
 すぐにある男子がパンを落とした。自らのパンと交換した担任は、主食抜きの給食になってしまった。

 必ずしもそうなるとは限らないが――。
 
 担任はまず、給食室にあまりがあるかどうかを確認する。配膳の見本として展示してあるパンが残っている可能性がある。
 それから各教室に欠席者がいないか確認する。昔と違って欠席者にパンを届けるということはできないから(衛生上の理由)、それを回してもらうことが可能だ。
 そしてそれでもダメなら、担任が自分の分を差し出すことになる。
 
 給食費未納が問題になったときネットなどでは
「未納の家の子には給食を出さなければいいのだ」といった主張がさかんになされたが、児童の給食を止めると食べられなくなるのはその子ではなく担任である。
 担任ももちろん給食費を払っているが、目の前に食べられない子を置いて、自分だけが平気で昼食をとるなどできるはずがない。給食を止めても、結局、担任が代わりに子どもの給食費を払ってやることになる(しかも自分は食べないで)。
 「未納家庭児童の給食停止」、絶対やめてもらいたい。

(“教員たちは優しい”という話ではない。誰が担任の席に座っていても必ずそうなる。ひもじい思いをしながらでうつむく子どもの前で、平気で給食を食べられる大人というものを、私は想像できない)
 

【給食時間は休憩時間ではありません】
「給食時間も授業と同じ。休憩時間ではありません」

 前述のとおり給食の時間はもっとも重要な道徳教育の場のひとつである。しかしここで注目したいのは
「休憩時間ではありません」の部分だ。
 
 もう一度見てみよう。
「給食時間も授業と同じ。休憩時間ではありません」
 なんとなく座りの悪い文章ではないか。もともと給食の時間は「昼食の時間」であっても「休憩時間」ではない。
 実はここで言いたいのは勤務体制の問題なのである。
 
 教員であろうとも、彼らは一応、労働基準法の枠内にいる。したがって、
(休憩)
第三十四条 使用者は、労働時間が六時間を超える場合においては少くとも四十五分、八時間を超える場合においては少くとも一時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。

に縛られるはずだが、その「少なくとも四十五分」の一部が、給食の最中に振り分けられているのである(通常20〜30分)。その休憩時間が「ない」。
 形式的には存在するが実質的にはない――と言うか、道徳教育の観点からすれば一日の中で最も重要な授業時間のひとつである、ということなのだ。


【やはり、人を増やせ!】
 教師の働き方改革で「労働時間の上限」を定めようという動きがあるが、私はその考えに疑問がある。
 最近、自動車販売店の男性店長が部下の労働時間を減らすため、多くの仕事を一人で背負った上に自殺した事件が話題となった。同じように教員も、仕事を減らさず時間だけを管理すればどこかにしわ寄せがくる。
 校長・副校長がすべての仕事を背負い込むか、全教職員が午後5時以降の仕事を持ち帰りにするかのどちらかだ。
 
 
労働基準法でさえ守れない組織の時間を、無理やり型にはめようとすればどこかにひずみが出て、全体に広がっていく――。
 
 仕事が減らせないなら、時間を減らす前に、まず人を増やすことを考えなくてはならない。それもできないなら、もうこれ以上なにも増やさないよう厳しく見守るしかない。

 その間も教員は(肉体的に、あるいは精神的に)次々と死んでいくだろうが、つまらない応急処置で、事態がますます悪くなるよりはよほどマシだ。