キース・アウト![]() 2017年 1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
昨年末、文部科学省は「学校における働き方改革に関する緊急対策」を公表した。そこで言及された具体的な業務内容のなかで、もっとも手厚い記述があったのが「部活動」である。そしてそこには、部活動を学校から地域に移行するという展望が示されていた。 これまで部活動は学校を基盤にして発展してきただけに、文部科学省は大胆な改革の方向性を示したと言える。他方で、この点を掘り下げた報道はほとんどない。 私は文部科学省の方針に賛同するものの、地域移行の実効性には懐疑的である。というのも、学校の内外から、地域移行への根強い抵抗があるからだ。 はたして学校から部活動はなくなってしまうのか。地域移行の実現可能性について考察する。 内田良 | 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授 (以下、Yahooニュース「学校から部活がなくなる? 完全外部化の是非」で) 記事の内容は簡単に言うと、 これだけ部活動が教員の負担になっていると言われながら、 公立中学校教員の38.1%は、部活動を教員の「本来的業務だと思う」と回答している。 また外部への移管についても、 「移行すべきではない」、すなわち、学校の教員で担うべきと考える教員(44.6%)と、「移行すべき」と考える教員(55.4%)は拮抗している のである。 さらに 保護者は9割超が学校部活動を支持 という現状もある。 つまり、 私たちの意識はそもそも部活動=学校という括りから逃れていないことが明らかとなった。文部科学省がどれほど大胆な提言をしようとも、私たちの意識がこのままでは、改革の気運が高まることもなく、その実効性はきわめて低いものとなるだろう。 それが結論である。確かに重要な指摘である。 しかしそんな意識の問題ではなく、それ以前に、部活動の外部移行にはもっと具体的でもっと切実な問題があるのだ。 【だれが部活動を担うのか】 それは授業の終わる午後5時から7時ごろまで、土日は午前中あるいは午後、試合のある日は終日、部員を引き受けて指導できる人材がどれくらい集まるのか、という問題である。 もちろんそれで年収400〜500万円を保証するといったら手を挙げる人はいるだろうが、実際には有償ボランティア程度の謝礼しか出ないはずだ。そうなると担い手として期待できるのは時間に余裕のある年金生活者だとか、実体験を積みたい教職浪人、掛け持ちのフリーアルバイター、子育ての終わった専業主婦くらいなものだろう。 しかも彼らは特定の技能をもっていなければならない。 野球やサッカーの経験者なら比較的集めやすいかもしれない。だが吹奏楽はどうだ? 体操はどうだろう? 剣道や柔道、相撲だのボクシングだのの指導者はどこに求めたらいいのか? 日本の中学校は全部が全部、東京や大阪に集められているわけではない。 人口数百人の山村や島嶼にも中学校はある。そもそも中堅都市にしたって学区内に限れば人口は数千人といったこともあるのだ。安易に「部活を地域へ」と言ったって引き受け手はいない。 では学校が放り出した部活動はどうなるのか? 実は私はウソをついた。しかもたった今・・・。 安易に「部活を地域へ」と言ったって引き受け手がいるはずはない。 と言ったがそんなことはない。 落ち着いて周囲を見回せば、子どもの教育に熱心で、能力もあり、子どものために時間もエネルギーも平気でつぎ込む人材が集中的に集まっている場所がある。 学校である。 学校にお願いしに行けばいいのだ。 昨日までの部活顧問に、教員としてではなく一市民としての指導をお願いしに行く。 大丈夫、部員が路頭に迷うと思えば教員は断らない。 かくして部員や保護者、地域は有能な顧問を手に入れられて胸を撫で下ろす。 同じ人間でも教員身分として指導しているわけではないから“教員の時間外労働”は激減して文科省も都道府県教委も市町村教委も一安心。 一部の異常に熱心な部活顧問たちは、学校・教委・文科省の束縛を逃れて無制限に練習できるからガッツポーズ! 気の毒なのは全国大会などとても考えられない普通の教員顧問である。 どんでもない質と量の練習をしているチームがあると聞けば、それに近い活動をしなければならない。周囲から強制されるからではない。「試合で子どもたちがなぶり者にされる」と思うと、教員は頑張らざるを得ないのだ。 もう活動を制限してくれる学校も教委ない。学校ではなく、地域ボランティアの活動だからだ。 こうしてかつての部活顧問たちは、日中の教員としての活動と、夜間及び休日の地域ボランティアとしての無制限の部活動で、ボロボロに壊れていくのだ。 以上は単なる夢物語ではない。 記事にある 1996年4月〜7月にかけて文部科学省(当時は文部省)が実施した全国調査「中学生・高校生のスポーツ活動に関する調査」 のあと、一部の都道府県が行った「部活動の社会体育への移行」の際に起こった事実である。 しかしだれもそのことを覚えていない。 いや知らないのだ。 文科省の下し置いたことに、異議申し立てのできる学校関係者など、ほとんどいないからである。 (黙祷)
狭い小屋にウサギ80匹 「ウサギは高いところまで持ち上げてはいけない」「ウサギが驚くのでむやみに騒がないように」 関西学院大西宮聖和キャンパス(兵庫県西宮市)で昨年11月、教育学部の学生らを対象に実際のウサギを用いた動物飼育の体験授業が行われた。 (以下、略 2017.01.17 産経WEST『「生き物係」どう育てる? 学校の動物飼育崩壊、教師も知識なく「ニワトリの卵、食べれるんですか」驚きの質問』で確認のこと) まさに「教師は常識を知らない」を証明するような記事である。 私が子どものころはあちこちの家でニワトリを飼っていて毎朝食卓に新鮮な有精卵が並んだものである。だから衛生管理のしっかりしていない普通の家で産まれたタマゴは食べられるのか、有精卵は食べてもいいのかといった疑問は生まれる余地がなかった。 私自身はニワトリではなくアンゴラウサギを飼っていて3か月に一回くらいの割合で毛を刈ってもらい、それを売って収入としていた。定期的に業者が回ってくるのだ。 だからウサギは寂しさで死んだりはしないけど、骨折しやすいから高いところから落としてはいけないとか、耳をもってはいけない首の後ろの皮の柔らかいところを掴んで持ち上げろとか、「月夜のウサギ」みたいに明るい夜はほんとうに脱走したがるとか、めちゃくちゃ繁殖力が強いから計画的でないとオス・メス一緒にできないとか、そういうことはみんな自然に覚えた。 しかし今の教師は、そんなことも知らない。 「アンゴラ」と聞いても「村長」しか思い浮かばないバカ者ばかりだ(それだって浮かばないよりはマシか)。 いつだったか増えすぎたウサギの処分に困って校長と教頭が休日出勤で生き埋めにしたという事件もあったが、校長・教頭ですらそうだから普通の教員は推して知るべし。そもそも教員になろうとするような人間はみんなバカでウサギの飼育ひとつ理解していないのだ。 と、そんな記事を見たら世間の人たちはどう思うのだろう? 「たしかにバカだ。そんなことも知らんのか」 と思うのか、 「いくら何でもウサギやニワトリの育て方にまで精通してから教師になれと言っても気の毒だろう」 そう考えてくれるのか――。 小学校教師はとりあえずミニ・スーパーマンであることが求められる。 彼らは毛筆書写ができなければいけない、作文の添削ができなければならない、分数のわり算で「わる数の分母・分子をひっくり返してかければいい」ことを適確に、子どもに分かるように説明できなければいけない、「三日月」は右を向いた月なのか左を向いた月なのか即座に答えられなければならない、理科の実験ができるだけでなく「安全にできる」ことに知識・技能がなくてはいけない、時には実験がうまくいくためのちょっとした(ずるい)工夫が必要なことも知っていなければならない。 自分自身が逆上がりができるだけでなく「どうしたらできるようになるか」知っていなければならない、「織田信長が天下統一に乗り出した」だけでなく桶狭間の戦いや長篠の戦に関する基礎的な知識がなければならない、合唱の指揮ができなければならない、ピアノが弾けなければならない・・・。 その上でウサギの飼い方を知らなければならないのである。 ニワトリも、イモリも、メダカも、金魚もカメも、場合によってはヤギや羊も。 今後問題となってくるのは、英語のしゃべれない教師とプログラミングのできない教師だろう。多分彼らの多くはそうしたことを学んできなかった。だからその都度、 まずは教員の養成がカギになるのかもしれない。 がマスコミ誌上に踊ることになる。 ネット上は“アホな教員”の話題で持ちきりだ。 しかし「教員の養成がカギになるかも」の隣に、 「教師の“働き方改革”、いかにしたら過剰時間外労働は減らせるのか」 「決め手は教師の意識改革」 みたいな記事があるのだ。 |