キース・アウト
(キースの逸脱)
2018年 7月

by   キース・T・沢木




2018.07.04

小学校 変わる運動会「春」が定番に
競技種目も減少


[毎日新聞 7月 4日]


「ドイツには残業がないのに経済は好調だ。みんな1カ月休暇を取っても問題なく仕事が回るのはさすが」――日本では、こんな通説が語られることがありますが、わたしは首をかしげてしまいます。

残業をしないのなら、場合によっては納期を守らず仕事を放置して帰宅することになります。それが「経済大国ドイツの日常」ということでしょうか??それともドイツには、誰も残業をしなくて済むような神がかり的なマネージメント能力をもった人が各部署にいるのでしょうか??その人が 1カ月いなくても仕事が問題なく回るのなら、なぜ企業はその人を雇っているのでしょうか?


ドイツ人は残業する
日本でさかんに取り沙汰されている働き方改革の話をするとき、「ヨーロッパではこれだけ休む」だとか、「ヨーロッパでは誰も残業しない」という話題をよく耳にします。

日本で問題があったら欧米を参考にしよう、というのはよくある流れですが、働き方に関しては「ドイツがあまりに美化されすぎている」と言わざるをえません。

ドイツには残業がまったくないかのような話は、その典型でしょう。拙著『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』にも詳しく書きましたが、改めてご説明します。

実際のところ、ドイツはEUのなかでも残業が多い国として知られています。ドイツに来たばかりのわたしは「日本は残業ばかりだけどドイツは残業がないんでしょう?」なんて言っていましたが、返事はいつも「するよ?」「うん、するする」というものでした。

わたしが知る限り、「残業なんて絶対しません」と言う人はだれひとりとしていません。IAB(ドイツ労働市場・職業研究所)へ取材に行ったときも、「日本ではドイツがそんなふうに思われているのですか?」と驚かれました。

わたしのパートナーはインターン生でありながらしょっちゅう残業をしていましたし、残業のせいで飲み会に遅れてくる友人だっています。「サービス残業」だって立派に存在しています。事実、わたしがワーキングホリデー中に働いていたレストランでは、帰宅できなくなる時間までサービス残業をさせられました。


BAuA(Bundesanstalt f?r Arbeitsschutz und Arbeitsmedizin)の統計では、フルタイム勤務者は平均して週43.5時間働いていることになっています。さらに内訳を見ると週に48時間から59時間働いている人が13%、60時間以上が4%となっているので、単純計算でだいたい5人に1人は週48時間以上働いていることになります。

残業時間でいえば、フルタイムの男性労働者のうち7割は週の残業が5時間以下ですが、19%は5時間から10時間、11%が10時間以上残業しています(女性だとほんの少し残業時間が短くなります)。つまり、5人に1人は月20〜40時間、10人に1人は月40時間以上の残業をしている計算なんです。

もちろん、すべての残業に確実に残業代が支払われているわけではありません。


出世したければ残業もする
いくら「ドイツだから」といっても、終わらせなくてはいけない仕事があるのにみんながみんな仕事を放り投げて家に帰るはずがありません。

確かに、「わたしは帰ります」と権利を主張する人は日本よりもいますし、実際に仕事を放り投げて定時帰宅することも可能でしょう。でも問題は、そういう人が上司や会社に評価されるか、ということです。

そういう人を積極的に評価はしない、大事な仕事は任せたくない、というのは日本人に限った考え方ではありません。誰だって「終わらなかったけど帰ります」と言う人より、「頑張って終わらせます」と言う人と仕事をしたいと思うものですから。

そして、「稼ぎたい、昇進したい、上司に認められたい」という人は、積極的に残業してでも結果を残そうとします。その「熱意」と「成果」によって、出世街道への切符を手に入れるのです(もちろん学歴などの要素も絡んできますが)。これもまた多分、万国共通でしょう。成果を求められる管理職は、残業時間が多い傾向にあります。

ドイツを「実力主義の国」だと思っている人が多いようですが、それならば成果を出すために必死になる人がいて当然だということもまた、想像できるのです。

ただ、ドイツにおける残業というのは、あくまで自分やチームの仕事を終わらせるためにするものなので、付き合いや理不尽な要求によるものは少ない、という側面はあるかもしれません。

そしてドイツでは、「今日2時間残業したから明日2時間早く帰る」といった「労働時間貯蓄制度」が浸透しています。

そういう意味で、ドイツの残業は昔ながらの日本の残業と少しちがった性質をもっている、とは言えるでしょう。


権利と不便は表裏一体
欧米の有給休暇消化率を踏まえて、日本もそれに見習おうという意見も目にします。

たしかに長期休暇、バカンスはヨーロッパの多くの国で認められた権利です。ドイツもまた、毎年1カ月の休暇を取る国としても知られています。

でもその数字だけを見て「みんな休暇を取っても仕事が回る。さすがドイツ!」なんていう主張には、ちょっとツッコミを入れたくなってしまいます。

誰かが休暇を取れば、仕事は滞ります。バカンスに最適な夏はとくに、オフィスがガラガラになります。この前なんて、税務署に行ったら租税条約の担当者と確定申告の担当者が両方休暇中で、その後に行った歯医者もまた休暇で閉まっていて、処方箋をもらおうとホームドクターのところへ行ったら、彼女もまた休暇中でした。ちなみに、たまに行くカフェもお休みだったし、駅に入っている安いアジアンレストランも閉まっていました。

「みんな休暇が取れていいじゃないか」というのは、あくまで自分が休暇を取る側の話です。仕事を依頼した側、ユーザー側に立ってみましょう。バカンスのせいで全然仕事が回っておらず、手続きがなにも進まない。担当主義なので、「それは担当者じゃないとわからない。担当者が帰ってくるのは1カ月後」と言われる。これが、「休暇が取れるドイツの姿」なのです。

「みんなが休暇を取っても仕事が回っている」なんて大真面目に言う人がいますが、ちょっと考えてみればいろんな弊害があることを想像できると思います。

もし日本で同じことをしたら、「いいから担当者を出せ」と電話口で怒鳴り散らすお客が現れて慌てて休暇中の人に連絡を取り、休日出勤になるかもしれません。SNSで名指し批判され「やっぱり休むことは悪いことなんだ」という空気になることだって考えられます。

ドイツでそういうことが起こらないのは、客を含めたみんなが「お互い様」だと諦めている、割り切っているからにすぎません。自分が休む権利を行使するからこそ、他人が休んでいることに理解を示す。それだけであって、休暇を取る人ばかりでも問題なく、いつもと同じように仕事が進むなんてことはないのです。いてもいなくてもいいような人であれば、企業はその人を雇う意味がないのですから。


日本は休みづらいが便利な国
日本は労働者が休みづらい国です。その代わり、いつでも便利です。担当者がいるし、店は開いている。ドイツは労働者が休みやすいけれども、不便なことがたくさんあります。

自分もまわりも休めないが便利な日本。自分もまわりも休むが不便なドイツ。日本とドイツの働き方の差は、どこに価値を置くかのちがいです。

自分は休むけれどまわりは休まず働いている便利な社会などありません。休暇が取れる国をうらやむのであれば、それだけの不便さを受け入れる覚悟が必要になります。
『日本人とドイツ人?比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

すべてがうまくいっている理想郷など、どこにも存在しません。いいところがあれば当然、悪いところもあります。たしかにドイツは労働者の権利に敏感で労働組合の影響力も強いですが、必要に応じて残業する人はいますし、それが無給であることもあります。たしかにバカンスには行けますが、そのぶん不便になります。

そういった背景を無視して一部分だけを過剰に美化して、ありもしない「理想の働き方」を追い求めるのはちょっとちがうんじゃないか、と思ってしまいます。

どこかの国を見習うならばその背景や問題点を見落としてはならないですし、その背景があまりにも違いすぎている場合、見習うよりも日本に合った改善策を考えたほうが現実的なのではないか、というのが率直な気持ちです。



 私はこういう記事を大切にしたいと思う。中にもあるが、
 
日本で問題があったら欧米を参考にしよう、というのはよくある流れ
 で、しかしそこで語られる「欧米」が本物であるか、本物だとしても解釈はその通りであるかどうかは別の話である。
 
 私は若いころ(というか子どものころ)、テレビに出る人や著書を出すひとは嘘をつかないと思っていた。何十万、あるいは何百万人もの視聴者を相手に嘘がばれたら、それこそ恥ずかしくて生きて行けないだろうと思っていたからである。しかし違っていた。
 
テレビに出てくるような人も嘘をつく、しかもしばしば平気で荒唐無稽な嘘を語る。

 例えば「ヨーロッパ人は古い家具などをとても大切にする」は半ば本当だろう。しかし「エコロジーの意識が高いので」という文脈で語られるならそれは嘘だ。ヨーロッパの古い町並みはいずれも強固な石造りで、これを新しい建物と取り換えようとしたら建築費と同じくらいの解体・撤去費がかかってしまうに違いない。
 だから古い街並みや建物が残る。そして古い建物には古い家具がよく似合うのだ。
 日本はそういうわけにはいかない。建物の大部分は木造か鉄筋コンクリートで50年ももてばいいくらいだ。最長で50年ごとに更新される。すると家具も調度品も新調したくなる。ただそれだけのことだ。別に新しい物好きだとか無駄遣いの民というわけではない。
 
 最近はテレビをつければ日本礼賛だがほんの数年前まで、評論家の仕事は、
「だから日本は(日本人は)ダメなんだ」とか、
「そんなことをしているのは日本人だけです」とか、
「そういうことに関して、日本は欧米から20年は遅れている」と、
欧米を引き合いに日本や日本人をバカ扱いするのが主たる仕事だった。そのたびに私は、自分に可能な限り調べて「本当にそうなのか」「そうだとして解釈はあっているのか」を確認するようにして来た。
 今回取り上げた記事も、そうした私の態度によく沿うものである。

* わたしが知る限り、「残業なんて絶対しません」と言う人はだれひとりとしていません。
* 5人に1人は月20〜40時間、10人に1人は月40時間以上の残業をしている計算
* 誰だって「終わらなかったけど帰ります」と言う人より、「頑張って終わらせます」と言う人と仕事をしたいと思うものです
* 「稼ぎたい、昇進したい、上司に認められたい」という人は、積極的に残業してでも結果を残そうとします。
 

 確かにその通りだろう。その方が人間の本性に合っているし、ドイツの経済発展の説明にもなる。
 
 ヨーロッパ人は一か月に及ぶ夏季休暇を取って英気を養っている。それは間違いではないらしい。しかしそれが「効率の良い産業システムを持っているからだ」と説明するのは明らかな嘘だ。記事はこれについて非常に納得のいく説明をしている。
 
 「みんな休暇が取れていいじゃないか」というのは、あくまで自分が休暇を取る側の話です。仕事を依頼した側、ユーザー側に立ってみましょう。バカンスのせいで全然仕事が回っておらず、手続きがなにも進まない。担当主義なので、「それは担当者じゃないとわからない。担当者が帰ってくるのは1カ月後」と言われる。これが、「休暇が取れるドイツの姿」なのです。
 
 日本は労働者が休みづらい国です。その代わり、いつでも便利です。担当者がいるし、店は開いている。ドイツは労働者が休みやすいけれども、不便なことがたくさんあります。

 
 そういうものだろう。
 よく覚えていて、誰かが、
「一か月以上の夏季休暇が取れるのは、ヨーロッパの人々が高い意識と効率的な産業構造を造り上げているからだ」
と言い出したら、すかさず切り返してやろう。

 そんなことはない。
 
自分が休む権利を行使するからこそ、他人が休んでいることに理解を示す。それだけであって、休暇を取る人ばかりでも問題なく、いつもと同じように仕事が進むなんてことはないのです。
 



 小学校の運動会が変わってきた。かつては秋の風物詩だったが、今や春の実施が定番に。しかも校庭でクラスメートや家族らと弁当を食べることもしないし、種目も減っているというのだ。メインイベントに何が起こっている? 【田村彰子】


「家族で弁当」中止も
 東京・多摩の小学校ではこの春、運動会に関するお知らせが家庭に配布された。「保護者が来られない子どもに配慮するため、今年度から児童たちは弁当を教室で食べます」。この学校に子ども2人を通わせている母親(42)は「自宅が学校から遠い人もいたので、ママ友たちと子どもがいない校庭でお弁当を食べました。間抜けな光景ですよね」と振り返る。

 東京都杉並区のある小学校でも、2016年度から家族での弁当が中止になり、今年度から保護者の参加競技もなくなった。父親(49)は「親がいない子どもとの差が出ないように、との配慮があると聞きました」と言う。このような変化について、同区の担当者は「実際に弁当を家族と一緒に食べる学校は減っているようです。保護者が来られない事情に配慮するのもそうですが、地区によっては、児童数の増加で家族で弁当を食べる場所がないことも原因のようです」と説明する。


「午前中だけ」増加
 運動会の省力化、縮小化は、首都圏だけの現象ではない。愛知県安城市では昨年、ホームページ上に「市民の声」として「共働きの夫婦、乳幼児のいる親、母子・父子家庭の場合、更に負担が増える事に配慮し、弁当の必要のない午前中だけの運動会を市内全ての小学校でお願い申し上げます」とする意見を掲載した。

 この声が届いたのか、午前中までの運動会は昨年度まで市内21校中2校だったが、今年度は9校に増えた。同市教育委員会は「時間の短縮化には賛否両論あり、親子で弁当を食べたい方も当然いるので、今後も学校が意見集約をしていくと思います」と説明する。

 地方によっては、運動会を地域の一大イベントとして開催しているが、規模の縮小化は避けられそうにない。青森県の教員(28)は「子どもの数が減り、保護者参加の競技も少なくなっています。でも、地域の大事な行事なのでなるべく種目を減らさないようにしています」と打ち明ける。


「新しい意義見いださない限り縮小続く」
 参加者自らが種目を作って運動会を行う「未来の運動会プロジェクト」に携わる明治大准教授の澤井和彦さん(スポーツ科学)は「共働きなど多様な家庭の在り方とその負担に学校側は配慮しなければなりません。一方、学校側には、運動会の練習時間を減らして学習時間を確保したい事情もあるようです。運動会は『する』『見る』『支える』というスポーツへのあらゆる関与形態が一度に体験できる日本の貴重な文化資産ですが、新しい価値や意義を見いださない限り縮小傾向は続くでしょう」と話している。



 短い記事なのでとやかく言うほどのこともないが、ここで語られているのは保護者の要望と学校の事情だけで、本来最も重要であるべきものが完全に抜け落ちている。
 それは子どもの意向と運動会の教育的意義だ。

 記事では、
「新しい意義見いださない限り縮小続く」などと紹介されているが、そもそも古い意義が失われたかどうかも検証されていない。もしかしたら自明のことで、私のようなおいぼれだけが理解できないのかも知れないが――。

 思う運動会の意義は三つある。

 ひとつは
集中的な運動能力の向上である。
 学習は必ずしも継続的に、地道にやればいいというものではない。例えばWordやExelなど一部のコンピュータスキルの習得は、週一ではさっぱりうまく行かないだろう。プログラミング教育などもそうである。あんなものは一気呵成にやってしまうのがいい。
 しかし集中的な学習が最も向くのは、運動関係の、特に初期段階である。

 私は雪国の育ちだがスキーはあまりうまくない。たまの日曜日にちょっと行って練習しただけだからだ。ところが雪のほとんど降らない首都圏の子の中に、とんでもなくうまい連中がいる。彼らは子どものころから滅多に来られないスキー場に、二泊三日くらいできて朝から晩まで練習して帰るような練習方法をとっていた。大学生などになるとスキー場近くの学生寮に泊まって6泊7日といった無茶苦茶な練習をする。だから上達もあっという間だ。それと同じである。
 運動会の主要な種目、集団演技や組体操は一気呵成にやって初めて完成する。運動会で発表するという期限付きの、明確で晴れがましい目標があるからさらに集中度は高まり、質の高い練習ができる。力がつく。
 それが運動会の第一の意義だ。

 第二に上げられるのは、
集団形成、団結力の向上ということである。
 一糸乱れぬ行進だの体操だのと言うと必ず軍国主義教育だとか個人の圧殺だとか言い出す人がいるが、全体のために己を律するというのは生きて行く上で重要な能力のひとつだろう。
 大人になって自分会社が立ち上げた一大プロジェクトのために、献身的に働けるというのは重要なことだ。国民や住民のために一生懸命働ける公務員は絶対に必要だ。
 会社が倒産しそうな時に真っ先に逃げることを考えるサラリーマンや、火が熱いからといって遠くから見守る消防士では困る。
 学年やクラス、男女の別を越えて“赤勝て”“白勝て”と声をからして応援し、自分の競技では精一杯を尽くす力、それは小学校の、いやそれ以前からつけてやりたい力である。
 
 サッカー・ワールドカップやオリンピックの団体競技では“献身的なプレー”が称揚されるのに、運動会では全体主義との関連でしか語られないことのはやはり間違っているといえる。

 三番目の意義は
地域との融合である。
 かつて運動会は村一番のビッグイベントであった。祭りのように屋台や露店さえ出た時代がある。
 村人は地域ごと集まって応援し、昼休みは地域の子どもを集めて一緒に食事した。親のいない子、来られない子は、一緒に面倒を見るなど当たり前のことだった。子どもはあとで隣の“オバア”に叱られるのが怖くて必死に走った――そういうものだった。

 さて、こうした古い運動会の意義は失われ、今、新しい意義が必要とされているのだろうか? 寡聞にして私は知らない。

 今は子どもの運動能力をきちんと高めることよりも、プログラミングや英語のできる子ども育てることが大切な時代になっているのかもしれない(週一時間でそれが果たせるかどうかは知らないが)。
 個の力を重要視する現代にあって、集団力というのはプロスポーツの世界でしか必要なくなってしまったのかもしれない。
 地域的なつながりなど、もう太古の遺物としてまったく大切にはされない時代になってしまったのかもしれない、私の知らないうちに。
 本当に嘆かわしいことである。


(追記)
 勢い余ってついでに言うのだが、「親のない子に配慮して弁当をやめる」というのは運動会の時にしか出てこない不思議な話題である。
 「親のない子のために遠足を半日にしましょう」とか、「社会見学ではレストランに入るようにしてください。お金は出します」とかいった話はこれまで聞いたことがない。

 もちろん子ども同士が見せ合い自慢し合う弁当というものが、死ぬほど嫌いな保護者が一部にいることを私は知っている。しかも社会見学と違って、雨天延期のある運動会は、二日以上に渡って“弁当の品評会”が行われる可能性があるのだ。
 一部の親はそんなとき突然「親のない子」のことを思い出す。もちろん“一部の親”の話だが。






2018.07.16

自殺未遂を繰り返す「苦登校」の後遺症、
彼の心は誰が壊したか


[DIAMOND on line 7月12日]


「ドイツには残業がないのに経済は好調だ。みんな1カ月休暇を取っても問題なく仕事が回るのはさすが」――日本では、こんな通説が語られることがありますが、わたしは首をかしげてしまいます。

残業をしないのなら、場合によっては納期を守らず仕事を放置して帰宅することになります。それが「経済大国ドイツの日常」ということでしょうか??それともドイツには、誰も残業をしなくて済むような神がかり的なマネージメント能力をもった人が各部署にいるのでしょうか??その人が 1カ月いなくても仕事が問題なく回るのなら、なぜ企業はその人を雇っているのでしょうか?


ドイツ人は残業する
日本でさかんに取り沙汰されている働き方改革の話をするとき、「ヨーロッパではこれだけ休む」だとか、「ヨーロッパでは誰も残業しない」という話題をよく耳にします。

日本で問題があったら欧米を参考にしよう、というのはよくある流れですが、働き方に関しては「ドイツがあまりに美化されすぎている」と言わざるをえません。

ドイツには残業がまったくないかのような話は、その典型でしょう。拙著『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』にも詳しく書きましたが、改めてご説明します。

実際のところ、ドイツはEUのなかでも残業が多い国として知られています。ドイツに来たばかりのわたしは「日本は残業ばかりだけどドイツは残業がないんでしょう?」なんて言っていましたが、返事はいつも「するよ?」「うん、するする」というものでした。

わたしが知る限り、「残業なんて絶対しません」と言う人はだれひとりとしていません。IAB(ドイツ労働市場・職業研究所)へ取材に行ったときも、「日本ではドイツがそんなふうに思われているのですか?」と驚かれました。

わたしのパートナーはインターン生でありながらしょっちゅう残業をしていましたし、残業のせいで飲み会に遅れてくる友人だっています。「サービス残業」だって立派に存在しています。事実、わたしがワーキングホリデー中に働いていたレストランでは、帰宅できなくなる時間までサービス残業をさせられました。


BAuA(Bundesanstalt f?r Arbeitsschutz und Arbeitsmedizin)の統計では、フルタイム勤務者は平均して週43.5時間働いていることになっています。さらに内訳を見ると週に48時間から59時間働いている人が13%、60時間以上が4%となっているので、単純計算でだいたい5人に1人は週48時間以上働いていることになります。

残業時間でいえば、フルタイムの男性労働者のうち7割は週の残業が5時間以下ですが、19%は5時間から10時間、11%が10時間以上残業しています(女性だとほんの少し残業時間が短くなります)。つまり、5人に1人は月20〜40時間、10人に1人は月40時間以上の残業をしている計算なんです。

もちろん、すべての残業に確実に残業代が支払われているわけではありません。


出世したければ残業もする
いくら「ドイツだから」といっても、終わらせなくてはいけない仕事があるのにみんながみんな仕事を放り投げて家に帰るはずがありません。

確かに、「わたしは帰ります」と権利を主張する人は日本よりもいますし、実際に仕事を放り投げて定時帰宅することも可能でしょう。でも問題は、そういう人が上司や会社に評価されるか、ということです。

そういう人を積極的に評価はしない、大事な仕事は任せたくない、というのは日本人に限った考え方ではありません。誰だって「終わらなかったけど帰ります」と言う人より、「頑張って終わらせます」と言う人と仕事をしたいと思うものですから。

そして、「稼ぎたい、昇進したい、上司に認められたい」という人は、積極的に残業してでも結果を残そうとします。その「熱意」と「成果」によって、出世街道への切符を手に入れるのです(もちろん学歴などの要素も絡んできますが)。これもまた多分、万国共通でしょう。成果を求められる管理職は、残業時間が多い傾向にあります。

ドイツを「実力主義の国」だと思っている人が多いようですが、それならば成果を出すために必死になる人がいて当然だということもまた、想像できるのです。

ただ、ドイツにおける残業というのは、あくまで自分やチームの仕事を終わらせるためにするものなので、付き合いや理不尽な要求によるものは少ない、という側面はあるかもしれません。

そしてドイツでは、「今日2時間残業したから明日2時間早く帰る」といった「労働時間貯蓄制度」が浸透しています。

そういう意味で、ドイツの残業は昔ながらの日本の残業と少しちがった性質をもっている、とは言えるでしょう。


権利と不便は表裏一体
欧米の有給休暇消化率を踏まえて、日本もそれに見習おうという意見も目にします。

たしかに長期休暇、バカンスはヨーロッパの多くの国で認められた権利です。ドイツもまた、毎年1カ月の休暇を取る国としても知られています。

でもその数字だけを見て「みんな休暇を取っても仕事が回る。さすがドイツ!」なんていう主張には、ちょっとツッコミを入れたくなってしまいます。

誰かが休暇を取れば、仕事は滞ります。バカンスに最適な夏はとくに、オフィスがガラガラになります。この前なんて、税務署に行ったら租税条約の担当者と確定申告の担当者が両方休暇中で、その後に行った歯医者もまた休暇で閉まっていて、処方箋をもらおうとホームドクターのところへ行ったら、彼女もまた休暇中でした。ちなみに、たまに行くカフェもお休みだったし、駅に入っている安いアジアンレストランも閉まっていました。

「みんな休暇が取れていいじゃないか」というのは、あくまで自分が休暇を取る側の話です。仕事を依頼した側、ユーザー側に立ってみましょう。バカンスのせいで全然仕事が回っておらず、手続きがなにも進まない。担当主義なので、「それは担当者じゃないとわからない。担当者が帰ってくるのは1カ月後」と言われる。これが、「休暇が取れるドイツの姿」なのです。

「みんなが休暇を取っても仕事が回っている」なんて大真面目に言う人がいますが、ちょっと考えてみればいろんな弊害があることを想像できると思います。

もし日本で同じことをしたら、「いいから担当者を出せ」と電話口で怒鳴り散らすお客が現れて慌てて休暇中の人に連絡を取り、休日出勤になるかもしれません。SNSで名指し批判され「やっぱり休むことは悪いことなんだ」という空気になることだって考えられます。

ドイツでそういうことが起こらないのは、客を含めたみんなが「お互い様」だと諦めている、割り切っているからにすぎません。自分が休む権利を行使するからこそ、他人が休んでいることに理解を示す。それだけであって、休暇を取る人ばかりでも問題なく、いつもと同じように仕事が進むなんてことはないのです。いてもいなくてもいいような人であれば、企業はその人を雇う意味がないのですから。


日本は休みづらいが便利な国
日本は労働者が休みづらい国です。その代わり、いつでも便利です。担当者がいるし、店は開いている。ドイツは労働者が休みやすいけれども、不便なことがたくさんあります。

自分もまわりも休めないが便利な日本。自分もまわりも休むが不便なドイツ。日本とドイツの働き方の差は、どこに価値を置くかのちがいです。

自分は休むけれどまわりは休まず働いている便利な社会などありません。休暇が取れる国をうらやむのであれば、それだけの不便さを受け入れる覚悟が必要になります。
『日本人とドイツ人?比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

すべてがうまくいっている理想郷など、どこにも存在しません。いいところがあれば当然、悪いところもあります。たしかにドイツは労働者の権利に敏感で労働組合の影響力も強いですが、必要に応じて残業する人はいますし、それが無給であることもあります。たしかにバカンスには行けますが、そのぶん不便になります。

そういった背景を無視して一部分だけを過剰に美化して、ありもしない「理想の働き方」を追い求めるのはちょっとちがうんじゃないか、と思ってしまいます。

どこかの国を見習うならばその背景や問題点を見落としてはならないですし、その背景があまりにも違いすぎている場合、見習うよりも日本に合った改善策を考えたほうが現実的なのではないか、というのが率直な気持ちです。



 私はこういう記事を大切にしたいと思う。中にもあるが、
 
日本で問題があったら欧米を参考にしよう、というのはよくある流れ
 で、しかしそこで語られる「欧米」が本物であるか、本物だとしても解釈はその通りであるかどうかは別の話である。
 
 私は若いころ(というか子どものころ)、テレビに出る人や著書を出すひとは嘘をつかないと思っていた。何十万、あるいは何百万人もの視聴者を相手に嘘がばれたら、それこそ恥ずかしくて生きて行けないだろうと思っていたからである。しかし違っていた。
 
テレビに出てくるような人も嘘をつく、しかもしばしば平気で荒唐無稽な嘘を語る。

 例えば「ヨーロッパ人は古い家具などをとても大切にする」は半ば本当だろう。しかし「エコロジーの意識が高いので」という文脈で語られるならそれは嘘だ。ヨーロッパの古い町並みはいずれも強固な石造りで、これを新しい建物と取り換えようとしたら建築費と同じくらいの解体・撤去費がかかってしまうに違いない。
 だから古い街並みや建物が残る。そして古い建物には古い家具がよく似合うのだ。
 日本はそういうわけにはいかない。建物の大部分は木造か鉄筋コンクリートで50年ももてばいいくらいだ。最長で50年ごとに更新される。すると家具も調度品も新調したくなる。ただそれだけのことだ。別に新しい物好きだとか無駄遣いの民というわけではない。
 
 最近はテレビをつければ日本礼賛だがほんの数年前まで、評論家の仕事は、
「だから日本は(日本人は)ダメなんだ」とか、
「そんなことをしているのは日本人だけです」とか、
「そういうことに関して、日本は欧米から20年は遅れている」と、
欧米を引き合いに日本や日本人をバカ扱いするのが主たる仕事だった。そのたびに私は、自分に可能な限り調べて「本当にそうなのか」「そうだとして解釈はあっているのか」を確認するようにして来た。
 今回取り上げた記事も、そうした私の態度によく沿うものである。

* わたしが知る限り、「残業なんて絶対しません」と言う人はだれひとりとしていません。
* 5人に1人は月20〜40時間、10人に1人は月40時間以上の残業をしている計算
* 誰だって「終わらなかったけど帰ります」と言う人より、「頑張って終わらせます」と言う人と仕事をしたいと思うものです
* 「稼ぎたい、昇進したい、上司に認められたい」という人は、積極的に残業してでも結果を残そうとします。
 

 確かにその通りだろう。その方が人間の本性に合っているし、ドイツの経済発展の説明にもなる。
 
 ヨーロッパ人は一か月に及ぶ夏季休暇を取って英気を養っている。それは間違いではないらしい。しかしそれが「効率の良い産業システムを持っているからだ」と説明するのは明らかな嘘だ。記事はこれについて非常に納得のいく説明をしている。
 
 「みんな休暇が取れていいじゃないか」というのは、あくまで自分が休暇を取る側の話です。仕事を依頼した側、ユーザー側に立ってみましょう。バカンスのせいで全然仕事が回っておらず、手続きがなにも進まない。担当主義なので、「それは担当者じゃないとわからない。担当者が帰ってくるのは1カ月後」と言われる。これが、「休暇が取れるドイツの姿」なのです。
 
 日本は労働者が休みづらい国です。その代わり、いつでも便利です。担当者がいるし、店は開いている。ドイツは労働者が休みやすいけれども、不便なことがたくさんあります。

 
 そういうものだろう。
 よく覚えていて、誰かが、
「一か月以上の夏季休暇が取れるのは、ヨーロッパの人々が高い意識と効率的な産業構造を造り上げているからだ」
と言い出したら、すかさず切り返してやろう。

 そんなことはない。
 
自分が休む権利を行使するからこそ、他人が休んでいることに理解を示す。それだけであって、休暇を取る人ばかりでも問題なく、いつもと同じように仕事が進むなんてことはないのです。