キース・アウト
(キースの逸脱)

2018年11月

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by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。














2018.11.20

給食完食、強要やめて=相次ぐ不登校、訴訟も−支援団体に1000人相談

[時事ドットコム 11月19日]


 小中学校で教員に給食の完食を指導されたことがきっかけで不登校や体調不良になったなどの相談が昨年5月〜今年9月、支援団体に延べ1000人以上から寄せられていたことが19日、分かった。完食指導が訴訟に発展した例もあり、支援団体は「給食は本来、楽しく食べて、食事の大切さを学ぶ場。強制は絶対にやめて」と訴えている。
 支援団体は一般社団法人「日本会食恐怖症克服支援協会」(東京都渋谷区)。昨年5月に協会を設立した山口健太代表によると、相談は無料通信アプリ「LINE(ライン)」などを通じ、最大で1日20人から寄せられ、9月末までに生徒や保護者ら延べ1000人に上った。生徒や保護者らが集まって悩みを共有する場も毎月設け、東京や大阪、愛知など6都府県で計17回開いた。
 相談内容は「完食指導に我慢できず、小学3年から不登校になり、対人恐怖症になった」「幼稚園登園を渋るようになった」「野球部での食事指導で、1年間吐き続けた」などさまざま。転校を余儀なくされた例もあった。
 給食指導をめぐっては、当時通っていた小学校で教諭に牛乳を無理やり飲まされ心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、不登校になったとして、今年4月に男子中学生と両親が静岡県長泉町に慰謝料を求める訴訟を起こしている。
 同協会への相談者は、過去の完食指導がきっかけで人前で食事ができなくなった20、30代が全体の8割を占め、うち7割が女性という。
 指導の背景には食品ロス削減の観点もあるが、山口代表は「残飯ゼロは理想だが、問題は進め方だ。子どもはそれぞれ食べられる量が違う上、『食べろ』と言われるとますます食べられなくなる」と強調。「食べなければ、好き嫌いをなくすきっかけすらなくなる。適切な量を楽しく食べる環境をつくってほしい」と話している。



 最初この記事を読んだとき、ちょっとした混乱があった。
「食べなければ、好き嫌いをなくすきっかけすらなくなる」――「強制は絶対にやめて」のつながりが分からなかったのだ。

 私の感覚だと
「食べなければ、好き嫌いをなくすきっかけすらなくなる」―「だから多少無理をしても(強制)、食べさせよう」にしかならない。

 そこでもう一度よく読み直して分かったことは、「日本会食恐怖症克服支援協会」の山口代表が「完食指導」を量の問題としか考えていないことである。

「子どもはそれぞれ食べられる量が違う」。だから量をその子に合ったものにして、「楽しく食べる環境」をつくれば給食も「楽しく食べて、食事の大切さを学ぶ場」という本来の姿を取り戻すはずだと、そんな主張なのだ。
 しかしそれは違う。


 そもそも
完食指導はみんなと同じ量を食べさせる指導ではなく、すべての食品をバランスよく食べ切る指導なのだ。具体的に言えば、主食も副食も汁物も量的に減らしてもいい、しかし食べないものがあってはいけない、減らすにしても一食品だっけ極端に減らすのはいけない、という指導なのである。

 実際、現場の教員たちもそうしたものとして対処しているはずだ。
 いくら同額の給食費を払っているとはいえ、だから全員に同じ量を配らなければならない、子どもは同じ量を食べなければならにと考える教師はいないだろう。そんなことをすれば小食の子は泣きながら食事に向かい、大食いの子は腹をすかせたまま給食を終えなければならない。そして当然大量の残食が出る。
 食品ロスが問題になる今日、そんなバカなことをする理由はない。

 全員に同じように配って、減らしたい子は減らし、増やしたい子は増やす程度の工夫は誰でも思いつく。その上で余るようなら、みんなで少しずつ頑張ればいいだけのことだ。
 量的な完食(残食ゼロ)はクラス全体でやればいいのであって、みんなが同じ量を食べきる必要はないのだ。


 それなのに完食指導が子どもにとって重荷となるのはなぜか――。それは完食指導が嫌いなものまで食べさせられる指導だからである。
 シイタケが嫌いなのに「一口でいいから食べろ」と言われる。レーズンがイヤなのに「パンからほじくり出して捨てるな」と言われる、牛乳が苦手なのに「半分でいいから飲みなさい」と言われる、それが子どもにとっては時にPTSDになるほど苦痛だということなのである。

 しかし一方、教師の方はバランスよく何でも食べられるようにすることが重要な指導項目だと思い込んでいる。
 食育基本法という法律の後ろ盾があって学校の教育計画にも「給食指導」という項目があり、「食」の大切さを学習するとともに正しい食事に親しんでいくことが重要だと思い込まされている。
 好き嫌いが多くて食べられるものが極端に少ない子は、とてもではないが「健康で文化的な最低限度の生活」は営めないと信じ込んでいる。だから慣れるために一口からでもいいから口にしてほしい、食べてもらいたい、
「食べなければ、好き嫌いをなくすきっかけすらなくなる」と思っているのである。


 個人的には、私はひとつふたつの好き嫌いは認めてもいいと思っている。私自身、ホルモン系の食品は全くダメだ。それくらいは個性として認めてもらわなければかなわないとも思う。
 実際、担任教師だったころは「一人ひとつまで」という条件で申告させ、除去したこともあった。
 しかし嫌いなものが「野菜」だったり「海産物」だったりする場合はどうだろう? それでも指導せず、放置するのがありうべき教育なのだろうか?
 
 一番大変だった子は「固いもの」すべてが食べられなかった。その「固いもの」の中には野菜の全部と肉と魚が入っていた。したがって給食で口にできるのはパン(の柔らかい部分)と米飯と牛乳、具を除いた汁だけになってしまう。それではとうぜんパンも白米も多くは食べられない。
 結局その子はほとんど給食を食べずに下校し、家に着くと元気よく「ただいまあ、お腹空いた!」と言ってケーキやら柔らかいお菓子やらを頬張るのである。
 それも他人の子だから仕方ないと諦めていいのか。

 掛け算九九や漢字については「勉強は本来、楽しく学んで、勉強の大切さを学ぶ場。強制は絶対にやめて」という話にはならない。学校で十分力のつかない場合は補助的に家庭でも頑張らせる。ところが食育については、どこまで家庭が支援してくれていうか疑問だ(もちろんできている家も少なくない)。

「完食指導に我慢できず、小学3年から不登校になり、対人恐怖症になった」
「幼稚園登園を渋るようになった」
「野球部での食事指導で、1年間吐き続けた」
「通っていた小学校で教諭に牛乳を無理やり飲まされ心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症し、不登校になった」
等、
 どれも深刻な例である。

 しかし学校に給食指導の義務がある以上、個々の問題が行き過ぎであったかどうかは細かく検証されなくてはならない。

 いつも言っていることだが、児童生徒にとって、教師が一番守らなければならない価値は公平性だ。ひとりに好き嫌いを許して他に許さなければそれは「エコヒイキ」をする最悪の教師ということになって他の指導もできなくなる。

 さりとて全員の好き嫌いを認めてしまえば残食はとんでもない量になるうえ、ちょっと頑張れば好き嫌いなく食べられるようになる子も頑張ることをやめてしまう
 教師はそれが我慢できないのだ。






キース・アウト2018年11月R