2018.12.06
教員残業上限「月45時間」文科省が指針案公表
[YOMIURI ONLINE 12月 6日]
教員の長時間労働に歯止めをかけるため、文部科学省は6日、時間外勤務(残業)の上限を原則「月45時間、年360時間」とする指針案を公表した。年度内に決定した上で、各教育委員会に指針を参考に上限規制を定めるよう求め、2020年度の適用を目指す。一方、教員の働き方改革を議論している中央教育審議会特別部会も同日、業務の削減策とともに、夏休み期間などに長期休暇を取りやすくする「変形労働時間制」の導入を盛り込んだ答申案をまとめた。
教員の正規の勤務時間は各自治体の条例で通常1日あたり7時間45分とされているが、文科省の16年度調査では、平日の平均勤務時間は小学教諭11時間15分、中学教諭11時間32分で、3時間以上の時間外勤務が生じている。1か月間の時間外勤務を推計すると、小学教諭77時間、中学教諭83時間で、80時間超の「過労死ライン」前後に達している計算だ。(以下、略)
怒りで動悸が収まらない。
いま私が死んだら文科省に殺されたということだ。
妻よ、政府を訴えろ!
仕事を減らすどころか小学校英語だのプログラミング教育だの一方的に増やしておいて、人も増やさず、労働時間だけを制限すれば何が起こるか、文科省は十分承知しているはずだ。
仕方がないから教師はタイムカードをごまかすか、仕事を家に持ち帰る。そうして数字上の残業はなくなり、文科省は胸を張るのだ、私たちは教員の命と生活を守ったのだと――。
これでは学校は、教員は、そして学校教育は、弱るばかりだ。
夏休み期間などに長期休暇を取りやすくする「変形労働時間制」
も典型的な朝三暮四で、
「長期休業があるから学期中は死ぬほど働け」と言うに等しい。
このやり方にはすでに給与面で試されており、本給の4%の調整手当(平均年齢の43歳で1万5000円弱)を渡してあるのだから80時間前後の時間外労働にも黙って耐えろと言われて教員は黙って従ってきた。
「聖職なんだから“金”だ“休養”だのと世俗的な欲望に駆られることなく、清く美しく働け」
と言われて働いてきたが、“聖職者”としての尊敬も尊重も受けることは一切なく、むしろ常に蔑まされてきた。
それがこの世界の誠実な人々の在り方だったのだ。
今回の文科省の指針案はそれを制度化し固定しようとするものだ。
繰り返すが、仕事を減らさず人も増やさず、時間だけを絞れば教育は死ぬ。そしてやがて人々は叫ぶ。
「教育は死んだ」「教育は死んだ」
――しかし「私たちが殺してしまった」とは誰も言わない。
2018.12.04
給食中は私語一切禁止」
学校を取り巻く“不自由”の実態
[AERA.dot 12月 4日]
時代に合わない規則、忙しすぎて子どもに向き合えない先生、自分の子どもの教育に熱心になるあまりに周りが見えない親……。「学校が不自由だ」という声が数多く寄せられた。いまこそ学校現場の改革が必要だ。
* * *
昼どきの小学校は誰もいないのかと思うくらい静かだった。授業参観のため学校を訪れた女性(45)は、当時1年生だった娘の教室の後ろ扉をそーっと開けた。すると、目にとびこんできたのは、全員が前を向いて黙々と給食を食べる姿。
私語は一切なし。楽しいはずの食事の時間がなにかの訓練の場のように見えた。参観に来ていたほかのママ友たちとアイコンタクトで外に出て、首を傾げた。女性は言う。
「『黙食』と呼ばれる指導なんです。子どもたちがしゃべりながら食べると時間がかかるかららしいです。娘は入学したばかりのころ、給食の時間が怖いと泣いたこともありました」
娘は食べることが好きで、おいしければ「おいしいね」と言わずにいられないし、初めての食べ物を見たら「これ何?」と聞かずにはいられない。でもそうすると、先生にシーッと注意されてしまうのだ。
アエラでは「学校を不自由にしているものは何?」と題したアンケートを11月に実施した。この問題への関心は高く、インターネットなどを通じて2週間で、親や先生682人から回答が集まった。「子どもたちにとって、学校が不自由だと感じますか」との問いでは、「非常に感じる」(56.2%)と「感じる」(37.1%)が合わせて9割以上に上った。
「不自由」の正体はいったい何なのか。
アンケートでは「体感温度は人それぞれだが、制服の冬服・夏服の期間を指定される」「体育は一年中半袖短パンという決まり」「下着の色にまで干渉する」など、服装を始めとする学校生活の細部にわたって自由がないという声も目立った。
小学生の子どもをもつ保育士の女性(43)は、こうした校則に無念さがこみあげる。勤める保育園では0歳からの未就学児を預かる。
「寒かったら、自分でもう一枚着ようね」
「汚れたって気が付いたんだね。じゃあ着替えてらっしゃい」
小学校に上がるまでに、自らの状況を判断し自分で行動できるよう指導している。それなのに、小学校に上がった途端「判断してはいけなくなる」とは。
「なんでも一律に決めてしまえば、先生も子どもも考えずにすむので楽かもしれませんが、そこで失われるものは大きいと思います。多様性は大事にされていないのでしょうか」
学校の不自由さを感じているのは子どもや親だけではなく先生もだ。アンケートでは、「先生としても学校が不自由か」を聞いたところ、不自由と回答した人は96%に上った。
30代男性の中学教員は朝、靴箱の前に立つと気が重くなる。担当学年、約200人分の生徒の靴を見て出欠確認し職員室の黒板に書くという業務があるからだ。もちろん各教室では担任が出欠をとる。
なぜ、靴箱でも出欠確認をする必要があるのか、他の教員に聞いても「これまでやってきたから」「自分の学年だけやらないわけにはいかない」といった答えしか返ってこない。
管理職に尋ねても、合理的な理由はわからない。実際、職員室の黒板に書かれた出欠情報を見ている教員はほとんどいない。
「いったん決めたことが形骸化しても、見直してやめるという発想が学校現場にはありません。だから忙しくなる一方です。慣例的に行われてきたことについて、上の人間に問いただすこと自体、はばかられる空気もあって完全に思考停止状態です」
首都圏の小学校に勤める男性教員(39)の学校では、「筆箱の中は鉛筆5本と赤鉛筆1本、定規、消しゴム」と決められている。さらに「消しゴムの色は白」と指定されているが、その理由まではわからない。
「本来であればなぜその決まりがあるのかを考えたり、どうあるのがベストなのかを教員たちで話し合うべきなのかもしれませんが、その余裕がありません」
先生たちの不自由の背景には「忙しさ」があるという声は多かった。この男性は、朝8時に学校に入ったあと約10時間、休憩なしのノンストップだ。午前中の授業を終えると、給食、昼休み、掃除の指導と続く。給食中は、話に夢中になる子がいれば声をかけ、食の細い子は励まし、自身が落ち着いて食べる暇はない。規定では15時半ごろに45分間の休憩があるようだが、そんな時間は取れたためしがない。放課後も、会議や校務、次の日の授業準備や学級の仕事、さらに行事の準備ときりがない。
「仕事の絶対量が多く、勤務時間内にとても収まりません。オーバーフロー状態です」
男性は家にも仕事を持ち帰る。学期末の忙しい時期は深夜にまでおよぶ。多様性を尊重したくても、とても考える余裕がないという。
学校に対して同情的なのか批判的なのかよく分からない文だが、取材が不十分なことははっきりしている。
例えば毎朝学年の200人の靴で出欠をチェックするという30代男性の中学教員の訴え、
なぜ、靴箱でも出欠確認をする必要があるのか、他の教員に聞いても「これまでやってきたから」「自分の学年だけやらないわけにはいかない」といった答えしか返ってこない。
管理職に尋ねても、合理的な理由はわからない。実際、職員室の黒板に書かれた出欠情報を見ている教員はほとんどいない。
はその男性教員の訴えそのものなのか、記者の取材によるものか――いずれにしろツッコミが甘い。
1学年200名となれば6〜7クラス、1校18〜21クラスにもなろうという大校だ。当然職員数もハンパない。その全員に訊いて分からないということは、いくら何でもないはずだ。私ですら分かるのだから。
【出欠黒板の意味と意義】
児童生徒の出席確認と黒板への記入というのは、昔は養護教諭(中学校の場合は保健委員)の仕事だった。
担任(中学校の場合は保健委員)は朝の学級活動で出欠を取り、健康観察を行い、その結果を観察簿に記入して保健室に提出する。持って行くのは小中とも普通は保健委員。
中学校ではその途中、委員が職員室によって出欠黒板に人数を記入する。小学校では擁護教諭が数をまとめ、整理してから黒板に記入する。
その黒板について、実際、職員室の黒板に書かれた出欠情報を見ている教員はほとんどいない。
確かにほとんどいない。しかし教員をバカにしてはいけない。見ている人は見ているのだ。
「2年の2〜4組にかけて急に欠席者が出ているけど、インフルエンザか?」
「なんでこのクラスは月曜日になると休むやつが出るんだ」
「あのクラス、ここのところ毎日欠席が1だけど、不登校?」
「1年5組の欠席1はあの子だと思うけど、まだ学校に来られないのかなあ」
といった具合である。立場上、校長・副校長・養護教諭は必ずそういう目で見ている、平教員でも有能な人は出欠黒板で今後の自分の状況を必ず占う。昔からそうだった。
しかし近年変わってきたことがある。それは対応の迅速性が問われるようになってきたことだ。
【子どもの出欠は一刻も早くつかまなくてはいけない】
恥ずかしながら30年以上前、3学期初日に登校してこない生徒への対応が遅れ、昼過ぎになって電話したところ、
「あれ? 始業式って明日じゃなかったの?」
と言われたことがある。今だったら大問題だ。
それが家出だったら、それも自殺のための家出だったらどうしたのだろう。
それとは多少異なるが、先日、宮崎県高千穂町で起こった一家6人殺害事件では児童が登校してこないことを訝しんだ教頭が、午前9時過ぎには家庭訪問している(事件に気づくことはできなかったが)。
もちろん小さな学校でフットワークが良かったということもあるが、同じことは1学年200人の大校でもできなければいけない。ところが1学年6〜7クラス、全校で18〜21クラスとなるとそこから難しい。出欠票や健康観察簿の提出の遅れる先生、委員が必ず一人はいるのだ。
昔のように職員室の出欠黒板が養護教諭や保健委員の手で埋まるのを待っているわけにはいかない、けれど問題があればいち早く気づいて対応しなくてはならない――そこから出てきたアイデアが、
担当学年、約200人分の生徒の靴を見て出欠確認し職員室の黒板に書く
というやり方なのだ。
現象には訳がある、学校の決まりには理由がある、のだ。
【あとは推して知るべし】
「筆箱の中は鉛筆5本と赤鉛筆1本、定規、消しゴム」にしても「消しゴムの色は白」にしてもみんな理由のあることである。要はそれをきちんと取材できているかどうかということだ。
ちなみに取っ掛かりとなった「給食中は私語一切禁止」だが、そもそも楽しいはずの食事の時間という前提が間違っている。
日本中の家庭で毎日食事の時間が楽しくてしょうがないというのがいくつあるだろう?
母親は、「せっかく苦労してつくったものを食べてくれない」「これじゃあ十分な栄養が取れない」「いつまでも食べているから片付かない」とイライラし、
子どもは「なんでボクの嫌いなナスが出てるんだ」「こんなにたくさんのご飯、食べられるはずがないじゃないか」と恨めし気に見上げ、
父親は、「ゆっくり晩酌しながら食べたいのに、なんでこんなに急かされなくちゃならんのだ」と仏頂面。
そんな家庭がいくらでもあるというものだ。それを学校だけが楽しいはずの食事の時間というわけにはいかない。
「子どもたちがしゃべりながら食べると時間がかかるかららしいです」と一応の理解はしてくれているみたいだが、「時間がかかる」のレベルの認識が甘い。
実質30分間の給食のうちの25分間、ずーっとしゃべっていて最後の5分に「食べられません」と言い出す子のことが想定されていない。そしてそんな子は小学校のクラスにひとりや二人じゃない、ということだ。
「黙食」が必ずしもいいものとは思わないが、“楽しくおしゃべりをしながら、しかも時間内にすべてを食べきる”ということはかなりの高等技術に類する。
大人だってなかなかできないことは、宴会終了後のテーブルの上を見てみればわかることだ(私はできるし、いつもそうしている。ケチだから)。