キース・アウト
(キースの逸脱)
2019年 2月

by   キース・T・沢木





2019.02.22



「スマホ学校持ち込み禁止」の見直しで議論沸騰。
このままでは日本の子供たちに将来はない!


[Yahooニュース 2月21日]


山田順 | 作家、ジャーナリスト、出版プロデューサー

 2月19日、柴山昌彦文部科学相が、公立の小中学校に通う子供が、学校に携帯電話やスマートフォンを持ち込むことを「原則禁止」としてきた指針について「見直す」と表明した。これを聞いて、耳を疑った人も多かったのではないのか?

 なぜなら、小学生から高校生まで、いまやスマホを使っているのは当たり前、日常生活の一部になっているからだ。

 

 ところが、教育現場は違う。文科省は、2009年に「小中学校は持ち込みを原則禁止」「高校は校内での使用を禁止」という指針を出し、これまで、それが守られてきのである。だから、子供たちは、学校ではスマホを隠し持っていた。このことは、多くの教師も知っていて黙認してきた。

 しかし、今回、事実上の解禁が宣言されたことで、テレビなどではさっそく識者や父兄に、賛否を問うことになった。その結果は、さらに耳を疑うものだった。なぜなら、賛否がほぼ拮抗していたからだ。

 こんなことがあっていいのだろうか?

 正直、議論をしている識者も親たちも、今後、時代がどうなっていくのか?が、まったくわかっていないと思わざるをえなかった。失礼だが、賛成者も反対者も、アタマのなかは完全に石器時代ではないだろうか。

 スマホ解禁は、災害時に子供と連絡を取り合うために必要だという。しかし、解禁すると子供たちはSNSやゲームに夢中になり勉強がおろそかになる。また、学校での管理責任はどうするのかということで、ルールづくりが必要だという。

 議論はだいたい、このようなところに落ち着いた。聞いていて、ただあきれて、絶句するほかなかった。

 

 今後、私たちはAI時代を生きていく。つまり、人知を超えたコンピュータと共生していくことになる。したがって、これからの子供たちにいちばん必要なのは、コンピュータを理解すること、そしてそれをいかに使いこなすかということだ。それを真っ先に教えなければならないのが、教育現場ではないだろうか。

 その教育現場に、スマホを持ち込むのはいいが、使わせないというのだから、信じがたい。スマホはコンピュータではないのか?

 日本の教育現場は、ITC教育に大きく遅れてきた。いまだに、多くの学校で黒板とノートで授業が行われている。ITC教育をするためには、電子黒板、タブレット、PC、スマホが必要だ。これがなくてはプログラミング教育も、アクティブラーニングもできない。

 となれば、スマホは必需品ではないだろうか?

 いずれ、ネットと人間の脳が接続される「ブレイン・マシン・インターフェース」がやってくる。人間は「ポストヒューマン」になる。そんな時代を、いまの小学生、中学生は生きていかなければならない。なのに、「学校ではスマホは電源を切りカバンのなかにいれておくこと」なんてバカな話があるだろうか?

 フランスやスウェーデンでは、学内でスマホを使うのは禁止されている。しかし、ICT教育は進んでいる。アメリカではほとんどの州でスマホ持ち込みは自由だし、ICT教育はどんどん進んでいる。子供たちはタブレットで宿題、予習、復習をやっている。

 要するに、問題はスマホにあるのではない。スマホをはじめとするコンピュータをどう使いこなすかを、これから育っていく子供たちに教えなければならない。

 このままでは、日本の教育は、子供たちの将来を奪うだけではないか。

 すでに日本でも、一部の私立校や一部の県で、IT教育が進んでいる。都立高校では2020年からスマホを解禁し、個人のスマホを授業で活用するという。また、和歌山県では一部のモデル校でプログラミング教育が始まろうとしている。しかし、日本の多くの学校はWiFi環境すら整備されていない。

 このようにITC教育を進めているところと、おバカな教育員会がスマホ解禁をいまだに議論をしているところとは、今後、大きな差がつくだろう。



 タイトルの激しさから、てっきり私と同じ「反持ち込み派」かと思ったら正反対で呆れた。
 しかも中身を見たらあまりにもいい加減でなんの裏付けもない。おまけに添付さえれた写真のキャプションは、
「スマホは教師よりよほど有能ではないのか?」

 こんないい加減な記事がYahooニュースに載って、私のような誠実に一生懸命書いている者がまったく注目されないという強烈な嫉妬心もあって、ひとこと言わずには済まされない。


【「小学生から高校生まで、いまやスマホを使っているのは当たり前」か?】
 何がいい加減かというと、前提が既に間違っている。
小学生から高校生まで、いまやスマホを使っているのは当たり前、日常生活の一部になっている
 こんなことは少し調べればわかることだ。

平成29年度青少年のインターネット利用環境実態調査 調査結果(速報)――内閣府
によれば、
スマートフォンを持っている小学生は29.9%、中学生でも58.1%しかいない
 小学生の3分の2、中学生の3分の1は今もスマホを持っていないのだ。

 さらに
子供たちは、学校ではスマホを隠し持っていた。このことは、多くの教師も知っていて黙認してきた。
 これについてはもう「根拠を示せ!」と言うしかない。

 確かに摘発しきれないことも少なくない。しかし
知っていて黙認してきたとなれば話は違う。校則について教師が見てみぬふりをしていたとなるとあらゆる校則が破られる。持ち物について言えば、
「スマホはよくて、化粧品はなぜいけないのだ(両方とも校則で禁じられているのに)」
といった話にすぐなってしまう。それを説明できる教師はいない。校則はひとつ倒れるとドミノ倒しだ。だから校則に書いた以上は守らせるのが教師だ。

「オレはいつもスマホ、学校に持っていくよ。先生なにも言わないもん」
などという子どもの話を鵜呑みにするからこうしたみっともないことになる。


【外国は常に日本より優れているのか、外国がやっていることが優れたことなのか】
 そしてこうしたときにすぐに外国を持ち出すのが半可通の常だ。
 フランスやスウェーデンでは、学内でスマホを使うのは禁止されている。しかし、ICT教育は進んでいる。アメリカではほとんどの州でスマホ持ち込みは自由だし、ICT教育はどんどん進んでいる。子供たちはタブレットで宿題、予習、復習をやっている。

 だから何だというのだ。
 フランスやスウェーデンのICT教育が日本よりはるかに進んでいるという話は寡聞にして聞いていない。ましてや教育成果として日本を圧倒しているなど聞いたことがない。
 しいて言えば私の知っているのは、フランスのルノーが日産や三菱の技術支援に頼っているということくらいだ。
 
 アメリカに至っては笑止千万。
タブレットで宿題、予習、復習をやるとPISAの科学・数学分野で24位と40位(日本は2位と5位)になっちゃうよ、といった話にしか聞こえない。
 もちろんマーク・ザッカーバーグやビル・ゲイツがタブレット学習のおかげで今日の地位を築いたと証明するなら耳を傾けよう。しかし私の知る限り、そんなことはない。
 タブレット学習でコンピュータスキルが高まったという話もない。

 
【問題はスマホではない。学校が用意できないCPを親に買わせることだ】
 要するに、問題はスマホにあるのではない。スマホをはじめとするコンピュータをどう使いこなすかを、これから育っていく子供たちに教えなければならない。
 同意してもいいが、小学生の3分の2、中学生の3分の1の家庭にスマートフォンを買わせて学校に持ってこさせるのではなく、それは本来、学校が用意すべきものなのだ。
   学校で使う以上、LINEもTikTokもインストールされていない、フィルタリングとアクセス制限のしっかりしたタブレットを児童生徒に貸与して行う――それが原則で、何が入っているのか分からない個人用スマホで、生徒が自由にやり取りしていい場ではない。

 社会科の時間に調べ学習をしているふりをしながら、実は児童ポルノの共有作業をしていたといったとき、誰も教師の責任を問わずにいてくれるか?
 

 教育予算を増やせないから、児童生徒がネット犯罪やネットいじめに巻き込まれる危険も顧みず、親の経済的負担や教育的信念も無視してスマホを用意させる、そこに問題があるのだ。
 
 え? 文科省は替えとは言っていない?
――もちろん言っていないが、クラスの3分の1(小学校)あるいは3分の2(中学校)の児童生徒が安全のためにスマホを持って登校する状況で、「ウチの子」だけに我慢させることのできる親は少ない。

 ましてや山田氏の言うように授業で使用するとなると、「調査学習でスマホを取り出す同級生を横目に、たいして本の種類もない学校図書館に向かうわが子」を想像するだけで、普通の親は翌日にはスマホショップに出かけ、どんな犠牲を払っても通信費を払い続けるだろう。
 そうした親の心理を知った上で、文科省も山田氏も言っている。

 山田順氏は児童生徒やその家庭に厳しく、政府や地方公共団体に甘い。

 
【ところで】
いずれ、ネットと人間の脳が接続される「ブレイン・マシン・インターフェース」がやってくる。人間は「ポストヒューマン」になる。
と言うが、山田氏はほんとうにそんなことを信じているのだろうか?

 もし人間がコンピュータと直接つながり、人知を超えた存在(=ポストヒューマン)になるとしたら、私たちは勉強などする必要はないだろう。知識の量においても検索にしても、機械の方が圧倒的に優秀なのだから。
 
スマホをはじめとするコンピュータをどう使いこなすかも学ぶ必要はない。そのつど検索にかければいいだけのことだ。
「コンピュータのことはコンピュータに聞け」
と、昔から言うではないか。











2019.02.19

小中学校への携帯電話持ち込み
認める方向で検討 文科相


[NHK 2月19日]


小中学校への携帯電話の持ち込みについて、柴山文部科学大臣は、災害が起きた際の児童・生徒の安否確認などに必要なケースもあることから、持ち込みを認める方向で検討を進める考えを示しました。

子どもたちの小中学校への携帯電話の持ち込みは、文部科学省、平成21年に出した通知で、教育活動に直接必要がないとして、原則、禁止されています。

こうした中で、大阪府教育庁は、大阪府北部の地震を教訓に、児童・生徒の登下校中に災害が起きても、安否確認をできるようにしようと、持ち込みを認める方針を決め、18日、ガイドラインの素案を公表しました。

柴山文部科学大臣は記者会見でこの素案について、「持ち込み禁止を緩和する一方、適切な使用について児童・生徒や保護者に条件をつけていて、さまざまな懸念や問題に一定の配慮がなされている」と指摘しました。

そのうえで、柴山大臣は、「学校を取り巻く社会環境や児童・生徒の状況の変化を踏まえ、平成21年の通知の見直しを検討していく」と述べ、持ち込みを認める方向で検討を進める考えを示しました。




 愚かにもほどがある!

 災害が起きた際の児童・生徒の安否確認などに必要なケースもある
とそれはごもっともだが、災害時に安否確認しないでいい子というのは存在するのか? 


 いざという時のためにAちゃんもBちゃんも持っている携帯電話を、うちの子に持たせないのでは虐待を疑われても仕方がない。
 オマエの安否確認については、他の親のような興味も関心もまったくないといっているのと同じだからだ。

 私の孫もしばらくすると小学校だが、ランドセルはあちらのご両親にお願いして、スマホと以後の通信費は私たちでもつしかないだろう。若い連中には金がないから――と、そんなことが全国で起こる。
 
 学校で携帯がなくなったと騒ぎになる。誰かが触って壊したと問題になる。
 それが怖くて教師が毎朝回収すると、その分仕事が増える。
 万が一事故があって集めたうちの一個でも発火した場合、責任はだれが取るのだ?

 
 ネットいじめを何とかしなくてはいけないといっている今、
 子どもたちがネット犯罪に巻き込まれると心配されているこの時期に、
 なんでわざわざスマホの所持率を上げなくてはならないのか。

 
 いやその点は大丈夫、
「持ち込み禁止を緩和する一方、適切な使用について児童・生徒や保護者に条件をつけていて、さまざまな懸念や問題に一定の配慮がなされている」
と柴山大臣はおっしゃるが、


 その条件を守らせるのは誰の仕事か――明らかにしてほしい。

 まさか超過労働時間の上限を切って、あとがない学校職員ではないだろうな!?







2019.02.16

人口10万人あたり統計職員 英国の5分の1
業務も分散し非効率


SankeiBIz 2月 9日]

 各国政府の統計職員数について、人口10万人あたりで比較した場合、日本は2・1人と米国の半分以下、カナダや英国の5分の1以下と、諸外国と比べて大幅に少ないことが9日、分かった。職員数が少ないにもかかわらず、日本は統計作業を各省庁が行い、人手も必要な「分散型」の仕組みを取っており、専門家からはこうした非効率な体制が毎月勤労統計など不適切調査の背景にあるとの指摘も出始めている。
 近年も日本の統計職員は減少傾向にあり、厚生労働省や経済産業省などは10年間で1割以上減少。政府関係者は「公務員の人件費に対しては抑制圧力が高まっており、統計職員にしわ寄せがきている」と話す。

 ただ、神奈川大学の飯塚信夫教授は「問題は人員の少なさだけではない。統計不正問題では各省庁が統計を行う『分散型』の限界が露呈した」と指摘する。

 統計は国によって日本や米国のように各省庁がそれぞれ行う「分散型」と、カナダのように一つの機関が代表して行う「集中型」がある。分散型は、行政ニーズに迅速・的確に対応できるといったメリットがある一方、それぞれの統計部門が小規模になり、統計以外の部署に異動することも多く、統計の専門家が育ちにくいといった欠点があるという。

 毎月勤労統計の不正問題では、初歩的なミスやチェック機能が働いていなかったことが問題となった。飯塚教授は「今の数倍の人員がいれば分散型でもいいが、人を増やせないなら集中させることを検討すべきだ」と話す。

 ただ、「業務を集中させることで、さらなる人員削減が行われる可能性がある」(関係者)との見方から、統計職員の間では集中型への移行に後ろ向きな意見は少なくない。




 厚労省の統計不正問題についてはこのひと月あまり、国会もテレビの情報番組も新聞も、官僚の杜撰さ誠意のなさ、隠ぺい体質につて非常に強い調子で批判してきた。
 
子どものころの私は“官僚”というのは政府を食い物にする悪徳役人のことだと思っていたが、今回はさらに「怠けもの」「少しでも気を許せば手を抜く狡猾」といった印象も付与することになった。
 政治や経済も厭わない、ちょっと気の利いた小中学生なら、現代でも私と同じように考えるだろう。
「なぜ悪と知りながら、政府も国会も“官僚”を一掃できないのか」
と。

 さて度重なる報道を経て、ようやく「不正がなぜ続いたのか」「なぜ正せなかったのか」については明らかになってきた。しかしテレビや新聞を見ている限りでは「なぜ不正が始まったのか」はよく分からない。
 国会もメディアも、その部分を一生懸命避けながら、問題の周辺をグルグル回っている感じなのだ。政府もそれを説明しない。そのくせ多くの人たちがうすうす疑っているのだ。
「これは、やらなかったのではなく、できなかったのかもしれない」と。

 2月9日付の産経新聞「人口10万人あたり統計職員 英国の5分の1 業務も分散し非効率」はそうした疑問に応えるものだった。要するに手が足りないのだ。

 考えてみるとしばらく前から厚労省はつまらぬミスが多かった。しかも決定的な場でのケアレスミスだ。
 例えば2014年の職業能力開発局による決済後の文書の書き換え、あるいは昨年2月の労働時間調査の不適切なデータ比較。
 10年以上遡ればもっと深刻な問題、「消えた年金」がある。
 
 そのつど機会があってそのいずれかのときに根本的な対応策を取っていれば、今回の問題はなかったかもっと早くに是正されていたはずだ。

 カナダや英国の統計職員は日本の5倍以上とか。フランスもアメリカも2倍以上。
 ドイツは日本とほぼ同じだが、記事によれば
 中央政府だけを比べれば日本と同水準だが、各州に計六千数百人の統計職員が配置されている
とか
 
 これで厚生省職員が悪者、もしくは怠け者扱いされたのでは気の毒だ。
 私は産経新聞の記事によってそのことを確認したが、実はネット上には同様の話が多数あった。
(例えば『統計不正問題「官僚叩き」よりも先にやるべき抜本的解決策を示そう』


 人も金も出さず、仕事だけは増やし、
 ミスを侵せば叩き、
 仕方がないので長時間労で凌ごうとすると
「働き方改革」で時間制限をする
 その上でさらにきちんとした仕事をしろという。


 厚労省役人はほんとうに大変だ。

(もちろん学校の状況を念頭に置いての言いである)