キース・アウト
(キースの逸脱)
2019年 3月

by   キース・T・沢木





2019.03.26



通知表の所見が「つまらない」親はモヤモヤ
内容が“報告書風”になった深い事情


AERA dot. 3月26日]


 通知表の所見に「教師は子どもに本当に寄り添っているのか」とモヤモヤする親。 一方、教師自身が葛藤を抱えているケースも。所見はどうあるべきなのか。

*  *  *
 学期末、小学2年生の男の子を持つ母親(39)は通知表を受け取るとドキドキ。成績の評価の次に「学校から家庭へ」と書かれた「所見」を読むのが楽しみだったからだ。1年生の時はこんなふうに書いてあった。

「体育の『マット運動あそび』では、前転がりがなかなかうまくできず悔し涙を流す場面もありましたが、諦めずに繰り返し練習していました。〇〇さんのできるようになりたいという気持ちの強さが感じられました」

 親の知らない所で頑張る息子の姿に熱いものがこみあげた。

 しかし2年生で担任が学年主任に代わると、至極さっぱりした記述に一変した。母親は言う。

「例えば『この発表会でこういうことをしました』といった報告みたいな文なんです。発表会は私も見にいったので、そんなことはわかっている。知りたいのは、子どもがそれに対してどのように取り組んだか。通知表を見る興味は半減しました」

 通知表の所見が「つまらない」「味気ない」と感じる保護者は少なからずいるようだ。一方、教師自身が葛藤を抱えているケースもある。6年間で二つの小学校に勤めた元教師の女性(29)はそのひとり。

「2校目は必要以上にミスやクレームを恐れる学校で、所見には誤記載防止のため個人名は入れず、内容も主観を省くよう指導されました」

 所見の表記や方針は学校や管理職によって変わる。その結果、前校では例えば、

「みちえさんが花壇の花に欠かさず水やりする姿をすばらしいと思いました」

 と書いていたものが、

「水やり係として、花壇の花に欠かさず水やりを行いました」

 と観察記録のような記述へ。

「心の通わないものとなり、疑問を感じました。過剰に守りに入ることで、本質を見失っている気がします」(女性)

 通知表は手書きから印字へ。電子化が進むが、3年生の娘を都内の公立小学校に通わせる女性は4月に担任から聞いた言葉に耳を疑った。新システム導入で所見の字数に制限ができ、以前ほど書けなくなるというのだった。

「書きたいことが書けなくなるシステムでは、本末転倒ではないですか?」

 そもそも所見は何のためにあるのか? 教育評論家の親野智可等さんは次のように説明する。

「数字の評価だけでは表せない部分を文章化して親に伝えるのが目的です。かつては子どものいいところも悪いところも書きましたが、今は励ましの意味合いが強くなっています」

 その点、前出の主観を省いた記述は目的を十分に果たせていないと、親野さんは指摘する。そんな内容でも所見は必要なのか。教師の過重労働が問題視されるなか通知表の作業は負担が重く、とりわけ所見の記述は手間がかかる。徹夜や休日作業もざらだ。

「成績の記録は、公的に記録し残さないといけない指導要録と、校長の裁量に任されている通知表がある。通知表のない学校も存在しますし、所見はやめようと思えばできます」(親野さん)

 実際にやめたケースはある。30代の男性教師が勤める関西の小学校では、校長の提案で昨年2学期の所見記入をやめた。猛暑の影響で運動会の日程がずれ、個別懇談会が12月に。児童の成果や課題は所見ではなく懇談会で伝える旨を学校便りで通知し、親からクレームが入ることはなかったという。

「管理職が通知表の作業の負担の大きさを理解していたのと、そうしたことに必要以上に時間をかけるより直接子どもに関わる授業準備などに重きを置くべきだという考えが根底にあったため実現しました」(男性)

「子どもにとって優先すべきことは何か」を念頭に、その目的をどう果たすか。親と教師双方にとってベストの方法を考えていくことが必要なようだ。(編集部・石田かおる)


【通知票はなくならない】
「通知票は公文書ではないから校長裁量でなくしてもよい」という一般論はあるが、実際になくしてしまった学校があるとか、なくしてしまえといった話にはほとんど聞かない。(*1)
*「昔からない」という学校は知っている。ただし同時に、「だから親たちはしかたなく、高学年になると塾に入れるようになる」という話も聞いている。


【子どもの状況を知らせる】

 なぜ通知票がなくならないかというと、少なくとも親と教師の双方にとってメリットがあるからだ。そのひとつは、学校における子ども様子を知る、知らせるということである。

 親になって子が学校に行き始めるとびっくりさせられるのは、学校における我が子の姿が全く想像できないということである。幼稚園のときと同様に、遊んでいる姿はなんとなくわかる。しかし勉強している、係活動をしている、当番活動をしているといった姿はどうにも思い浮かんでこない――そうした親の不安に対して、学校は適切に情報を出していく必要がある。

 また学校としても、ある程度定期的に情報を出して、その子がどんな児童なのか、成績はどの程度なのか、どんな点に課題があるのか、そういったことを知らせておかないと、あとでとんでもないしっぺ返しを食らったりする。

「勉強ができねえできねえとは思っていたが、ここまでできねえとは!」
とか、
「こんなに酷い成績だと知っていたら、どんなに無理をしてでも塾にやったり家庭教師をつけたりしたのに」
 あるいは、
「これじゃあどこから見たって立派な不良少年じゃないですか。こんなになるまで、なぜ知らせてくれなかったのですか。私たちだけが知らずに、他の親御さんがみんな知っていた――、そういうことですよね」
 そんなふうに親が嘆くとしたら、そちらにこそ理がある。
 
 他の子と比べてはいけないという言い方もあるが、他の子と比べなければ分からないこともある。その点で親の認識には限界があるのだ。それを一番知っている学校にこそ、伝える義務があるといえよう。


【保護者の信頼をつなぐ】
 通知票にもう一つ重要な働きは、保護者の信頼感を勝ち取る道具だということである。
 記事の中の
 「学校から家庭へ」と書かれた「所見」を読むのが楽しみだった
 親の知らない所で頑張る息子の姿に熱いものがこみあげた。

 がまさにそれだ。
 
「体育の『マット運動あそび』では、前転がりがなかなかうまくできず悔し涙を流す場面もありましたが、諦めずに繰り返し練習していました。〇〇さんのできるようになりたいという気持ちの強さが感じられました」
 結局前転がりはうまくできなかったかもしれない、でもそんな技術的な問題ではなく、先生はウチの子の頑張りを見ていてくれていた、この子の“気持ちの強さ”を認めてくれた、先生はこの子の良い部分をいつも見守ってくれている――

 そうした信頼感は教師の行動を肯定的にとらえる基礎となる。
 
 学校というのは子どもの前にハードルを置いて跳べという世界だ。
 誰も算数や数学が好きで学校に来ているわけではない。そういう子もいるかもしれないが、学校の全教科が好きで、学級活動のすべてが好きで、児童生徒会活動が好きで、先生や友だちが大好き、といった子は稀だ。
 子どもたちは全部が好きなわけではない。それにも拘わらず教師はいつも、方程式を解け、漢字を覚えろ、英語をネイティブに近づけろ、嫌な奴とも仲良く活動しろ、苦しくとも弱音を吐くな等々、等々・・・本当に嫌なことばかり言う連中だ・・・子どもの見立てはそんなものである。
 
 学校は嫌なこともたくさん頑張らなくてはいけないところであり、それだけに子どもも愚痴を言い、文句も言いたくなる。家に帰って思わず保護者に漏らす。
「ほんとうにあの先公! 何をやらせるんだ!」

 その瞬間、
「いや、あの先生のことだかきっと〜じゃない?」
と親にフォローしてもらえる教師と、
「それは先生がおかしい。あの先生、前から変だよね」
と親子で一緒になって非難される教師とでは、ずいぶんと先行きが違ってくるだろう。
 
 
【たいへんは確かだが】
 教師の過重労働が問題視されるなか通知表の作業は負担が重く、とりわけ所見の記述は手間がかかる。徹夜や休日作業もざらだ。

 それは事実である。しかしそうやって通知票でたっぷり時間を使い、手間のかかる所見の記入をすることが結局は年間を通すと大きな時短になる。
 通知票なんて一週間も必死で頑張ればなんとかなるが、親とのトラブルや家庭に支援されない生徒指導の負担は何百時間にも及んだりするのだ。

 なお、記事の中に通知票の所見記入をやめた学校の事例があるが、よく読むとやめたのは「
2学期の所見記入」だけだ。しかも猛暑の影響で運動会の日程がずれ、個別懇談会が12月に。という事情があってのこと。
 個別懇談会で直接話すのは、所見欄に文章で表現するよりはるかにいいことである。そうである以上2学期の所見記入は当然いらないし、これを前例として個別懇談会は12月に固定すればいいのだ。
 
 また、さらに言えば
本当に優秀な教師は通知票の時期を待たずに、いいことがあったらその日のうちに電話で知らせたりしている
 そういったこまめな対応のできる教師は、通知票の所見欄ですら簡単に済ませることができる。

 通知表は手書きから印字へ。電子化が進むが、(中略)新システム導入で所見の字数に制限ができ、以前ほど書けなくなるというのだった。
 そういうこともあろうが手書きより印字の方が何倍も字数が入るのは普通だし、それでも足りなければ別紙に印刷して糊で張り付けてしまえばいいのだ(私はそうした)。

 どうせ公文書ではないのだから、固く考えることもないと思う。








2019.03.21



トイレ個室で隣から『濡れた紙』が…投げ込んだ8歳男児引っ張り出し平手打ちか
43歳男逮捕


[東海テレビ 3月19日]


 三重県鈴鹿市のショッピングセンターで小学2年の男子児童(8)の顔を叩いたなどとして、トラック運転手の男が逮捕されました。

 逮捕されたのは津市のトラック運転手の男(43)で、19日午後6時頃、鈴鹿市庄野羽山のショッピングセンターで、小学2年の男子児童(8)の左頬を平手打ちした疑いが持たれています。

 男がトイレの個室に入っていたところ、隣の個室にいた男子児童が壁と天井の隙間から濡れたトイレットペーパーを投げ込んだということです。

 男は男子児童の胸ぐらをつかんで個室から引っ張り出し犯行に及んだということで、「カッとなってやった」と容疑を認めています。




【一部の子どもは小悪魔のように頭がいい】

 子どもは天使ではないにしろ悪魔でもない――そう思おうとしているのだがときどき、
よくもまあこんなふうに適切に、人の嫌がることや怒ることを掘りあてるものだと感心することがある。

 昔、暴力団の事務所前で爆竹を鳴らすと面白いということを発見した中学生がいて、何度も繰り返しては発砲されたと勘違いして飛び出してくる組員を陰であざ笑っていたところ、とうとう捕まって連れ込まれ、「こんなことをしていたらロクな人間にならない」と説教をされたという話があった。

 それと同じで、
濡れたトイレットペーパーが飛んできて一番あせるのはやはりトイレの個室内だろう。道端で投げつけられたってあまり感じないが、“個室”に投げ込まれたものは何の液体で濡れているのか分からないかである。

 8歳(小学校2年生)にしてそんなことを思いつくなんて、天才的なワルガキだ。
 そんな天才を捕まえたとき、私たちに何ができるか?

【教師の対応】
 これが学校内で起こった事件で教師が被害者なら、ことは簡単だ。こうした事件への対応には様式があってそれに従って指導していけばほぼ間違いない。

 具体的に言えば
1 捕まえて相談室に引きずり込む
2 鬼の形相で「何をやったんだオマエは!」と一喝して主客を明らかにする。
3 起こしてしまった事件を具体的に確認する。小学校の高学年以上だったら作文に書かせる。低学年はムリなので何度も語らせて、事態を客観的に見られるようにする(対象化)。
4 被害者のいる場合は謝罪させる。
5 保護者に報告させる。
6 ほんとうに報告できたかどうか、担任は確認をする。
といったところだ。ことが重大な場合は、後日、保護者と一緒に謝りに行くため4〜6の手順は入れ替わる。

 ところが起こった場所が学校ではなく、子どもも自分の教え子でなかったりすると厄介だ。たとえ職業は教師であってもその子にとっては“知らないオジサン”である。対応を誤れば記事の43歳と同じことになりかねない。
 しかしだからと言って見過ごすこともできない。正義の問題はもちろんあるが、それ以上に見過ごした場面を自分の学校の児童生徒に見られたらそれこそ身の破滅だ。子どもは途端に言うことをきかなくなるだろう。
 だから半分は仕方なく、もう半分はその子のために、指導に入らなければならないのだが、いかがしたものか。
 
 
【町のオジさんとしての指導】
 私はたぶんその子の方をがっしり掴んで、少し大きな声で、
「どうしてそんなことをするんだ!」
 とにらみつけるだろう。
「こんな濡れたトイレットペーパー投げ込んで、相手がどんな気持ちになるか、もちろん分かってるんだろーな」
くらいは言うかもしれない。しかしそれらは意味ある言葉ではない。
 そんな場所で初めて会う、つまり人間関係のない子どもを、言葉のやり取りだけで指導できるなどとは露ほども思っていないからだ。

 本当は
ここで一発ぶん殴って大人の世界の恐ろしさを思い知らせ、トラウマとして心の底に刻印してしまうのが一番簡単で親切なやり方だが、他人のお子様のために人生を棒に振るのも愚かだろう。
 いまそこでやれることは時間稼ぎだけである。

 おおごとになりすぎてはいけないからショッピングセンターの何百人もの気をひかないように注意しながら、しかも私が誘拐犯や暴漢でないことを理解してもらうために適切に説明しながら、保護者か警備員の来るのを待つ。
 私にできるのはそこまでだ。
 保護者が来ればその場で事情を説明し、一緒に謝ってもらう。警備員や警察官を通すにしても、最後は親が深々と頭を下げ、その惨めな姿を子どもの目に焼き付けるようにしておかなければならない。
 それで初めて、事件は将来の抑止力として働くことになるのだ。
 
 ただしそんなやり方を瞬時に思いついて実行に移せるのは、補導員や児童相談所の係官、そして学校教師くらいのものである。日ごろから厄介な子どもに慣れているからこそ思いつくプロの仕事と言っていいだろう。
 
 
【実際にできること】
 普通の生活をしている限り、悪ガキの悪戯の被害者になるといったことは滅多にないだろう。
 その“滅多にない”ことに遭遇して思わず「カッとなってやった」ことで逮捕されるなんて、津市のトラック運転手はほんとうに気の毒だ。
 小便まみれかもしれないトイレットペーパーを頭上から投げ込まれた上での逮捕だ。それでも殴ってはいけなかった。
 
 じゃあ泣き寝入りするしかなかったのかと言えば、実際にできることはほとんど思いつかない。せいぜいが警察に引き渡す程度のことである。
 
 しかし、待てよ。
 もしかしたら現代ではそれが一番の名案なのかもしれない。
 
 カエサルのものはカエサルに
 
 犯人が子どもでなければ立派な犯罪なのだから。
 
 
 






2019.03.16



小学校卒業式のはかまに賛否…なぜ問題視?

[読売新聞 3月14日]


 「格差を助長しかねない」「すそを踏まないか心配」「子どもにふさわしくない」……。小学校の卒業式で女子児童を中心に、はかまを着用するケースが増えている。賛否の意見が分かれており、保護者らに「自粛」を呼びかける自治体もある。はかまは、ハレの日の正装とされているにもかかわらず、なぜ問題視されるのか。和装業界に詳しい立命館大学経営学部の吉田満梨准教授に解説してもらった。

小学生は新たなユーザー

 近年、小学校卒業式でのはかまの着用が議論を呼んでいる。

 
2011年ごろから各地の小学校で、卒業式に和装で参加する児童が増えはじめ、自治体や教育委員会が自粛を呼びかける動きも出ている。その理由は、「服装が華美になりすぎる」「保護者の経済的負担が大きい」という声が目立つが、「着崩れが心配」「トイレに行く時に困るのでは」といった懸念もある。

 私はマーケティングの研究者だが、5年ほど前から、自らきものの着用を始めたことをきっかけに、和装関連市場の分析も行っている。

 注目しているのは、近年、きもの市場に多様で新たなユーザーが生まれている事実である。議論となっている小学校卒業式用のはかまも、きものへの関心の高まりの中で成立した新たな製品カテゴリーであると考えられる。規制の是非を問うより、むしろ地域や和装業界が協力しながら、どう向き合っていくかを考えるべきだと感じている。


 そこで、今日の卒業式における和装人気の背景と、なぜそれが問題視されるのか、どのような解決の方向性があるのか、考えてみたい。
(以下略)
                        
全文は→「小学校卒業式のはかまに賛否…なぜ問題視?


【小学校卒業式の和装にもっと積極的に取り組んでいこうという立場】
 文意はこうだ。

 2011年ごろから各地の小学校で、卒業式に和装で参加する児童が増えはじめ、自治体や教育委員会が自粛を呼びかける動きも出ている。

 
しかし近年、若者たちの間に着物への関心が高まり、きもの市場に新たなユーザーが生まれているのは事実であり、小学校卒業式用のきものもそうした需要に対応したものである。

 そもそも明治までさかのぼれば、子どもたちは卒業式などのハレの場へ、「袴羽織の盛装に威厳を正して」家を送りだされていた。
 それが本来の姿である。


 戦後、きものには高価といいネガティブ・イメージがつけられ、家庭内に着付けなどのスキルもなくなったために今日の衰退を招いたが、いまや標準セットで8000〜2万5000円程度と、成人式や大学の卒業式と比べてずっと手ごろな価格のものも出てきている。

 またインターネットの普及でYoutubeなどを通して着付けの知識も普及しやすくなっている。

 
 さらにきものの産地では、自治体と市民ボランティアが協力しながら、その土地で作られる本物のきもので小学校卒業式を祝おうという動きもある

 
 これほどの取り組みは、産地でこそ可能だとしても、小学校卒業式で和装を積極的に活用することで、日本の文化としてのきものや、地域産業の魅力を学ぶ機会とすることはできるだろう。(中略)地域と産業、教育機関が一体となって、取り組む価値のある課題ではないかと考えている。


【小学校卒業式のはかまを問題視する本質的な理由】
 記事のタイトルが「小学校卒業式のはかまに賛否…なぜ問題視?」でありながら、「賛」だけあって「否」がない。そうなると「なぜ問題視?」も単なるイチャモンにしか聞こえなくなる。
 若者が喧嘩を売る際によく使う「それで?」とか「で、ナニ?」とかいうアレである。

 
 いつも言っていることだが学校に持ち込まれるもので悪いものはない。
 ハレの日を正装でというのも文句のつけられる話ではない。日本の伝統文化としての和服に、子どものうちから触れさせたいと気持ちも分かる。地域産業の振興、郷土愛の育成。地域と産業と教育の一体化、それも必要だ。

 
 だからもちろん、記事にあるように、地域の人々が児童全員分のきものを用意し、ボランティアで着付けもしてくれるというなら敢えて断ることはしない。
 ただでも緊張する卒業式を慣れない和装で行う子どもたちも大変だが、卒業式は税金を払ってくれた地域への感謝とお披露目という意味もあるから、それくらいは我慢させよう。子どもにはよく言い聞かせ、頑張らせよう。

 
 しかしいま話題になっているのはそういうことではなく、一部の保護者が自費で和装をさせてくるという問題だ。果たしていことかどうか――

 
 ありていに言えば、「そんなのダメに決まっているジャン」と教師たちは思う。

 成人式や大学の卒業式と比べるとずっと手ごろとはいえ、たった一日、それも数時間のために8000〜2万5000円を払える親がいる、その一方で(それがあるべき姿だというなら)“正装”させられない親もいるのだ。
 そんな「“正装”で参加できない子」がひとりでもいる限り、学校は規制に走ろうとするし、しなければならないと考える。
 貧しい者は富める者の真似をできないが、富める者は貧しい者に合わせることができるからだ。

 
 
【小学校卒業式のはかまを問題視する些末で現実的な理由】
 
小学校卒業式のはかまに賛否…なぜ問題視?の答えはそれで十分だと思うが、読売新聞は平等よりも自由が大好きだし、吉田満梨准教授は和装文化のさらなる興隆がご希望なようだから、もっと些末で現実的な理由についても触れておこう。
 
 学校というのはもともと超がつくほど保守的な場所である。旧来の、歴史があるから保障されているようなやりかたを容易に変えない、絶対にと言っていいほど変えない。
 もしかしたらこちらの方がいいのかもしれないと思うような場合であっても、なかなか手を出してこない。なぜならやってダメな時に取り返しがつかないからだ。
「その方がいいと思ったんですけどやったらダメでした。ごめんなさい、残念!!」
で許してくれる保護者がいるとは思えない。子どもを実験台にするわけにいかないのだ。


 だから卒業式に高額なレンタル料を払って和装でくる子がいると聞くと反射的に警戒する。新奇なことがどういう結果をもたらすか正確には想像できないからである。
 例えば、黙って放置したところ全体の2割ほどが和装になってしまったころに別の保護者の要請が入る。
「娘がどうしても和服で卒業式に出たいという、しかしウチにはそんな余裕はない、何とかしてくれ」
 あるいは、
「仲のいい女の子同士で一か月前から『きもの自慢』が起きている、ウチはきものを着せる予定はないが、そのために仲間外れにされるのも困る、何とかしてほしい」

 もちろん理解できることなので指導はするが、この場合、きものを着ない子たちに「我慢しましょう」と言うのと、着る側に「着られないお友だちのことを考えて、あなたの方が我慢して諦めましょう」と言うのと、どちらが教育的か――。

 そこで保護者全体に自粛要請をすると今度は着させたい側から強力なクレームが入る。

「もう2年も前に予約して前金も払っている。今さら解約できない。学校はキャンセル料を払ってくれるのか」
等々。バックには読売新聞も立命館大学もついている。


【転ばぬ先の杖――見通しのつかないことには、とりあえず反対しておく】
 板挟みになったところで学校は改めて考える。
 ところで、卒業式の児童の和装を黙認して、自分たちに何かいいことがあるのか?
 それも問題視する理由の一つだ。
 見通しのつかないことには、とりあえず反対しておく。問題が起こってから止めさせるのは容易ではないからだ。
 義務教育学校で、派手な服装の卒業生が出てきたら、きものに限らず一応自粛要請をして様子をみる。やばいと感じたらすかさず止めに入る。
 それをしなかったばかりにたいへんなことになった例を、私たちはたくさん見てきたからだ。

 さて、私が二十歳になったころは成人式でさえきものを問題にする自治体があった。当時は人々がまだ貧しく、高額なレンタル料に耐えられない家庭がいくらでもあったからだ。案内にも「簡素な私服での参加が望ましい」とあった。
 しかし学校行事と違って事前指導といったことはできないから、いつの間にか女性はほぼ全員が着物姿になってしまった。やがて男たちも和装にこだわるようになる。そして今も状況だ。

 九州や沖縄の成人式は特に有名だが、男も女も和装が中心だ。「威厳を正して」いるかどうかは疑問だが「袴羽織の盛装」で家を送りだされてくる。さすがにそれが読売新聞や吉田満梨准教授が望む姿だとは思えないのだが――。

 え? 小学生があんなかっこうをしたがるとは思えないって?
 それはそうだ。ほとんどの児童はあんな姿に憧れない。

 しかし保護者は必ずしもそうではない。自分自身があんな姿で成人式に出席した親たちはの中には、“あんな姿がかっこういい”“あんな姿が可愛い”“あんな姿で自分の子どもを飾りたい”と思う人間が必ずいるのだ。

 成人式を模した着物姿で卒業する子が3人も4人も出てきた段階で、慌てて自粛要請をしたり禁止したりする・・・そんなことなら最初からやらせない方がよほどましだ、と教師は考える。

 しかしそれでも、読売新聞はいやなんだろうな、問題視は。