キース・アウト
(キースの逸脱)

2020年 8月

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by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。














2019.08.05

 公立小中、先生が足りない
全国で1241件「未配置」


[朝日新聞デジタル 8月 5日]


 全国の公立小中学校で、教員が不足している。教育委員会が独自に進める少人数学級の担当や、病休や産休・育休をとっている教員の代役などの非正規教員が見つからないためで、朝日新聞が5月1日現在の状況を調査したところ、1241件の「未配置」があった。学校では教頭が代わりに授業をしたり、少人数学級をあきらめたりしており、教育の質にも影響が出かねない。

 単純計算すると、全国の公立小中学校約3万校の約4%で教員が想定より足りないことになる。文部科学省は教員の総数や雇用状況を毎年調べているが、こうした非正規教員の未配置の詳細は把握していない。国は教員の人件費を予算措置するが、給与額や配置は自治体に委ねている。

 朝日新聞は47都道府県と20政令指定都市、大阪府から教員人事権を委譲された豊能地区の3市2町の計72教委に、5月1日現在の未配置を問い合わせた。1241件の内訳は、独自の少人数学級や特別支援教育などの担当が736件、病休教員の代わりが257件、産休・育休教員の代わりが223件――などだった。

 教委ごとにみると、未配置の最多は熊本県の103件で、茨城県102件、愛知県92件、宮城県85件、神奈川県82件と続いた。計52教委は、対応として「教頭や副校長が担当した」と答えた。また、千葉県では学校の判断で学年を3クラスではなく、2クラスに分ける例が出ている。一方、7府県9市2町の計18教委は「0件」と答えた。

 ばらつきの理由の一つは、非常勤講師の使い方に差があるためだ。非正規教員の中にはフルタイムで働き、授業のほかに部活指導や校務なども担う常勤講師と、パートタイムの非常勤講師がいる。常勤講師が見つからない場合、非常勤講師をあてるかどうかは教委によって異なり、調査では47教委が「非常勤をあてた」と答えた。一方、熊本、茨城両県のように、「非常勤講師をあてない」と答えた教委は、未配置が増える傾向にある。(上野創、編集委員・氏岡真弓)




【講師が足りない現状】
 要はリードにある通り、
1 全国の公立小中学校で、教員が不足している。
2 教育委員会が独自に進める少人数学級の担当や、病休や産休・育休をとっている教員の代役などの非正規教員が見つからないため。
3 朝日新聞が5月1日現在の状況を調査したところ、1241件の「未配置」があった。
4 学校では教頭が代わりに授業をしたり、少人数学級をあきらめたりしており、教育の質にも影響が出かねない。

 ということだが、最後の方がハチャメチャだ。

 ばらつきの理由の一つは、非常勤講師の使い方に差があるためだ。非正規教員の中にはフルタイムで働き、授業のほかに部活指導や校務なども担う常勤講師と、パートタイムの非常勤講師がいる。
 常勤講師が見つからない場合、非常勤講師をあてるかどうかは教委によって異なり、調査では47教委が「非常勤をあてた」と答えた。一方、熊本、茨城両県のように、「非常勤講師をあてない」と答えた教委は、未配置が増える傾向にある。


 
常勤教師も見つからず非常勤教師もあてなければ「未配置」になるのは当然と思うが、ことさら書く以上は何か意味があるのだろうか?
 わからん。

 いずれにしろ調査に答えたうち47教委は非常勤講師を見つけることができて、熊本、茨城両県を始めとするいくつかの教委では講師を見つけることができず、「
教頭が代わりに授業をしたり、少人数学級をあきらめたり」といった状況になっているわけだ。

 教頭はいちおう教員だから担任を配置したかたちにはなる(法律上校長は教員でないため、授業はできない)。
 また少人数学級を諦めるというのは多くの場合、都道府県独自で行っている小学校2年生以上での35人学級を諦めるという意味だろう。記事にも千葉県を例として
学校の判断で学年を3クラスではなく、2クラスに分けるとある。
 
 公立小中学校の1クラスの児童生徒数の基準は、「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」(義務標準法)で、国が定めた標準に基づいて都道府県教育委員会が定めることとされている。
 義務標準法では一クラスの児童・生徒数の標準は40人(ただし、小学校1学年は35人)となっているが、都道府県教育委員会が特に必要があると認める場合は40人を下回る数を1クラスの児童・生徒数として定めることができるとされている。
 
 そのため多くの都道府県教委が2年生、もしくは2・3年生、あるいは2年生以上6年生まで、というかたちで35人学級を実施しているが、それを諦めるというのだ。
 
 ただし
副校長・教頭が学級担任をやっている様はいかにも不自然だし、例えば「お兄ちゃんの学年は71人を23人・24人・24人の3学級にしたのに、妹の学年は同じ71人なのに教員不足で35人・36人の2クラス」という状況を素直に認められる親は少ないだろう
 由々しい事態である。


【教員が不足する要因(需要の側から)】
 教師が足りなくなる要因として、同じ朝日新聞の別記事(「パズルの穴、合わないピースで埋めてる 教員不足に悲鳴」)は、
1 特別支援学級が増えた
2 産休・育休取得者が増えた
3 病休者が増えた
4 早期退職者が多かった
5 再任用を希望する退職教員が少なかった

の5点を挙げているが、それで分析を終えてしまえば、特別支援学級を増やすな、教員は産育休をとるな、療休にもはいるな、早期退職するなということになりかねない。
 問題をはき違えてはいけない。

 
いくら需要が増えたからといって、供給がそれを上回れば何ということはないのだ。
 問題の核心は講師の需要が増えたことではなく、供給がまったく追いつかなくなったことなのだ。
 

【「講師希望者名簿」】
 私が教員になったころ――いやそんなに遡らなくても平成不況と言われたつい十数年前でさえ、講師のなり手はいくらでもいた。教委に置かれていた「講師希望者名簿」にはずらっと名前があったのだ。

 教職は安定したやりがいのある仕事で、1年や2年、あるいは10年浪人をしても追求する価値のある職業だと思われていたころのことだ。実際に不況で勤め口が少なかったこともあるが、有志の若者はコンビニでバイトをしたり望まない職場にいったん身を置いたりしながら、常勤・非常勤の講師として声のかかるのを待っていた。そしていったん講師の口にありつくと、過酷な勤務状況の中でもなんとか勉強して、本採用になるべく教員採用試験を受け続けたものだ。
 彼らが常勤・非常勤講師の大口供給源だった。

 「講師名簿」に名を連ねるのはそうした若者ばかりではない。
 結婚や出産を機に退職した人たちの中から、子育てが一段落して再び現場に戻ろうという人が出てくる。その人たちが講師に応募した。定年退職はしたものの、もう少し働いていたいという人たちも「講師希望者名簿」に名前を乗せた。
 
 名簿には人材がふんだんにあったから、何らかの理由で現職教師の一部がいなくなってもさほど困らなかった――。ところがいま。
 
 
 【教員の不足する要因(供給の払底)】
 空前の求人難が「講師希望者名簿」から若者を奪った。
 ブラックな就業状況が繰り返し流布され、「安定」や「やりがい」を踏みにじった。
 教職よりも給与が良く、やりがいのある仕事がいくらでもあると、若者たちが知ってしまった。
 
 これまでは景気が悪くなると教員志望は増加し、好景気になるたびに減った。しかし今後はよほどのことがないかぎり、多少景気が下がったくらいで教員志望は増えないだろう。
 すでにまっとうな人間のやる仕事ですらなくなっているからだ。もう新卒はあてにできない。
 
 他方、
中途退職や定年退職の元教員たちも「講師希望者名簿」に戻ってこない。その多くが免許を失効してしまったからだ
 
 退職後の暇つぶしに非常勤講師でも・・・と思っていた人も、3万円を払って30時間の更新講習となると二の足を踏む。
 
 前もって分かっている特別支援学級増設ならまだしも、突然発生する産育休や療休への対応となると、その気があっても更新講習など受けていられない。
 かくして「講師名簿」そのものが空になる。
 
 だったら更新講習自体をやめてしまえばよさそうなものだが、政府が「よいこと」として始めたことはやめられない。年間10万人の教師が払ってくれる講習費、総額30億円は大学の収入として定着し、いまさら政府が補填できるものでもない。
 
 
かくして日本中に「担任のいないクラス」が増え続けるのだ。
 それでいいのか?
 
 
 
 



2019.08.16

 保護者が学校のカーテン洗濯やトイレ掃除
傍から見た非常識が「当たり前」になる理由

[Yahooニュース 8月16日]


 先日、関西発のニュースサイトに「学校のカーテンをPTAが洗っている」という話が掲載され、SNS上では「そんなことまで親がやるのか!?」といった驚きの反応が多く見られました。

(参考)学校のカーテンを洗う…って、PTAの仕事!?背景にある学校の厳しい懐事情とは(まいどなニュース)

 この「PTAによるカーテン洗濯」、筆者は取材でたまに聞くことがありますが、やはり比較的めずらしいパタンでしょう。筆者も経験したことはありません。

 同記事は「神戸市の公立小中学校は土足」という話にもふれており、これは筆者も初めて聞いたので驚きました。現地の友人(『PTAのトリセツ』著者・今関明子さん)に尋ねたところ、やはり子どもの頃から上履きがなく、「下駄箱はドラマの世界だと思っていた」とのこと。

 このように、一部(地域)のみの学校やPTAで行われる変わった風習(やり方)は、おそらく全国にいろいろとあるのでしょう。

 レアではありますが、ほかにも「PTAが学校のトイレ掃除をする」「PTA役員が各クラスの児童名簿作成を代行している」(言うまでもありませんがいろいろと問題があります)、などの話も聞いたことがあります。

 ただし、そういったことを「おかしい」と思うのは、他地域(出身)の人間です。ずっとそこにいる人は何とも思っておらず、それを「当たり前」と思いがちです。

 なぜなら、「それ以外」を知らないからです。これは虐待を受けて育った人が、よく「小さいときはこれが当たり前(よその家も同様)だと思っていた」というのと似ているかもしれません。家庭も学校も、(多くの)子どもにとっては唯一のものだからです。

 たとえば筆者が住む地域では、PTAがよく学校集金業務を部分代行しているのですが、疑問を感じている人はそう多くありません。「PTAがやる」以外の選択肢があるということに、皆気付いていないからです。

 筆者もはじめは「そんなものか」と思っていましたが、他地域の人から「えっ! PTA会費だけじゃなくて、学校のお金(給食費や学級費等)までPTAが集めるの!?」と驚かれる経験を何度か繰り返してようやく、「これは“当たり前”ではないんだ」と気付かされました。

 「カーテン洗濯」や「学校集金代行」などだけではありません。

 考えてみれば、「PTAそのもの(全体)」も同様です。いまのやり方を「当たり前」と思っている人が大半ですが、一歩外から見れば、相当おかしなところがあります。

 自動入会も、「できない理由」の公表も、会費の無断引き落としも、もしNPOなど(*1)で行われたら大問題になります。

 いままで「当たり前」と思ってきたことも、外の世界を知り、別のやり方と比較することで、見直すことができます。


*「保護者のお手伝いは当たり前」も、見直しを

 なお、冒頭に挙げた「カーテン洗濯」は、本来どのように行われるのが妥当なのでしょうか。

 同記事で指摘されているように、PTAがカーテンを洗う背景には「学校にお金がない(公費が非常に少ない)」という問題があるわけですが、そもそも学校運営に必要な経費なのですから、きちんと予算化される必要があります。

 学校事務職員の柳澤靖明さんは、著書『隠れ教育費 〜公立小中学校でかかるお金を徹底検証』(福島尚子さんとの共著・8/16発売)のなかで、このように述べています。

 「PTAなどをとおして、保護者が自宅でカーテンを洗う当番をもうけている学校も多い。そもそも学校の共用品を家庭でクリーニングすることは正しいのか考えてみる必要があるだろう。カーテンは子どもが持ち帰るには大きすぎるため、保護者が学校へ取りに行く必要がある。乾かすにしても場所がいる。保護者の負担は大きい。

 わたしの勤務校でも当初は、カーテンクリーニング代が教材費に含まれ、保護者から徴収されていた。それを1年間検討して別の方法に変更し、結果として費用を使うことなく返金にまわすことができた。その秘策は、公費で大型洗濯機を購入したのだ。(中略)

 しかし、そもそもクリーニング代が公費で十分に配当されればクリアできることであり、教育委員会に要求していくことも必要だ。『保護者から費用を集めてクリーニングに出してください』という回答は来ないはずだ。(中略)憲法には義務教育の無償性が謳われている。その理念を忘れてはならない」

 保護者もこういった「学校のお手伝い」を「当たり前」のこととせず、公費の拡充を求めていく必要があるでしょう。

 そして学校側も、「公費がないから保護者にやってもらっている」ということを意識し、この状態を早く終わらせるよう努力する必要があります。

 教育研究家の妹尾昌俊さんと、憲法学者の木村草太さんは、先日行われた教育新聞の対談のなかで、「子どもが学校の掃除をすること」について、このように話しました。

妹尾 「例えば市役所や県庁で、職員が廊下やトイレの掃除をすることってほとんどないです。よほど財政難で困っているところ以外は。それが学校では、ちょっときつい言い方になってしまいますが、『子供の強制労働』みたいなことになっていると」

木村 「子供から『何のために掃除をやるのか』と聞かれたら、むしろちゃんと謝ったほうがいいと思いますけれどね。『日本は公共サービスへの投資が少ないので、皆さんにやっていただかないと学校がきれいに保てません。申し訳ありませんが手伝ってください』と」

出典:教育新聞/【木村草太氏×妹尾昌俊氏】学校の当たり前を法から見直す(下)より抜粋 *購読者限定記事

 カーテン洗濯など、PTAや保護者が行うもろもろの「お手伝い」についても同様に考えられるでしょう。保護者も、学校も、これまでのやり方や考えを、そろそろ見直してみてはどうでしょうか。
                          (大塚玲子 ライター、編集者、PTAジャーナリスト))
 
*1 「子ども会」もPTAと同様に、入学前の児童名簿を学校から入手することで自動強制加入を実現している場合があります(個人情報保護条例に違反)。なお、子ども会とPTAはどちらも「社会教育関係団体」であり、行政との関係がやや特殊です。 参考)「PTAがNPOと違うのはなぜ? 行政・学校と“共依存関係”になる理由」


 大塚玲子という人はPTA活動を中心とする“保護者の犠牲による学校の支援”に一貫して反対し、児童生徒による清掃も含め、すべては公費で賄うべきとの論陣を張ってきた人である。
 保護者の負担軽減が中心的な課題であるから、当然親たちからの受けはいい。しかしそれは果たして現実的な提案と言えるだろうか。
 
 PTAがカーテンを洗う背景には「学校にお金がない(公費が非常に少ない)」という問題があるわけですが、そもそも学校運営に必要な経費なのですから、きちんと予算化される必要があります。

 保護者もこういった「学校のお手伝い」を「当たり前」のこととせず、公費の拡充を求めていく必要があるでしょう。

 もちろん正論なのだが、予算というのは無制限にあるわけではない。
 その辺りの事情は記事が引用してる参考資料学校のカーテンを洗う…って、PTAの仕事!?背景にある学校の厳しい懐事情とは(まいどなニュース) の中にもあるのだが、筆者は読んでいないのだろうか?
 学校予算ではなく市町村教委、あるいは国の予算でやれという意味かもしれないが、市町村にも国にも余分な金があるわけでもない。

 
カーテンのクリーニング代が必要だからといって住民税を上げることもできないし市道や橋の補修費を削ることもできない。

 それでもなお予算化しろと言えば、教育予算の中でのやりくりでしかなくなる。つまり
市町村独自でつけている補助教員を減らすとか、プールの使用期間を減らしてその分の水道代・消毒費用を浮かすとか、図書館に入れる本の数を半分に減らすとかいったやり方である。
 
 現職のころ、私は21世紀になって何年も経つというのに学校の大型地図にソビエト連邦が残っていることに気づき、マジックインキでロシアやらウクライナやらを書き込んだことがある。本当に情けなかった。
 地球儀は、軸が外れてしまったので応急修理したが、素人仕事ではうまく行かず、ソ連やユーゴスラビアが哀しいくらいゆらゆらと揺れて回っている。
 しかしそんなものでもあるだけマシで、大きな学校で社会科教師が3人も4人もいるところでは、不備とはいえ一本しかない地図を奪い合ってさまざまに策略を巡らせたものだ。
 
 上の記事ではクリーニング代を集める代わりに
公費で大型洗濯機を購入した学校事務員の手柄話が出ているが、その代わりに削られたものが何なのか、私は知りたい。
 地域経済の振興費や農業補助から回されたものなら多少我慢できるが、教材・教具を削って洗濯機なら腹が立つ。
 
 そこで何が起こるか?
 おそらく教師たちがこう叫ぶだけだ。
 妙なところに金は回さず、地図を買ってくれ、児童用図書を買ってくれ、先生を減らさないでくれ、カーテンの洗濯なら私たちがやるから――。
 

「PTAがやる」以外の選択肢があるということに、皆気付いていないからです。
 そんなことはない。
“先生がやればいいじゃないか”なんてことは、最初から皆気づいているって!

 もともと大型洗濯機を導入した話にしても、実際に洗濯をするのは教師なのだ。


*ちなみに、児童生徒が清掃をするのは、学校に金がないからではない。それが非常に旧力な教育だと信じているからである。

 
市役所や県庁で、職員が廊下やトイレの掃除をすることってほとんどない
 しかし、高野山や比叡山で学僧が掃除をやらず、業者に任せているとしたら皆、首を傾げるだろう。
 落語家や武道家の門下となった弟子が「先生、掃除は専門業者に頼んでください」といったら即刻、破門に違いない。
 日本には清掃を学びとする伝統があるのだ。

 学校教育について知識のない人が学校批判を言い出すと、とんでもない方向に話が進んでしまう。







2019.08.20

 不登校調査は学校介さず…来年度数百人聞き取り

[読売オンライン 8月20日]


 
 不登校の原因や背景を詳細に把握するため、文部科学省は来年度、欠席が続く小中学生から学校などを介さずに、聞き取り調査を行う方針を固めた。不登校の児童生徒が5年連続で増加し、過去最多の14万人を超えている中、いじめや家庭状況などの背景を多面的に探ることで今後の対策につなげる。

 学校などを通さずに、文科省が児童生徒から実態を聞くのは初めて。民間の調査機関に委託して実施する。対象は数百人で、関連費用を概算要求に盛り込む。

 背景にあるのは、いじめの認知件数が過去最多となっているのに対し、学校側が挙げる不登校の理由では、「いじめ」の割合が極めて低い状況にあることだ。

 文科省では毎年、「問題行動・不登校調査」を行っており、不登校の要因は、「学業不振」「進路に係る不安」「いじめ」などの調査票に示された区分から、学校側が選択し、教育委員会経由で文科省に報告している。ただし、要因を児童生徒から聞き取っているケースは少ないという。

 2017年度の同調査(複数回答)では「家庭状況」が36・5%と最多で、「友人関係」(26・0%)、「学業不振」(19・9%)が続き、「いじめ」はわずか0・5%で、723人だった。

 これに対して、いじめの認知件数は同年度、小中学校で約39万8000件と過去最多を記録。「不登校の要因として挙げている数字と実態に大きな乖離がある可能性がある」(文科省幹部)として、学校や教委を介さずに、児童生徒から聞き取ることを決めた。具体的な質問方法や項目は今後詰めていくが、学校や部活動での状況、教員や親との関係などについて選択式で尋ねることを検討している。

 文科省では「不登校になった原因の本質を浮かび上がらせ、いじめの実態についても検証したい。いじめに伴う自殺という最悪の事態となることも防ぎたい」としている。

 ◆不登校=文部科学省は年間30日以上の欠席と定義するが、病気などの理由は除いている。同省の「問題行動・不登校調査」によると、2017年度は小中学校で14万4031人で、統計開始の1998年度以降で最多。中学生では31人に1人が不登校。


 これはほとんど罠としか言いようがない。

 記事に添付されたグラフを見ればわかる通り、いじめの認知件数は2006年と2012年に飛躍的に増加し、2015年から2016年、2017年とわずか3年の間に2倍にも増加している。2006年から比べると4倍だ。

 その間に学校で何が起こったのか、かくも学校が殺伐としてきた背景には何があるのか・・・。

 テレビ番組の触発された「いじめブーム」が起こったのか、小中学生にまで浸透したどこかの秘密組織が繰り返し指令を出しているのか、あるいは日本転覆を狙う外国勢力が密かに破壊活動を続けているのか――。
 
 そんなことはない。
 単に基準が変わっただけのことだ。これまでいじめと認知されなかったものもいじめとし、見過ごされそうな些細なものまでも拾い上げないと一気に4倍などということはありえない。

 ことに2015年から2017年にかけては、「ゼロ回答」を出した学校に教育委員会の担当者が直接出向いて、とにかく「子ども同士のじゃれ合いでも何でも、嫌な思いをした子がひとりでもいたらいじめとして報告しろ」と再三指導した結果が40万件という巨大な数字なのだ。
 これについては以前、「いじめ認知41万件に=最多更新、小学低学年で急増−17年度問題行動調査・文科省」というメディア評論で扱った。

 何のためにこんなインフレ報告をつくるのだ、教員でも増やしてくれるのか、と思っていたらそんな動きはまったくなく、気がつくと、
「いじめの認知件数が過去最多となっているのに対し、学校側が挙げる不登校の理由では、『いじめ』の割合が極めて低い状況にある」(だから学校は信じられない)
――これではまったく詐欺か罠である。

 その上で、
 
文部科学省は来年度、欠席が続く小中学生から学校などを介さずに、聞き取り調査を行う方針を固めた。
ということだが、とりあえず、
 
経験を積んだ教師の観察・判断より、小中学生の自己分析の方が正しいという前提自体が気に入らない。
 子どもがそこまで内省的で優秀なら、少なくとも道徳教育の入り込む余地などないだろう。教科指導だけをしていればいい。
 
 
 考えてみるといい。そもそも子どもたちが、自分の不登校の原因は「家庭に係る状況」(=家庭のせい)と言うか?
 「学業不振」「進路に係る不安」――、具体的に「勉強が分からない」とか「進路をどうすればいいのか分からない」と言えば教師も親も、「だったらなおさら学校に行きなさい」と言うに決まっている。
 「クラブ活動・部活動等への不適応」「学校の決まり等をめぐる問題」「入学・転編入学・進級時の不適応」等を理由に上げれば、教師も「善処しよう」「キミにあった方法を考える」「だから学校に来なさい」といった面倒なことになる。
 
 しかし「いじめがある」「先生が怖い」と言えば、大人は引いてくれる。少なくとも保護者は、無理をしても学校へ行けとは言わない。
だから子ども本人に聞けば、「いじめ」「教職員との関係をめぐる問題」「先に該当なし」がやたら増える。
 
 実際にこれまで出会った不登校児で、「いじめ」「先生」「特に理由はない」以外の理由を語った子どもを私は知らない。
 
 
 今回文科省が実施を決めた調査は、したがって最初から原因を「いじめ」と「教師」に求めようとするものだと言える。不登校は家庭や本人の問題ではない、学校に責任がある――そう結論したいのだ。その上でどうするのだ?
 
 もちろん教員を増やしたり給与を上げていじめに対処できる人材を増やしたりするわけではないだろう。教員の自覚を促し、研修を増やすことぐらいが関の山だ。
 
 かくして教員の多忙にもうひとつ拍車がかかり、教職がブラックだという評判が高まり、採用試験の倍率が下がって「誰でも教師になれる」どころか「教師のなり手がいない」事態へと進む。

 それで幸せになるものはひとりもいない。
 
 





2019.08.31

なぜ「無言」で清掃・給食なのか?
―「対話」より「無言」を重視する教育のおかしさ


[Yahoo! Japanニュース 8月30日]



■ 「黙働流汗清掃」への違和感
 先日、N H Kスペシャル「“不登校”44 万人の衝撃」という番組が放送されました。番組内では、中学生の4〜 8 人に1人が、不登校もしくは不登校傾向にあるという、衝撃の調査結果が明らかにされました。

 この問題について、言いたいこと、言うべきことはたくさんありますが、今回取り上げたいのは、この番組でも取り上げられていたまた別の事柄、すなわち「無言清掃」についてです。「黙働流汗清掃」などとも言われます。この十数年で、全国の多くの学校に急速に広がっています。

 先のN H K スペシャルの生放送には私も出演していましたが、この「黙働流汗清掃」が V T R で紹介された瞬間、L I N E で番組参加してくれていた不登校経験者の皆さんからは、「何だこれは、軍隊か!」といった声が一気に寄せられました。ツイッターにも、同じような反応が多数見られました。学校関係者にはよく知られた「無言清掃」ですが、それが世間からすれば異様な光景に見えたのは、当然のことだったと私は思います。


(中略)

 学校関係者は、それが「当たり前」の環境の中で時間を過ごすうちに、いつのまにかそうした世間の目から見れば異様な光景に、いくらか鈍感になってしまっているところもあるのではないかと思います。


■ 何のための「無言」なのか?
 その意味で、無言清掃や無言給食も、やはりおかしな活動と言うべきです。分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。

 でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。


(中略)

 「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、繰り返しますがただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、私たちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。

 時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕を作れるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。



(中略)

 学校教育の最大の目的は、お互いの存在を認め合う、そしてこの社会で自立して生きられる個人を育むことです。この目的に照らして、私たちが本当にやるべきことは何なのか、また何をやらないべきなのか、学校関係者は、子どもたちも一緒に、そんな議論・対話をもっと頻繁に重ねていく必要があるだろうと考えています。


苫野一徳
熊本大学教育学部准教授 軽井沢風越学園設立準備財団理事
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著書『はじめての哲学的思考』『教育の力』など多数。

※『月刊教員養成セミナー 2019年9月号』
「哲学する教育学者 苫野一徳の教育探求コラム  ―教師の卵に考えて欲しいこと」より




【理解できないことが起こったらとりあえず向こうが悪い】
 もう30年以上まえの話だが、市の教育セミナーに出席したらそのオープニングが若者の話を聞くというイベントだった。
 3人の高校生がかわるがわる出て来て「青年の主張」みたいに意見を述べるのだが、そのうちのひとり(女子高校生)の発言に、強い違和感を覚えた。
 彼女の作文、誰も手を入れなかったのだろうか?
 
 主張の趣旨は簡単に言うと、「大人は公共の場で訳の分からないことを言って子どもを追い詰めないでください」といったことだが、何があったのかというと、比較的混んでいる電車の中で、年寄のオジさん(?)に、
「リュックは背負わずに前に掛けろ」
と注意されたのである

 公衆の面前で恥をかかされた彼女の怒りは収まらない。
「何をワケの分からないことを言ってるんですか!? いったいどういう権利があってそういうことを言うのですか! それに私の背負っていたのはリュックではなく、デイバッグです!」

 満員電車の中ではリュック(デイバッグでもいいが)を前に掛けるという常識は、今の若者なら理解できるだろう。しかし30年前は制服の女子高生がリュックを背負って登校するなんてことはなかったので、満員電車の前掛けは一部の登山者やハイカーだけの常識だったのかもしれない。“年寄のオジおじさん”も、もっと丁寧に教えてやればよかったという話なのかもしれないが、しかし理解できないことが起こったらとりあえず向こうが悪いと即断できる女子高生の神経も、いかがなものかと思った。
 

【いつから清掃はコミュニケーションの時間になったのか】
 さて、上記の記事、そのタイトルからして私には衝撃的である。
なぜ「無言」で清掃・給食なのか?―「対話」より「無言」を重視する教育のおかしさ
 そもそも私には清掃で対話を重視するという発想がない。

 もちろん、
「おい、そこのところ、もう少し丁寧にやろうぜ」
「おう、悪かった。磨きが足りなかったな」
「さっき一度ぞうきんをかけたが、もう一度やった方がいいかな」
「そうだな。オレも手伝うから、もう一回頑張ろう」
 そんな対話が続くなら問題ないが、普通はありえない。
 
 清掃中に人生を語る小中学生もいなければ、公衆の面前で悩みについて相談し合う子どもたちもいない。話すのはたいていロクでもないことだ。そのロクでもない会話が始まれば手は止まってしまう。掃除は進まない。
 
 もちろん記事を書いた苫野先生もその点は分かっているらしい。
 
分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。
 そういうのを“本音”と言っていいのかどうかは迷いますが、まあそんなところだ。しかしそこから、どういう論理で、
でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。
につながるのか。

 「清掃の時間はコミュニケーションの時間として日課に組み込まれている」などとまったく考えていなかった私は、面食らうばかりだ。


【児童生徒が清掃をしっかりやらなければ、教師がやるしかない】
 清掃を精神修養のように考える一部の熱意ある教師を除いて、一般に教員が黙って清掃をしてほしいのは、“そうしないと掃除が進まないから”だ。それだけのことであって、それ以上ではない。

 私はかつて、清掃の時間が休み時間と変わりないほど騒がしい学校に赴任したことがあるが、その学校ではいつも汚かった。公衆衛生の観点から言えば不潔なのだ。もちろん放置できない。
 そこで
結局、清掃の行き届かないクラスの担任教師が、自分の教室くらいはと、放課後に掃除して翌日に間に合わせているのだった。

 苫野先生にとって大切な
清掃中の子どものコミュニケーション守ると、教師がさらに忙しくなる。子どものムダなおしゃべりは、そうまでして守らなくてはならないのなのか――。
 しかしそんなことを言うと、苫野先生はこう答えるに違いない。
 でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。


【現場のことが分かっていない】
 苫野先生の文章は後半に進むとさらに迷走する。
 
時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕を作れるかを考えたいものです。
 もちろん年中考えている。しかしそうやって生み出したわずかな時間を、小学校英語やプログラミング教育が食い尽くしていく。

 もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。
 おい! 清掃の時間は大切な子どものコミュニケーションの時間だったのじゃないか? 減らしていいのか?
 
 
別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。
 代わりに探してくれ! 「別の余計な時間」と言われても、現場の教員にはさっき上げた「小学校英語」や「プログラミング教育」、「全国学テ」のような、ここ十数年の間に学校に持ち込まれた新しい教育しか思いつかないのだ。

 私たちが本当にやるべきことは何なのか、また何をやらないべきなのか、学校関係者は、子どもたちも一緒に、そんな議論・対話をもっと頻繁に重ねていく必要があるだろうと考えています。
 いい加減にしてくれ。時間がないといっているのに、さらに重ねて議論と対話の時間、そんなものどこから持ってくればいいのだ?しかも「
頻繁に重ねていく必要があるだろう」とは!

 
現場のことが分かっていない、分かろうともしない、調べない。
 こんな記事が「教員養成セミナー」に載って「Yahooニュース」に転載されるのだから世も末だ。




キース・アウト2019年8月R