キース・アウト
(キースの逸脱)

2020年 9月

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by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。














2019.09.02

 公外国籍の子どもを特別支援学級に追いやる教育は
外国人労働者に頼ろうとしている日本として恥ずかしくないか


[Yahoo Japan ニュース 9月 2日]


 8月31日付の『毎日新聞』(電子版)が、「文部科学省への情報公開請求などで判明した」という記事を掲載している。それによれば、「外国人が多く住む25市町の公立小中学校に通う外国籍の子どもの5.37%が、知的障害がある子らが学ぶ『特別支援学級』に在籍していた」そうだ。外国籍の子どもの在籍率は、この25市町の全児童生徒の在籍率の2倍超になっている。

 なぜ、こんなに外国籍の子どもの特別支援学級在籍率が高いのか。同記事では、「日本語が理解できないため知能指数(IQ)検査の結果が低く、知的障害などと判断された可能性がある」との専門家のコメントが引用されている。

 知的障害ではないにもかかわらず知的障害と判断されている可能性がある、というのだ。本来ならば普通学級で学べるにもかかわらず、特別支援学級にいれられてしまっているわけである。

 日本政府は、外国人労働者を増やす施策を推し進めている。日本の労働者不足を穴埋めするためである。

 家族をともなって日本にやってくる外国人労働者は少なくない。その子どもたちは、多くが日本の公立学校にかようことになる。当然ながら、そこに立ちふさがるのが「言葉の壁」である。

 今年6月28日には、「日本語教育の推進に関する法律」が公布、施行されている。外国籍の児童生徒や留学生、就労者らに対し、日本語教育を受ける機会を最大限確保することを基本理念としたものだ。「言葉の壁」は、政府としても無視できないところにきているわけだ。

 しかし、法律はできても対応がじゅうぶんにできていないのが実態でもある。日本語教育のための予算や人がじゅうぶんに確保されている、といった状況にはない。現実は、その逆である。

 学校では、日本語教育の役割は教員に押しつけられている。日本語教育のノウハウもなく、ましてや「忙しすぎる教員」にしてみれば負担以外の何ものでもない。

 そのために「言葉の壁」を抱える外国籍の子どもたちは、学校で「放置」されてしまっている。「登校はするけれど、ジッと座ったままで耐えているだけの子どもたちは少なくありません」と学校における外国籍の子どもたちに詳しい人物はいった。

 それは、教員にとっても「歓迎せざる存在」のようだ。そして、「特別支援学級に追いやる」ことになってしまっているのではないだろうか。

 労働力不足を外国人労働者に頼ろうとしているにもかかわらず、外国籍の子どもたちの対応はできていない。教育の貧困であり、日本の貧困さの表れでしかない。

 次回、外国籍の子どもたちの現状の一端にふれてみたい。



 昨日ブログに、
「学校批判をする人たちは疑問を持っても学校に訊きに行かない。
なぜ訊きに行かないのか。なぜ教師に訊いてみようとしないのか。」

と書いたばかりなのに、調べることをしない教育ジャーナリストの記事がまた載っていた。


【問うたら調べよ】
 なぜ、こんなに外国籍の子どもの特別支援学級在籍率が高いのか。

 問うたなら調べればいいではないか。1時間かそこら学校へ電話して訊けばきっと教えてくれる。
 それを横着して、
 同記事では、「日本語が理解できないため知能指数(IQ)検査の結果が低く、知的障害などと判断された可能性がある」との専門家のコメントが引用されている。
とやるから厄介なことになる。話が迷走する。記事に信頼性がなくなる。

 そもそも毎日新聞のこの記事自体に、疑いの目を向ける気持ちは微塵もなかったのか?

 日本語が理解できないため知能指数(IQ)検査の結果が低く
って、それでは要するに「学校が言葉のできない児童に日本語のIQテストをやらせた」ということではないか。そこまで教師が馬鹿だと思われているとしたら本当に情けない、涙が出そうになる。

 私はマスメディアが匿名で「専門家は」と言い出したら、それは存在しない人だと思うことにしている。
 記者はさほど悪意も持たないまま、なんとなく文章の締りがいいので「専門家は」と書いて私見を述べる、そんな仕組みがあるのだ。そうでなければあまりに素人臭い言葉は出て来ないはずだ。


【特別支援学級に入れるのは子どもを守るためだ】
 特別支援学級に外国籍の子どもが有意に多く在籍しているのは、IQテストのためではない。その方が子どもにとって手厚い教育を受けられる、有利だと考えらたからなのである。

 上の記事にある通り、1クラス最大40人もいる普通学級に入れられてしまうと、
「言葉の壁」を抱える外国籍の子どもたちは、学校で「放置」されてしまっている。「登校はするけれど、ジッと座ったままで耐えているだけの子どもたちは少なくありません」と学校における外国籍の子どもたちに詳しい人物はいった。
ということになる。
 可哀そうに。

 しかし特別支援学級は違う。最大でも1クラス8名。実際には担任教師とマン・ツー・マンで指導を受けている場合すらある。
 だから全く日本語のできない児童生徒が入ってきたとき、とりあえず特別支援学級に入れてそこで最低限の学習を確保し、学年相応の学力を保障したいというのが学校の願いなのだ。

 もちろん普通学級に耐えられるだけの日本語能力が確保できれば、普通学級に戻す。
 外国籍の子どもが在籍している間じゅう、本来の支援学級の児童生徒は受けられるはずの授業の一部を譲り渡しているわけだから原状はできるだけ早く回復されるべきであろう。
 

【記事の趣旨には一部賛同する】
 労働力不足を外国人労働者に頼ろうとしているにもかかわらず、外国籍の子どもたちの対応はできていない。教育の貧困であり、日本の貧困さの表れでしかない。
(だから何とかしろ)
という記事の趣旨には、私も賛同する。
 けれどもろ手を挙げて全面的に賛成するわけにはいかない。

 外国人労働者の子弟教育のために予算を増やせとあまり強く要求すると、少人数教育や発達障害対応の予算から回されてしまうことがしばしばだからだ。教育予算の大枠は増やさないのが原則だからだ。
 この問題で何かを語るとしたら、そういう点にも気を配っておかなくてはならない。


*なお、私が引用したYahooJapanニュースの記事では、毎日新聞の記事のタイトルを「文部科学省への情報公開請求などで判明した」としているが、正しくは「外国からきた子どもたち 支援学級在籍率、外国籍は2倍 日本語力原因か 集住市町調査」である。

 そもそも「文部科学省への情報公開請求などで判明した」などといった曖昧な見出しが、世の中にあるとは思えない。些細なことであるが、プロならそこまで丁寧に見るべきだろう。







2019.09.14

 教員志望者を増やしたいなら、やりがいを伝えようとするだけではダメだ

[Yahoo Japan ニュース 9月13日]


 「あなたのお子さん、あるいは教え子が”学校の先生になりたい”と言ってきたとき、自信をもって、歓迎できますか?応援できますか?」

 これは、ぼくが校長や教員向けの講演をするときに、よく問いかけることのひとつだ。

 この答えに100%の自信をもってYESと答えられる校長等は、少ないのではないか?

 小学校を中心に、教員採用試験の倍率が下がってきている(地域差はあるが)。ちょうど今の時期は採用試験の真っ只中というところも多いが、各地の教育委員会とも、受験者を増やそうと躍起になっている。

 日本全国で若年人口が減少しているなか、「教員採用の倍率はもっと高いほうがよい」と考えるのもどうかなとは思うが、いったんそのことは横においておいて、仮にもっと先生を目指す若者等を増やしたいというなら、何が必要だろうか。今日はそのことについて考えたい。


■問題は、やりがいが伝わっていないことなのか?

 よく聞かれるのが、「教師の魅力をもっと伝えねば!」という施策だ。どこでもいい、教員募集用のパンフレットをご覧いただくといい。たとえば、ある自治体の直近のパンフレットでは、次のような現役教師の声を紹介している(一部を抜粋)。

●教員の最大の魅力は、子どもたちの成長に携わることができるということだと思います。

●自分が実際に小学校教員になってみて、この仕事は本当に魅力的で素敵な職業だと実感しています。もちろんたくさんの教科の授業準備などで大変なこともありますが、子どもたちの前向きに学習に取り組む姿や成長した姿を間近で見られることは、何にも代えがたい喜びです。

●教師は、「やりがいのある仕事」という一言に尽きると思います。子どもたちと過ごす日々は、驚きや発見、そして楽しさでいっぱいです。

 こうした声は、ウソではないだろうし、実際、ぼくも現場の先生方から似た話はたくさん聞いている。だが、やりがいや魅力を伝えようとするだけで、大丈夫だろうか。

(中略)


■魅力があるのは知っている

 教員志望者向けの調査というのは、少ないようで、なかなか見つけられなかったが、現役の先生たちは、自分たちの仕事をどう捉えているかも、参考になるだろう。

 次のデータは、愛知教育大学等が2015年に、小中高の校種から各々約1,500〜2,000人の教員に調査した結果だ。ほとんど全て(97、98%)の先生が、「子どもの成長にかかわることができる」と答えているし、他の項目でも、かなりの多くの人が肯定的に回答している。

(中略)

■日々ゆとりがない状態では、志願者は増えない

 一方で、上記の調査では、教員の悩みや不安についても聞いている。


(出所)愛知教育大学、北海道教育大学、東京学芸大学、大阪教育大学「教員の仕事と意識に関する調査」(図略)

 特に注目してほしいのは、上から1番目と3番目。大勢が「授業準備の時間が足りない」、「仕事に追われて生活にゆとりがない」と回答している。

 つまり、いくらやりがいがあっても、無茶苦茶な働き方(あるいは働かせ方)で、ゆとりのない日々だ、と回答しているのである。このあたりを学生等も敏感に感じ取っているであろうことは、容易に予想できる。

 そもそも、教育実習で、幻滅するという学生の声も少なくない。やはり学校は忙し過ぎるということに、あるいは、その状況を改善する動きが鈍いということについてだ。

 ぼくが講演等でよく申し上げているのは、「働きがいがあり、かつ、働きやすい(働き続けやすい)」学校にしていこう、という話だ。

 「働きがいがある=働きやすい職場」とは限らない。仕事そのものにやりがいがあるかどうかと、たとえば、育児や介護を抱えても働き続けやすいかどうかは、別次元の話だ。

(中略)

 教員志望者になりうる若者たちについても、どうだろうか。たとえば・・・

●部活動にやりがいを感じていたとしても、土日を潰すのはイヤだ。

●いくら児童生徒の成長に関われる仕事だといっても、自分の健康が心配な職場では働きたくない。

●プライベートも充実しながら、授業等も一生懸命やりたいが、いまの学校現場は、事務作業等も多くて、授業準備に集中できる環境にない。

●いくらやりがいを強調されても、トイレに行く暇もないくらい、余裕がない日々は送りたくない。

 こういう声に答えていけるかどうかが、問われているのだと思う。


妹尾昌俊 | 教育研究家、学校業務改善アドバイザー、中教審委員(第9期)



【傲慢な! あまりにも傲慢な物言い!】
 この妹尾昌俊という教育アドバイザー、年齢はどのくらいなのだろう。何様だ?
 ずいぶん尊大な物言いだが。
「あなたのお子さん、あるいは教え子が”学校の先生になりたい”と言ってきたとき、自信をもって、歓迎できますか?応援できますか?」
(中略)
 この答えに100%の自信をもってYESと答えられる校長等は、少ないのではないか?

 
 こんな言われ方をして胸を痛めた校長先生も少なくなかったろう。
 教職は今や自信を持って勧められる職業でも応援できる仕事でもなくなってしまった。下手に勧めて病気になられても自殺されても困る――。
 しかしだとしても校長に何ができる? 校長の裁量で職員を1.5倍くらいに増やせるか? 小学校英語を行わないとか、総合的な学習を廃止するとか、あるいは校長責任で不登校やいじめの指導をしないとか、そんなことができるのか?
 そうであるにも関わらず、妹尾という人は校長権限を絶大なものと考えているらしい。
 
 
 
【まるで現実性のない働き方改革案】
 それもそのはずで、妹尾昌俊氏は「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」を出した第9期中央教育審議会の委員なのだ。
 
 このタイトルにある“学校における”は「働き方改革」にかかる修飾語ではない。「方策」にかかる修飾だ。そう言っていいくらい現場に対する要求が強いのが特徴である。
「教員は増やさない、仕事も(増やすかもしれないが)減らさない、しかし現場の努力で何とかしろ」
 読み進むとそう言っているとしか思えないとんでもない代物である。
 
 部活動の休養日を確実に確保することは,子供や家庭の立場に立てば,(中略)これまで学校に任せていた時間をどう使うかについて子供や家庭自身が考え,判断し,行動しなければならないこととなる。
 そんなことを言われても多くの家庭は困るだけだ。
 
 地域と学校の連携・協働の下,(中略)特に,教師と保護者で構成されている PTA に期待される役割は大きく,その活動の充実が求められる。
 現在、学校における喫緊の問題は教員の働き方改革ではなく、PTA活動の縮・簡素化である。入学式のPTA会長のあいさつに「PTAは強制参加ではなく任意参加です」と言わなければならないほど風当たりの多い組織に、
「期待される役割は大きく,その活動の充実が求められる」では、とどめを刺す行為と言われても仕方ないだろう。
 
 どうしてもやれとなればさらに保護者が逃げ出し、教員が手放した仕事を保護者のほとんどいないPTA――つまり教員が受け取る。会員が少なくなった分、負担は増え、教育委員会や校長の支配下にある学校から任意団体であるPTAに仕事が移ったことで、教員は果てしなく働かされる。
 
 かつて部活動を学校から社会体育に移したら、そこでコーチをしているのはやっぱり学校の部活動顧問で、社会体育だから無制限に働かされるようになった――それと同じである。
 
 部活動を外部に委託したくても、地域に吹奏楽からバスケットボール・野球・水泳・サッカー・バレーボールを教えられる人材が1セット丸ごといなければ移せない。しかも“人材”は朝8時前の1時間、午後4時過ぎの2時間余りを学校で過ごし、土日のいずれかは丸一日指導してくれる人でなくてはならない。
 そんな人、いるのか?

「教師と保護者で構成されているPTA」に仕事を投げ込めば、保護者が逃げて教師が受け取る。それは日を見るよりも明らかだ。

 その他、調査統計等への回答は事務職員にやってもらえとか、校内清掃や部活動も地域ボランティアにお願いしろとか、給食時の対応は栄養教諭の協力を仰げとか――いったいそれぞれの学校に何十人の事務職員と栄養教諭を配置され、学区内に何百人のボランティアを確保していると考えているのか?
 

【中教審委員は浮世離れしている?】
 ぼくが講演等でよく申し上げているのは、「働きがいがあり、かつ、働きやすい(働き続けやすい)」学校にしていこう、という話だ。
 (中略)
●プライベートも充実しながら、授業等も一生懸命やりたいが、いまの学校現場は、事務作業等も多くて、授業準備に集中できる環境にない。
●いくらやりがいを強調されても、トイレに行く暇もないくらい、余裕がない日々は送りたくない。
 こういう声に答えていけるかどうかが、問われているのだと思う。


 じゃあどうすればいいんだと問い返したくもなるが、この人の答えは分かっている。
「そんなこと『第9期中央教育審議会(答申)』に書いてあるだろう!」

 その答申があまりにも浮世離れしていることに気がつかない。だからあんなふうに偉そうにしていられるのだ。
 
 





2019.09.25

 筆算の線、手書きダメ? 小5、160問「書き直し」

[西日本新聞 9月24日]


 「なぜ筆算の横線を、全て定規で引く必要があるのでしょう」。福岡県内の小学校に通う小学5年男児の親族の女性(34)から、特命取材班に相談が寄せられた。夏休みの宿題を提出したところ、横線が手書きだったとして、担任に「書き直し」を命じられたという。指導の背景を探った。

 女性によると、担任は日ごろから定規を使うように指導。男児は疑問を抱きつつも注意されるのが嫌で基本的に従ってきた。今回、筆算の一部は「別にいいだろう」と自分で判断し、手書きで線を引いたという。

 すると、担任から保護者に書き直しを求める電話があった。対象は160問分。理由を尋ねると「計算ミスが減るし、みんなにやらせている」。女性は「計算のリズムが崩れるし、自分なりのノートの取り方を見つけるのも勉強ではないか」と不思議がる。

 同様の指導を行っている県内のベテラン教諭に理由を聞いた。定規で線を引く動作は意外と難しく、「小学2年の習い始めは2割しかできない」という。筆算の線引きはこの練習になるというわけだ。高学年では「手書きより見直しやすいし、面倒くさがらずにやる子の方が学力が伸びる」と説明する。

 このような理由を、男児の担任は保護者に説明していない。県内の別の学校では小学6年も定規の使用を指導しているが、疑問を抱いた父親(39)が理由を問うと、「学年で決めています」との返事だったいう。

 いつ、どう広がったのかは不明だが、「30年前にはそう指導していた」という小学校教諭の声もあった。

      ■

 「教師自身が考えなくなっている」。定規の利用など、教員が十分に理由を説明できないルールが数多くある実態について、東京大大学院の村上祐介准教授(教育行政学)は警鐘を鳴らす。

 村上氏は2015年度、自治体ごとに授業の受け方や生活態度を定めた「スタンダード」と呼ばれるルールの有無を全国調査した。回答を得た445自治体の約2割が導入していた。

 スタンダードの内容は自治体ごとに異なるが、「足の裏を床につけて座る」「手を真っすぐ挙げる」などの規律や、「子どもが自分で課題を解決する時間を確保」といった授業の手法が記されている。

 こうした画一的なルールの広がりについて、村上氏は若手教師の授業の質を一定水準に保つ役割はあるとしつつも、「守ることが目的化してしまう危険がある。教師自ら判断することを望んでいない傾向があるのではないか」と懸念する。

 教師の間にも異論はある。勤務先の小学校で18年度にスタンダードが導入されたという福岡県の男性教師(60代)は「学校にとって理想の子ども像が書かれている」と話す。

 机上に置くノートや筆箱の位置、発表や話を聞く態度、あいさつの仕方、廊下の歩き方に加え、靴や傘、トイレのスリッパの置き方、休み時間の遊び方の注意点まで書かれている。「子どもには、ルールを作っていく力こそが必要なのに…。スタンダードが浸透するほど枠組みになじめない子が排除される心配もある」。ベテラン教師のそんな疑問は、スタンダードを推し進める校長の前でかき消されがちだという。 (四宮淳平)



【安易にルールを破ると大変なことになる】
 記事の趣旨がよく分からないが、結局は、学校のルールを教師がきちんと説明できない――
このような理由を、男児の担任は保護者に説明していない画一的なルールを、守ることが目的化してしまう危険がある。教師自ら判断することを望んでいない傾向がある。そこが問題だということなのかもしれない。

 ただし実際問題として、これまでやってきた教育法・指導法、あるいは校則を含めた“ルール”の一つひとつを自ら判断して説明できるようになるのは容易ではない。

 例えば小学校で
「特別教室への移動は始業前に全員で並んで、時間に間に合うように行く」
などといったルール、いったい何のためにあるのかすぐに説明できる教師が何人いるだろう?

 私はできる。なぜならこれを破ったばかりに大変な目にあったからだ。

 休み時間に教室で並ばせること自体が面倒な上に小学校の高学年相手にアホな話だと思った私は、「特別教室には直接行ってかまわない。しかし時間には遅れるな」とルールを変えた。そして変えたおかげで怒る頻度が爆発的に増えたのだ。

 「時間には遅れるな」と指導したにもかかわらず遅れる児童が日を追って増える、忘れ物が多くなる、その忘れ物を教室に取りに戻った子どもが帰ってこない――そのたびに私が探しに行くことになる。
 「教室で並んで〜」はアホなルールではなく、長い小学校教育の中で発見された基本的な対策なのだ。安易に替えていいものではなかった。

 結局、私はルールを元に戻したが、一度崩したものは回復にずいぶん手間がかかった。学校には山ほどのルールがあるが、意味の分からないものでも守っておいた方が有利だとつくづく感じた出来事だった。

 記事の中にある
「足の裏を床につけて座る」「手を真っすぐ挙げる」
も、その意味を考えると面白いものがある。ただし現職教員はそんなことを考えている暇がないのだろう。

 記事の中に出てくる
福岡県の男性教師(60代)は、
「子どもには、ルールを作っていく力こそが必要なのに…」
とおっしゃるがこの方はよほど実力のある教師なのだろう。私など「特別教室には〜」みたいな既存のルールを守らせるに精一杯でルールを見直したり作ったりする時間などどこにもなかった。算数や国語の時間を削るわけにもいかず行事への対応もしなくてはならない状況で、この方はよほど手際よく授業を進め、ルール作りの時間を生み出しているに違いない。ただし普通の教師にできることではない。真似をしてはいけない。


【定規を使う意味】
 ところで「筆算の時に定規を使う」という話は、私自身は20年ほど前、若手の教師から教えてもらった(私はしなかったが)。向山式とか法則化運動とかいった人々から学んだ。今は「TOSS(教育技術法則化運動)」という。

 そのことを思い出して調べたら簡単に出てきた。「TOSSオリジナル教材TOSSミニ定規」

 また定規を使うことの意義は、Teachers Job「筆算の時になぜ定規を使わなければいけないの?」に詳しい。

定規を使用しないと、多くの場合ミスが増えます。
「わざわざミスが増えるのをわかっていて許可をすることはできない」
というのが先生側の意見で、安易に子どもの意見に流されてしまうのは本末転倒になります。
というのはいかにも教師らしい言い方で、私は正しいと思う。

 また、
一部の子だけ許可すると、他のミスが増える子も許可する必要が出てきます。
もその通りだと思う。

 定規を使わなくてもできる子は使わなくていいと許可することは「エコヒイキ」である。少なくとも子どもはそう受け取るし、「ミスの多い子は定規を使いなさい」では計算ができなくて切ない思いをしている子に追い打ちをかけるようなものだ。
 そんな教師でいいわけはない。
 
 もちろん、計算ミス防止よりも、
 今回、筆算の一部は「別にいいだろう」と自分で判断し、手書きで線を引いたという。
と、自分で決めた小学5年生の自主性の方が大切だと考えるなら話は違ってくる。

 その子は野球をするのにバットを上下逆さに握ったり、運動会の行進で隊列を離れるといった自主性も認められるべきと思うが――。



キース・アウト2019年9月R