キース・アウト
(キースの逸脱)

2020年11月

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by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。














2019.11.06

 修学旅行や林間・臨海学校は「しんどい」?
負担感は教員9割近く、保護者の間にも賛否


[京都新聞 11月 3日]


 「子どもが山の家に行くのを嫌がる。負担に感じる家庭は少なくないのでは」「修学旅行の引率がしんどい」−。京都府内の保護者と教員から、宿泊学習(林間・臨海学校や修学旅行など)のあり方を疑問視する声が相次いで寄せられた。京都新聞社では9〜10月に宿泊学習への考えを問うアンケートをインターネットで実施し、780件の回答があった。負担が大きいと答えたのは、保護者や経験者など教員以外の回答者で27%、教員は89%だった。教員以外の回答では、負担を訴える声から、心や体調が不安定な子どもを育てる家庭の悩みが浮き彫りになった。教員では、拘束時間の長さを訴える声や教育効果を疑問視する意見が目立った。

(中略)

■保護者と教員目的再確認を
 宿泊学習に疑問を感じる保護者らがいることついて、小児科医の小谷裕実京都教育大教授(特別支援教育)は「多様な子どもがいる中では、宿泊学習で個に応じた対応が難しいという背景がある」と指摘。宿泊学習が保護者、教員両者にとって恒例行事という認識になっている可能性についても触れ、「行事を精選するという観点からもなぜ宿泊する必要があるのか、宿泊学習で子どもに付けさせたい力は何か、を両者で再確認することが大切。教育上の目的が明確であれば、現在負担に感じていることは目標に向かう過程と捉えられるようになるだろう。その上で子どもによっては不参加という選択肢もある」と話す。

■夜間の体調管理心配/思い出づくりは教育活動でない/一回り成長、実感
 アンケートの自由記述欄には33件の意見が寄せられた。負担が大きい理由として、準備を含めた業務量の多さと労力に見合う教育効果が感じられないといった声が多かった。
 「夜間の体調管理が必要な児童もいる。連泊だと疲労がたまり日中の指導に支障を来さないか心配」(30代・京都市伏見区)「ほかの行事の時期と重なることもあり準備が大変」(20代・左京区)「限られた人員で安全面も不安な中、宿泊する必要性が見つからない」(30代・京田辺市)「家族旅行などで多様な経験を積んでいる子どもは多い。宿泊学習は思い出づくりの側面が大きく、学校が実施すべき教育活動とは思わない」(40代・兵庫県尼崎市)


(中略)

 一方、宿泊学習を評価する意見は「活動を終えたら一回り成長したと感じる」(40代・亀岡市)「素晴らしい体験からは生徒の最高の笑顔が生まれる」(50代・北区)などがあった。別の北区の教員は負担は大きいと答えたが、「それ以上に得られるものが大きい」と記していた。
 中央教育審議会で学校の働き方改革部会委員を務める教育研究家の妹尾昌俊さんは、宿泊学習に対する教員の負担感に納得できるとした上で「参加がつらいと感じる子どものケアや、修学旅行などが本当に学びになっているかについての検証の不十分さ、裕福でない家庭の旅費負担の大きさに課題がある」と指摘。「活動内容や児童生徒全員で行く必要性などを見直す時期に来ているのではないか」と話す。


 全文を読むと可もなく不可もなく、宿泊行事に反対というわけでもなく積極的に進めるわけでもない中途半端な内容。
「活動内容や児童生徒全員で行く必要性などを見直す時期に来ているのではないか」も文章を落ち着かせるための決まり文句みたいなもので、大した意味のあるものでもない。
 ただし、
「アレルギー対応が大変」「発達障害で環境の変化に大きなストレスを感じる」など、傾聴のうえで考慮しなくてはならないと思える意見もあった。

 ただ私が気になったのは、おそらく教員の側から出たと思われる次のような発言である。
「準備を含めた業務量の多さと労力に見合う教育効果が感じられない」
「限られた人員で安全面も不安な中、宿泊する必要性が見つからない」
「家族旅行などで多様な経験を積んでいる子どもは多い。宿泊学習は思い出づくりの側面が大きく、学校が実施すべき教育活動とは思わない」


 宿泊学習の教育効果や必要性は感じたり見つけたりするものではなく、生み出したり造り出したりするものである。思い出づくりの側面が大きいようでは困る。

 その意味で、小谷裕実京都教育大教授の、
「行事を精選するという観点からもなぜ宿泊する必要があるのか、宿泊学習で子どもに付けさせたい力は何か、を両者で再確認することが大切。教育上の目的が明確であれば、現在負担に感じていることは目標に向かう過程と捉えられるようになるだろう。その上で子どもによっては不参加という選択肢もある」
は非常に適切な助言だと思う。

 思うに
宿泊行事の最大の目的は、日ごろ培ってきた生きる力を非日常的な世界で確認することなのだ。
 きちんと計画を立てそのための準備をして遂行できるか。友だち話し合って物事を決められるか、協力できるか。与えられた役割(係)についてその責任や内容を十分に理解し、逐次行動に移せるか。
 時間正確に行動できるか、危険回避のために自分の周辺に気を配れるか、友だちの困難や危険に気づいて助けてあげられるか。
 衛生管理に注意を向けられるか、金銭や貴重品の扱いは適切か、身の回りをきちんと整理できるか――宿泊行事を通してやろうとすれば検証の項目はいくらでもある。

 そのすべてが完璧に確認できればそれに越したことはないが、実際にはチェック項目が多すぎると子どもも教師も集中しきれない。そこで各自「旅行の目標」などを立てさせ、意識させるのである。

 ある生徒は「係活動をしっかりやる」を目標にする。だとしたら教師は彼が「係活動をしっかりやったかどうか」だけはきちんと見て評価しなくてはならない。
 別な子は「時間を守る」を目標に掲げる。教師はその子が時間正確に動いているかどうかを確認して、できていなければ責めてやらなくてはならない。小さな目標だから必ず達成させなければならない。
 
 課題はもちろん教師の側にもある。
 ホテルの朝食バイキングで、子どもたちが好きなものだけを集めて食べているようなら、その担任の“食育”には甘さがあったことになる。
 宿舎を出ようとするとき、部屋が乱雑なままだとすると社会的マナーや気づき、友だちとの協力の点などで指導が足りなかったことが明らかになる。
 集合時間のたびに同じクラスの生徒が遅刻するようなら、その担任は生徒にスケジュール管理の能力を十分につけて来なかったことがはっきりするだろう。
 
 それらの力は喫緊のこととして、とりあえず受験期に重要な役割を果たす。
 教師としてやればできたことをしてやらなかったばかりに、子どもが望んだ受験をできないようではかわいそうだ。
 そして大人になった時、よりよく社会を生きようとしたら、それらはやはり重要な能力として働くに違いない。
 
 もちろん日常生活の中でさまざまな力を完成させておいて宿泊学習で確認するのが理想だが、実際にはそうはいかない。
 教師も児童生徒も常に忙しく、どこかですべき学習が不十分だったりつけるべき力がついていなかったりする。だから
宿泊学習を機に、生きる力をつける学習を徹底的にする、それが宿泊学習の必要性である。。
 
 日頃できない多くの学習を一気にやろうとするから
準備を含めた業務量は多く労力も半端ではなくなるが、それに見合う教育効果が感じられるかどうかは、教師が子どもに何をどう学ばせるかによって違ってくるだろう

 特に小学校の修学旅行では思い出づくりの側面を強く打ち出す担任もいるが、だまされてはいけない。その多くは方便なのだ。
 志ある教師なら、
「修学旅行を思いっきり楽しもう!!」
と子どもたちの意欲を掻き立てて、陰でしっかりと子どもたちにつける力を分析し、静かに子どもたちを追いつめている。それがプロの仕事というものだ。

 宿泊行事で明らかになった不足の部分は学校に戻ってからまた丁寧に育てなおされる。
 優秀な教師がしているのは、そういうことである。
 
 

 



2019.11.10

 神戸「イジメ教諭問題」「組体操中止論」に見る「教師の思考停止」

[デイリー新潮 11月10日]


組体操は悪か?
 今、「ピラミッド」が消えようとしている。エジプトではなく日本で――。スポーツの秋に、ピラミッド等の技で魅せる運動会の組体操が論争の的になっている。火をつけたのは、イジメ教諭問題など、何かとホットな兵庫県の神戸市。同市の久元喜造(きぞう)市長(65)が、ツイッターで「組体操中止論」をつぶやいたのだ。

〈何度でも言います。教育委員会、そして校長先生をはじめ小中学校の先生方にはやめる勇気を持って下さい〉

 神戸市内の学校で、運動会の組体操による骨折事故が相次いだことを受け、9月9日、久元市長はこうつぶやいて組体操中止を訴えた。その後、同じ兵庫県の明石市では、来年度から市立の小中学校で組体操の実施を見合わせる方針が決定。組体操を「忌避」する状況が生まれつつあるのだ。

 確かに、ピラミッドの「高段化」などが進み、組体操での負傷事故は各地で起こっている。しかし、だからといって「伝統」の組体操を全廃すればいいという議論は些(いささ)か短絡的すぎるのではないだろうか。実際、名古屋大大学院の内田良准教授(教育社会学)は、

「安全の確保さえできれば、組体操は子どもが体の動かし方、達成感や団結力の大切さを学ぶことができるプラス面の大きい競技です」

 こう組体操の価値を説明し、印西市立木下(きおろし)小学校(千葉県)の齊藤秀樹校長も、

「組体操は体力だけでなく、耐える力の“耐力”、連帯する力の“帯力”も育てることができる。最近は『自分さえ良ければいい』と考える子どもが増えているなか、組体操で他人に体を預ける経験をすることによって、団結や連帯の素晴らしさを教えることができると感じています」

 と、その意義を強調する。

「当校では組体操の評判は今でもとても高く、保護者から止めてほしいという意見は一切ありません。高学年が行う運動会の伝統種目としてこれからも続けていく予定です。当然、指導する側の教師は絶対に事故はひとつも起こさないという覚悟を持つ必要がありますが、実際、私が赴任してからのこの3年間、うちでは組体操による事故はゼロです。ピラミッドは3段までしか作らないようにしたり、『落ち方』を教えるなど安全対策を徹底しているからだと思います」(同)

「教師の思考停止」
 つまり、「10段ピラミッド」のような過度に危険な技を避ければ、安全に組体操は続けられるというのだ。

「SNSや動画サイトの普及で、他校でどんな組体操をしているのかが分かるようになり、危険な技を安易に真似する風潮ができています。しかし、ある学校では可能でも、他の学校でその技が安全にできるとは限りません。生徒のポテンシャルに応じた技を、現場の教師が吟味していくことが大切だと思います」(同)

 結局、各校が適切に現場判断すればいいという至極当然の話に帰結するわけだ。リスクがあるから全廃。それはやはり極論であり、「間(あわい)」を認めない機械的で非人間的な決断と言えよう。

「何が危険なのかを教師が考えず、上からの全廃規制に従うだけでは、本来、教師に必要な資質であるリスクマネージメントの感覚は育たないままになってしまいます」(前出の内田氏)

 日本体育大学体操研究室の荒木達雄教授が締める。

「上の判断で組体操を全廃することは教師の思考停止に繋がります。教師自身に安全対策を考えさせ、危険度の高い種目を変更するのが適切な対処ではないでしょうか」

 悪は組体操そのものではない。組体操のあり方すら自分でマネージメントできない指導者が悪なのである。

「週刊新潮」2019年11月7日号 掲載



 おそらくいわゆる「いじめ教師事件」で神戸市がとった「加害教師の給与支給差し止め」という処置が今後問題となることを見越しての伏線なのだろう。あれほど叩いておきながら、市民・マスコミの圧力に屈すると今度はそのことが「信念のなさ」「思考停止」と叩かれる。
 まったく「ああ言えばこう、こう言えばああ」。
 学校は何をやっても怒られる。

 悪は組体操そのものではない。組体操のあり方すら自分でマネージメントできない指導者が悪なのである
 
「分かりました。今後はマネージメントに励みましょう」と言えばそれだって「自己判断しない教師の思考停止」だと言われそうだし、だまって組体操をマネージメントすべく研究を重ねれば時間外労働がさらに増えて、今度は「学校のブラック化さらに進む」「教師は自分の労働環境すらマネージメントできないのか」ということになりそうだ。
 
 こういう時は関西弁が便利かもしれない。
 使い方は間違っているかもしれないが言わせてもらおう。
 どーすればいいっちゅうねん!
 
 
 私は基本的に組体操の中止にも、未起訴・未処分の教員の給与支給差し止めにも反対である。
 事件の背景には明らかに学校の人手不足からくる過重労働、体制のひずみがあると考えているからだ。学校の問題の大半は職員を増やすことによって解決できる、つまり金の問題だが、世間はこれ以上、教育にビタ一文出す気はないように見える。
 
 どんな問題でも「個人の意識」が最終的な到着点であるような解決策は無効だ。「個人の意識」が高まるようにするにはどうしたらよいのか、それこそが解決策でなくてはならない。
 教育に関して「子どもを追いつめれば教育効果は高まる」といった考え方には狂気のごとく反対するのに、教師を追いつめれば意識は高まると今もマスメディアは信じているらしい。
 
 
 





2019.11.12

 大学推薦新卒者の1次試験を免除
小学校教員不足解消へ 宮崎県方針、21年度採用から


[西日本新聞 11月10日]


 宮崎県教育庁(県教育委員会)が2021年度の小学校教員採用試験から、大学の推薦がある新卒予定の受験者を対象に、1次試験を免除する方針を固めたことが分かった。全国的に教員不足が深刻化する中、大学側の「お墨付き」を得た学生を積極採用することで、人材を確保するとともに教員の質も担保する狙い。教育関係者によると、新卒者を対象にした同様の施策は東京や埼玉県など大都市圏の教委が実施しているが、九州での取り組みは異例という。

 宮崎県の教員採用試験は毎年夏に実施。小学校教員採用試験は、科目の専門性や教養などを問う1次試験を行う。通過者は面接や模擬授業などを課す2次試験に臨み、最終的な合格者が決まる。新たな取り組みでは、在学する大学の教育学部の学部長推薦を得た新卒者について事前に面談などで意思確認を行い、1次試験を免除。2次試験を受験できる。

 対象は宮崎大など九州の大学に加え、全国の大学の教育学部に在籍する学生。県出身の新卒者を軸に想定しているが、同県で小学校教員を希望する県外出身の新卒者についても受け入れる方向で検討を進める。

 教員不足の解消や人材の確保を目指し、九州の多くの教委は、特定の資格や経歴を持つことによる一部試験免除や特別選考を実施している。こうした中、新卒の優秀な人材確保を目指して同庁は10月から、九州や中国地方の約10の国立大学法人に職員を派遣し、施策を説明。12月から来年1月にかけて、福岡県や熊本県などで行う学生向けのガイダンスに使うPR動画などの制作を進めている。

 宮崎県の小学校教員採用試験の倍率は、13年度の11・6倍を境に減少に転じ、20年度は1・5倍まで落ち込んだ。実際の採用者も予定数を下回った。文部科学省によると、19年度に全国で採用された公立小学校教員採用試験の受験者は5万1197人(前年度比1・8%減)で、採用者は1万5934人(同6・1%増)。休日が取れないことや、いじめ、学習障害(LD)など深刻な問題を抱える教育現場を敬遠し、受験者数は減っているとされる。

 現在、県内の小学校教員は約3400人。同庁は、宮崎大など九州の教育学部を持つ大学と連携、多様化する現場に対応できる教員の養成策などの協力も視野に入れる。将来的に中学校などの教員採用試験にも取り組みを広げたい考えで、日隈俊郎教育長は「積極的に施策を展開し、宮崎県の子どもたちを育てる優秀な教員を多く採用したい」と話している。 (佐伯浩之)


   ◇    ◇

多様な人材採用に

 岩手大大学院教育学研究科の鈴木久米男教授(学校経営学)の話 推薦者の選考で大学側は、本人に受験の意思を確認した上で厳格な審査で成績優秀者を送り出すことになる。これにより、採用側は一定数を確保できる。地元出身者以外にも枠を広げ、多様な人材を採用すれば採用地の教育界の質の向上につながるのではないか。




 この記事をどう読み取ればいいのか――。
休日が取れないことや、いじめ、学習障害(LD)など深刻な問題を抱える教育現場を敬遠し、受験者数は減っているとされる。
 それはその通りだ。しかしこれが原因だとすると受験者増大の決め手は、
「休日を取れやすくし」
「深刻な問題を一人で背負わないようにする」

ではないか。
 その二点で改善を図らなければ受験者が増えるはずがない。
 それを大学推薦の一次試験免除で乗り切るというのはどういうことか。
 試験の負担が軽くなれば受験をしたくなるような学生は、どういう人間か。
 ・・・そう考えているうちにようやく分かってハタと膝を打った。
 
要するに受験者の奪い合いなのだ。
 だから
九州や中国地方の約10の国立大学法人に職員を派遣し、(中略)福岡県や熊本県などで行う学生向けのガイダンスに使うPR動画などの制作を進めている。
 福岡県や熊本県、あるいは都会にいて故郷宮崎に帰ろうかどうか迷っている受験生を引き寄せようというのだ。仁義なき戦い!

 もちろん奪われる方はたまらないから、同様の方策で対抗するに違いない。「大学推薦―一次選考免除」は燎原の火のように全国に広まるだろう。もしかしたら「自己推薦―一次試験免除」さえ目前なのかもしれない。

 同じ九州の仲間なのに他県を自分たちの草刈り場にしようとする宮崎県。都会に打って出て教員の引き抜きを図った福岡県(*注)同様、知恵者というか掟破りというか、いずれにしろ大変な猛者が九州に入るわけだ。

*注 2018/3/7「先生の引き抜きが始まった!」〜狙われる30代・40代 







2019.11.16

校則撤廃中学校の校長
「教員らしく振る舞う必要ない


[Newsポストセブン 11月15日]


 東京都世田谷区立桜丘中学校では、校則の全廃による服装や髪形の自由化のほか、チャイムは鳴らず、何時に登校してもいい。今年度から定期テストも廃止され、代わりに10点ないし20点の小テストを積み重ねる形式に切り替えられた。スマートフォン(スマホ)やタブレットの持ち込みが許可され、授業中も教室外での自習が認められている──これら画期的な学校改革は大きな注目を集め、新聞や雑誌、テレビでも取り上げられてきた。

 校長の西郷孝彦さん(65才)の初となる著書『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』には「子育ての参考になった」「こんな先生に教わっていたら、人生が変わっていたかもしれない」などと、大きな反響が寄せられている。

 しかしそうした改革は、決して理論ありきで行ったものではないと西郷さんは言う。

「ルールはただ1つ、“誰もが楽しい3年間を過ごせる学校”にすること。生徒一人ひとりの抱える問題を解決していく上でぶつかった不都合を見直し、取り除いていくうちに、結果そうなったにすぎません」(西郷さん・以下同)

 西郷さんは、この桜丘中学校で校長として10年務めてきた。“ちょっと変わった”、それでいて“楽しい”学校へと生まれ変わったキセキとは、どんなものだったのだろう。

(中略)

 1979年、最初に配属されたのは養護学校(現・特別支援学校)。そこに通う子どもたちの大半は、人の手を借りなければ自分で食事も、そして排泄も、うまくしゃべることさえもできなかった。

「最初の1年は、子どもたちにどう接していいものか、見当もつきませんでした。ただ、じっとほかの教員がやることを見ているだけ。まして歌にお遊戯をつけて踊るなど、できもしませんでした」

 しかし、肢体不自由ながら、必死にコミュニケーションをとろうとする子どもたちを、日々、目の当たりにするうちに、何かが変わっていった。

(中略)
「教員らしく振る舞う必要はなかったんですね。“素”の自分を出せばいい。それがいちばんダイレクトに子どもたちに伝わることを、この時、学びました」

 喜びに相反して、悲しい現実もあった。普通、子どもたちは成長とともに日に日にできることが増えていく。しかし、養護学校の子どもたちは難病を抱え、昨日まで歩けていた子が歩けなくなり、しゃべることができなくなる子もいる。早くに亡くなる子もいた。

「生きるとはどういうことか。それまで何も考えずに生きてきた自分は、どれほど薄っぺらい人生だったのだろうと、自分の生き方を恥じました」

 子どもたちにとって、一日一日が濃密だからこそ、ただ学校に来るだけではなく、そこでどう過ごすのかが重要なのだ。楽しい3年間を送ることは、何にも増して大切なことだと子どもたちに教えられる毎日だった。

※女性セブン2019年11月28日号→Newsポストセブン2019.11.15→Yahooニュース2019.11.15(リンク先は週刊ポスト)


【教職=職人芸の世界】

 私は教員になってわずか1ヵ月で“素”のままではまったく戦えないことを悟った。それからの10年間は“教育は職人芸だ”という先輩の言葉を頼りに、一人前の職人になるためにただひたすら真面目に頑張った、いわば修行の時期だった。 よほど自分が才能に欠けていない限り、真面目に10年頑張ればなんとかなると思っていたのだ。

 だから
「教員らしく振る舞う必要はなかったんですね。“素”の自分を出せばいい」などという発言を聞くと、本能的な小さな反感とともに、ため息の出るような羨望と敬意を感じるのである。

 教員にとってもっとも重要なのは何かと問われれば、私は間違いなく「才能だ」と答える。
 天才的な教師はおそらく1割以上もいて、彼らは何をやってもうまくいく。子どもがついてくる。彼らの前では自然と努力するようになる。
 しかしそれでも天才は1割程度なのだ。他の凡人や才能のない者は、私と同じように真面目に努力して、芸を磨く道を選ぶべきだ。天才の真似をしてはいけない。


【偉大な校長の真似はできない】
 さて、そんな天才の一人が1校で10年も校長をやっているのだ。これなら何でもできる。
「校則の全廃」「「服装や髪形の自由化」「ノーチャイム」「登校時間の自由」「定期テストもの廃止」「スマートフォンやタブレットの持ち込みが許可」「教室外での自習も可」

 それは天才が10年、同じ学校の校長をやって初めて成し遂げられることだという点を肝に銘じておかなくてはならない。

 1990年の「神戸高塚高校校門圧死事件」の直後に全国で校則の見直しが行われた際、とにかく対応を急がなくてはいけないということで、校則が鉈で枝を切り払うように削減されたことがあった。
 課題は「多すぎる校則を減らすこと」で、減らしてもやっていける体制があるか、生徒の状況はどうか、地域の雰囲気はどうかといった話は二の次だった。
 
 その結果、多くの学校が荒廃し、生徒は暴力といじめと学習環境のなさに苦しむことになった。校長もその9割は天才ではなかったので、立て直すためにどれほどの無駄な時間とエネルギーがかかったことか。
 
 “誰もが楽しい3年間を過ごせる学校”にすること。
 その目標がいかに困難なものか、一度でも学校教育に携わったことのある者ならわかるはずだ。世田谷区立桜丘中学校の教育は理想だが、追求するにはそれだけの覚悟と才能がなくてはならない。


【桜丘中学校の今後】
 ところで西郷孝彦校長は65歳で10年目だという。
 東京都の人事制度には詳しくないのだが、とりあえず桜丘中学校では56歳から5年間普通の校長として勤め、そのあと再任用校長として5年間務めてきたということだろうか。
 一般的に教員の再任用期間は65歳までである。東京都では校長に限って無期限の任用ということなら別だが、そうでなければ今年度で退職となる。

 桜丘中学校、ここまで理想的に育ってしまった学校を引き継ぐ校長は、やはり天才でなければならない。万が一、現在の体制を維持できず、なくしてしまった校則を復活して登校時間や定期テストを復活するといったことになったら、その労力は半端ではない。子どもたちは“自由を奪われる施策”など大嫌いだからだ。
 ゆめゆめそのようなことにならぬよう、祈る。




キース・アウト2019年11月R