息子が信じられないのか。





誤答
@もちろん信じてる。
Aお前なんか信用できるか。



正答
@信じてもいいんだな?
Aお前は信じてもいい。けれどお前の友だちまで信じる筋合いはないだろう。



解説
「子どもを信じるな」と書いてある本を見たことがない。
教育の専門家たちは、異口同音に「子どもを信じなさい」というが、じゃあ息子が犯罪者となったとき「ウチの子に限ってそんなことはしないと信じていたのに・・・・・・」と言ったら誉めてくれるだろうか?
評論家は総論・抽象論しか言わない。
それはしかたがない面もあるが、あまりにも抽象的で現実にはまったく役に立たない。

「お父さんはボクが信じられないのか」
と、言われた時の正答は意外にも
「信じてもいいんだな?」である。
ただし以下の言葉を付け加えなければならない。

「お父さんはお前を信じる。お前は今日から毎日4時間の厳しい勉強に耐えるだろう。
常に自分を磨くことを怠らず、親に孝行、先生には尊敬を向け、悪を働かず正義のために働き、東大は無理にしても一流と呼ばれる大学に進む。
そしてやがては輝く日本の星となり、世界と地球のために身を粉にして……………」


そこまでやれば、息子はきっとこう答えるはずだ。
「お父さ〜ん、ボクを信じないで下さ〜い」
そうだ、そんな信じ方をされたら子どもの方がたまらない。
要するに「信じる」という言葉の意味がいい加減なのだ。
私も子どもを信じているが、それは
「子どもはだれでも誉められたいと思っていて、基本的にはよい方向に進みたいと願っている」
その程度のことだ。

人間はだれだって、他人から『いいヤツだ』とか『すごいヤツだ』とか思われたい、そんなこと当たり前のことじゃないか。
それ以外の一切の意味で、子どもを信じるのはばかげたことである。
(唯一の例外は、小さな頃から本当に丁寧に手間暇かけて芸術的につくりあげた「真のよい子たち」、彼らなら安心して放っておける。しかしそんな子の親なら、このHPをここまで読み進めることはないだろう)


もっとも、前述のように「お前を信じない」と宣言できるのは、親子関係が比較的安定している時期だけのこと。
今日の息子をどう押さえるかといった切羽詰った場面では、そんなオチャラケた言い方はできないだろう。
そんなときは、
Aお前は信じてもいい。けれどお前の友だちまで信じる筋合いはないだろうくらいでお茶を濁し、改めて@の使えるチャンスを待つしかない。



参考

「子どもはだれでも誉められたいと思っていて、基本的にはよい方向に進みたいと願っている」それは鉄則である。
しかし、その子にとっての普通の努力で親や先生から誉めてもらえないなら、変則的に誉められるしかなくなる。
バカをやったり不良行為を行うからこそ誉めてもらえる世界もあるのだ。
ウチの息子が不良少年とばかり付き合いたがるのは、そういう意味もある。