茶髪(金髪、黄土髪、麦藁髪、紫髪、青髪、赤髪etc・ガングロ)にしたい。





誤答
@そんなみっともないことはやめてくれ。
Aあれのどこがいいんだ。



正答
@ブスはたいへんだな。
A今のキミとはもうお別れなんだね。
Bきれいになろうね。



解説
笑いごとではない。可愛そうに、ブスは親に似たからブスなのだ。責任の半分はあなたにある。

とは言え、子どもの姿を見れば親の生き方が分かる(と世間では思っている)から、子どもがとんでもない格好で世間を出歩くは好ましいことではない。
いわば
オール1の通知表が表紙を広げて歩き回っているようなものだ。何としても止めたい。

さらに本人にとっても、それは良いことではない。
ある種のファッションはその種のグループに属しているという宣言なのであって、外見がそうなれば、行動もそうなる(あたりさわりなく言おうとすると文がめちゃくちゃになる)。ぜひとも止めてあげたい。



「ブスはたいへんだな」は、事実として日ごろから教えておかなければならない。
思えば、いつの時代も飛び抜けて奇抜な服装や化粧をするヤツはみんなブスだった。
10年前、ミニスカートをはいている女の子に美人はいなかった。あれも
男の視線を足に釘づけにする作戦だったに違いない

本格的な茶髪(金髪、黄土髪、麦藁髪、紫髪、青髪、赤髪etc)が出てきたときもまずブスがマネした。
要するに他人の視線を顔からそらすことが主目的の、本当に可愛そうな子たちだったのだ。

世のオバサマたちにしても歳を経るごとに化粧が濃くなる。
そして本当に美しい人たちは、めったに塗ったくったりしない。


だから子どもが18世紀のどこかの土人みたいにしたいと言い出したら、むやみに反対せず、手伝ってやるくらいの気持ちがあっていい。ただし、最先端を目指すような子はブームが去っても、別のブームにすぐに乗ってしまうから、素顔の我が子と会えるのはこれが最後と思い定めるしかない。

「今のキミとはもうお別れなんだね」そう言って、家族で思いきり着飾り、町の写真館に出かけることを勧める。
(*注:間違ってもここで金を惜しみ、家にあるインスタントカメラでスナップ写真を、と考えてはいけない。あれは指名手配の写真を撮る機械だ。我が子の門出にはもっともふさわしくないアイテムである。ここは奮発してぜひとも町の写真館にしたい。それもできれば超一流のカメラマンのいるところが望ましい)。

写真館から戻ったら、さあ本格的に化粧だ。
「きれいになろうね」……そう言って、両親ともに子どもの化粧を手伝ってやる。
いいかげんにやってはいけない。
ブスを塗りこめるのだから、かなりしつこくやらないと素顔がにじみ出てしまう。本人が「ここまでやるか?!」と心配になるほどやってあげる。

全部が終わったら、やはり記念写真だ(ここはぜひとも、家庭用インスタントカメラを使用したい。アングルとしては、真正面、やや下から、鼻の穴をねらって撮影する)。

結局「使用前」「使用後」みたいな一組の写真ができあがるわけだが、写真館から持ち帰ったら、黙って渡してやればいい。……私はそう思う。



参考

「文芸春秋」(1999年12月号)に、ガングロについての次のような記事がある。

『……はっきり言って、
「もとは美人なのにもったいない」と思わせるような子は、めったにいない
私もけっこう長い間生きて来たが、こんなに理解に苦しむ流行ファッションは初めてのような気がする。 どこからどう見ても可愛いとも綺麗とも恰好いいとも思えない。むしろ多くの人びとがまっさきに感じることは「こわい」なのではないだろうか。まるで「私は馬鹿です」と書いてあるようなものだもの。
あまりにも堂々と「私は馬鹿です」と主張されると、人はおびえるものである。威圧されるものである。(中略)
「地味なブス」ではなく「派手なブス」のほうが偉い、「かすむブス」よりも「目立つブス」のほうが恰好がいい―そういう思想が生んだファッションなのだ』
(中野翠『’99アチャコな10大事件』)

わたしゃここまで言わないけど。