教育用語症事典


一般教育用語


言葉によって概念は共有される、
・・・・・・はずだった。

しかし時に、
言葉は思わぬ同床異夢を生む。

ここに繰り広げられる言葉はかなり一般的なものでありながら、
それぞれの思惑によって、全く異なる意味に解されているものばかりである。















教員免許更新制


 教員免許更新制度について、以前(2008.10.05)次のように書いた。
 1990年代末からの学力低下論争を受け、安倍晋三政権下の教育再生会議において提言された、教員免許を運転免許並みに更新させようという制度。2007年6月の教育職員免許法改正によって2009年4月からの導入が決定した。
 
 最初は不適格教員の排除が目的だったがいつの間にか、「その時々で教員として必要な資質能力が保持されるよう、定期的に最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを 持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すものです。」
 ということになり、文科省のホームページをみるとわざわざ「※不適格教員の排除を目的としたものではありません」という注釈までつけられている。(教員免許更新制の概要
 
 医師も看護師も弁護士も、美容師も社会福祉士も保育士も、誰一人免許を更新しろと言われない中で、
@教員だけが「お前らバカだから10年おきに勉強をやり直せ」と言われてボロボロになった「自信とほこり」を取り戻すために、
A100万人もの教員が約3万円の費用を使って、
B30時間の講習を受けなければならなくなった。

 そもそも40歳にも50歳にもなってたっぷり経験を積んだ教員が、自信と誇りを 持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることができるほどのプログラムを、大学が30時間分も用意できるかどうかということは問題にならない。
 30代、40代、50代、すべて同じ講習でいいのかということも問題にならない。

 講習にはそれぞれ試験があるが、不合格を1割と見積もると毎年1万人の教員が失職することになる、これは問題にならない。
 そんなに簡単に国民の職を奪っていいのか、ということで不合格を0%に見積もると、今度は何のための講習・試験なのか分からなくなる、それも問題にならない。

 その後、民主党が「教員免許更新制度」の廃止を掲げて選挙に勝ち、これでこのアホな制度がなくなるかと思ったら、普天間問題やら外国人献金やら、さまざまにがたがたしているうち東日本大震災が起こって沙汰やみとなった。
 その間に3年がたってこの制度もそれなりに定着してきたので、このあたりでまとめておきたい。
 題して
「教員免許更新制度の功罪」

 【功】
  1. 一応、研修を受けてくるのだからそれなりのスキルの向上はあった。
    →と思う。
  2. 受講した教員も終了アンケートに答えて「有意義だった」「意味ある研修だった」と評判も良い。
    →ただし、

    さまざまに面倒な手続きをクリアした上に、3万円もかけて受けた研修を「無意味だった」とは書きにくい。そんなふうには思いたくない。
    ・研修を用意してくれた人に対しても失礼だ。
    そういった心理は働いていた。
     アンケート項目に
    「同じ労力と金額を支払ってもまた受けたいか」という質問があったら絶対に「イエス」とは言わないと思う。
  3. 更新研修を請け負った大学は経済的に潤った。
    →毎年10万人が3万円を支払ってくれるのだから、その総額30億円はかなり独立行政法人としては魅力的な収入だ。しかも毎年確実な人数が望める。
  4. 文科省・都道府県教委も「教員の資質向上のために着実な施策を行っている」というアピールができた。
    →文科省や教委のために教員が犠牲になった。

【罪】
  1. 案の定、試験による不合格者(免許失効者)は一人も出なかった。→何のための試験か分からない。
  2. バカ扱いされた教員の、職業への誇りや意欲が低下した。→そして不祥事が増えた。
  3. 支払った金額に見合う『智』が大学にないことが暴露された。→教育は現場から学ぶべきなのに大学の先生たちは現場を知らず、受講者の方が圧倒的に詳しかった。
  4. いずれなくなってしまうかもしれない教員免許を、本気で取ろうとする学生が減って来る。特に教育学部以外の学部で、専門性の高い学科の学生はがんばって取得しようという意欲を失ってしまった。
    →実はその中にも優秀な教員の候補はいた。
  5. (そしてこれが一番大きいのだが)更新研修は現職しか受けられないために現場を離れているペーパー教師が次々に消えた。
    →おかげで教員が産育休や療養休暇に変わりに来てくれる免許所有者が極端に少なくなってしまった。

    免許更新制度が一回りする頃には、ベテランの育休療休補充候補者(結婚や子育て・介護のための退職をして、そののち退職事由がなくなって現場に戻ることのできる人たち)は誰もいなくなってしまうだろう。免許所有のフリーターの山ほどいる都会ならともかく、私の住む田舎県のようなところでは代替え教員は一人もいなくなる。
     
    免許更新制は指導力不足の教員を排除しないが、指導力のある教員は排除できるのだ!

2011.12.04








副校長

 
 平成19年の法改正によって置かれるようになった、校長に次ぐ管理職。
  • 小学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、栄養教諭その他必要な職員を置くことができる。(学校教育法第37条2)
とか
  •  高等学校には、前項に規定するもののほか、、副校長、主幹教諭、指導教諭養護教諭、栄養教諭、養護助教諭、実習助手、技術職員その他必要な職員を置くことができる。(学校教育法第62条2)
とかいった文言で規定され、その職務としては、
  • 副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
  • 副校長は、校長に事故があるときはその職務を代理し、校長が欠けたときはその職務を行う。この場合において、副校長が2人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理し、又は行う。(学校教育法37条5・6ほか)
ということになっている。

 ナベブタ式(ヒラばかりの教員の上に校長教頭がナベのツマミのように乗っかっている)と呼ばれる学校の機構をピラミッド型に組み換え、上意下達をしやすくするとともに教員の出世欲を刺激し「やる気」を出させようという試みである。
 しかし法整備はしても財政的裏付けをしなかったため、ほとんどの自治体で副校長を設置できず、無理してやった東京都などでは副校長の設置とともに教頭をなくしてしまった。したがって名前が変わっただけで仕事はまったく変わっていない
 いったい何をやっているのか

 もっともおかげで都会からかかってくる、新聞を取れとか雑誌を取れ、節税のためにマンションを買え(この「都会にマンションを買え」は異常に多く、様々な業者が毎週のように電話を入れてくることがある)といった業者に対して、嘘をついたり居留守を使ったりする必要がなくなった。

「あー、副校長先生はいらっしゃいますか?」
「いえ、副校長はいません」
「いつお帰りですか」
「たぶん、ずーっと帰ってこないと思います」
 これで終わりだ。

2010.11.10







教頭

学校でただひとりの中間管理職。
上からは押さえつけられ、下からは突き上げられる点は他の業種と同じだが、「ただひとり」というのは、つまり学校の仕事を分担なしに全部やっている、ということである。

 仕事の中心は、文書処理・営繕・職員指導の三つに分類される。

 早い話、文科省をはじめ各機関、組織から送られてくる大量の文書に目を通し、係に振り分け、必要なものには回答する、それが「文書処理」。ざっと3時間以上かかる。

 「営繕」は蜂の巣の処理からボイラーの修理、樹木の伐採まで、校内のありとあらゆる肉体労働をいう。

 その間に、職員の相談に乗り、いくつかを決定し、外部からの苦情の処理にあたる。これが「職員指導」。
 
 殺人的に忙しい職で、俗にセブン・イレブン、シックス・テンと呼ばれる過酷な生活に耐えている。それでいて、いいことはない。
 
 MS−IMEではしばしば「狂頭」と誤変換されるが、あながち間違えとはいいがたい。
 
 都会では、最近、深刻な教頭志願者不足を招いているという。無理もない。


2009.08.15





校長


  かつて校長は村長と警察署長と同じ給与、同じ待遇という時代があった。したがっていまだに正月の出初式や市民祭に上席の来賓として招かれるが、かつてのような収入も権限も威厳もない。人事権も予算獲得権もなく、懲戒権もない。
 現代の校長は、端的に言って、
拶をして、責任を取って、地区の会合に出席する人、である。

 
挨拶は、もちろん入学式に始まる学校行事のすべて、来賓として招かれた会合のすべてでの挨拶。これがバカにならないほど多い。

 
責任を取るは、文字通り一切を決めて、いざとなったら辞めてもらうことである。

 ウチの子が遭っているイジメは総理大臣も知っているべきと信じる(そして本当に総理大臣に手紙を出したりする)親たちからすれば、校長に知らないことがあっていいはずはない。したがって何か問題が発生すれば「校長は知っているのか(そしてこの状況は校長の考えなのか)」ということがまず問題とされる。
「知らなかった」と答えればその時点でアウト。その一点をついて最後まで攻め立てられる。

 したがって校長は学校で起こるすべてについて報告を求め、教員は何でもかんでも校長に上げて決めてもらうという極めて非主体的な行動に出る。我々としてもいちいち決めてもらうのはしゃくだが責任も一人で負ってもらえるので、自然、流れはそういう方向に進んでしまう。

 週日は朝から晩まで相談を受けて、朝から晩までいちいちを判断し、週末は週末で
地区の行事、会合に際限なく駆り出される。

 教員生活最後のお返し、とでも思わなければとても勤まらない
悲しい仕事である。


*ちなみに
法律を読んでいくと「校長および教員は・・・」という文章がたびたび出てくる。つまり校長は教員ではないのである(教職員には含まれる)。教員免許を持たない民間人が校長になれるのはそのためであり、こうした定義に基づけば校長は教員の代わりに授業を行うこともできない。ほんとうに可愛そうな人たちである。



2009.08.04




運動会

  運動とリズム・ダンスを中心とした、校庭で開かれる競技会。主として小学校で、秋に行われる。本来は運動力の優劣を争うもので、その性格は今も変わらないと思うが、

 1980年代後半〜1990年代前半にかけて、単純な勝ち負けによる過度な優劣意識をこどもたちに感じさせないことをめざして、一部の学校では、徒競走などで一緒に「手をつないで一緒にゴールを切らせる」といった試みも行われ、現在もこれを続けている学校や地域が存在する云われている。(ウィキペディア)

 ただし、
1970年前後の「口裂け女」「ナンチャッテおじさん」同様、何年にどこどこの学校で行われた(あるいは行われている)といった具体的情報は一切ない。当該の校長にマスメディアが取材した様子もなく、いわゆる「都市伝説」のひとつだと考えられる。


 かつては村の中心的祭典で、たこ焼き屋・綿菓子屋といった屋台も出た。村人は仕事を休み、三段重ねの弁当を持ち込んで観戦する。男たちは昼間から堂々と酒を飲み、家族総出で観戦したものである。
 斯く言う私も徒競走の最中、ウチのばっちゃんが突然立ち上がって「○○○〜! ユウサクに負けんな〜!」と叫んで失笑を買う様子を覚えている。
私も恥ずかしくもあったが嬉しくもあった。

 現在も大勢の観衆を集めることには変わりないが、屋台も消え、酒を飲む人の姿もなくなった。
子どもたちが一生懸命頑張っているのに飲酒するとは何事だという、極めてスリランカ……もとい、セイロンめいた主張がなされ、みんながひれ伏したためだ。

 それとともに我がばっちゃんのようなアホな応援をする人もなくなった。
 親たちは声を荒げることもなく、黙々とVTRのモニターの中を走るわが子を追うようになる。
 静かなものだ。


2008.12.22





参観日


 かつてはわざわざ美容院に寄ってから学校に行く日だった。
 スーツがほとんどだった。和装の人もいた。
 
あまり気合が入りすぎて安手のキャバレーの女給(ホステスとかではない)、みたいになってしまった母親もいた。

 しかし現在はあくまでも普段着で来るところとなった。
 普段着だから作業着のままで来る人もいる。しかし来ればまだいい方で、「普段」だから普段と同じように職場で仕事をしたりしている人もいる(つまり来ない)。

 ガムをかんでいる人もいる。
 隣の人とおしゃべりに興じている人もいる。
 
あまりうるさいので授業を受けている生徒が「静かにしてください」と注意することもあるが、注意された方はあまり気にしていないようである。
 もっともそういう人に限って、懇談会などでは
「うちの子は授業中だというのに、どうしてあんなにもおしゃべりなんでしょ?」と聞いてきたりする。
 
 参観日はかつて教育サービスの一環として行われたもので、保護者には当然喜んでもらっていると思い込んでいたのだが、最近、そうでないことが分かった。
「とにかく参観日が多すぎる」という不満が繰り返し寄せられるようになってきたのだ。子どものことでいちいち仕事を休んで行かされるのはかなわないらしい。
 
 しかし一方で学校開放の立場から参観日を増やし、一週間ぶっ続けの参観週間などというとんでもないものを考え出した学校もあった。限界まで批判されるかと思ったら案外好評で驚いた。

 聞けば一日一時間なら大半の親が来るので
「行かなければウチの子が可愛そう」とかでかなり無理をしてくれるのだが、一週間ぶっ続けとなると各一時間に来ている親は本当に少ない(普通はゼロ。いても一人か二人)。

 
いないことが目立たないから行かないですむというのが好評の原因だった。一週間トータルで6人の保護者しか来なかったという悲惨なクラスもあった。
 
 「参観日」、これが死語化する日も近いのかもしれない。


2008.2.23






家庭訪問


家庭状況を把握するために教師が担任生徒の家々を回る、学校の年中行事。
つい10年ほど前まで各家庭が競って料理を作ったため、高級料亭の懐石巡りみたいになってしまい、昼間から酒まで出されて困惑することもあったが、今はそういうことはない。
「湯茶の接待などはけっこうです」と連絡すると、本当にまったく何も出てこない家庭もあり、違った意味で困惑することも多くなった。

部屋中の荷物にシーツをかけて隠し、それでも不安なのか保護者と並んで窓に向かって座らされ隣の庭を眺めながら話をしたり、両親ばかりでなくお祖父ちゃん・お祖母ちゃんおまけに里帰りの小姑まで出てきてまるで即席の面接会場みたいになってしまったり・・・・・・何かと逸話の多い面白い行事であったがプライバシーとの絡みもあり、次第に縮小傾向にある。


仕事は休まなければならないわ、めったにしない掃除や料理もしなくてはならないわ、おまけに担任はこれ幸いに子どもの悪口を並び立てるし・・・・・・・。
子どもの責任は学校にあるのだから家の中まで知られることはない・・・・・・。
まことにごもっともな意見である。

そうした世論を反映して、家庭訪問を玄関先で済ませる都府県も増えてきているが、他方、「大切な家庭訪問を玄関先で済ませるといった教師の手抜きが、今日の学校問題の根底にある」という意見もあり、なかなか鋭い指摘といえよう。

何をやっても怒られるなら、何もしない方がいい。これが人間心理の鉄則と思うが・・・・・・。








指導要


児童・生徒一人一人につい成績やら行動やらを細かく記入した公簿。
作成 に(1時間×人数)ほどもかかるというのに、作成者とその管理者以外は誰も見ないというなぞの文書。

元は記録に留め、次の担任や上級学校の教師が参考にするためのものであったが、良いことしか書かない原則があるため、読んでも何の役にも立たない。
ページを入れ替えても完全に通用する
偽文書集である。

自分の指導要録を見たいばかりに裁判を起こし、最高裁まで争って勝った人がいたが、読んだ結果は「大した事は何も書いていなかった ………」。

家族に教育関係者がいたら、こんなアホな裁判は止めたはずだ。

何とも気の毒なことだった。









調査書(内申書)


入試の際、高校に送る学業に関する書類一式。正しくは「調査書」だが、一般には「内申書」と呼ばれることも多い。
生徒は恐れて戦々恐々としているというが(ホントかね?)、これも絶対に悪いことは書かないという原則にのっとった偽文書。

下手に中学浪人でもされて1年余計に付き合わなければならないことを考えると、ぜひとも合格してもらいたく、教師はさらに熱心に書く。したがって先生に嫌われている生徒ほど、よく書いてもらっている公算が高い。

だからといって嘘を書くわけにもいかないから
「わがままで好き勝手を言う」は「自己の願い・考えをよく理解しており、自己主張ができる」
「乱暴で破壊的」
は「元気よく活動的」
などと書いた。

しかし(後に知ったのだが)高校は高校で、こうした偽文書の解読班がいて、いちいちそれを置き換えていたというからタマげた。

現在は「内申点(各教科の評定点)」以外はほとんど記入しない。









通知表


ある家庭では親子紛争の火ダネ、別の家庭では買って欲しいものと引き換えに渡す証書。

小学校の場合◎の数が問題とされ、中学校では各教科の評定が単純に加算され、喜んだり悲しんだり……。

しかし「相対評価を加味した絶対評価」(なんじゃコレ?:*注)のため、クラスでトップの子より5番手・6番手の方が評価の高い場合も少なくない。

教師は書くのに苦労して、子どもはもらうとロクでもない場合があり、親はしばしば絶望する。やめればいいのに絶対やめない。


*注
2002年より「相対評価を、加味した絶対評価」は全て「絶対評価」に変更された。









教科書


独占的な数社によって発行される出版物。
そのほとんどが大ベストセラー だが、一般のベストセラー一覧には載ってこない。

一般には薄ければ薄いほどよいと考えられているが、実際には薄くなるほど難しくなる(なにせ要点しか書いてねぇんだから)
小学校1年生の国語など、絵のページが2・3枚あったかと思うといきなり長文になってしまっている。









指導案(教案)



研究授業のために用意する計画案の冊子。

一般に、○○教育全国大会など
というとよほどすごい授業法が展開されると考えるが、実はそうでない。

一介の教師集団が知恵を絞ったところで、これまでの研究を越える斬新なアイデアなど出るはずがない

そのアイデアのなさを知られないためには、みんながとても読む気になれないような教案をつくるしかなく、したがって市の指定授業、県の指定授業、文部省の指定授業など、規模が大きくなるにしたがって教案は分厚くなる、という比例の法則がある。

ある研究授業では1冊(A4判)の指導案の厚さが1.8センチもあり、それに別冊1センチがついていた。









教育委員会



教師の監督機関。教師が最も恐れているところ、と一般には思われているがそんなことはない。事務局の主力メンバーの多くは現場経験者なので、教師に対する理解は深い。

もっとも市町村民・都道府県民の苦情窓口となっているため、やむなく対応しなければならないことも多く、したがって教師に対する指導の手が入ることもある。

村レベルの小さな教育委員会には、けっこういい人が多い









校長会


人格者50%、碌でなし50%の集合体

何を話し合っているか知らないが、しょっちゅう集まっている。遊んでいる様子もなくきちんと仕事をしているのだが、校長が集まって話し合うことがそんなにある、というだけで驚異である。校長会が地元大学の教育学部に占有されている場合は、毎月開く同窓会みたいになっている。








PTA


@保護者と教師による学校教育協賛の組織。本人の意思と無 関係に「入会が強制的に行われる任意団体(会費も取られる)
外部組織のため、教師がPTA活動にどれほど時間を使っても、それで手当てが出るわけでも、回復休みが取れる訳ではない。
徹底した参加損
しかし絶対に辞められない。


A保護者。「PTAがうるさい」と言うときはこの意味。









日教組


日本教職員組合の略。
組合費を払うだけの組合員も多い中で、異常な熱意を持ち続ける人も多い。
ただし近年、組織率が著しく低下し、影響力も格段に落ちている。今どき、日教組のおかげで教育が悪くなっていると分析するのはトンマな話で、悪くする影響力さえ残っていないというのが現実。

死語辞典への移行も間近かと思う。(黙祷・・・・・・)









子どものサイン


子どもの自殺やイジメ事件に際して叫ばれる標語。「子どものサインを見落とすな」といった使い方をする。見落とした教師はバカ扱いされるだけでなく、ほとんど鬼畜のように言われる。

ただし現場では30数人が一斉にサインを出しているわけで、これを見分けるのは容易なことではない。
「オーイ、オレ勉強わかんねェヨー」
「ハラ痛いヨー」
「私非行に走っちゃいそうヨン」
「腹へったヨー」
「失恋したゾー」
「オシッコしたいヨー」
「ウチで夫婦喧嘩やってるよー」
「早くし帰してくれネェーとテレビ始まっちゃうヨー」

それこそ応援団が全員監督で一斉に別々のサインを出してるプロ野球のようなものだ。









金太郎あめ


詰め込み教育と画一化教育によって次々と排出される没個性の集団を象徴的にこう呼ぶ。
イメージとしては22世紀のロボット工場から続々と排出される黄色のネコ型ロボットの一団を考えると良い。

厳しい受験戦争の中で生まれるというこの没個性群は、おそらく東大・京大といった超一流大学に多いだろう。合格発表の場や入学式に多くの報道陣が集まるのはそのためと思われる。

しかしその中から多くの政財界人や官僚、ノーベル賞受賞者が生まれている事実を考えると、「金太郎あめ」の非難されるゆえんが分からなくなる。難しい概念ではある。(⇔画一化教育)













昔の教師の教育力
昔はだれでも先生の言うことはよく聞いた(あたりまえだ)。
今の教師は教育力が不足している(それもあたりまえ)。