教育用語症事典


死 語


言葉は生活とともにある。そして生活には歴史がある。
時代が変われば生活も変わり、それとともに言葉が変わる。
いくつかの言葉は死ぬ。

死ぬべき言葉が死ぬ。
しかし生き続けるべき価値を持ちながら、時には殺される言葉がある。
生き長らえる必要もないのに、瀕死のまま生き続ける言葉もある。

哀悼の墓碑銘
侮蔑の墓碑銘
死語辞典
















学校のスリム化




 死語というのはこうあるべきだという手本のように、完全に世の中から消え去った言葉。

 元は、
子どもの教育における学校、家庭、地域の役割分担を見直し、生活習慣のしつけなど子どもの教育にかかわる何から何までを学校に期待する過度の学校依存を改善しようとする考え方。1995年に発表された経済同友会の「合校」構想によって注目されるようになった。

 たまたま当時マスコミ上で「肥大する学校論」「学校拡大論」「学校化社会論」が蔓延しており、
「教師が押し付ける学校的価値観(明日のために今日を我慢する『未来志向』と『ガンバリズム』そして『偏差値一元主義』)が、社会を圧倒し、そこから生まれる『がんばり競争』が、敗者には不満、勝者には不安を与える」とか、
「食事から生活習慣、親子関係のあり方にまで口出しする学校」とか、
「自分たちだけが正しい信じる傲慢な教師たちの家庭侵略」とかいった学校批判が広がっていたため、「学校のスリム化」論は瞬く間に広がった。
 合言葉は
「子どもを学校から取り戻せ」または「地域・家庭に子どもを帰せ」
 
 ところが、
 1995年(平成7年)に隔週の5日制が始まり(月一回は1992年から)、2002年(平成14年)の完全学校五日制が近づくに従って、人々はビビッた。
 
いまさら子どもを帰されても困るのだ。
 
 間違っても子どもを帰してくれるなとの保護者の要望に応えて、市は学童保育を充実させ、公民館もさまざまなイベントを組んだりしたが、素人が子どもを何十人も集めてもうまく行くはずがない。
 そこで、
「学校の子どものことですから、ぜひ」ということになって何故か職員がボランティアで宿泊教室に駆り出されたりする。
 
 中学校では土日の部活が原則禁止になって学校から切り離されると、息子たちがボロ負けするかも知れないとの恐怖に駆られた親たちが社会体育の組織をたち上げる。そこまでは良いが、中学生のスポーツの指導ができる人材がそう簡単に見つかるはずはなく、結局、
「先生に見ていただけるといいのですが・・・」と学校に泣きついてくる。学校の部活としてやっている間は特殊勤務手当ての関係で(*)、1日3時間までといった制限があったが、ボランティアになると時間は無制限である。
 
 学校がスリムになると教員の仕事が増えるという極めてやっかいな事情に気づいてから、教職員もまた、これに否定的となった。
 
 かくて、誰にとっても何のメリットもない「学校のスリム化」は死語辞典に加えられるに至った。


* 特殊勤務手当て
 部活動のために休日出勤をすると4時間あたり1450円の手当てが出ることになっていた。従って、学校は内規で「土日の部活動は3時間以内」とする規定をおくのが普通だった。これだと1銭も払わなくて済む。
 ただし、大会の地区予選を休日に行ったりするとどうしても8時間以上はかかるため、申請すれば2900円の手当てが出された。
 時給に直すと360円ほど。
 高校生の時給の半分以下である。バカらしいので私はもらったことがない。

*追記
 4時間1450円の特殊勤務手当てが見直されると言うので楽しみにしていたら8時間2400円になってしまった(時給300円)。しかも8時間やらないと1銭もでない計算である。これに順じて3時間規定もなくなるかと思ったが、さすがにそこまでえげつないことはしなかった。多少の節度は感じた。


2009.06.21




「絶対評価」「説明責任」「スコアラー」



 2003年、私は新語辞典に「絶対評価」「説明責任」「スコアラー」の3項目を入れ、絶対評価という馬鹿げた評価方法の末路を予言した。しかし私の予言した以上の速さでこれらは死語化し、現在は言葉の端にさえ浮かんでこない。
 
 死語化の最大の理由は、これをやらせた文部科学省自身が、(おそらく最初から)絶対評価の実用性を信じていなかったからである。

 さらにこれに学力問題が追い討ちをかけた。
 「がんばれば何人でも『5』の取れる絶対評価」という絶対評価に対する誤解が最後まで解かれなかったため、「絶対評価では日本人の学力は上がらない」と信じた人々が、息の根を止めたのだ。

2001年から2002年にかけて、私たちは異常な努力を傾けて「評価基準」なるものを作った。それは学校で行う授業のすべての時間について、
「その時間でどういった能力をつけさせるか」
「その能力がついたかどうかをどう判断するか」
「十分つかなかった場合は、どう対応するか」

といった項目で展開する、プログラムの集大成である。したがって各学年電話帳一冊にも匹敵するような膨大な書類となったが、今は書棚の奥でほこりをかぶって眠っている。

私たちが「文科省の言うことを素直に聞いていたら馬鹿を見る」と心底思わされたのが、この「事件」だった。

 全国97万人の教員の努力を思うと本当に涙が出るが、涙を落としながら新語辞典から死語辞典へと移す。

絶対評価

「どんなにがんばっても順位が上がらなければ『5』の取れない相対評価から、がんばれば何人でも『5』の取れる絶対評価へ」
と、マスコミ持ち上げられて登場した新評価方式。


「がんばり」という主観的評価によって点数がつけられると誤解され、生徒からはすこぶる不人気であったが、そうではない。

言わば、
走り高跳びで
1m跳べば『3』
1m20cmなら『4』
1m30cmならば『5』

と決められたような評価である。

確かに1m30cm以上跳べば何人でも『5』だが、逆に言えば
「80cmしか跳べなくてもクラスで真ん中程度なら『3』をもらえた」時代から、
「なにが何でも1m跳ばなければ『3』がもらえない時代」に移り変わった

とも言える。


かつては「学習指導要領」に示された1m20cmは目標値と考えられていたから、
「マ、体育の苦手な子だって、ジャンプの下手な子だっているから80cmでもしかたないな」と考えていたものが、その1m20cmが1mに下げられたかと思ったら、マスコミに責め立てられたアホな文部科学省の担当者が、
「1mは最低基準。1m20cmを1mに下げたのだから全員跳べるはず。跳べなければ先生が跳べるようにします」
などと現実性のないことを言い出したから問題がさらに複雑になった(1mはだれでも跳べる高さか?)。

「九九も定かでない生徒に方程式を『先生ができるようにします』もないだろう」という本質的な話はできないので、教師は恐ろしく簡単なテストをつくるなど対策を打って次々と『3』を連発するという暴挙に出(何しろ『3』以上にしないと教師の力量の問題にされてしまうので)、何のために『1』や『2』があるのか分からない状況が出現する。

すると今度は高校から、
「『3』ばかりの内申書では何がなんだか分からないので生徒の成績が平均で『3』になるように割り振って欲しい」
と、絶対評価にあるまじき提案がなされ、中学校現場はさらに混乱する。

息も絶え絶えの教師たちは、しばしば「絶対評価」を「絶体評価」と誤記する。





評価基準

納税者の気持ちを考え、「学校のあらゆることを説明可能なのものにしておかなければならない」という恐ろしい発想のもとにつくられた、成績評価の基準。

「なぜウチの子の美術は『4』にならないのだ」
とか、
「ウチの子の作文力が『B』評価とはどういうことだ」
とかいった追求に耐えられるよう、絵画や作文にも評価規準を設け、点数化するというとんでもない取り組みも進んでいる。

この評価規準に基づいて評価すると、ミレーの「晩鐘」が85点はいいものの、ピカソの「泣く女」は肌の質感とデッサン力に問題があって35点
作文では谷崎潤一郎の「各文が長すぎて80点」は我慢するにしても、「内容がわかりやすい」で大減点を喰らって55点しか取れなかった大江健三郎は気の毒だった。

マ、これも時流だからしょうがないか。




スコアラー

1m跳べば『3』
1m20cmなら『4』
1m30cmならば『5』
というようなランク付けを評価規準といい、2002年度までに全ての学校で、全教科・全ての単元についてこれをつくったはずである(電話帳みたいな厚さになっている)。

教科担任はこの規準にしたがって毎時間、名簿に「A」だの「B」だの「C」だのと書き込み、児童生徒が評価基準に達しているかどうか評価する(その総計が『5』だの『4』だの『3』だのになる)。

かつてのダイナミックな授業は消え、教師は一定の時間ごとに全生徒の間を回り、「A」だの「B」だのを続ける。
その姿を揶揄して行った表現、それがスコアラー。

2008.4.28








コギャル



1999年11月、私は新語一覧にこの語を載せた上で、次のように書いた。

語源的には1970年代、当時のニューファッションに身を包んだノー天気な女性の総称「ギャル」に始まる。しかしそれが単純に中高生のレベルまで降りてきたというわけではない。

「コギャル」はコスプレ系などの同世代別系ファッションと一線を画す形態上の一集団である。
茶髪・ガングロ・制服ミニスカートが3大アイテムと考えられているが、それは正しくない。
重要なポイントが欠けている。すなわち、
「スッピンにするとおそろしくブスであること」
が必要不可欠な条件。

日本史上初めてブスが主導権を握ったという意味で画期的な文化といえる。


その後、コスプレ系などは一気に滅び、コギャルは少女ガキ文化の全権を握ってしまった。
つまり、一集団としての「コギャル」はもはや存在しないのである。

また「コギャル」が一般化したということは、必然的にブスによる寡占状態も解消されてしまったということでもある。

かくして平成日本の一時代を築いた特異な文化は滅び、可愛い子だけがちやほやされるという、きわめて自然な、しかし実に不公平な状況が回復されたと言える。

無念である。

追記】
あれほど一斉を風靡したコギャル・ファッションも、2006年以降すっかり衰退してしまった。平成の徒花(あだばな)として、長く語り継がれよう。




 



ヤマンバ
ギャル


これも1999年の「新語一覧」にこう書いた。
「ポケモン百科」には「コギャルの進化形」とあるが詳細は分からない。数世紀前のアフリカ民族の化粧の源流が日本にあったことを発見した、という意味ではこれも画期的であった。

ただし東京の一繁華街のローカルなファッションを、あたかも全国的な傾向、あるいは巨大なファッション・トレンドのように流布したマスコミの罪は重い。


私の住む山奥の学校近辺にもヤマンバギャルが出没するようになったが、

都会ならではのヤマンバファッションも田舎に持ち込むと危険だ。

撃ち殺されなければいいが。


おそらく、私の危惧はあたった。

宗谷岬より北、南鳥島より南については知らないが、日本全国からヤマンバたちは消えてしまった。

殺人事件としての報道が一切なされなかったのは、それがやはりヤマンバであったからに違いない。

黙祷・・・・









落ちこぼれ



すっかり忘れていた。
それくらい完全に死語化した。

かつては教育界最大級の問題であり、
やれ「落ちこぼれ」だ、いや教師の方が「落ちこぼし」だ、などと議論百出であったが、完全に死んだ。


この語が死語化した原因は明白である。

みんなこぼれちゃった
それが答えである。

かつてあれほど目だった「勉強のできない子」が今や全く目立ず、むしろ多数派に回ったために彼らの居心地はずっとよくなった。

逆に「普通程度に勉強のできる子」「特に勉強のできる子」たちは肩肘をはっていきがっていなければ、生きて行けなくなった。
今後問題となるのはこの層である。

「こぼれ残り」の心のケアが、大問題となる日は目の前に迫っている。









雑草のようにたくましい子



「踏まれても踏まれても立ちあがる雑草のようにたくましい子」という使い方をし、子どもの理想的な姿として捉えられた。
ずいぶん歴史のある言葉だと思うが、意味は現代の「生きる力」と、ほぼ同じである。

「たくましい子」を雑草に喩えた原作者は、おそらく農業体験がなかったに違いない。
一度でも農業に手を染めた人間なら、子どもが「雑草のように」育つことを願うはずはないからだ。

しかし子どもたちは「雑草のように」育ってしまった。

やたら強い、役に立たない、はびこる。

したがってもうだれも理想としない。









親の敷いたレール

昔は同族企業の社長一家の長男が、
「親の敷いたレールに乗って社長になるなんて嫌だ。ボクはボクで、実力でのしあがって見せる」
といった使い方をした。

しかし30年ほど前から、
「一流高校から一流大学、そして一流企業なんていう親の敷いたレールに乗りたくない!」
といった使い方もできるようになった。

レールというからにはそれに乗って普通に走っていれば、苦もなくそのコースをたどってしまうのだろう。
一流大学まで用意してくれる親が相当数いることも驚きだったが、それを蹴ってしまう子どももたくさんいるのには本当に驚いた。

しかししばらくして、それが単に地図上に引いた予定路線でしかないことを知った。
乗ろうったって乗れないものに「乗りたくない!」などと偉そうに叫ぶ人の気持ちがわからない。
謎の発言だ。

この就職難の現代では親がレールを敷いてくれないことを恨む子どもが多くなったという。
したがって死語に含めた。









子どもの権利条約


まさかこの語が死語化するとは思わなかったが見事に世間から消えた。

2〜3年前までテレビを見ても新聞・雑誌を読んでも

「人権の何たるかも知らないバカ教師」
「『子どもの権利条約』を読んだことすらない異常な集団」

と、イスラム国のコーラン並の扱いをされていたはずの聖典なのに、瞬く間に忘れ去られた。

代わって紙面における教師の評価はこんなふうになってしまった。

「人権の美名のもとにクラスを荒らすバカ集団」
「『人権』『人権』とバカの一つ覚えで、学校の管理ひとつできない弱小教師群」









 egg


M出版発行のサブカルチャー雑誌。今日のギャル系ファッションと「いけている」という概念を作り出したギャルたちのバイブル。
しかし2000年3月号をもって休刊。
実質的には廃刊になるだろう。したがって死語に加える。

40万部も売れていながらなぜ廃刊になるのか。巷では、
「『頂点で去る』という美学説」(それで数百万の収入を捨てられるのか?)
「仕事がハードでやりきれない説」(だったら人数増やせば?)
「人気『eggモデル』の度重なる引退説」(代わりはスゲーいると思うけど)
など諸説紛紛であったが、真相は明らかにされなかった。
(こういうことになると新幹線使って直接編集部に聞きに行くのだから、彼女たちの自主性・問題解決能力の高さには恐れ入る。ただしそれは自分の興味あることについてだけだ)

最近、Super teachersは有力な情報を得た。それによると、
「モデルとなっている、いわゆるスーパー高校生やカリスマ女子高生がとんでもなく時間にルーズで、雑誌の編集予定を立てるのがあまりにも困難になった」からだそうである。
可愛い小鳥だと思って大切に育ててきたタマゴからヘビが出てきたようなものだ。

雑誌編集者諸君、学びたまえ。
教師が学校で宿題を出すというのはそういうことなのだ。
しかもこちらは毎日が締め切り、そして間違っても休刊にするわけにはいかないのだ。









プロミスリング


プロレスにおける宿意の復讐戦
「約束されたリング」
ではない。

幅約1cmまでの毛糸で編んだ帯状の腕輪。
願掛けをしたり、心中立て(私はあなたの友だちよ〜ン♪、私はあなたの恋人よ〜ン♪)のために使用された。
1990年代初頭の、つまりほとんど「ついこの間」のブームなのに、私自身「よく思い出した」と感心するほどきれいサッパリなくなってしまった。

ブームというのはそんなもんだ。

多くの中学校高校で教師たちが目くじらを立てて取り上げまくったが、マスコミや世間は取り上げることの方に、それこそ目くじらを立てて批判した。いわゆるくじら戦争の一部をなす局所戦の様相を呈した。

これが没収の対象となったわけは、一部の不良グループが「盟約の印」として使用し始めたからである。つまりこのちっぽけな飾りに広域暴力団の金バッジと同じ意味を持たせようとした、そこに問題があった。

「だったら悪い人のだけ取り上げればいいジャン」と平気で子どもは言うが、もしそんなことをしたら「エコヒイキ」のそしりは免れず、「ドーしてワタシらが悪い子なんじゃ」と、そちらの方で全面戦争をしなければならなくなるので一律に禁止した。

そのあたりの事情は小学校の先生にも分からないらしく、小中合同の会合のときなど、若い女の先生の手首にも巻かれていて、中学の教師たちをア然とさせたものだ。

一瞬、「アネゴ」が殴りこみをかけたと思った。









能力発展途上者


一部の不心得な教師によって多用された「バカ(馬鹿)」が使用禁止用語に指定されて以来、表現に困った別の一部の人々が使い始めた特殊な用語。

「バカ!」と怒鳴るところを「能力発展途上者!」と叫ぶ。

これが死語となったのは当然その言い方の難しさのためであるが、90年代に至って「バカ」に「お」がついただけの「おバカ」が流行し、こちらの方が使いやすかったためだとも言われている。

クレヨンしんちゃん」が残したただひとつの成果である。








ぶりっ子


これほど一世を風靡しながらかくも死語化した例はむしろ少ないであろう。

1980年代半ば、松田聖子をシンボルとして始まった「可愛い子ぶりっ子」バッシングは、瞬く間に全国に波及し、現代の魔女狩りといった様相をみせた。

少しでも「可愛い子」「良い子」と見なされた者は厳しい追及と精神的な拷問に曝されるため、自分がいかに「可愛くない子」「悪い子」であるかを証明することが急務となり、多くの子どもたちが奔走した。

「可愛くない子」「悪い子」になり切れない一部の「良い子」(=本当に良い子)たちは地下に潜り、一種の隠れキリシタン化をしたというが、実態は究明されていない。

この魔女狩りの結果、あまたの「可愛い子ぶりっ子」とともに「良い子ぶりっ子」は完全に駆逐され、以後、学校内の話し合いにおいても、教師サイドの発言を行う者はいなくなってしまった。

自分の中にある「わがままなもの」「汚いもの」だけを『本音』だと考える人々にとっては、いわゆる『本音で語り合える』時代が到来したのである。

しかしそれは腕力の強い者、押しの強い者、わがままの強い者こそ生き残るサバイバル世界でもあった。









二宮金次郎像



昭和の初め頃盛んに造られたらしい謎の人物立像
この像の人物が何者なのかを教えてもらってこなかった子どもたちが、すでに大人となって教師の大半を占めるようになったので、なお分からなくなった。

校舎が改築され敷地割が変更されても、積極的に壊すだけの理由がないので今日も日本中の学校でマキを背負っている。ものは残っているのに言葉だけが死んだ珍しい例。

調べたところ、小田原出身。家老の家の財政を立て直し、続いて栃木県二宮町・今市市を復興させた人、ということだが、そんなローカルな人の像が全国にあるというのもさっぱりわけがわからない。

それよりも更にわからないのは、すべからく子どもたちが過剰労働を強いられた時代にあって、あれぽっちのマキを背負い、本を読みながら悠然と歩く姿から何を学べばいいのかということだ。

二宮金次郎像からマンガを読んだりゲームボーイをしながら登校してくる大柄な小学生を連想してしまうのは、私だけだろうか。








カラスの勝ってでしょ


正確には瀕死語、または殺しても殺しても生きかえるゾンビ語。
意味は「オレにかまうな!」
内面にかまわれたくない子どもが大人たちに向かって使う。

20年以上前の流行語なのに今も繰り返し使われるのは、結局世代を超えて若者に共有されているということである。

勉強してもしなくても、

バカをやってもやらなくても、

犯罪やってもやらなくても、

そんなことアンタにゃ関係ない!カラスの勝ってでしょ、というわけだ。

そんなカラスばかりいるから、学校は苦労(crow:カラス)が絶えないのだ(?)。






反省文



私などは子どものころ、これで作文力を高めた
教師になった初期も「反省文20枚!」などと宣言して鬼畜のように嫌われたが、現在は行っていない。
これも「度を越した苦痛」の範疇に入るようになったからだ。

実際子どもは書けなくなった。20枚はおろか、1枚の原稿用紙ですら埋まらない……。

2万円のガラスを割って20枚なら、原稿用紙単価1000円。納得はできないが我慢できる範囲であろう。
しかし原稿用紙1枚では単価が2万円!!
どんな流行作家だってこれほど多くは貰っていないはずだ。

バカらしくなってやめた。








飛び込み


もとは水泳の際、頭から水に入ることを言った。しかしプールでの飛び込みによる事故が続き、裁判によって行政が多額の賠償金を取られるにいたって、学校から消えた行為。

現在は自殺のときのみに使われるため何も知らない新任の教師が「飛び込め!」と叫ぶと、児童は真っ青になるという。









精神注入棒 (根性棒)


完全に死滅してしまったが、かつては教師の最重要アイテムであった。

「教鞭を取る」の言葉のごとく、諸外国では「鞭(ムチ)」が一般的らしいが、日本の場合、木刀・竹刀・天秤棒などが好まれて使われた。
かく言う私も教師になったとき真っ先に手に入れた教職グッズがこれだった。今は使用していない

一説に体罰反対派によって駆逐されたとも言われているが、また一説に、
「教師が学校で精子注入棒を振り回している」
との誤報に端を発したという話もある。

「根性棒」の「根」「性」「棒」と切り離してみるとかなり危険な気もする。








前へ習え



中学校で死語。小学校では生き残っている。

全校朝会の際、小学校から転任してこられた先生が思わず「前へ習え!」と叫んだら、ほとんど全員の手が上がり一瞬の内に整列ができてしまった。中学ばかり経験してきた先生たちは全員が目を見張った。

「まだできるんだ・・・・・・・・・・」

しかし管理主義批判の中、小学校でもこうしたことはなくなるだろう。











もちろん、けったり殴ったりしてはいけない。
軽く叩くのは許されている(教務関係執務ハンドブック)が、これでは罰というよりスキンシップだ。
体罰がいけないならあとは精神罰しかないと、ネチネチいじめていたら「子どもの心を傷つけるのは心の体罰」とかで、これもいけなくなった。

罰として過剰な宿題を出したり、山ほど漢字練習をさせたりすることも、子どもの心を歪ませるため禁止。
「忘れ物一覧」や「宿題忘れ表」は継続的に子どもを傷つけることになるので中止。
「居残り清掃」などは会議等によってやらせられない場合もあり、懲罰の不公平になりやすいので行わない。
かくして、学校から罰自体が死滅してしまった

生徒がどんなに悪いことをしても手も足も出せない、挑発されても黙っていなければならないというモーレツなストレスに耐えかねた教師の一部がキレてほんものの体罰に走る









正 座


昔の教師はしょっちゅうさせたが、体罰の匂いがするというところから現在は行われていない。

高校の茶道部も、近頃はあぐらをかいてやる
と聞いた(ホントかな?)。









勉強


学習のこと。中国語では「無理強いを受け入れ、がんばること」だそうで、だから八百屋さんは「勉強します」と言うのだと聞いた。

その意味からすると、これも子どもの心を傷つけることだから、遅かれ早かれ禁止の方向に傾くと思う。









偏差値


生徒が無謀な受験を繰り返して受験料を浪費し、結局どこにも行くところがなくなって困ることのないように導入された数学の魔術。これによって生徒の合否予想が精度を増し、親と子の負担は軽減されたはずだった。

しかし偏差値によっていく高校が決められてしまう(ちゃうだろう!学力によって決められてしまうんだろ!)ということで世間の批判の集中砲火を浴びて絶滅した。

最近の週刊誌によると「偏差値に罪はないのに、アホな教師が『偏差値反対』の大合唱をしてやめさせてしまった」ということになっている。

アホな週刊誌だ


だがアホなくせに影響力があるので困る。








服装の乱れは
心の乱れ


@「服装が乱れると心が乱れる」という意味だと誤解されて死んだ
本当は「心が乱れると服装(や化粧など外見)に現われるから注意してみていろ」の意味。
つまり「子どものサインを見落とすな」に、同じ。
なのに殺された。(⇔子どものサイン)


A「外見をしっかりさせれば中身もしっかりしてくる」という考え。めっぽう人気がない
特に女性週刊誌の教育特集ではケチョンケチョンに言われることが多い。服装で中味が変わるはずがないのだそうだ。

それにもかかわらず、同じ週刊誌の次のページは「メイクを変えて、気分を変えて」だった。









画一化教育


子どもたちをみんな同じように育てようとする教育。
今日までの学校教育の方法全般に対して、非難の意味を込めてそう呼ぶ。ただし、次の2点については問題にしない約束になっている。

@みながキラキラと目を輝かせながら授業に取り組むという画一性
Aみんなが同じものを食わせられるという給食の画一性

「みんながキラキラと目を輝かせながら取り組む場」が授業だと「すばらしい」と語り、それが新興宗教の道場の場合は「気味が悪い」と論評する、それが進歩的。

また、給食については10年ほど前、埼玉県の某地方公共団体が給食廃止を決めたところ狂乱めいた反対運動が起こり、翻弄された町長は結局死に追い込まれた。

この際、画一化反対の人々が、大挙して町長援護に駆けつけるかと思ったら,

誰も行かなかった


この言葉が死語化したと考える根拠は次の通りである。

@基本的マナー・ルールなどが破壊され、みんなが「おはよう」と言い合ったり、きちんと座って食べるといった「型に嵌った」子どもたち少なくなった。

A「きちんと座って先生の話を聞こう」といった画一化された姿が、小学校の低学年からも消えつつある。

B中高生に至っては、みんなが勉強するといった画一性からも自由になりつつある。


こうした状況をマスメディアや評論家諸氏が喜びをもって報道しないのは不思議である。