■□2003年 8月後半分□■
2003.8.19.TUE コペンハーゲンにて 2003.8.21.THU 「優雅」とはとても言えないけれど 2003.8.23.SAT 太っていたらできないこと 2003.8.26.TUE 日本が世界に誇れるもの 2003.8.28.THU 無敵のカラダ 2003.8.30.SAT 着信拒否
■ 2003.8.19.TUE ■ コペンハーゲンにて みなさま、お盆をいかがお過ごしでしたか。ただいま帰ってまいりました、小町です。
十日ぶりの日本はめっきり涼しくなっていて・・・というのを期待していたのですが、大阪はまったくそんなことはなさそうですね(がっくり)。帰ってくるなり、扇風機にピシピシ鞭打って牛馬のごとく働かせています。
すばらしい旅をしてきました。いずれも甲乙つけがたいのですが、とくに胸に残っている二都市での話にお付き合いください。
八月八日。出張先から直でやってくる夫と成田空港で待ち合わせ。
「くれぐれもなくさないようにね」とまるで子どもに言ってきかせるような口ぶりで念を押されながら、旅行期間中に乗る飛行機のチケットをまとめて受け取る。
最初に全部もらっちゃうと緊張するなあ、その都度一枚ずつ渡してもらいたいんだけど・・・なんて思いながらぱらぱらとめくっていたら、あれ、あれれ?旅の計画はすべて夫が練ったのだけれど、帰りのチケットに記された日付が聞いていたのよりも一日早い。
「あ、それね。十九日に外せない仕事が入ったから一日短くしたの」
あら、そうだったの・・・とさらっと流そうとして、再び「あれえ?」。ちょっとちょっと、最終地はパリだって言ってたよね?でもこれ、「HEATHROW」って書いてあるよ。
「え、やっぱりロンドンから帰ることにしたって言わなかったっけ?」
聞いてませんってば。前もってわかっていたら、あちら在住の仲良しの日記書きさんに連絡できたのに!
いかにふだんから私たちのコミュニケーションが足りないか、よくわかるというものだ。
さて、オランダのアムステルダム経由でデンマーク入りした私たち。コペンハーゲンの空港から出てまず驚いたのは、その暑さだ。湿度こそ低いものの気温は日本と変わらないし、日差しの強さがハンパでない。
夏の暑さがなによりも苦手な私。エアコンのないわが家から這這の体で逃げ出してきたというのになんてこった。友人たちにも「え、夏休み?ちょっと北欧まで避暑にね・・・ウフフフ」なんて言いふらしてきたというのに、真っ黒に日焼けなんかして帰ったら格好がつかないではないか。
しかし、嘆いていてもしかたがない。こうなったらここに滞在している二日間で一年分の日光を浴びてやる、と腹をくくることにする。
コペンハーゲンの街には路地の至るところにレンタル自転車が停められている。二十クローネを入れるとチェーンが外れて走ることができる(コインはあとで戻ってくる)という、とても便利な代物だ。
早速、私は地図を片手に颯爽と街に飛び出した。
・・・と言いたいところなのだが。一見なんの変哲もないこの自転車、乗りにくいことこのうえない。
まずハンドルにブレーキのレバーがついていない。ではどうやってスピードを落とすかというと、ペダルを逆回転させるのである。止まりたくなったら足を後ろ回しに漕ぐのだ・・・ってそんな器用な真似ができるかいっ。
というわけで、バランスを崩し路上に投げ出されること三度。そのたびに「あ、これ、柔道の受身ね」とか「回転レシーブの練習」などと言ってごまかしたのであるが、夫は悲しげに首を振る。
「やっぱり自転車、乗れなかったんだね・・・」(過去ログ「サイトの中の私」参照)
だって、だってね、足が届かないのだよ。サドルはもちろん一番下まで下げてある、にもかかわらず。そのため信号などで一旦停止するときにはいちいち「よっこらしょ」と降りなくてはならないのだが、そんな私を見て夫はさらに屈辱的な言葉を浴びせかける。
「小町さんてひょっとして足、短いの・・・?」
しっ・・・失敬な!言っときますけど、私はジーンズの裾を切ったことがないんですからねっ。これはこっちの百七十センチも百八十センチもある人たちが乗るためのものなんだから、日本人女性がまともに乗れるわけないでしょっ。きーきー!
それにしても、ハンドルがやたら遠くにあってものすごく前のめりにならなくてはならないわ(あちらの人は胴体が長いらしい)、サドルの前の部分がなぜかせり上がっているため、どこがとは言わないがアイタタタ・・・だわ。これはもう、公共の自転車をひとりが長く占領しないようにわざと乗り心地を悪くしているとしか考えられない。
そんな自転車にまたがって、街をヨロヨロと散策する。
ラッキーだったのはあちらの夏は日が長く、夜の九時を過ぎないと太陽が落ちはじめないため、そんなおぼつかない足取りでもガイドブックに載っている見どころは二日間でおおかた回ることができたことだ。
なかでも胸に残っているのは、「人魚姫の像」。あなたはデンマーク出身の童話作家、アンデルセンの書いたこの悲しい物語を覚えているだろうか。
難破船から救い出した王子に恋をした人魚姫はその美しい声と引き換えに海の魔女から人間の足を手に入れます。しかし、王子は外国の王女と愛し合うようになってしまう。王子の愛が得られぬときは海の泡となって消えるのが定め。人魚姫が助かる方法はただひとつ、王子を殺すことだけれど、どうしてもできない。王子と王女の結婚式の日、彼の幸せを願って運命を受け入れる決意をした人魚姫は海に身を投げ、泡となったのでした。
ランゲリニエ桟橋の袂にある石の上から、愛しい王子のいる陸のほうにまなざしを向ける人魚姫。その表情がせつなくてせつなくて・・・。
彼女はとても小柄で、しかもその下半身は人魚のそれではなく、しかし人間の足でもなく。そのどっちつかずの姿が哀れでならなかった。
彼女はなにを思っているのだろう。王子を愛したことを悔やんでいるのだろうか。こんなことになるならいっそ出会わなければ・・・と思っているのだろうか。でなければ家族や仲間と別れることも、命を失うこともなかった、と。
それとも、もし来世また王子と出会ってもやはり恋をまっとうしようとするのだろうか。私だったらどうだろう、叶わぬ願いのためにどこまでこの身を賭けることができるだろうか・・・。
像を眺めながら、そんなことを思い耽る。私の思考のベクトルは日本にいようがどこにいようが、たいして変わらないらしい。
絵ハガキをリクエストしてくださったみなさまへ。
北欧の郵便事情はかなりよさそうだと期待してはいたのですが(中国から出したときは本当に届くのかと不安でしかたがなかった。実際、投函してから二週間以上かかった方もいた)、私の帰国より先に届いた方が何人かいらして驚いています。は、早い!
いっぺんに投函したわけではないので、まだの方はいましばらくお待ちくださいね。おかげで旅がよりいっそう思い出深く、忘れがたいものになりました。どうもありがとう。
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
この人魚姫の像、今年で90歳になるそうですが、これまでには首や腕を切り落とされたり、赤ペンキを塗られたり、ブラジャーとパンティーが描かれたり・・・と数々の災難に遭ってきたそうです。こういう銅像ってからだの一部が切られてどこかで発見される、なんてことがよくありますが、私はちょっと背筋の寒いものを感じます。生き物ではないけれど、人間や動物の形をした物の手足を切り取るというのは単なるいたずら心でできることなんでしょうかね。のこぎりやなんかでぎこぎこやっているとき、悲鳴のようなものが聞こえてきて怖くなったりはしないんだろうかと思ったりします。
■ 2003.8.21.THU ■ 「優雅」とはとても言えないけれど 出発前、友人たちは異口同音に「北欧に避暑!優雅やねえ・・・」と言ってくれ、私もそのつもりだったのであるが、フタを開けたら優雅とはかけ離れた旅になった。理由はいくつかある。
ひとつは、あまりにも物価が高かったこと。
北欧の旅はお金がかかるというのは噂には聞いていたけれど、これほどまでとは思わなかった。なにもかもが信じられないくらい高い。五百ミリリットルのペットボトルの水が四百円、ガソリン一リットルが百九十円する世界である。
両替したばかりの二百クローネ札(約三千六百円)を握りしめ、郵便局に切手を買いに行ったところ。
夫 「おつりは?」
私 「ない」
夫 「ないわけないでしょう。いったい何百枚買ったの?」
私 「ううん、二十枚しか買えなかった」
最初に訪れたデンマークで、早くも「これはまずいぞ。このままいくと、帰国したらお粥生活になってしまう」と危機感を抱いた私。そこで食費を切り詰めようと考えたのであるが・・・お手上げだった。なんせ街角の売店のソーセージをはさんだだけのホットドッグが五百円するのだから。
北欧が私にとって食べ物自慢の国でなかったのが、せめてもの救いであった。
もうひとつ、私たちを苦労させたのは「宿」である。
ふだんからホテルの予約をせず、現地の空港や街のツーリストインフォメーションで探すことが多かったのだけれど、今回は観光のベストシーズンということで見事に空きなし。二都市でユースホステルに宿泊することになってしまった。
いや、ユース自体はまったくかまわない。けれど、旅行に来て夫婦別々で二晩も過ごす(男女別の六人部屋だった)ってのはどうなのかしらん?とは思わなくもない。
まあ、二段ベッドの上段で天井にあたまを打ちつけたのもひさしぶりだったし(ぜったいやるとは思っていたが・・・)、翌朝同室のアメリカ人やカナダ人の女の子たちと“Have a nice trip!”のあいさつで別れるというのも悪くなかったけれど。
私には生きているうちに、それもできるなら若いうちに訪れたい、見ておきたいと思っている国や場所がいくつかあるのだけれど、ノルウェーのフィヨルドもそのうちのひとつだった。
デンマークのコペンハーゲンで自転車を乗り回した後、船でオスロ入り。そこからレンタカーでフィヨルドの旅に出かけることを私はどれだけ楽しみにしていただろう。
世界最長、最深のソグネフィヨルドを見るため、ノルウェー海に面したベルゲンの街までひた走る。その距離、実に六百キロ。
運転できない、地図読めないの私は夫にとってただの重石のような存在だったにちがいない。じゃあせめて愉快な重石になろうと思ったのであるが、実際は助手席でお菓子を食べたり、大声で歌ったり、長いまばたきをしたり・・・となんの役にも立たなかった。
そんなわけで夫はものすごく大変だったと思うが、車での旅を選んだのは大正解だった。
ノルウェーはイメージしていた通り、本当に森と湖(海というべきかもしれない)の国だった。オスロ−ベルゲンを往復する四日間、日本の、それも都会にしか住んだことのない私にはちょっと信じられないような風景に包まれた。
さきほど宿探しに苦労したと書いたが、実はここでの一晩はユースすら見つけられず、野宿をしている。
車のシートを倒して横になったが、寒くて眠れない。フロントガラス越しに星空を眺めながら「こんなところまで来て、なんで外に寝ているのかしら」と首をかしげたけれど、朝日のまぶしさで目が覚め、眼前に広がる湖面がキラキラと輝いているのを見たとき、私はいまなんてすてきな体験をしているのだろうと思った。車から出てあたりを見渡す。「山に抱かれる」をからだで感じたのも初めてだった。
水を打ったような静けさの中、ソグネフィヨルドを船で進んだ。
波ひとつない水面は周囲の岩肌や木々を鏡のように映し出している。遠くに氷河が見える。アザラシが水の中からちょこんと顔を出し、不思議そうにこちらを見ている。
両側にそそり立つ雪をかぶった岩山からは無数の滝が落ち、その水をコップにすくって飲んでみる。とても冷たくて、そして何の味もしない。ああ、水って本当はこういうものなんだと思った。
アラスカで鮮やかな水色をした氷山を見たときと同じに、私はその神々しいとさえいえる景色に圧倒され、ただただ息をのんで見つめるのみだった。
この感動と驚きを言葉で再現することはとてもできない。けれどひとつだけ言うなら、胸に湧きあがってきたのは「ああ、自然にはかなわない」という思い。人間も本当はほかの動物と同じ、大地を「間借り」して生きている存在。なのに私たちはなにか勘違いしているなあ・・・と。
パンとハムを買ってきてサンドイッチを作って食べたり、車の中で眠ったり。優雅とはとても言えないものだったけれど、だけどこんなにぜいたくな旅をしたことはない気がする。
二〇〇三年八月十八日。すばらしい思い出を作って帰ってきました。
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
北欧に食べ物は期待していませんでしたが、少々心残りだったのは「鯨肉」を食べられなかったことでしょうか。小学校のとき、給食に「鯨肉のノルウェー風」というメニューがあって、甘辛く煮たあの硬い肉がとても好きだったんですね。で、ノルウェー風と名がついているくらいだから、あちらではよく食べられているのだろう、ぜったい食べるぞ!と思ってたんですよね。でも、ベルゲンの魚市場で燻製を見かけた程度でした。あちらの人に尋ねたところ、いまはほとんど食べられていないということでした。そういえば『地球の歩き方』の食の欄にも鯨肉のメニュー置いてる店の情報は一切載ってなかったな。燻製の試食はさせてもらったけれど、ちゃんと食べてみたかったので残念でした。懐かしいなあ、あの味。うーん、太地(和歌山県の鯨の町ね)にでも行くかな・・・。
■ 2003.8.23.SAT ■ 太っていたらできないこと 二週間も前に買ったのに、なかなか読み終えられない本がある。村上龍さんの『すべての男は消耗品である』というエッセイだ。
誰かの書いたものに初めて触れたとき、早い段階で「失敗したな」と思うことはままある。が、それでもいくばくかのお金を支払ったからにはもったいないという気持ちが働くので、一応は最後まで読む。
しかしながら、この本にいたっては亀の歩みのごとくちっとも読み進まない。
私は基本的に毒舌調の文章が苦手なのだが、とりわけ受けつけないのは差別用語や侮蔑的な発言が散りばめられたものだ。
まだ半分ほどしか読んでいないにもかかわらず、このエッセイの中で私は何度「ブス」という単語を目にしたことだろう。
「デブ」や「ハゲ」もそうだが、「ブス」はあまりにも語調がきつい。そこには情味も含蓄もない。「オレ」が一人称になっている文章の中にそういう単語がやたらと出てくると、なおのことそう感じる。
おそらく彼は自分について読者にある種のイメージを抱かせることを狙って、あえてこのような身も蓋もない言葉を用いているのであろう。その意味では成功していると言える。私にはせっかくの文章をわざわざ「汚なくする」趣味はないので、まず使わないけれど。
おっと、話がそれてしまった。
今日は村上龍さんのエッセイとは相性がよくなかった、なんて話が書きたいのではないのだ。
村上さんはどうやら女性の顔の造作に妥協できない方らしい。「ブスは論外」と公言してはばからない。
「デパートや遊園地に行くと、すげえ!と大声を出したくなるようなブスが、平気で結婚していて、子供なんか連れている。ブスとやる男もいるのだ。」
「酒場で、女が泣いているのを見るのは、なかなか興味をそそられるものである。泣いているのがブスなおばんだったら、これほど見苦しいものはない。」
うん、確かにこういう男性も少なからずいるだろう。
しかしながら、私はどちらかというと日本の男性は「不美人」よりも「太った女性」に対して厳しいのではないかと考えている。欧米の男性に比べ、女性の体型についての許容範囲が狭いのではないか、と。
顔の造作がどうのこうのについては「お互いさま」ということ、「こればっかりはしかたがない」ということにある程度理解を示しており、まだ比較的寛容であると言えると思う。しかし、太っていることには容赦ない。
それはなにも村上さんのように「デブは論外」なんてことを言う、という意味ではない。ほとんどの男性はそんなことを口にしないということくらいわかっている。
私の言う「厳しい」とは、日本の男性は太っている女性のことは最初から、まるでそれが当然のことであるかのように自動的に恋愛対象から除外してしまう傾向があるのではないか、ということだ。
欧米を旅行するたび、あちらの人の肥満率の高さに目を見張るが、私をもっとも驚かせるのは「太っているのが中高年層に限らないこと」である。そう、おしゃれ盛りの若い女性までかなりの確率で肥満しているのだ。
ダイエットに精を出し、棒のような足をした日本の十代、二十代の女の子たちとは大違いである。
なぜ日本の女の子がこれほどまでに水の溜まる鎖骨に憧れるのか。理由はひとつ。太っていたら恋ができないから、である。
私のまわりにもかなり豊満なからだつきの女性がいる。混浴の温泉で備えつけのバスタオルを胸に巻いて入ろうとしたところ、届かなかったというエピソードを持つ友人は彼氏いない歴三十一年だ。ほかにも何人かいるが、誰ひとり男性と付き合った経験がない。
では、欧米の肥満した女の子たちはどうなのか。
やはり独り身かというと、それがそうでもなさそうなのだ。ヨーロッパをめぐっているあいだ注意深く観察していたのだけれど、村上さんの言葉を借りるなら「すげえ!と大声を出したくなるような」でっぷりとした女性の多くにも、隣りには彼女をエスコートする男性の姿がちゃんとあった。日本だとおそらくこうはいくまい。
私は考える。欧米と日本ではいったいなにが違うのか。
さきにも述べたように、あちらの国では肥えた人がちっともめずらしくない。男性にとって女性が太っているのが特別なことではないために、妙齢の女性の肥満にも寛容なのではないだろうか。
もしくは、人種がごちゃまぜになった世界で暮らしている彼らは痩せているとか太っているということを、目や肌、髪の色が違うのと同じように個体の特性として解釈しているのかもしれない。
それに対し、日本では肉体における「標準」がはっきりしている。そのため、わが国の男性は太っている女性を「規格外」とみなし、ハネてしまうのではないだろうか。
今回の旅のあいだにも見惚れてしまうほどスタイルのよい女性を何人も見かけたけれど、欧米の国で暮らしながらあの体型を維持するのは至難の業であると推測する。
まわりには肥満した人間があふれ、少々太ったところで誰にもなにも言われない。ブティックで洋服のサイズがなくて困ることもない。そして毎日が洋食。
そんな環境でスリムなボディをキープするのはどれほど大変なことだろう。「太るまい」とするなら、日本で暮らす私たちの何倍もの自制心が必要なはずだ。私はもし自分がアメリカやヨーロッパに住んでいたら、いまより十キロは太っている自信がある。
ミニスカートからすんなり伸びた長い足。その街の中で、彼女たちは違う星の生き物のように見えた。
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
私が初めてアメリカを訪れたのはオーランドのディズニーワールドに行ったときだったのですが、それはもう驚きましたね。すでに「ふくよか」という表現が適切ではなくなっている人たちであふれかえっていたから。日本の基準でいえば、八割くらいの人が「肥満」に分類されたのではないだろうか。アメリカでは肥満は自己管理できない人と見なされ、出世もできないのではなかったか。なのに目の前に広がっているこの光景はいったいなんなのだ・・・と激しく首をひねったもんです(友人の解釈では「オーランドは田舎だし、ここにいるのは観光客ばっかりだからだよ。都会ではこんなことはないはず」ということでしたが)。そして先日旅した北欧でも、肥満している人の数は日本とは比べものにならないくらい多かった。欧米人とはからだの作りが違うのでしょうね。私たちは暴飲暴食の限りを尽くしてもアメリカ人のように「球体」にはなれないし・・・(そこに達する前に病気になってしまうのでしょう)。
■ 2003.8.26.TUE ■ 日本が世界に誇れるもの 週末実家に帰ったら、リビングのテーブルに『地球の歩き方』が置いてあった。
「あ、そっか。来月だっけ、イタリア」
キッチンでお茶の用意をしてくれている母に声をかけると、「もうパスポートも取ってきたよ」と弾んだ声が返ってきた。
かの国は一度訪れたことがある。懐かしいなあと思いながら付箋のたくさんついたガイドブックをぱらぱらめくっていると、母が言った。
「スリやひったくりが多いから財布を分けなさいとか、クレジットカードを使うときは要注意とか、両替したらその場で必ず確認しなさいとか。えらく治安の悪い国みたいに書いてあるね」
今回のイタリアが両親にとって初めての海外旅行である。先日電話で飛行機について訊かれたとき、私は十三時間はけっこうきついだの、機内食はあまりおいしくないだのとつまらないことを言い、少々ガッカリさせてしまった。
そのためこれ以上夢をつぶすようなことは言いたくなかったのだけれど、しかし日本とは根本的に違うんだということは伝えておかねば、と思い直す。旅慣れた若い人でも騙されたりボラれたりすることがあるのに、うちの両親などいいカモにされてしまいそうだ。
海外に出かけるたび、「日本っていいよなあ、すごいよなあ」と感心するのはバッグを置いて席を立ってもなくならないとか、水道の水が飲めるとか、トイレに紙がついているとか、そりゃあいろいろあるけれど、「人がきちんとしている」ということもひとつ挙げたい。
それはすなわち、商品やサービスの提供者を信用、信頼できるということだ。仕事に対するまじめさ、ていねいさにおいて日本にかなう国があるだろうか。
たとえば日本のホテルでベルボーイが壁にもたれて客を待っていたり、フロントがモーニングコールを忘れたりするなどといったことは考えられない。しかし、海の向こうではそんなことは日常茶飯事だ。
アリタリア航空の飛行機に乗ったとき、客室乗務員のところに行って水を頼んだら(手元のコールボタンが壊れていた)、空いた客席に座っていた彼女は組んだ足をぶらぶらさせながら、アゴで「あっち(にある)」と指し示した。JALやANAなら、たとえ私が「空気を運ぶよりはマシ」程度の利益の薄いツアー客であったとしてもこんなことはありえない。
上海で泊まったホテルは四ツ星だったにもかかわらず、朝フロントに投函を頼んだ郵便物が夜遅く戻ってきたときにも机の隅に放置されたままだった。日本なら一泊五千円のビジネスホテルでだってこんなことは起こらない。
飛行機やホテルではとくにそうだが、デパートでもレストランでも、日本のサービス業では基本的に客をとても大事に扱う。あまりに親切でていねいな応対に日本人の私でさえ恐縮してしまうことがあるくらいだから、外国の人はその笑顔や腰の低さに戸惑いを覚えるかもしれない。
・・・などと言うと、「いや、そんなことはない。最近は・・・」とサービスの質の低下を嘆く声が聞こえてきそうだが、少なくとも日本を訪れる外国人がタクシーの運転手に法外な料金を請求されたり、店員に釣りをごまかされたりするかもしれないといった心配をする必要はない。
こういった部分での信用があるというのは、私たちが世界に誇れる美徳であると思う。
そしてもうひとつ私が「日本人ってきちんとしているよなあ」と思っているのが、身だしなみと行儀に関してだ。
前回の日記にヨーロッパの若い女性の肥満率の高さについて書いたが、豊満な彼女たちが露出度の高い格好でおなかや二の腕の肉を揺らしている様は壮観だった。
日本の女の子ならあの体型でおへそを出そうなんて、ショートパンツを履こうなんて、死んでも考えない。隠すことに躍起になるか、「ああいう服が似合うようになりたい」とダイエットにいそしむところであるが、あちらではそんなことは本人もまわりもおかまいなしだ(と私には見えた)。
いつも思うことなのだが、海外に行くと自分の中の「恥」の感覚が麻痺・・・いや消滅してしまうような気がする。
あちらの女性はブラジャーのストラップを隠す気などはじめからないし、ローライズのパンツの腰から下着が、いやお尻がのぞいていてもへっちゃらだ。
もし日本で「ブラの肩紐見えてるよ」なんて指摘されたら、私はギャーと叫んで相手の記憶を消したくなるが、ここでならブラジャーをするのを忘れていたって動揺しないかもしれないと思った。
振る舞いについてもそうだ。電車の中でものを食べようが、街中でジベタリアンしようが、抱き合ってキスしようが、おそらく誰の目にも留まらない。あまりにもありふれた光景だから。
ロンドンでみながとてもおいしそうにソフトクリームをなめているので私もつい買ってしまったのだけれど、ひとりでものを食べながら歩くなど日本ではちょっとできないことだ。「私、いま外国に来ているんだワ」なんて、そんなことで実感してしまった。
たまに海外に出かけ、日本では「みっともない」とされているようなことをしてみるのは楽しいものだ。
しかしながら、そういうことが許されてしまう環境の中で暮らすとなると不安を感じる。それはあたかもゴムのゆるいラクチンなスカートを履きっぱなしといった感じで。前回、もし私が欧米に住んでいたらいまより十キロはウエイトオーバーしているだろうと書いたが、「恥じらい」を感じる神経のほうもうんと図太くなりそうだ。
私は日本人の、身だしなみや立ち居振る舞いについての口うるささというか、美意識の高さをかなり好ましく思っている。
ところで、あちらの若者が親や年配の人に「行儀が悪い」と叱られることってあるのだろうか。
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
「どうしてあんなに無頓着でいられるのだろう」とあちらの女性に対して不思議に思うのは体型だけではなくて。今回訪れた北欧の太陽は強烈でしたが、みな素肌を剥き出しにしたまま日なたでお茶を飲んだり、芝生に寝っ転がったり。そのため若い人でもシミやそばかすがびっしり。背中や腕、手の甲にまでそばかすができるものだとは知りませんでした。それに比べ、日本の女性の肌のきれいなことといったら・・・。日本では年齢にかかわらず女性は街を歩くときは日傘を差すし、日焼け止めにも余念がない。日本人女性の肌の美しさもまた世界に誇れるもののひとつではないかと思うわけです。
■ 2003.8.28.THU ■ 無敵のカラダ 友人に誘われて、新今宮にあるスパワールドに行ってきた。
関西にお住まいの方は、叶姉妹が一枚の千円札を引っ張り合いっこしているCMをご覧になったことがあるのではないだろうか(ただいま千円キャンペーン中なのだ)。世界十一ヶ国、十六種類のお風呂が楽しめるスパリゾートである。
温泉のフロアはアジアゾーンとヨーロッパゾーンに分かれており、今月は前者が女性用、後者が男性用となっていた。
アジアゾーンにはモスクの中庭を型取ったイスラムの石風呂、タージマハルの雰囲気漂うインドのマッサージ風呂、楊貴妃が愛したと言われている中国の薬湯風呂など実にさまざまなお風呂がある。もちろん、日本の総ひのき風呂や露天風呂もある。
湯をはしごする合い間には泥エステやアカスリをしたり、レストルームのチェアに横になってアイスを食べることもできる。期待していた以上に楽しめる場所だった。
とくによかったのは塩サウナ。
まるで雪が降り積もったかのように塩がぶあつく敷き詰められた部屋に入ると、中央に大きな壷が。その中に入っている真っ白な塩を全身にすり込み、六十四度の空気の中でたたずんでいると、三分とたたないうちに汗が滝のように流れはじめる。
私はサウナが苦手なのだが、これだけ目に見える変化があると効いているとわかるので、がんばろうという気になる。友人に励まされながら、十分間なんとか耐え抜く。
シャワーで塩を洗い流して出てきたら、ああ驚いた。自分で言うのもナンだが、腕も肩もどこもかしこもつるつるすべすべになっていたのだ。たった十分、塩を塗って汗をかいただけなのに、全身の肌の触り心地が劇的に変化していたのである。
友人も自分の手足をさすりながら「ひゃあ、すべすべや〜」と感激していたから、あれをやるとみなそうなるらしい。塩にはすごい力がある。
遠方から訪ねてきた友人を連れて行き、半日なり一日なりを楽しんでもらえるのは大阪にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンくらいしかないと思っていたけれど、スパワールドもいいかもしれない。
タオルや館内着などすべて無料で借りられるから手ぶらでオッケー。しかも二十四時間営業だ。もし終電を逃がして帰れなくなったらここに来ようかな、なんて考えてしまった(まあ、このあたりで飲むというシチュエーションはほとんどないのだが)。
ところで、塩サウナ以外にもうひとつ驚いたことがある。
それはハタチ前後の女の子のカラダの美しさ。二十代後半、三十代のそれとは「弾力」が全然違う。両者の肌の質感の差は離れたところから見てもひと目でわかる。
ボン・キュッ・ボンのダイナマイトボディなんてひとりもいない。まるでふつうの女の子ばかりだったが、みなイルカの肌のようにつるつるしていたし(触らなくても見ればわかる)、お尻は新鮮な玉子の黄身のように丸く盛りあがっている。
水着の日焼け跡があんなになまめかしく、エロティックなものを感じさせるなんてことも、私は今日まで知らなかった。
しかし、なんといってもすばらしいのは胸だ。
ニップルはピンク色ですごくきれいだし、形だって「プルン!」と音が聞こえてきそうなくらい元気よく上を向いている。陳腐な表現だけれど、まさに青くて硬いつぼみといった感じ。この年頃にしか発生しえない、「未完」であるがゆえの色気がある。
品のない言い方になってしまうが、これは男性にはたまらないだろうなあと思った。一度あんなカラダを知ってしまったら、もうそこいらの女性ではものたりなくなるのではないかしら・・・なんて。
見た目のグロテスクさゆえに一番最初にタコを食べた人は勇気がある、すごい、なんてよく言われるけれど、若い女の子のみずみずしさ、あのパーン!と弾けた肢体を「ピチピチ」と表現した人にも私は拍手を送りたい。まさにその通りだから。
私たちにもそんな頃があったのだろうか。
「さあねぇ。あったんかもしれんけど、気づかんと通り過ぎてしもたなあ・・・」
と友人。
友達とじゃれあいながら、前も隠さず堂々と歩いて行く彼女たち。その姿に見惚れながら、あのカラダを持っているうちはこの世は無敵だろうなあと思った。
そして、明日フィットネスクラブに行ったら、トレーナーさんに大胸筋(「天然のブラジャー」と言われている)のメニュー、組んでもらおうっと・・・なんてつぶやくのであった。
さてさて、八月も残すところあと四日。小学生のお子さんがいらっしゃる方は宿題の手伝いにおおわらわなのではないでしょうか。
・・・いやいや、そんなことが書きたいのではなくて。
夏の終わり、それはすなわち秋の到来。というわけで。
大半の方にとってもうすっかり忘却の彼方だと思いますが、七月の終わりに「秋になったらなにか遊びの企画立てます」と書いた、あれのご案内です。
「それ、なんだっけ?」な方は七月二十六日の日記を読んでね。「ああ、アレね」な方はこちらをクリック!
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
もうまぶしいのなんのって。二十代の頃に比べて化粧のりが悪くなったことは実感しているし、テレビで芸能人を見ながらいくら若作りしても肌だけはどうにもできないんだなあというのは日々思っていたけれど、十代後半からハタチくらいの女の子のカラダがあれほどみずみずしく、弾力のあるものだとは思いませんでした。そこには何百もの裸があったけれど、その年頃のカラダと二十代後半、三十代のカラダはあきらかに違っていましたね。未完成であるがゆえにかえって色っぽくなっている、というか。いやもう、同性ながら見惚れました。
■ 2003.8.30.SAT ■ 着信拒否 学生時代の友人に会ったら、なにやら浮かない顔をしている。
彼女は最近、思いを寄せていた男性に振られたばかり。テンションが低いのはそのためだろうと思っていたら、それだけではなかったらしい。
「電話、彼に着信拒否されてるみたいやねん」
ここひと月ほど、いつかけても話し中になっている。そこで自分の携帯がおかしいのかもしれないと思い、自宅の電話からかけてみたところ、すぐに相手が電話口に出たというのである。
彼女は驚いて何も言わずに切ってしまったのだが、慌てて携帯からかけ直したらまたしても話し中。「これって完璧、キョヒられてるよなあ……」とうなだれる。
私はまったく知らなかったのだけれど、着信拒否を設定されると電話をかけたときにツー・ツー音が聞こえてくるのだそうだ。
彼女がしょんぼりと言う。
恋人がいると告げられてからは電話も控えてきたし、自分の気持ちを押しつけるようなこともしていないつもり。なぜ着信拒否なんてされなければならないの?
思いきってメールで尋ねてみたが、彼は「そんなことはしていない」の一点張り。しかし、相変わらず彼女の携帯からはつながらない。
「つながらんのはなんでかわからんけど、もしかしたらほんまに着信拒否じゃないんかも、と思ったりもするねん」
彼は着信拒否を否定している。もし本当にそれをしていたならば、ばれたとわかったときに解除するのではないか、というのがその理由だ。できればそう思いたいという彼女の気持ちも伝わってくる。
しかし、そうだろうか。彼女には酷だが、私はそうは思わない。
というのは、私が彼の立場だったらすぐに着信拒否を解くことはないだろうと想像するから。「すぐに電話がつながるようになったら、さっきまで拒否してましたってばればれやん。もうしばらく放置しておこう」と考えるような気がする。
……と言ったら、「そこまで裏を読むか」とあきれられてしまった。うん、私は男と女のことに関しては、まだもう一回ひっくり返して読むくらいのことはするぞ。
それにしても、彼女の話が正確で、かつ着信拒否が事実であるとするならば、話すのが気が進まないくらいのことでまったくいじましいことをするものだ。こういうことはあまり口にすべきではないのだろうけれど、つい「男のくせにめめしい奴……」とつぶやいてしまう。
ばれてもなお白を切り続け、表面上は以前と変わりなく振る舞うというところがさらに気に入らない。何食わぬ顔をして腹の中ではペロリと舌を出しているなんて、人として信じられない。
「もうかけてこないで」と言えないから着信拒否をするのだ、とおっしゃる向きもあるだろう。
しかし、それならどうして「もしかして私のことキョヒってる?」と訊かれたときにはっきり言わなかったのか。NOを伝える絶好のチャンスだったのに。
「相手を傷つけたくない」なんていうのは嘘だ。悪い感情を持たれたくない、でも手っ取り早く相手を遠ざけたい、それしかない。
電話で着信拒否をされたことはないけれど、メールなら「もしかしてそうかな」と思ったことはある。
「日記を読みましたが……」というメールに返信しようとすると、エラーメッセージが出て送れない。何日待っても同じこと。
たしかにメールの文末には、「返事は不要です」と書いてあった。しかし、私は受け取ったメールには返信する主義だ。
そういうときはいつもの何倍も神経を遣って書くため、やたらと時間がかかり、疲労もする。そうしてやっとこさ書きあげたそれが届けられないとわかったときの脱力感といったら……。
「あなたね、一方的に好き勝手言ってこちらの言い分は聞かないよって、それはないんじゃないの」という思いも、もちろんある。しかしまあ、世の中にはいろんな人がいる。
そんなことより悔しいのは、私の時間を返してよ!ということだ。
「それならそうと『受信拒否するので、送ってきても無駄です』って書いとかんかいっ」
そうして私はモニターの前で三分くらい暴れるのである。
私はナイーブな人間ではないので、サイトをやっていて心底不愉快に感じることといったら、このくらいしか思い浮かばない。
しかし、「それをしなくてはならないほどのことか?」と思わずにいられないレベルのことであっさり着信拒否、受信拒否に走ってしまう人、こういうやり方で物事の片をつけられると信じている人ほど不気味に感じる存在はない。
【 今日のつ・ぶ・や・き 】
もし私が好きな人に着信拒否、受信拒否なんかされたら、ショックで立ち直れないだろうなあ。そんなことをさせるようなことをしてしまった自分に対する苛立ち(たとえ身に覚えはなくても、自分を責めてしまうものですよね)と、そんなふうに思われてしまったという事実に打ちのめされるのと、面倒なことはそんな方法でシャットアウトしてしまえと考えるような人だったのかという相手に対する失望とのトリプルパンチ。幸いそんな経験はありませんが……。メールの受信拒否にしても、もしサイトではなくこれがプライベートで付き合いのある相手だったら、腹が立つというのではなくただひたすら悲しかったろうと思います。