道しるべ

  72年ぶりに福岡市が大雪に覆われた平成2年1月24日の朝、

太基はこの世に生を受けた。

1歳頃までは、激しい夜泣き以外、何の心配もなく子育てをし

ていたが、一歳半検診で指さしが出ない事や言葉の遅れを指

摘され、二歳の時に児童相談所の門をくぐった。

その頃手持ちの「家庭の医学書」に「自閉症」の事が書いてあ

り、視線が合いにくい、呼びかけても振り向かない、言葉数が

増えないなど…いくつかの症状が太基にもあてはまり心配になっていた。

児童相談所の判断は「3歳頃まで様子を見てみましょう」との事だった。

子供への有意義な話し方、接し方を学んだ私は必死に実行した。

その後すぐに父親の転勤で青森県三沢市に移り住む事になった。

はっきりと「自閉症」と診断されたのは、太基が3歳9ヶ月の時だった。

青森県下にある総合病院に勤務する言語療法士のS先生に 「自閉傾向を伴なう言語

発達遅滞」と言い渡された。

幼稚園に通わせながら月2回、車で1時間程のS先生の元へ通い、認知訓練を親子で

受け、毎日家でも実行した。

「これさえすれば、言葉さえ出れば、この子は普通になれる」と信じていた私は必死だっ

た。

この頃の太基は、ものすごく多動で、1秒でも目を離すとお気に入りの公園へ走ってゆ

き高い所へ登ったり、人がこいでいるブランコの前に立ちはだかったり、道路へ飛び出

したり、太基の周りには常に危険がつきまとった。

制止がきかず、親にさえ手をつながれるのを嫌がっていたので、ひたすら私は、彼の後

を追いかけて走った。

テレビコマーシャルや、父親が帰宅時玄関ドアの鍵を開ける音にしか興味を示さなかっ

た太基が訓練を始めて2ヵ月たった頃、私の呼びかけに反応した。振り向き、さらに戻

ってくるようになった。室内をグルグルと走り回っていた行動は落ち着き、単純だがしっ

かりと目的を持った行動がとれるようになり、行動の統制ができるようになった。

「この訓練をすれば、この子はこう変化しますよ。」 その言葉通り太基は変化し、まるで

S先生の魔法にかかったようだった。

物の因果関係が徐々にわかりだし、飲み物が欲しい時はコップ、ご飯が欲しい時はお

茶わん、おやつの時は、おやつ用のお皿など、実物を使ってのサインのやり取りを獲得

してきた頃、今度は東京へ転勤になった。

住まいは、武蔵野市にある社宅だった。

カトリック系の障害児を受け入れてくれる幼稚園へ通わせようと思っていた時、縁あって

小金井市にあるK学園にお世話になる事になった。

主に自閉症児を専門に養育している幼児通園施設で、その指導内容カリキュラムに主

人も私も惚れこんだ。

だが、私は通わせる事に大きな抵抗があった。それは太基を 【障害児】 と認めなけ

ればならない事だった。

自宅からバス、又は自転車で10分、中央線に乗り国分寺駅から園まで子供の足で20

分、小1時間の通園を毎日繰り返しながら「普通になったら退園しよう」そう心に決めて

いた。

いくら努力しても健常児にはなれないんだと分かったのは、通園して1ヵ月も経たない頃

だった。

同じ敷地内に作業所があり、大きく成長した自閉症の人達の姿があった。

太基の姿を重ね合わせ、太基が障害児と分かった時よりも衝撃的なショックを受けた。

涙が自然にこぼれ、とても不安的な状態だった。

降園時、靴箱の所でむずがりながら靴をはく太基を待っている私の元へ先生が寄って

きて、「苦しいんだろう」と心の中をつかれ涙した。その時の私は、受け入れがたい現実

に押しつぶされそうだった。

当時お世話になっていたクラスの先生と今でも交友関係にある苦楽を共にした友達に

支えられ、再び太基を育てる自信が持てるようになった。

「この世界で生きていくんだ」 と腹をくくり開き直った。

この子を授かりようやく我が子を真正面から受け入れる事ができた瞬間だった。

1年半の通園生活は充実していた。

自閉症児をとても理解し、こよくなく愛し、厳しくも的確な細い指導をしていただいた。

家族がかかえる苦しみ、悩みなどにも耳を傾け、母親の精神面に常に気を配り支えて

下さった。

子供の成長も素晴らしかったが、何よりも親が精神面で強くなれた。

やがて温室を巣立ち、厳しい世界に羽ばたくエネルギーを蓄わえるかのように…。

年長になり秋から教育委員会との就学相談会が始まったが、判定は何度話し合っても

養護判定。

妥当な判断と思ったが、自宅から徒歩で10分の所にある小学校の心障学級への入学

を希望した。

自主通学をさせたい。地域で育てたい。そんな思いを必死に教育委員会に伝えた。

交渉して半年後の3月15日、心障学級への入学通知が届いた。

踊る気持ちで吉祥寺の街へピカピカのランドセルを買いに行った。

 (交渉係のお父さんが勝ちとった栄冠だった。)

新しい環境についていけず、睡眠障害も激しく入学当時の太基の状態は最悪だった

が、1人の先生が太基を担当しマン・ツー・マンで対応していただいたお陰で、本人も頑

張り、M学級へ馴じんでいった。

2学期初めの運動会では、徒競争で白線内をまっすぐに必死に走る姿や、ちょっと周り

とワンテンポ遅れて踊る我が子に感動した。

M学級に通いながら週1度、K学園内にある個別学習指導に通った。

学校の先生は、太基への教え方がわからない時など連絡帳を通じて積極的に聞いて

下さった。

家庭、学校、個別学習指導の先生との連携プレーにより沢山の技術を獲得し、精神面

でも伸びた時期だった。それにはK学園で培った、課題に向う姿勢や、対人関係等、自

閉症児が基本的に学ばなければならない力が多いに役立ったからだと思う。

2学期の終わり、学芸会で桃太郎の劇をし、立派に【犬】の役割を果たした後、またもや

父親の転勤で思い出深いM学級を去る事になった。

太基、小学1年の冬福岡市へ再び戻ってきた。

現在、彼は、市内の養護学校へ通う、小学5年生に成長した。

K学園に通っていた頃から下地作りをしていた、自主通学の練習を始めて2年半。

自分の力だけで歩く距離が少しずつ伸びている。

3歳9ヶ月から始めた認知学習は、休みながら、今なお家庭で続いている。            

   

    

     

発語へのこだわりを捨て、幼い頃から発語の代わりとなるコミュニケーション方法を探

し、マカトン法のようなサイン言語もやってみたが、使い分ける事が難しく、今は絵カード

や写真でのやりとりを実践している。

実物でのサインを絵カードに移して1年後、太基自らの手で 【耳かき】 の絵カードを母

親である私に持ってきた時は思いっきり太基を抱きしめた。

カードでのやりとりを始める前、彼の目にぼやけて写る世界を、カードのやりとりを始め

た頃から、彼の瞳はしっかりと実物をとらえ始めた。

まだ数は少ないけれど、今では自分のやりたい事、行きたい場所、食べたい物を表現

する他、こちらからスケジュールを伝える手段に使ったり、用意する物、スーパーでの

買い物、交通手段を伝えたりしながら、理解言語に乏しく、イメージしにくい彼に理解で

きるよう伝える努力をしている。

昔、筋金入りのスポーツウーマンだった母の息子らしく、今は週に2度、水泳教室と、体

育指導に通い、学校や家庭以外でも活動する場所がある。

将来、太基が少しでも豊かな生活が送れるよう始めた事だが、環境変化が激しく、理解

しづらい学校生活に比べ、ここではスケジュールの変動が余りなく、目的がはっきりして

いる為、律義で健気な彼の性格を余す事なく発揮している。

                   

 夏、冬と年に2回参加しているシャボン玉キャンプは、日常家でできている身のまわり

の事やコミュニケーション方法など、場面や人が変わっても、蓄えた力が発揮する事が

できるか試すいわば発表会の日である。

耳をどんなにすましても彼の声が響かない時間を過ごし、ゆっくり彼の事を考え、また

改めて太基はかけがえのない私達の家族なんだと確認する日である。

そして、6歳半離れた弟にとっては、気が済むまで両親を独占できる日でもある。

キャンプスタッフの障害児に対する熱い思いやキャンプにかける情熱に共感し、現在の

スタッフがしゃぼん玉キャンプを続ける限り、太基を参加させたいと思う。

思えばこの10年間、沢山の人達との出会いがあり、太基や私達家族の道しるべとなっ

てくれた。

 太基の笑顔は、私の宝物だ。それにも負けないくらい、物事に真剣に取り組む横顔が

輝いて見え感動を覚える。

太基に父親も母親も惚れている。

私の思いに共感して下さり、手をさしのべ、太基に関わって下さった方々の力を無汰に

する事なく我が子をしっかりと育てていきたいと思う。

「あんな風になりたくない」 作業所で働いている自閉症の人達の姿を初めて見た時に

持った感情は、いつの間にか「あんな風になりたい」に変化し、私の中で誇りとなり、あ

の仕事に取り組む真剣なまなざしや、自分をごまかす事もなく最後まで作業をやり遂げ

る姿は、今では、私達家族の目標になった。

私達、健常者と呼ばれる者よりも、多くの不便さをこの社会に感じながらも、なお懸命に

生きていく彼に、彼の努力が報われる時がくる事を願い、そして、親ならば誰もが願う

我が子の幸せを切に願っている。

                              

                                                              
                                      by  生野 千鶴