「こもんはうす」が出来て
                                    2000年7月6日
                                    那珂公民館での講演より
                                    by 大村 由紀

 はじめに

 今日このような席でみなさんの前でお話させていただく機会を下さった成育連の
皆様に感謝いたします。

 講演のお話をいただいたものの、私も皆さんと少しも変わらない普通の親です。

 たまたま、障害をもって生まれた子供に恵まれたことで、それまでの自分の人生
ではとうてい考えられないようなことまで、感じ・考えるきっかけをもらいました。

 わずかな経験で、ここにおこしの皆さんのほうがずっと深いお考えをお持ちと思いますが、いっしょに考えることが出来れば幸いです。


1.  
娘の事

は現在西月隈にあります、南福岡養護学校の高等部二年のバリバリの女子高生です。娘に障害があることが分かったのは生後1ヶ月目でした。様子がおかしいので子ども病院に連れて行き、その場で入院を言い渡され、荷物を取りに帰ることさえ出来ず、7ヶ月間母子入院をしました。

 娘の病気は「早期乳児てんかん性脳症」といい小さな体で毎日発作に苦しんでいました。一日200回・300回と数えることが出来ないほどの発作はどんな治療にも反応せず、ICU(集中治療室)で全身麻酔をかけられてもまだ止まらないほどがんこで、ついに明日止まらなければ体の方が持たないという命の限界まで来てしまいました。

 目も、耳も、歩くことさえ難しいほどの障害が残ると言い渡されても、「家の子に限って」とたかをくくっていましたが、たった45ヶ月で命がなくなるほどまでの大変な状況だと心から理解したのは、そのときでした。

 しかし、その危機を乗り越えてしまったのです。生命力のすばらしさを初めて身近に感じた時でした。

 それから、10歳までは毎年2月から6月くらいまで何百回という発作と一生けんめいに戦う娘のそばで、何もしてやれない悔しさと、見守ってあげることが一番の役目と思いながら、変わってやることが出来るならばという心の葛藤を繰り返してきました。今でも発作と上手に付き合いながら頑張っています。


2.
  障害を持つということ

岡市の障害児・者の対策は早期療育ということで、障害がわかると中央区にある心身障害福祉センターという所に母子で通所します。そこで、障害をもった子供と母親の訓練・保育など(これを療育と言います)を受けるため、0歳〜3歳まで通うことになります。この近くの福岡市博多区半道橋にある「めばえ学園」も同じ役割をしています。

 3歳になると通園施設と言われる幼稚園や保育園の役割をする施設に通い始めますが、知的障害と肢体不自由の子供たちは別々に園に通うことになります。

 知的障害の子供たちの、単独通園が出来る施設は市内に5ヶ所あり、「めばえ学園」もそのひとつです。肢体不自由の子供たちの施設は南区屋形原にある「あゆみ学園」1ヶ所しかありません。

 ですから、住んでいる地域の施設を選択するなどと言うことは無論出来ませんし、自宅から遠くても通わざるを得ないのが現状です。

 今は、障害児保育ができる保育園も増えて近くにあれば通園することが出来ますが、障害の程度の問題など、一般の幼稚園や保育園を選択することは出来ないのです。

 通園も毎日確保できるところと、1ヶ所しかないために隔日しか通えないところがあり、恵まれた環境の療育とはいえません。

 肢体不自由の子供たちはその足りない部分をリハビリとして、子供の訓練をしてくれる一般の病院に、多い人で週に3回つまり通園施設に通っていない日は訓練に行くという忙しい日々を母子で送ることになります。

 幼稚園が終わると小学校にあがるわけですが、障害があると就学相談と言うものがあって、市の教育委員会と、どの学校に入学するか話し合いがもたれます。

 大方の子供たちは養護学校や、特殊クラスのある地域の小学校に入学することになっているようです。ただ、一昨々年に西長住小学校に肢体不自由の子供たちの特殊クラスが出来るまでは、特殊クラスは知的障害の子供たちがほとんどでした。親が希望すれば地域の普通の小学校に入ることも可能なのですが、体の不自由な子供たちは例外なくといっていいほど、養護学校に通っています。


3.
        特別な配慮

害を持つと言うことはそのこと自体が特殊と捕らえられがちですが、娘を17年間育ててきて感じたのは、普通の子と少しも変わらないということでした。

 ただ、時間の流れは普通の子供たちの何倍も何十倍も遅く、使えない機能や不十分な動きのために特別な配慮が必要ということだけだと気づきました。

 近視の人がめがねをかけ、骨折した人が松葉杖や車椅子を使うように、言葉で理解しにくい分視覚を補って伝えるとコミュニケーションが取れるとか、周りの状況を判断する材料がある一部分しか伝わらないから伝わる部分をしっかり見つけなければいけないとか。

 でも、悲しければ泣きますし、嬉しければ笑います。怒ったり、ご機嫌を取ったり、人の好き嫌いをしたり・・いつもそばで生活していると良く分かるのです。

 先にお話した通園施設や養護学校・特殊クラスも障害を軽減する特別な配慮だと思うのです。

 障害を持っているから特別な配慮のもと、住んでいる地域から遠く離れた学校に通うようになった子供たち、0歳から高等部に無事入学できたとして18歳の卒業までの時間、ほとんど地域の同年代の子供たちと触れ合うことがない生活をしているのです。

 兄弟がいれば少しはその存在も感じられるでしょうが、一人っ子になると地域との接触はほとんどないと言っていいほどになってしまうのです。


4.
     半透明にならないように

が「こもんはうす」を皆さんと作るきっかけになったのは娘の先輩の事でした。

 娘より7歳年上の先輩も、ここに赤ちゃんの時から住んでいらっしゃるのですが、あるとき町内の民生・児童委員さんが「同じマンションの方から障害のある子供さんがいると聞いてきました」と尋ねてこられました。東那珂に住んで3〜4年経っていたでしょうか?

 娘の事など話しているときに、もちろん先輩の事はご存知と思いお話しましたところ、ぜんぜん知らなかったと驚かれました。

 7歳も年上だから当然地域の方も皆さんご存知と思い込んでいましたので、一番驚いたのは私でした。ご兄弟もいらっしゃらないので近くの方はご存知でも、民生委員さんまでにはなかなか存在が伝わらなかったのでしょう。

 特別な配慮が地域から障害のある人の姿を半透明にしてしまったようです。

 養護学校を卒業するのは皆さんと変わらない18才です。本当は留年制度があれば一番いいのでしょうが、校長先生に尋ねたところ、「ない!」と断られました。

 平均寿命が80歳に限りなく近づいている時です。障害があっても学校を卒業した後の人生の方がず〜と長いということになります。

 でも、18年間半透明な状態でいた青年が、卒業と同時に突然地域に溶け込めるでしょうか?


5.
        在宅の現状

輩の卒後の生活は当時、博多障害者フレンドホームに二週に3回、久山療育園に週に一回訓練に通い、後はお母さんと二人の時間というものでした。

 お母さんが若いころは何でもしてあげられたでしょうが、子供だけ年を取るわけにはいきませんので、親もだんだん疲れ子供の要求にこたえることが出来なくなります。

 「車椅子で、二人で散歩に行くことが日課よ」と屈託なく笑われる先輩のお母さんに、自分の姿もダブって見えました。

 「二十歳を過ぎた青年の生活ではない」と思いながら、一人では何も出来ない。ましてや我が子のことでもバタバタしているのに・・・

 昔は障害があると入所施設に入れると言うのが一般的だったのでしょうが、今は出来る限り自分のそばで一緒に暮らしたいと言う親の願いが強く、そのため各地に無認可作業所といわれる障害者の働く場が作られてきているのです。

 福岡のさきがけは「ひかり作業所」といって、23年前に鳥飼で障害を持った人たちの間から「働く場を」と言う声で作られました。現在は早良区にあります。


6.
     二重の壁

まざまなことを、娘を通して見聞きする中で、障害をもつ人たちの輪と障害に縁のない人たちの輪があることがわかってきました。

 また障害の輪の中にもまた別の輪があることも分かってきました。

 自分も娘と出会うまでは障害に縁のない人の輪の真ん中にいましたから、娘のおかげで両方の輪が見えたわけです。

 障害という言葉はひとつですが、10人の障害を持つ人がいれば10通りの障害があります。障害の輪の中でも「いいわね、歩けて」と言われたり、「じっとしてるから楽よね」と言われたり、ほんとうはみんな問題のある場所が少しずつ違うだけで同じなんですが、やっぱり隣の芝生は青々として見えるのですね。

 ましてや、外の輪の人たちには中が見えない分もっと、とっぴょうしもない誤解が生まれます。


7.
     差別

がまだ2〜3歳のころ、障害を持つ人たちがたくさん見てもらっている歯科に通っていました。あるとき、20〜30歳くらいの体の大きな男の人がご両親に連れられて入ってきました。私がとっさにしたことは娘をその人から遠ざけることでした。

 初めて会うその人が何をするか分からないから怖かったんです。でも、後で愕然としました。自分の子供も同じなのに差別している!!私は理解ある?人間だ。だって我が子も障害者だからと、えらそうにしていたことを心から反省しました。

 人は知らないから差別するんだ、相手の事が分からないことが一番怖いことなんだと娘が教えてくれたのです。


8.
      地域の中で生きる

のためには何をしなければいけないのか?たまたま同じような考えの友人が町内に引っ越してこられ、今まで心の中で渦巻いていた思いを一気に話ました。

 「やっぱり、私たちからここにいるよとアピールすることだよ」と二人で納得し、一回きりで終わってもいいから集まろうということで、那珂会館をお借りしての障害を持つ子供の地域交流をはじめたのが平成8年の12月でした。

 民生委員さんや、あしたば会の皆さんとお知りあいになることができたのも、この集まりがきっかけです。

 博多保険所の保健婦さんから、0歳の福祉センターに通っている子供たちを紹介され、いっしょに活動をはじめました。那珂小学校の先生からも特殊クラスのお友達を紹介してもらい、さまざまな障害・年齢の子供たちの集まりになりました。

 親の集まりにしないで、VOLUNTEERのサークルにしようと決め誰でもが参加しやすいようにしようと地域とのパイプをつなごうと続けてきました。

 3年と言う月日が流れ、異年齢・異障害のメリット・デメリットが見え始めました。

 障害の違いは、進路が別れて触れ合うことのない人たちとの理解につながり内側の輪をほんのちょっとですが低くしたように感じるのですが、年齢の幅はどうしようもない高い壁になってしまいました。

 18歳までは、結構忙しい日々を送らなければいけないので月に1回の集まりでも十分なのですが、卒業して在宅になると毎日の充実がもっとも大切になってくるのです。

 毎日親と離れて年齢相応の生活が出来る場所、無認可作業所がいるねーという夢がふくらみ、いろいろな人に語り始めました。

 そんなときに今まで地域でと頑張ってきたことが、たくさんのいいご縁を繋いで人に恵まれ、場所に恵まれ、この4月に「こもんはうす」として開所することになったのです。


9.
      「こもんはうす」の様子

●現在お二人の方が「こもんはうす」を利用されています。

 お二人とも博多障害者フレンドホームとの併用で毎日「こもんはうす」に通って見えるわけではありません。

 職員は2名の常勤と1名の非常勤で女性ばかり3人です。所長の山本さんは13年間南福岡養護学校で校内介助員として障害の重たい子供たちと関わってこられた大ベテラン。楠さんは栃木の知的障害者の通所授産施設で3年間指導員をされ、結婚のために九州に戻ってこられた若きホープです。非常勤の田中さんは教員採用試験を受けるために南福岡養護学校の講師をやめて試験勉強中のはつらつレディ。

 皆さん障害の重い人と深く関わりあいながらこられた方たちばかりです。

●毎日の関わりは決められたものでなく、その日の利用者の体調や天候、「こもんはうす」  の状況などで決められます。

 はじめからこの日は何をするというカリキュラムを組むのではなく、自由にそして利用者の生活年齢に即した形の取り組みを心がけています。

 午前中は散歩に行ったり、「こもんたいむす」を配りに行ったり、お昼の準備を職員と一緒にしたり、食べ終わったお弁当箱を洗ったり。

 職員の話に聞き入ったり、感覚刺激をして快の感覚をたくさん取り入れたり、作業を手伝って頂いているボランティアさんや職員の様子をしっかり観察したりと、お二人が家庭やフレンドホーム以外の場所でもっとたくさんの可能性を見つけることが出来るように心がけています。

●いつも誰かが遊びにきている、人のぬくもりが感じられるそんな場所にしたいという職員と、お母さん以外のいろいろな人との関わりの中で、自分を見つけていただきたい利用者の方。町の井戸端になるように障害を持つ人だけでなく、子供も大人も「どげんしとう?」と気軽に来ていただきたいと願っています。
 

10. そして

またま娘が障害を持っていたので、発達に普通の人の何十倍も時間がかかり、成長の過程がよく観察できたおかげですが、日ごろ何気なく歩いていることも、歩くということがどんなに大変なことで、ものを見ることや人の話が聞こえることがどんなに感謝しなければいけないかをいやというほど感じました。

 娘や娘の友達を見てきて生きていること自体に感謝しなければいけないと気づかされました。

 障害のない子供だけ育てていたら見ることが出来なかった、生きることのすごさ・すばらしさ・今ここにいることのすごさを教えられました。

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こんな私ですが

 私は欠点だらけの親ですが、こんなにすばらしい子供と別れる日のために、私がいなくても大丈夫なように一人で生きていけるだけの力をつけなければと思っています。

 一番難しいことですが、手を出す前に・待つことを。出来るまで見守ることを。自分の力で出来たときには心から誉めることを。ここまで成長してくれた娘に感謝しつつ、続けて行きたいと思います。

 どんな子でも生れ落ちたときは真っ白な紙です、その紙に色や形の書き方を教えるのは大人です。どんな色を与え、形を示すのかで子供の描く絵は変わってきます。

 知らないと言うことは怖いことです、知るためのきっかけを子供のためにいつも用意できるようにと思います。

 ご静聴ありがとうございました。

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