京極夏彦 19

豆腐小僧双六道中ふりだし

本朝妖怪盛衰録

2004/01/11

 電車の中で、本作を読んでいる人を何人か見かけた。カバーをつけていても即座に本作だとわかった。なぜかというと、この形でこの厚さの本は他にないからである。「豆腐小僧」だけに「豆腐サイズ」なのだそうだが…。

 言うまでもなく妖怪をライフワークとし、関東水木会会員でもある京極さんだが、京極堂シリーズにしろ巷説百物語シリーズにしろ、作品そのものはあくまでミステリーという枠内にあった。京極堂のあの台詞が象徴している通りだ。

 妖怪とは概念であり、その主体は知覚する人間にある。妖怪自身が主体的に動くことはない。水木しげる氏の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』と対極にあるこのスタンスは、本作においても不変である。ところがあら不思議、本作では妖怪たちが言葉を交わす。

 妖怪自身が主体が人間にあることを自覚しており、能動的に動けないのが本作の第一のミソ。ところが、主人公(?)の豆腐小僧は知覚する人間がいないのになぜか消えない。これが第二のミソ。従来のスタンスを崩すことなく、微妙なバランスの下に成り立つ摩訶不思議な妖怪エンターテイメントなのである。これぞ妖怪小説なり。

 豆腐小僧のキャラクターもさることながら、落語調の軽妙な語り口も大きな魅力だ。主張自体は難解な京極堂のうんちくと何ら変わらないのだが、これなら「へぇ〜」と言いたくなる。いえ、妖怪の何たるかを理解したなんて言う気はございませんけども。

 行く先々で様々な妖怪に出会ううちに、豆腐小僧は罠にはめられる。いつの間にか、この頼りない小僧に妖怪の命運が託されるのだ。一方で、幕末の世に絡み合う人間たちの思惑。妖怪の物語と人間の物語は表裏一体。クライマックスになると妖怪の台詞なのか人間の台詞なのか頭がこんがらがってしまうが、いやあ面白いよこれ。

 タイトル通り、これは双六の「ふりだし」に過ぎないらしい。豆腐小僧は修行の旅に出るのである。何とも壮大なプロローグだこと。ところで、鬼太郎の親父が目玉であることといい、本作といい、妖怪の親子関係は奥が深いものである。



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