荻原 浩 16


四度目の氷河期


2006/10/10

 僕が17歳のとき、それまでの人生について語るべきことがあっただろうかと考えてみる。部活や趣味に打ち込んだわけでもなく、困ったことに何も思いつかない。何しろ、17歳のほぼ倍の期間を生きた今でも思いつかないのだから。

 本作は青春小説と銘打たれているが、主人公の少年が17歳と11ヵ月に至るまでの半生記である。普通17歳で半生記はないだろう。彼にはまだ長い人生があるのだから。しかし、どうしても半生記と呼びたいほど、彼の17年間は数奇にして濃密だ。

 生まれたときから父親がいなかったワタル。田舎暮らしの母子家庭に容赦なく好奇と差別の目が向けられる。どうしてもみんなから浮いてしまい、友人がいないワタルが小五の夏に至った父に関する結論。ぼくは――書くのはやめておこう。

 物語の序盤、ワタルが自らの結論を信じて疑わず、実践しようとする様子には正直引いた。だが、彼があまりにも無垢で、同時に孤独なので笑うに笑えない。出る杭はどうせ打たれる。ならばトクベツになるしかない。彼の結論は、生き抜くための防衛本能が導いたのか。あるいは闘争本能と言うべきか。そして孤立と誤解をさらに深めていく。

 そんな彼も、成長するにつれて「結論」が揺らぐ。不器用なりに周囲に順応することも覚える。何だかワタルの生気が失われていくようで哀しい。それでも終始一貫しているのは母への愛。ときには疎ましく思うが感謝は忘れない。本作は家族愛の物語でもある。

 誰の息子かなんて関係ない、一人の人間として。ワタルが見つけた目標に向かってまっしぐらに突き進む終盤は、ぐっと胸に迫る。その目標は「結論」と密接に関わっていた。次第に周囲の理解が得られ、手が差し伸べられる。ワタルは孤独ではない。

 終盤、ワタルは「結論」に決着をつけるため旅立つ。日本からはるか彼方の旅先で、こんな結末が用意されているとは。しかし、ワタルの17年11ヵ月の哀しみと喜び、別れと出会いを考えれば、このくらいの出来すぎは大目に見ようじゃないか。これぞ荻原流。

 誰もがみんなと同じで、誰もがみんなと違う。ただ、違いに気付いていないだけ。



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