乙一 02


天帝妖狐


2001/10/22

 学生時代のことである。講義中、机に落書きを見つけた。"VAN HALEN"というバンドの全アルバムタイトルだった。最後に「全部持っている方友達になりましょう」と添えられていた。全部は持っていないけどなあ…と思いつつ、僕はタイトルの誤りをつい直していた。

"1989" → "1984"

 それからしばらくして、たまたま同じ席に着いた僕は「彼」からの"Sorry!"という返事を見つけた。すっかり落書きのことを忘れていた僕は、何だか嬉しくなったものだ。

 すみませんね、いきなり脱線して。本作に収録の「A MASKED BALL」を読んで、ふと思い出してしまったのだ。トイレで煙草を吸いながら落書きをしているうちに、いつの間にか落書きによるコミュニケーションが成り立ってしまう。そして、落書きが恐怖を引き起こす…。

 うまいじゃない、この設定。これはまるで…と思ったら文庫版解説で我孫子武丸氏がまったく同じことを述べている。見なかったことにして…ネットコミュニティーの匿名性そのものだ。ネットを題材にした作品はもはや食傷気味だが、ちょっとひねればこの新鮮さ。

 表題作「天帝妖狐」。物語の発端になるのは「こっくりさん」だ。流行ったよなあ、これ。僕はしたことがないが。乙一氏の世代でも流行ったんだろうか? とある町で行き倒れそうになっていた、顔中に包帯を巻いた謎の青年。彼を助けた少女との心の交流の物語。怖くて、悲しくて、切なくて、そして温かい。ラストが泣けるではないか。

 トイレの落書きといい、こっくりさんといい、ありきたりなようで実はないネタだ。大作家なら決して選ばない。選べない。地位が、名誉が邪魔をする。しがらみのない若き才能のなせる技だ。この柔軟性は、どうか失わないでほしい。

 なお、どうでもいいけど机の落書きの話は実話である。"1984"は傑作だな。



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