真保裕一 23


栄光なき凱旋


2006/04/30

 第二次大戦は何度となく小説化、映画化されてきた。日本の立場から戦争を描くと、日本人は被害者となる。一方、米国の立場から描いた映画『パール・ハーバー』では、日本人は加害者であった。どの立場に立つかで、被害者は加害者に、加害者は被害者になる。

 日本軍によるパール・ハーバーへの奇襲攻撃は、日系人たちを極めて複雑な立場に追い込んだ。米国籍を持たない一世たちは、謂れなきスパイ容疑で連行される。米国籍を持つ二世たちはジャップと罵られ、米国人とは認めてもらえない。日系人が認められるための道はただ一つ。命を賭して、戦場で祖国への忠誠を示すこと。

 多くの日系人がいることをわかっていながら、なぜ奇襲に打って出たのだ。ある者は愛する人を奪われた。ある者は約束された将来を閉ざされた。自分たちを窮地へと追い込んだ日本への恨み。しかし、日本は両親たち一世の祖国でもある。二世たちの中にも、日本で過ごした経験を持つ「帰米組」がいる。体制派がいれば反体制派がいる。

 卓越した日本語能力を買われて語学兵となったジロー・モリタは、誰よりも日本への憎悪をたぎらせながら、流れる血を意識させられる。こんな血など流れてしまえ。狭いリトル・トーキョーに集まり、自分では声を上げない日系人を唾棄するヘンリー・カワバタは、自らの器を思い知る。臆病者の血など流れてしまえ。ハワイの仲間たちと共に志願するも、語学兵となって部隊を離れたマット・フジワラに、友の悲報が次々と届く。

 ジロー、ヘンリー、マットたちの言葉を通じて、現代社会にも当てはまる日本人批判が透けて見える。しかし、本作は純粋に人間ドラマとして読みたい。青春群像と呼ぶには苛烈に過ぎるが、戦場に散った無数の声なき声に耳を傾けたい。誰が正しいかなどわからない。誰もがジローでもあり、ヘンリーでもあり、マットでもある。

 裁判から結末に至る終章は、全体から見ると浮いている気がしないでもない。しかし、終戦を迎えて袂を分かった彼らに、根深い背景があったことが明かされるのは興味深い。元々戦場に立つ目的からして違っていた彼らだが、共通点が二つある。

 第一に、彼らが「栄光なき凱旋」を果たしたこと。第二に、彼らは最後まで愚直であったこと。そんな彼らを礎に、日系人の、日本人の現在がある。



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