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マヤ 三千年の文明

佐々木徹訳
1 January 2000 (The Mayas - 3000 years Civilization Mercedes de la Garza Copyright by Casa Editrice Bonechi-Firenze (全128ページ)の35ページまでを日本語に訳す.)


マヤは広大で肥沃なアメリカに居住して、かって知られている如何なる文明より独創性の高い、壮大な文明を作った.彼らは単一民族で無く、異なる言語・習慣・歴史的な背景を持つ民族の集まりであったが、唯一の文化単位と分類出来る特性を分かち合っていた. 別の切り口で言えば、マヤは非常に大きい文化単位であるメソアメリカ文化の一部である.メソアメリカ文化は先史時代において、中央・南メキシコをカバーしていた文化で、オルメカ、ナウカ、サパテクス、メヒテクス、トトナクス、タラステカン等がこの文化に入る.


先史ラテンアメリカのマヤ歴史の発展は三つの時期に分類される.

前期古典期
マヤ文明の顕著な特性が形を顕した時期である.農業が経済を支え、祭礼 センターや村が地域周辺に作られた. 古典期 紀元三世紀から始まる時期において、あらゆる分野での文化が隆盛を見た.農業、技術、交易の面で進歩があり、政治、社会.宗教、軍事にわたり階層 化が進み固定化した.大きな祭礼センターや都市が作られ、そこでは科学・ 芸術・歴史の記録がとても盛んであった. 紀元九世紀に文化の崩壊が見られた.おそらく、経済危機、それに伴う政治社会の危機が加わった事によるものである.中央地域の古典期の都市では、政治、・文化活動が行われなくなり、これらの都市は放棄され、後期古典期に入っていった.

後期古典期
それ以来、中央地域ではマヤ文明が隆盛することは無かったが、北部地域及び南部地域では、メキシコ中央高原から到着した民族の影響を受けて文明が再興した.北部地域では、顕著にトルテカの影響を受けた芸術で飾られた堂々たるチェチェンイツアの都市が栄えた.又、地域を統合支配したと考えられるマヤパンが建設された.紀元千四百四十一年に戦争が始まりマヤ パンが破壊されると、ユカタン半島の主要都市も放棄された.代わりに新しい都市が起こった.この間、南部地域ではガテマラのグマルカの様な大都市が建設された. この時期からスペインが到達するまで、実用主義と軍事が優先となり、信仰・知的活動・芸術活動が蹂躪され、マヤの進路は変わった.戦争と交易が最重要事項となった.強力ないくつかの軍事国家が作られた.後期古典期はスペインの征服により終焉した.また、これにより先史ラテンアメリカ文化も終わりを告げた.


社会組織

農業が始まるとマヤの人々は土地に定着した.農業が経済の中心になり、狩猟・漁労・採集がこれを補った.農業は焼畑方式だった.木々を倒し、焼き尽くし、木の棒で穴を空け、雨季の前に種を蒔いた.この時期社会組織は種族単位であった.種族に属する各家族は一つの文化、一つの言語、一つの場所で生活した.経済は家族の必要性を満たすだけのものだったが、次第に専業化が進み、最後は階層化されるに至った.農業が高度化し、灌漑システムが出来、カカオや綿という様な商用の農作物が作られるようになると、人口は増加して、祭礼センターが作られた.労働階級を引っ張る階級も明確になった. 古典期に幾つも作られ神政的な統治をした祭礼センターや都市には、統治者達が住んだ.彼らは社会・経済計画、公共事業、政治組織、科学研究(数学、天文学、年代記、医学)、さらには、高度な文字システムにより統治者の血統の歴史を記録するといった知的活動に勤しんだ.建築・芸術・陶芸を行う専門職らは召し使いと共に都市に住んだ.農民は都市から離れた畑の近くに住んだ.大規模な交易で力があった商人は別の階層となった. 古典期の後半と後期古典期には、大規模な支配や軍事優先という社会変化があったが、階層は残った.唯一変化があったのは一人の人間が持っていた最高権力が、政治と祭礼の権力者に別れた事だ.最も高い階層は領主と貴族であるが、かれらは、神の名において政治、信仰、あるいは力で他を統治した支配者階層であった.その下位階層は貴族の血を引かない建築家、芸術家、陶芸家、農民であった.罪人や戦争の捕虜からなる奴隷もいたが大した数でなく、他の古代文明のように、この奴隷が生産に大きな役割を果たす事はなかった.下位階層の働きで物質の生産は行われたから、支配者階層は信仰、科学、芸術を育てる事ができた.だから、堂々たる芸術、数百ページにわたる絵文字のテキストなど、その他マヤの遺産は、支配階層から下位階層への永遠の贈り物でもあった.

信仰

マヤにおける全ての文化創造物は、マヤの信仰的世界観を基本としている. 世界は神々により創られ、起こりうる全ての事柄は、神聖な力が決めていると考えた.その力は、星々とか雨という自然現象の姿をとる神々であった.その力はまた疫病や死の神々でもあった.また、これら神々は動物に姿を変えて姿を現わした.神である太陽はしばしコンゴウインコであり、ジャガーであった.また、神である雨は蛇であった.さらに、神である死はコウモリや梟であった.マヤが描いた塑造作品の中では幾つかの動物の混成といった空想的な生き物を描いている.また、蛇の目・猛鳥の爪・犬歯を持ったり前頭から葉が伸びている人間の形を描いている. 世界は天上、地上と地下世界という三つの水平な板であると考えた.天上は三つに分かれていて、月や金星などの神々である星々が住んでいた.天空は双頭の龍(蛇、鳥、とかげと鹿の特徴を有する)の形をした神とみなされた.この天空の神はマヤ神殿の最高の位置にあり、全ての世界に生命を与える受胎の神と象徴された.そして地上は水の上に浮かぶ平坦な板と考えた.また、同時に背中に植物の生えた.巨大なワニの背中であるとも考えた.地下世界は九つの層に分かれ、一番下層に骸骨ないし人間の腐った姿で描かれる死の神が住んでいた. この天上、地上、地下世界の三つの世界は水平方向に四つの要所と共に四分割されていた.それぞれ南は黄、北は白、東は赤、西は黒に色分けられた.四つの要所には色分けられた同じ色をした神の木;カポックの木が生えていた.その木には色分けられたと同じ色をした鳥たちが囀っていた.この神の木は天上まで枝が伸び、根は地下世界まで入り込んでいた.三つの世界をつなぐピボットの役目をしていると考えられていた. 世界は人間が住むために創られると考えていた.そしてその世界は幾つかの必要性によって存在すると考えた.世界は周期的に、神によって創られ、かつ、大災害により破壊されるが、その後再生すると考えた.創造と破壊の繰り返しの目的は人間を進化させるためと考えた. 言い換えれば、世界のこの繰り返しによって、人間はだんだんに完全なものになっていくと考えた.この人間の役目は、世界に日々生命を吹き込み維持している神々を崇拝し、食物を与える事にあった.マヤの世界は循環しているというこの宗教的な信仰は、かれらの複雑な祭礼行事の基本であった.祭礼の特徴はいくつかの捧げもので神を養うことにあった.神々は見ることも触ることも出来ないものであったから、神々は、また、同じように見ることも触ることも出来ない物;花の香りや、燃えた御香の香り、食べ物の味わい、特に動物や人の心臓に宿る精神・心を食すると考えた.それゆえ、祭礼の様式は自己犠牲によって血を捧げることや、人の生きにえを捧げることであった.マヤは生け贄に当たり、首切り、全身に矢を放つこと、心臓を取り出すこと等をおこなった.人の心臓を取り出し捧げることは、後期にメキシコの中央高原の民族が持ち込んだものである. 自己犠牲と人の心臓を捧げることは、暦の然るべき時期に行われる複雑な祭礼儀式の中で、祈祷・行列・舞踊・歌・パフォーマンスと共に、行われた.祭礼のあいだ、貴族と司祭は神に会う準備として酒を飲み続けた. このほか、行政のための儀式、生命の循環に関する家族での儀式、幻覚を起させる薬草やきのこを用いて魔術師が行う病気治療や占いが行われた.

科学的知識

マヤが成し遂げた数学、時間の計測、天文学の実績は、古代文明の中で最も進歩していた.万物は繰返すという意識の目覚めから、宇宙の動きを彼ら文明の基本と考えた.マヤにとって世界は固定的なものでなく、常に成長し拡大するするものであり、それが生き物に変化を与えると考えた.しかし、同時に世界の動き(日々の変化、季節の変化など)は繰返されているので、統制力が働いており、このことにより、世界は永遠性と安定性が保たれていると考えた.人間の歴史も含めてすべてが繰返されるので、マヤは変化を整理して記録することにより、変化をコントロールしようと試みた.このことを目的として複雑な文字システムを作った.すなわち、ゼロの概念を取り入れ・数字の値を文字とし、数字の記述上の位置により値を表現する数学システムをつくった.この数学システムと忍耐強い天体観測により、マヤは太陽、月、金星等の周期の正確な記録を行った.彼らはまた遥か昔(西暦では紀元前十三万三千百十三年の秋)を元年とする完全な暦を作った.これをマヤは長暦(the long Account)と呼び、日々を計算・記録する事に専念した.

文字と数学

マヤの文字と数学のシステムの起源は、(マヤ分明でない?)トレスサパトス、ベラクス(オルメカ)、モンテアルバン、オハカ、チャルチャパ、エルサルバドールの土地の一部に溯る.初歩的な数と絵文字は(長暦の日付をすでに使用しており)紀元前300年から150年前のオルメカの記念碑に見られる.最も早い文字記録の日付はチアパ高原の紀元前三十六年に一致する.マヤ文明の早い日付はガテマラのチカルのもので紀元二百九十二年に一致する. 数を記述するマヤのシステムは、コロンブスのアメリカ発見の前の中では、最も洗練されたものであった.それは点(数字1)、横棒(数字5)巻貝の貝(ゼロ)を使っている.一から二十までの値は、人間や動物の頭の絵文字でも表された.一から十三迄の数字はさらに身体全体を描いた絵文字もで表現された.普通、点と横棒の文字は桁の低い所に小さな値を配する約束の横書きの中で使った.すなわち、桁の位置で値の大きさが変わる方法をとり、夫々の桁の値の二十倍の値は、その値が一桁上がり、元の桁にはゼロが配され表現される方法をとった.たとえば、二十の値の記述ははじめの桁にゼロを書き、次の桁に点を書いた.この数学システムを使い、マヤはあらゆる数字の記録と数字演算を行った.わたしたちの知りうるマヤが実施した数字演算は、すべて時間の計測に関わることでしかない.しかし、マヤは他の分野でもこの数学演算を適用したと思われる. 数字に関すること以外では、このシステムは変化部分を持つ絵文字を有していた.すなわち、夫々の絵文字は主要素部分と、変化する要素部分とで構成した.この絵文字のいくつかで文章を作り、さらには、テキストを作った.約三百五十の絵文字の主要部分と、約三百五十の絵文字の変化部分、さらに、神々を表す約三百の絵文字の図柄が確認されている. マヤは多様な素材の上に書きものをした.マヤの写本は、植物を叩いてその上に漆喰を薄く塗って、書いた.それをスクリーンのように巻いて保存した.ただ三つだけの写本が、スペイン侵略当時の破壊から免れ、マドリッド・パリ・ドリスデンに保管されている.それ以外に、かれらはテキストを石、漆喰、粘土、骨、貝等の上に、彫刻し、かたどり、残している.また、布の上に刺繍を行い、祭礼センターの建物や陶器の上に描いている. これらテキスト上に、マヤは科学的知識、神話、執政の歴史(彼らリーダにまつわる年代記、伝記、軍事・政治的偉業、祭礼等)を書き込んでいる.

天文学と時間の計測
この文字システムによって、マヤは驚くべき天文学の記録を行った.先ず太陽の一年を三百六十五日と計算した.これは太陽年にほぼ一致して、十七コンマ二0八秒の差の誤りである.月の一年は二十三秒の誤り、金星(五百八十四日)は六千年に一日の誤りである.また、三十三年先までの日食の予定表を作り上げている.その外、火星、木星、土星その他多様な星;プレアデス星団、双子座の周期を測定した. この素晴らしい天体観測は初歩的な器具を使って行なった.一本の棒を地面に突き刺し太陽の影を観測した.二本のクロスした棒ないし糸を使って、季節が異なるときに星が上がる時と沈む場所を読み取るために、水平線上に描かれる星の動きをプロットした.また、天文観測のために天文台を建設した. これらの天文観測によって、マヤは一年が三百六十五日で、二十日を一ヶ月として十八ヶ月、それに五日の特別な日を加えて構成する太陽暦を作り上げた.この暦とは別に月の暦(別の解明されていない暦もある)が作られ、社会や個人の運命を支配した.これは二百六十日を持つ祭礼暦で二十の絵文字と十三の数字で表現され、太陽暦と組み合わせて一年の特別な日が決った.それ故、毎日は新しい組み合わせあり、同じ日が来るためには一万八千九百八十日の経過を要した.別の言葉で言えば、同じ日は太陽暦で五十二年、祭礼暦で七十三年毎に繰返した.この繰り返しは「円形カレンダー」としてよく知られている.スペインが到達したときにはマヤはこの円形カレンダーを使っていたが、古典期では長暦を基本に考えた周期を編み出していた.これにより夫々の日が長暦元年の前後数千年にわたり、元年から数えて何日目にあたるか特定することが出来た.数えられる期間は六千四百万年に渡る.マヤの数学、天文学、年代に関する知識は、従来の西洋的見地からすれば、冷静な科学的なものであった.これらを創りあげた個人の意見という様なものでもなかった.かれら自身の特別な宗教的な世界観、人類への見方と考えて行かねばならないだろう.マヤにとって世界は"神聖なる力"の居住地で、その力が執り行われるところであった.星々は神々であったから、人は自分の存在を託した.マヤの天文学は神々を理解し、親密になるための方法と考えた.その大事な役目は世界に放たれ、時に人に敵対する"超自然の生き物"から人を守ることにあった.この生き物が長らえるのを助け、その運命を統御しようとした.というのは、過去を知る事により、未来を予言することが出来ると考えた故である.科学は信仰の領域に深く落ち込んだのである.



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