| あさま山荘・鉄球による救出作戦 | ![]() |
| 今から30年前、長野県軽井沢で史上例のない大事件が起きた。連合赤軍のメンバー5人が人質を取り、あさま山荘に立てこもった。
犯人は、近づく警官に容赦ない銃弾を浴びせ、死傷者が続出した。急斜面にそそり立つあさま山荘は、難攻不落の要塞になった。人質は、管理人の妻牟田泰子さん、救出は困難を極めた。その時、住民たちが立ち上がった。
-20℃の寒さに弁当も凍った。銃弾をさえぎる3000個の土嚢、そして日本中がどぎもを抜かれた鉄球作戦。 これは、地上最大の救出作戦を支えた住民たちの知られざるドキュメントである。 |
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長野県軽井沢のはずれに、東京の喧騒とは無縁の村があった。人口90人の馬取(まとり)地区。とれる米はわずか、若者たちは村を出て行った。村人は、裏山を切り開き、別荘地の造成に乗り出した。 軽井沢の中心から離れたこの土地には、サラリーマンの保養所が建てられた。昭和43年、後に大事件の舞台になる、ある保養所の建設がはじまった。あさま山荘だった。 ある日、現場で声をかけてきた夫婦がいた。「管理人に雇ってくれませんか」牟田泰子だった。福岡でサラリーマンをしていた郁夫は、妻の親を見るため長野に移ってきたばかり、そのそばにはこぼれるような 笑顔の泰子がいた。泰子は調理師の免許を取っていた。管理人に採用された二人は、ある日子犬をもらってきた。チロと名づけ、チロとの散歩が牟田夫婦の楽しみとなった。 年寄りばかりの村に、若い夫婦がきて、馬取の人々は喜んだ。泰子は、夫の郁夫に言った。「この村は、寒いけどいいところね」。 |
パトロール中の機動隊員が、連合赤軍のメンバーと出くわし、顔面に散弾を浴びた。「犯人はどこに逃げた?」指さしたのは、あさま山荘だった。突入して犯人を 捕まえると、本部に連絡をとろうとした。その時だった。顔面蒼白の男が現れた。チロをつれ散歩に出ていた牟田郁夫だった。震える声で言った。「山荘の中に、妻の泰子がいます」。 現場は、騒然となった。平和な村は、一転して凶悪事件の舞台となった。集落には、村内放送が鳴り響いた「窓を閉め、家から出ないでください」。 村人たちを巻き込んだ 壮絶な戦いが始まろうとしていた。 |
事件から4日目、犯人が銃を討つため作った銃眼が、日増しにその数を増した。「装甲車を使って接近せよ」野中は、指示を下した。装甲車の後ろに部下が身を隠し、 玄関前に迫ったとき、銃弾が、小林の眉間に飛んできた。ねらいは性格だった。防弾ガラスで助かったが、その瞬間、驚いた運転手がハンドルを切った。バン!銃弾が、 無防備となった隊員の足を貫通した。このままでは、負傷者が続出する。土嚢を積み、銃の楯とすることが決まった。山荘を取り囲むのに必要な土嚢は、3000個。 「うちが、麻袋をそろえましょう」申し出たのは、小諸農協の課長補佐の大野だった。雪の下の土は凍っていたが、別荘地には人工の湖があった。その底には、800トンの 砂があった。地元の男たち20人、夜明けから翌日の夜まで1日半、ぶっ通しで砂を詰めつづけた。汗でぬれた軍手が凍り、手の感覚がなくなった。3000個の土嚢が、 みるみる山荘のまわりに積まれた。警察庁依頼の精神科医は、「泰子さんは、極度の恐怖と寒さの中で監禁されている。10日が限度だ」と。 指揮官の野中は、突入を決意した。犯人の多くは3階にいる。一方、3階のカーテンがたびたびゆれた。泰子さんは、2階に監禁されていると思われた。 山荘内部の階段を壊し、人質と犯人を分断、安全に泰子さんを救い出す作戦だった。階段は鉄骨が使われ、頑丈にできていた。警察庁から応援にきていた幕僚の佐々が言った。 「ビルの解体工事に使う鉄球はどうだ」。近隣の建設会社は報復されると断った。その時、「私がやりますよ」。渋滞する道路の検問で、警官に食って掛った白田だった。白田は、 すぐ義弟の五郎に行った。「一緒に行ってくれるか」「もちろんさ」。車の運転は兄、鉄球の操作は弟、後に伝説になる兄弟の出動が決まった。 突入の前に、どうしても欠かせないものがあった。犯人の銃撃を押さえ込む放水。警察は、水の調達に必死になった。山荘から50mの所に、当時200軒分の生活用水 80トンが蓄えられていた。これを使うことになった。 突入作戦まであと1日、白田兄弟は、クレーン車の改造を急いでいた。銃撃に備え、鉄板を取り付けた。のぞき窓には、警察の用意した9ミリの防弾ガラスをはめ込んだ。 作業開始から10時間、改造は終わった。 |
昭和47年2月28日、救出作戦決行の日を迎えた。突入部隊120人が配置についた。野中指揮官の大号令を下した。「10時ジャスト、予定通り行動を開始されたい」。 犯人を3階にひきつけるため、催涙ガスを放った。犯人は、3階にあけた銃眼から激しく応戦し始めた。白田兄弟の秘密兵器、鉄球クレーン車が、ゆっくりと動き始めた。道路と 山荘の間は深い崖、落ちればひとたまりもない。山荘まで後わずか、その瞬間だった。のぞき窓のど真ん中に、銃弾が命中した。鉄球を放つには、6本のレバーを手と足で同時に操作する。 弟は、7m先の壁にねらいをつけ、一撃で命中、階段を破壊した。地上最大の救出作戦、その火蓋が切って落とされた。 鉄球クレーンの威力は抜群だった。階段に続き、壁や屋根をぶち抜いた。犯人は、一斉反撃に出た。兄弟に容赦ない銃弾を浴びせた。「放水を開始しろ」第2の作戦放水が、 犯人の銃に向けて放たれた。11時10分、野中は、山荘突入の指令を下した。ハンマーで2階の壁を壊し、夢中で突き進んだ。しかし、2回はもぬけの殻だった。読みは、完全に外れた。 泰子さんは、犯人と同じ3階にいる。犯人との直接対決が強いられた。 みな、土嚢から頭を上げ、とびこむタイミングを狙った。その時、警視庁の高見が頭を、隊長の内田も撃たれた。突入部隊は、大混乱となった。そこへ、生活用水の水が底をつき、 放水が突然止まった。作戦の予定時間2時間を、とうに過ぎていた。午後1時29分、野中は、苦渋の決断を下した。「作戦中断」。 |
気温−5度、放たれた水はツララになっていた。野中は、号令を発した。「日没までに泰子さんを救出せよ」。犯人のいる3階への突入、それは命がけのものになる。 4人の隊員が志願した。銃眼のすべてを壊し終えていた白田兄弟、命がけの突入作戦を無線で知った。4人の警官に思いを託した。 「まもなく日没になります。急いで」。午後4時46分、4人は土嚢に身を隠し、一気に突入した。銃弾に襲われ奥に進めない。銃撃の間隔2秒の間に、一気に飛び込んだが、 このままではやられる。この時、放水が始まった。放水の威力は抜群。放水が、犯人がこもる部屋の壁を壊し始めた。ポンプが焼ききれる寸前まで出力を上げた。水が底をつきかけた、 その時、壁が崩れた。4人は一気に飛び込んだ。布団に身を隠す犯人を夢中で引きずり出した。「目の前にいた犯人と思われるものの手を、パンと引っ張り出したんですよ。そしたら、 あっ!細い」。布団から引っ張り出した白く細い腕、泰子さんだった。「牟田さんは生きている。元気です。どうぞ」。午後6時20分、犯人5人は逮捕された。泰子さんは、山荘から助け出された。 駆け寄った夫の郁夫、冷え切った妻の頬を両手で包んだ。「泰子、よくがんばったね」。その姿を見た白田兄弟は操縦席を降りた。10日間219時間に及ぶ史上最大の救出作戦が終わった。 |
あさま山荘は、その後修復され、車椅子などの工房として生まれ変わった。 長野県警の本部長として指揮をとった野中さん、30年間、退職した後も訪れる所がある。別荘の入り口に建てられた「治安の礎」。警視庁から駆けつけ、命を落とした二人の警官に 深く頭を下げる。礎は、突入する警官と、鉄球クレーンが刻まれている。 現在の牟田さんからの手紙: 「早いもので、あの出来事が起きてから30年になります。幸いにも、心温まる地元の人たちのご好意により、軽井沢で、今にいたる生活を続けております。私たちが、今こうしていられるのは、 当時、事件の解決のため、身の危険を顧みず救出にあたり、またそれを支えていただいた多くの人たちのご苦労と犠牲の賜物であります。このことを心に深く刻み込んで、常に忘れることなく、 残された人生を大切にしていきたいと思っています。」 2002年1月 牟田 郁夫 泰子 かって、史条例のない大事件に立ち向かった人々がいた軽井沢は、30年目の穏やかな年明けを迎えた。 |
赤軍は、武器を用いて世界中の国を変えるとして、世界中で爆弾事件を起こし、また、1970年3月、日本航空の旅客機を乗っ取り北朝鮮に行った「よど号事件」を起こし、今も北朝鮮にいる事はよく知られている。 この事件の強行突入時のテレビ中継視聴率は、実に89%に達したという。10人中、9人はテレビにくぎずけになったことになる。映画も製作中のようだ。これほど人々の関心を引いた人間ドキュメントは、今後も、そうはあるまい。 |
| 人間ドキュ | ||||||