| 平民宰相 原敬暗殺 〜くじかれた改革の夢〜 |
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| 大正10年(1921)11月、平民宰相の名で親しまれた、時の内閣総理大臣原敬が、東京駅構内で暴漢によって暗殺された。デモクラシーの言葉が新鮮な響きをもって聞かれた大正時代、原は、日本を平和的な産業国家とするべく、さまざまな改革に着手する。方針に従わない官僚、軍縮に反対する軍部、そして党内に起こる汚職とスキャンダル。原は、何とかして政治への信頼を取り戻したいと、直接国民に話しかけるため遊説に出発する。そんな原に、暗殺者の影が忍び寄っていた。危険を承知で原が訴えようとしたものは何か。日本の改革のために奔走し、志半ばで非業の死を遂げた、平民宰相原敬の生涯と、暗殺の瞬間に秘められたドラマを描く。 |
学問で身を立てようと、原は、司法省法学校(後の東大法学部)に優秀な成績で合格、たとえ賊軍の出身であっても、実力では負けないことを証明してみせると意気込んで始めた学生生活だったが、思わぬ挫折を経験することになる。寄宿舎の待遇改善の先頭に立った原は、賊軍のこせがれが生意気なまねをすると見る、薩摩藩出身の校長と対立、激しく反発した。「国民誰か、朝廷に弓を引くものあらんや。勝てば官軍、負ければ賊軍の俗謡あり。その真相を語れるものなり。」(原敬日記より)。やがて処分が下った。校長の権威に逆らった原は、退学を命じられる。 明治12年23歳の時、原は、郵便報知新聞に入社、語学力を認められた原は、26歳の時、外務省の翻訳係として採用された。そこでも、原を待っていたのは、薩摩や長州が幅を利かせる門閥の壁だった。当人の実力でなく、門閥や縁故で出世が決まる現実に、原は閑職に甘んじる。そんな原に転機が訪れた。明治25年、外務大臣になった陸奥宗光は、原の実力を認め、通商局長に抜擢する。陸奥のもとで、原は異例の出世を続け、明治28年39歳で外務次官に就任、外務省の職員採用を、縁故などによるものでなく、試験によって行う画期的な制度を導入する。 その頃、原は、私生活でも転機を迎えている。原と同じく南部藩の生まれで、苦難の人生を歩んでいた、新橋の芸者浅(あさ)と出会い、同じ境遇をもつ二人はやがて結婚。浅は、生涯にわたって、原の政治活動を支えつづける伴侶となる。 その後原は、本格的に政治にかかわるようになる。門閥や既得権益の壁に阻まれて、多くの国民が恵まれない中で、世の中を変えるには、政治を変えるしかないと思ったからだった。明治33年、原は立憲政友会の旗揚げに参加、明治35年、故郷盛岡から衆議院議員に立候補し、初当選を果す。このとき46歳、国政の最前線に立って、活躍する日々が始まった。 妻浅に、原が語った言葉がある。「自分は61歳を限りとして、政治家生活を退くつもりであるが、もし、それ以上政治にかかわることがあれば、命はないものと思わなければならぬ」と。 |
大正7年8月、米騒動の勃発である。軍隊への兵糧米の需要が高まることを見込んだ商社が米を買い占め、米の価格が高騰したのである。暴動は全国に拡大し、70万人が参加する大騒動になった。 この頃、盛岡に帰省していた原を、政友会の幹部が訪ね、「寺内内閣の崩壊は近い。総裁たるあなたが即座に上京し、政局打開にあたるべし」と。しかし、原は動こうとしなかった。「今、政権奪取に動けば、日本の政治に混乱を招くだけだ」これが、原の考えだった。米騒動に手を焼いた政府は、ついに軍隊を投入して鎮圧を図る。国民に軍隊を向けるとは何事かという非難が集中し、寺内内閣は総辞職に追い込まれることになった。薩摩、長州の実力者たちも、事ここに至っては、国民の人気が高い原に、政権をゆだねるしかないと判断する。 大正7年9月29日、原敬は、第19代内閣総理大臣に就任。それまで、官僚や特権階級で占められていた日本の首相の座を、平民出身の政治家が占めることになったのである。原は、衆議院に議席をもった最初の首相であり、爵位を持たなかったので、国民は平民宰相、原をそう呼んで親しみを表した。 原内閣は、やつぎばやに政策を実行する。まずは、米騒動の収拾だった。就任1ヵ月後、原は、地主たちの反対を押し切り、米の輸入自由化を実施。規制を撤廃して、安い外国米を流通させ、市場原理に任せる政策をとったのである。やがて、米の価格は下落を始める。12月、原内閣は、シベリアから軍隊を撤退させることを決定、財政再建のため、大幅な軍縮に乗り出す。「日本が発展するためには、軍事力ではなく、経済力を充実させなければならない」原は、そう考えていたからである。原は、教育改革も実行する。大学令を交付し、早稲田や慶応など私立の教育機関にも、大学の地位を与える。官僚や学者ばかりでなく、実力ある人材を育てることも、これからの日本には必要だと考えたからだった。さらに原は、大規模な鉄道敷設計画を発表、不景気にあえいでいた地方の経済は、活気を取り戻した。 首相就任2年後の総選挙で、原が総裁を務める政友会は、単独過半数を達成。平民宰相原敬の人気に支えられた地すべり的大勝利だった。 首相就任に際して、原家の人々を写した記念写真がある。このとき、原敬62歳、浅47歳、息子貢16歳、これが、遺族の手に残された唯一の家族肖像である。しかし、原の自宅には、首相に就任した直後から、不気味な脅迫状が届くようになっていた。 |
しかし、政権の足元を揺るがすスキャンダルが突然巻き起こる。大正10年1月に発覚した満鉄疑獄事件、政府の傘下にある企業から、莫大な利益が政友会の政治資金として使われたと報じられた。そのわずか2週間後、別のスキャンダル、アヘン事件が発覚する。政友会3人が逮捕され、世論の批判にさらされた。自分の母体である政党にまつわるスキャンダルの連続に、原は頭を抱えた。政友会の腐敗は、原総裁の責任であるとして、反対派は、一気に攻勢に出た。2月19日、原内閣に出された不信任案は否決され、原は当面の危機を脱する。 原は、スキャンダルによって地に落ちた国民の政治への信頼を、取り戻さなければならないと考え、大正10年8月、述べ4ヶ月に及ぶ全国遊説の旅に出発する。 |
そんなある日、原が、再び遊説の旅に出かけることを知る。「今度こそ原を暗殺、狙う場所は、確実に原を捕捉できる駅がいい」中岡はそう考えた。そして、運命の日、大正10年11月4日がやってきた。この日、原は、中国人記者に対外協調路線について聞かれ、次のように答えた。「20世紀の今日、領土的征服などは、実に時代遅れのお粗末な政策です。我々が求めるべきものは通商です。通商こそ何にもまして重要なものです。自分が、今この瞬間に職を去ろうとも、この政策は変わらないでしょう」。これが、内閣総理大臣としての原の最後の公式発言となった。 一端自宅に戻って、いざ出発という時、妻の浅は、原に厚手の外套を着せようとするが、原は、面倒だとして背広だけで出発。この時、外套を着なかったことが、後になって、原に悲劇をもたらすことになる。午後6時、東京駅改札口に、中岡が姿をあらわした。今度は、書生姿に扮した中岡は、雑踏の中に身を隠して原の到着を待つ。午後7時20分、原は東京駅に到着、側近と共に駅長室に入る。その5分後、駅長に先導された原が、中岡の前に姿をあらわした。その時、護衛の注意は駅構内の雑踏に向けられて、暗殺者の存在に気づいていなかった。一瞬の出来事だった。物陰から走り出た暗殺者の短刀が、原の胸を直撃、短刀は薄手のシャツを貫き、肺から心臓にまで達した。あの時、厚手の外套を着て出かけていれば、致命傷にはならなかったかもしれない。関係者は、後々までも、それを悔やんだという。 大正10年11月4日午後7時30分、第19代内閣総理大臣、原敬絶命、享年66。急を聞いて現場に駆けつけた妻浅は、報道陣や群衆に囲まれながら気丈に振舞った。浅は、涙一つ見せず、夫の乱れた衣服を整えたという。側近たちが、遺体を官邸に運ぼうとした時、浅は、静かに口を開いた。「生きていてこそ内閣総理大臣、亡くなれば、もはや官邸には用のない人ですから、宅(私邸)へ送り届けたいと思います」。その予自宅に戻り、原の遺体と二人きりになった浅は、初めて遺体に取りすがり、泣き伏した。 「平民宰相暗殺さる」の知らせは、国民に大きな衝撃を与えた。原という大きな指導者を失った政友会は、やがて分裂、以後、ほかの政党と離合集散を繰り返し、力を失っていく。原の死から10年後の昭和6年、満州事変が勃発、さらに2年後、日本は国際連盟脱退を通告。原が目指した国際協調路線とは逆の方向に、日本は突き進んでいくことになる。 |
暗殺のあとに公開された原の遺書の冒頭には、「死去の際、位階勲などの将叙は、予の絶対に好まざる所なれば、死去せば即刻発表すべし」と。「最後まで、平民宰相として人生を全うする」それが、原の望みだった。原の愛した言葉がある。「宝積(ほうじゃく)」(人に尽くして報酬を求めない)という意味である。借地に建てた家と、わずかばかりの貯金、それが原の主な財産だった。 盛岡市の市内に、原家の菩提寺大慈寺がある。原の墓に記されたのは、ただ原敬の2文字のみ。あくまで、平民宰相として飾らぬ立場を貫いた原は、次のような言葉を残した。「いずれの国においても、国民多数の世論によって、政治が動いているということは明らかである。国民一致の力でなければ、到底国家の進運を図ることはできぬ。政党内閣祝すべしといえども、国民の意思を基礎として国政を料理するにあらざれば不可なり」。平民宰相として、原が肝に銘じていた政治理念であった。 |
当時の閥や既得権益による政党スキャンダルなどは、ある意味で、大物議員のスキャンダルがマスコミを賑わす今の時代に、似てなくもない。政治を行う人は、「宝積(ほうじゃく)…(人に尽くして報酬を求めない)」の精神と、国民の意思を反映したものでなければならない」という原の政治理念を、じっくりと振り返ってもらいたいものである。 |
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