運命の船「宗谷」と 南極越冬隊の奇跡

昭和31年11月8日、東京晴海埠頭は1万人の人々で埋め尽くされた。 戦後日本の復活をかけた南極観測。日本人の希望を託された船の名は「宗谷」。積み込まれた装備は、復興途上の日本企業が提供し、その数1000社を 超えた。南極まで2万キロの道は過酷なものとなった。船体にぶつかる巨大な氷山に、宗谷はきしんだ。たどり着いたのは、南極で最悪の場所だった。男たち を風速100メートルのブリザードが襲い、建物は壊れた。食料も失った。立ち向かったリーダーは西堀栄三郎53歳。極寒の南極で若者たちが観測に命を 張った。これは日本の誇りを取り戻すため、ただ一度だけ日本中がその力を結集した、壮大なプロジェクトの記録である。

◆敗戦国日本、意地の南極観測参加
南極観測の国際会議
朝日の支援キャンペン記事
このプロジェクトは、ある一人の学者の情熱から始まった。東京大学理学部教授、永田武41歳。地球磁気の研究でノーベル賞候補と言われた 男だった。
ある日永田のもとに、一通の国際郵便が届いた。2年後の国際地球観測年にむけ、ブリュッセルで会議を開く。テーマは南極観測。長い間の夢 だった。ブリュッセルに飛んだ永田はたじろいだ。会議に参加したのは10ヶ国、皆戦勝国だった。突然永田に非難の矢が飛んできた。「なぜ日本がここに いるんだ。日本には国際舞台に上がる資格はない。」フランスの議長が永田にたずねた。「日本は観測に参加できるのか。」永田は悔しさがこみ上げ、 決然と言った。「日本は参加できます。」と。

日本に帰った永田は、熱血漢の血がたぎっていた。永田は大蔵省をたずね、南極観測への参加を訴えた。しかし担当官は言った。「南極?そんな ものに金は出せない。」永田は方々に訴えたが、変人扱いにされた。ある日、朝日新聞の編集長広岡が、日本は南極に行くべきだとして、新聞で南極観測 を支援する一大キャンペンを打ち上げた。まもなく全国で募金運動が始まり、あっという間に10万人を突破した。皆夢に飢えていた。まもなく文部省や 運輸省の若手官僚たちも、賛同の声をあげた。そしてついに国が動いた。2年後の観測に向け、国家プロジェクトが動き始めた。船の手配と輸送は海上 保安庁が担当、観測機材や物資の調達は文部省、そして南極観測隊隊長は、永田が指名された。日本に割り当てられた観測場所は、南極東部のプリンス ハラルド海岸。アメリカ海軍の報告書には、接岸不可能と記されていた。アメリカ、イギリスなどが、7回も上陸を試みて、いずれも氷に阻まれて失敗 している場所であった。
◆日本企業の総力をあげた宗谷の改造と装備
オンボロノ中古船「宗谷」 大改造中の宗谷
西堀越冬副隊長 網走で吹き飛ばされたテント
昭和30年11月、出発まで1年をきった。南極への1万キロは、ケープタウン沖の暴風圏と南氷洋の巨大な氷が立ちはだかる。厚い氷に耐え られる丈夫な船が要る。しかし船を造る時間も費用もなかった。ある日メンバーが、大型の中古輸送船を見つけてきた。その船を見て唖然とした。 ボロボロの船だった。船の名は宗谷。建造されて18年、船体はさび付き、甲板は穴だらけだった。宗谷は、海軍の物資輸送船として戦火をくぐりぬけた 強運の船、これに賭けようと思った。

宗谷の設計を一人の老紳士に託した。牧野茂、戦艦「やまと」を設計した男だった。牧野は改造に没頭した。2ヶ月後メンバーは目を見張った。 船のへさきには頑強な鋳鋼、横腹は厚さ25ミリの鋼鉄で覆われていた。
しかし、出発まであと9ヶ月をきっていた。あまりの工期の短さに、大手の造船所は皆しり込みした。そのとき横浜の小さな会社「あさのドック」 が手を上げた。会社は小さいが、船修理のうでは日本一の評判を取っていた。前代未聞の突貫工事が始まった。大型機械はなく、職人の腕だけが便りだった 。

組み立て式の建物
大改造を終えた宗谷
その頃、永田は悩んでいた。集まった観測隊員は、みな研究者、冬山さえ登ったことがない。頼りになる服隊長が必要だった。3日後、ネパールにも 遠征したことがあるとい う、白髪交じりの男がきた。西堀栄三郎53歳、かつて東芝の技術者だった。永田は、冬山の知識とその笑顔に吸い込まれた。西堀こそ、登山界で 知られた探検家のカリスマだった。永田は副隊長を任せた。
まもなく観測隊員30人を連れ、北海道の網走に向かった。この地は氷点下20度、強風が吹きつける。網走の強風のため、テントはあっけなく 吹き飛ばされた。発電機は、オイルが固まり動かなくなった。無線機はすぐバッテリーがあがった。この装備では、氷点下50度、100メートルのブリ ザードの吹き荒れる南極にいけるはずもなかった。

宗谷にもとんでもないことが起こっていた。船体にゆがみが生じ、ついには水が漏れ始めた。 宗谷は信じられないおんぼろ船だった。あさのドックの部長は、横浜中に号令をかけて職人を集め、宗谷に立ち向かった。ある日、プロジェクトに協力 したいと言う会社が現れた。持ってきた発電機は、オイルが凍る心配のない見事な風力発電機だった。その会社は、オートバイメーカーのホンダ。品川の 小さな会社もきた。寒さの中でもバッテリーがもつ小型受信機を、ただで作ってくれた。会社の名は東京通信工業、後のソニーだった。最大の難問、 住居の問題が残っていた。東京タワーを造った竹中工務店がやろうと言った。釘は使えない。日本古来の木組みの技術を利用した。3ヶ月の間開発に 没頭し、見事な組み立て式の建物を作り上げた。南極観測に物質を提供した会社は1000社を超えた。世界の先進国との共同観測、日本隊に胸を張って いってほしい。日本の企業には熱い気持ちがたぎっていた。昭和31年10月、宗谷は大改造を終えた。老朽船は、鋼鉄のよろいを身に包み、光り輝いて いた。
◆いよいよ南極へ
出発した宗谷の勇姿 暴風雨に遭遇
南氷洋の流氷 氷の壁を割って進む
出迎えたペンギン 昭和基地に立てた日の丸
昭和31年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆に見送られ、宗谷と130人の男たちの南極まで2万キロ、日本人の底力を示す 運命の航海が始まった。日本を旅発った宗谷は、ひたすら南極を目指した。出向から52日、宗谷は、ケープタウン沖の暴風雨に遭遇し,船がきしむ。 4日後、暴風圏を抜けた。南極の海、南氷洋である。行く手には氷の壁が立ちふさがった。氷の壁がわれた。全速前進、一日50キロぐいぐいと進んだ。 10日後宗谷は止まった。氷がびくともしなくなった。南極の夏はあと1ヶ月、その間に上陸をし基地を完成する。その後全員で一端帰国、装備を整え なおし、来年再び南極に戻って観測を行う予定だった。

西堀がきた。「南極にたどり着いたら、そのまま越冬観測をさせて下さい。今回を含め南極につける保証はありません。欧米はすでに観測をはじめて います。今大事なのは、観測成果を世界に知らしめることです。」と。
行く手を阻まれて3日目の朝、氷の海に細いひび割れが南に延びていた。宗谷はそれに突っ込んでいった。2日後、ドスンという音とともに、宗谷 は接岸した。プリンスハラルド海岸だった。隊員たちは日の丸を立てた。みな涙が止まらなかった。
日本隊南極上陸のニュースは、国中を歓喜させた。永田隊長は、ここを「昭和基地」と命名した。

南極では直ちに基地の建設がはじまった。若者たちは嬉々として働いた。
永田は西堀の笑顔を見て言った。「私の夢の場所です。西堀さん越冬観測を許可します。」と。
まもなく昭和基地の建物が完成した。見事な出来栄えだった。越冬隊員には10人の若者が手を上げた。別れの日、吹雪となった。永田は言った。 「1年後必ず迎えにきます。がんばって下さい。」汽笛が氷の大地に響き渡った。永田は、陸地が見えなくなるまで、手を振りつづけた。11人の隊員を 待ち受ける冬の南極。それは、とんでもないものだった。
◆事故続出の南極の越冬観測
犬ぞりで走り回る隊員 ブリザードに壊れた小屋
アインシュタインと西堀 観測する隊員
夜空に輝くオーロラ 昭和基地の全景
越冬隊員は、観測テーマを求めて氷の大地を走り回っていた。南極では、初めてのブリザードが吹き荒れていた。風速50メートル、観測用の 小屋と建物の一部が木っ端微塵になった。恐怖心がつのった。村越は、観測の帰り、ブリザードの中で幻を見た。「感覚がだめになってしまう。2〜3 メートル先の石ころが、2キロ先の島だと思っちゃうんだ。」観測どころではないと思った。

西堀は、極寒のなか、一人観測を続けていた。西堀は、がんばらなければならない訳があった。19歳のとき、20世紀の頭脳と言われたアルバート ・アインシュタイン来日、英語を習っていた西堀は、3日間通訳として旅を共にした。アインシュタインは、探究心の塊だった。「誰もやったことの ない新しいことをやりなさい。一番大事なのは、まずやってみる勇気なのだ。」と。天才技術者そして探検のカリスマ西堀は、この言葉を53年の人生に 深く刻みつづけてきた。

西堀は、「無線で外国と交信できないか」と言った。一斉に声が飛び込んできた。「日本隊は、何の研究をしている?南極はどんなすごい ところだ?」その声を、10人の若者たちが聞いていた。西堀は言った。「自分をさげすむな。落ちこぼれほど強いんだ。」隊員たちの顔つきが変 わった。
それから間もなく、信じられないことが起こった。朝、食料置き場に行くと、そこは海になっていた。地面がわれ、食料ごと流されていた。みな 呆然と海を見た。食料の2/3を失い、若者は静まり返っていた。「皆落ち込んで遺書まで書きました。」そのとき西垣は、銃を手に外に出た。アザラシ やかもめを撃って食料の足しにした。

西堀が言った。「やる前からだめだと諦めるのは、一番つまらぬ人間だ。」若者たちは奮い立った。村越は、1日4回の気象観測をはじめた。 共同観測している各国に遅れをとりたくないと思った。北村は、南極の夜空に輝くオーロラの色や形、いつどの方向に現れるのか。そのなぞを解きたい と思った。ところが1ヵ月後、とんでもないことがおきた。徹夜の観測が続く中、北村は寝込んでしまいストーブの火が傍らの新聞紙に燃え移り、 逃げ出すのがやっとだった。測量機も観測記録もすべて灰になった。落ち込んだ北村に、西堀は言った。「火事くらいでくじけるな。失敗したらまた やり直せばよい。」。石をテーマにした大塚は、岩石の成分をはかる機械を仲間と造り、分析にのめりこんだ。このとき、残された食料は、底をつき 始めていた。
◆越冬隊の救出と観測成果
氷に阻まれた宗谷 小型飛行機で救出へ
西堀と永田が固い握手 11人の越冬隊員
日本では、永田が宗谷の改造に走り回っていた。スクリューを大胆に造り替え、船の推進力を挙げた。
昭和32年10月、宗谷は西堀たちを迎えに、再び南極に向かった。33年正月、基地の食料と燃料は、残りわずかだった。皆宗谷の到着を 心待ちにしていた。その矢先、緊急事態を告げる永田からの無線が入った。宗谷は、基地まであと200キロの地点で、氷に阻まれていた。強い東風 で流氷が1箇所に集まり、巨大な氷の壁になっていた。前進できないまま40日が過ぎた。このままでは越冬隊員が危ない。そのとき、パイロットの 岡本が、自分が行くと名乗り出た。岡本の小型飛行機は、南極の空へ飛び立った。ブリザードが吹けば終わりだ。1時間後、橙色の建物が見えた。越冬隊 は次々に救出された。西堀と永田は、固く抱き合った。ここに越冬観測は終了した。42日後、西堀たちは、1年半ぶりに日本の土を踏んだ。国民を 上げてので迎えとなった。万歳が響いた。

若者たちは皆輝いていた。そして持ち帰った観測結果は、世界を驚かせた。手探りで集めた石は、南極が地球最古の大陸だと証明するきっかけと なった。北村のデータは、オーロラ発生のなぞの解明に結びついた。未知の大陸に果敢に挑んだ11人の男たち。世界に、日本人の底力を知らしめた。
初めての越冬から43年、昭和基地は、世界に誇る観測基地になった。昭和59年には、科学史に残る大発見をした。世界初のオゾンホールの 発見である。環境破壊の深刻さを世界に警告した。
かつて一度だけ、その力を結集した壮大なプロジェクトがあった。未知の世界に挑む探究心と失敗を恐れぬ勇気を、そのとき誰もがもっていた。
作成者所感
戦後復興途上の日本企業が一体となって、永田隊長と西堀副隊長を中心とした 南極観測隊を支えた。敗戦後10年と言う時代背景の中での、稀有な事例だった。1年後はできなかった南極接岸が、最初はうまく成功した好運と 、西堀越冬隊長のカリスマ性が、観測の成功を支えたと思う。それにしても、日本人の誇りと総力を結集した大プロジェクトだった。


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