国境を越えた救出劇 〜大やけどコンスタンチン君・命のリレー〜 |
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ロシア連邦サハリン州ユジノサハリンスクに、日本と深い絆を持つ少年がいる。コンスタンチン君である。コンスタンチン君は、1990年今から10年前3歳のとき、全身の90%におよぶ大やけどを負った。地元の医師たちは、誰もさじを投げ、あと70時間の命と宣告された。家族は、医療技術の進んだ日本に最後の望みをかけた。 しかし、東西冷戦の続いていた当時、サハリンと日本は、鉄のカーテンで厳しく隔てられていた。そのとき、国境を越えてコンスタンチン君を救うために、互いに見知らぬ日本人たちが、前例のないプロジェクトに結集した。プロジェクトは、いくつかの厳しい障壁を乗り越えて、無事コンスタンチン君の命を救うことに成功した。 その機敏な決断、実行力による奇跡のドキュメントを、今の3人の家族とともに記録する。 |
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夕方の支度をしていたタリーナは、「ママ怒らないでね」という弱々しい言葉に振り向いた。そこには全身ずぶぬれのコンスタンチンが立っていた。体が異常に熱い。洗濯用に沸かした100度近い熱湯の入ったバケツに、お尻から落ちたのである。服を脱がせると、皮膚もいっしょにはがれた。看護婦のタリーナは、生死にかかわる大やけどだとすぐわかった。そのとき、息子を救う懸命の努力が始まった。 事故から1週間後、北海道庁国際交流課の電話が鳴った。相手はサハリンを訪れている日本人だった。「大やけどを負った男の子の母親から頼まれた。サハリンに助けにきてほしい。」電話をとったM係長は突然の見知らぬ人からの電話に戸惑ったが、とりあえず外務省に報告した。対応したソ連課の職員は、サハリンという言葉に当惑した。7年前のサハリン沖での大韓航空機撃墜事件で、日ソの国境は緊張関係が続き、ソビエトへの反感はぬぐい難いものになっていた。 1回目の電話から1時間後、サハリンからの電話が再び鳴った。3歳の子の命はあと70時間、そう告げる声はうわづっていた。M係長は、いま自分が動かなければ生涯の悔いになると思った。 サハリン州の知事が、M氏の求めに応じて正式な救援依頼を送ってきた。すぐ知事室にまわし、受け入れの了解を取り付けた。外務省も動き始めた。M係長は札幌医科大学のヘリコプターを使った救急医療で、空飛ぶ医者の異名を持つK教授が頭に浮かんだ。K教授は、情報がほとんどないままで、サハリンに飛ぶことを決意した。外務省のK氏は、関係省庁と折衝を進め、法務省と協議、「仮上陸」という特殊な滞在許可をとった。続いて、飛行機の手配のため海上保安庁に連絡した。白羽の矢が立ったのは、千歳航空基地飛行長S氏だった。S氏は、「当時、国境付近を飛んだら、すぐスクランブルの戦闘機が飛んでくる。とても考えられない状況でしたね。もしスクランブルがきたら、引き返すつもりでした。」と。 午前3時、深夜の千歳空港に、医師4名、パイロット2名、整備士、通訳など13名が集まった。昨日まで話をすることもなかった男たちが、サハリンの一人の男の子の命をを救うため、飛行機に乗り込んだ。午前3時40分、サハリンに向け飛行機は飛び立った。電話を受けてから17時間後のことだった。 |
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K教授は、「100のうち一つでも可能性があれば、つれて帰ろうと思っていました」と。コンスタンチンが運ばれてきた。このとき初めて、医師たちは、コンスタンチンは、すでに細菌に感染しており、最悪の場合、ショック死もありうると聞かされた。医師の一人は、「子どもを抱いた瞬間、温かみと包帯にもれてきた湿り気で、とても置き去りにはできないと思いました。」医師団は、すぐ飛行機に向かった。1分も無駄にできなかった。滑走路には手を合わせるタリーナがいた。サハリン州政府は、父のイーゴリだけ同行することを認めた。 飛行機の中で、すぐ治療が始まった。包帯を取ろうとすると、コンスタンチンはうめき声を上げた。午前8時56分飛行機は札幌に着いた。70時間の命と診断されてから、すでに20時間が過ぎていた。コンスタンチンは、直ちにヘリコプターで札幌医大に搬送された。 父親のイーゴリは、言葉がわからないため「私はただ祈っていました。息子が生き抜くために、すべての人が力を貸してくれるように。何もできない私は、息子が治るまで、ひげを剃らないことに決めました。」 国境を越えた緊急搬送は成功した。しかし、医師たちの戦いは始まったばかりだった。 |
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イーゴリは、私の皮膚を使ってくれといってきたが、医師は、生きた人間から一度にたくさんの皮膚は取れない、それより、ベッドの傍らでコンスタンチンを励まし続けてくれと伝えた。 2日目の夕方、東京の救急病院から、皮膚の提供の遺族の了解をとったという連絡が入った。待ち望んだ皮膚が届いたのは翌日の昼過ぎ。直ちに手術に入った。提供された皮膚を慎重にコンスタンチンの皮膚に貼り付けていく。手術は3時間50分に及んだ。緊急事態はしのげた。あとは1週間後に、皮膚がつくかどうかがコンスタンチンの生死を分ける。 サハリンでは、母親タリーナが一人待ちつづけていた。日本語がわかる知人に、日本のラジオ放送を聞いてもらい、息子の様子を知るもどかしいときを過ごしていた。父親のイーゴリは、食事もとらずベッドの側にいつづけた。手術を終えたコンスタンチンは、意識を取り戻した。イーゴリは、いつも寝かせる前に聞かせていたロシアの童話をカセットに吹きこみ、枕もとにおいた。 |
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手術から1週間が過ぎた。皮膚がついたかどうか確認する日がきた。静かに包帯がはずされた。皮膚は、コンスタンチンの体にしっかりと張り付いていた。執刀医の医師は、全身の力が抜けた。 それから3日後、タリーナが稚内についた。イーゴリは、もう大丈夫だと告げた。11日ぶりの対面だった。コンスタンチンは、母親を呼びつづけた。それから1ヵ月半、急速に回復に向かった。コンスタンチンは、そのやんちゃぶりに誰からも愛された。 1本の電話から始まったコンスタンチンを救うリレー、互いに顔も知らなかった日本人たちが、そのバトンを確実に受け渡していった。 緊急輸送から87日後、コンスタンチン一家は、輝くような笑顔を残しサハリンに戻っていった。 |
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ソビエト崩壊後、サハリンと日本には定期航路が開かれた。サハリンと北海道との間で、毎年医療技術の交換会が開かれている。その基金となったのは、コンスタンチン君のために日本中から集まった1億円の募金だった。 日本中からきた300通の手紙は、何よりの励ましとなった。80歳のおばあさんが心をこめて作った千羽鶴は一家の宝物になった。 タリーナさんは「国が違っても、困ったとき人間は助け合えるのだと思います。それが人と人との絆ではないでしょうか。日本の人たちが私たちに、手を差し伸べてくれたのも、その絆のおかげだと思います。息子の将来については息子が決めることですが、日本とかかわれる仕事についてほしいです。息子にとって第2の祖国ですから。」 イーゴリさんは、趣味の渓流つりを教えながら、息子とのかけがえのない時間を過ごしている。 |
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