「あの日」(沖縄戦と本土空爆)
〜戦後60年、昭和20年の記憶〜

 60年前、日本人は、今は想像もつかない毎日を送っていた。昭和20年、日本は、長い戦争を続けて満州事変、日中戦争を経て大国アメリカとの戦い、そして敗戦から始まった民主国家としての復興、社会のありよう、価値観すべてが変わっていった。
 敗戦の年昭和20年、沖縄戦、本土空爆の中で、その一日一日を人は何をどのように生きていたのか。現代日本の出発点となった激動の一年、昭和20年の春の日々、あの日を体験した著名人たちの証言でつづる。

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since 07.03.01

★アメリカ軍沖縄に上陸開始
当時の新聞
米軍沖縄本島中部に上陸
上陸して進攻する米軍
ひめゆり学徒隊
◇S20.04.02の新聞見出し
 ”敵沖縄本島に上陸開始。南部地区に主力。敵を永久出血戦へ。”


 昭和20年4月1日朝、沖縄本島中部におよそ6万人の米軍が上陸を開始した。3ヶ月にわたる沖縄戦の始まりだった。

▼前沖縄県知事 大田昌秀さん(当時19歳 鉄血勤皇隊員)
「首里城から見ると、敵の軍艦が見渡す限り真っ黒に海上に浮かんでいて、海を覆っていたんです。首里城から見ると、米軍が上陸用舟艇でどんどん上陸してきて、こちらから一発の砲声も聞こえないんです。米軍が上陸したら、水際で叩き潰すといっていたのに。みんな、どうしたことかと。」

 昭和16年開戦当初は、太平洋の広範囲に及んだが、ミッドウエイ海戦を機に形勢は逆転、昭和19年6月にはサイパン、ガムを失い、日本本土はB29爆撃機の空襲圏内となった。昭和20年2月、米軍は硫黄島に襲いかかった。守備隊の抵抗は1ヶ月に及んだが3月22日には玉砕、日本軍は本土周辺の制空権、制海権を失った。

 米軍の次の目標は沖縄だった。日本本土上陸作戦の基地として、沖縄の確保は戦略上欠かせなかった。3月末、米軍の大船団が沖縄に集結した。続々と上陸する米軍に対し、沖縄守備軍10万は沈黙を守っていた。本土決戦の準備が整うまで一日でも長く持ちこたえること、それが守備軍の任務だった。
 米軍は上陸後わずか5日で中部地区を制圧、収容施設を開設し、占領地区の住民を収容した。そのため、30万人分の食料が用意されていた。

 4月11日、米軍は首里を目指して進撃、堅固な陣地を構える沖縄守備軍と激しい攻防戦が始まった。首里の南方にある横穴、ここが陸軍病院だった。戦闘が激しくなるに従い、運び込まれる兵士が増えていった。設備も薬品も満足にない状況で、傷病兵の看護に当たったのは、動員された女学生たちだった。ここの陸軍病院にはひめゆり学徒隊がいた。師範学校本科の2年生だった20歳の学生は、ひめゆり部隊で多くの仲間を失った。

▼ひめゆり平和資料館長 木村つるさん(当時20歳 ひめゆり学徒隊員)
「壕の中は、すごく大変な臭いでしたね。膿みの臭い、傷の腐る臭い、汚物の臭いなどが充満していました。勤務交代して、ほっとして壕の入り口に行って新しい空気を吸おうと出たとき、砲弾が落ちて亡くなったり、怪我したりした人がいました…。」

4月19日、米軍は戦車を先頭に大攻勢に出た。沖縄守備隊は、爆薬を抱えて肉弾攻撃を繰り返すが、じりじりと押されていった。  

★B29爆撃機、大都市の無差別爆撃開始
B29大都市無差別爆撃
焼き払われた大都市
子供たちの集団疎開
父さん母さんお早うございます
◇新聞見出し
”B29帝都を無差別爆撃。明治神宮消失。日本民族抹殺が目標”


米軍は3月10日の東京大空襲を手始めに、日本の大都市を焼き尽くす作戦を開始した。マリアナ諸島から発進したB29の大編隊は、東京、名古屋、大阪、神戸などの大都市に繰り返し爆弾の雨を降らせた。4月から6月までの3ヶ月間に、大都市の4割が焼き払われた。

▼俳優 大村崑さん(当時13歳)
「大人と一緒にトラックに乗って、棺おけに女性3人の死体を入れて、炭で「女3体」と書いて積み上げるのを手伝ったんですよ。死体は丸裸で女か男かわからないんです。焼き場は一杯で、学校の校庭に積み上げました。兵隊と坊さんが来て、油を巻いて燃やすんです。小学校6年生のとき、この目で見たんですよ、この目で…。」

▼女優 正司歌江さん(当時15歳)
「大火傷で倒れて家族を探している人、ワンワン泣いて「お母さん!」と名前を叫んでいる人で一杯でした。駅のそばまで来たら、電車のレールの上に、おばあさんがこうもり傘を持って座っているの。私は側に行って「おばあちゃん、夕べの空襲怖かったね」といって肩に触ったら、そのままコトンと倒れてしまったの…。」

▼シナリオライター 馬場當さん(当時18歳 海軍航空整備兵)
「横須賀から三沢に向かう途中上野に着いたらね、東京空襲で親を失った子供たちが一杯居て兵隊さん、何か食うものをくれと窓から手が入るので、自分たちの食料として持ってきた石油缶に入れた飯を、ホームにほおってやったの。そしたら、一斉にバーっと石油缶の飯に食いつきましたね。」

 昭和19年から始まった学童の集団疎開は、都市への空襲が激化したため、さらに延長された。親元を離れた子供たちのさびしい生活が続いた。

▼俳優 宍戸錠さん(当時11歳)
「おいみんな、家は焼けちゃったんだってよ。東京のお父さん、お母さんがいなくなって、どうする、みんな。誰かがしくしく泣き出したら、並んで大合唱の泣き声。今でも鮮烈な思い出として残っていますね。」

▼俳優 児玉清さん(当時11歳)
「疎開先の先生が、君たちの家はほとんど燃えてしまったというと、みんな万歳なんですよ。お国の役に立てたということですね。焼けない子が二人だけいて、まさにショボンとして仲間はずれですよ。まさに狂乱状態ですね。」 

★特攻作戦の実態
爆弾を積んで飛び立つ特攻機
飛び立つ特攻機を見送る
敵軍艦に体当たりする
義烈空挺隊
米軍新兵器で発砲
逃げ惑う住民
◇新聞見出し
”特攻隊、沖縄周辺の猛威。大型12艦屠る!空母など11隻撃沈”

 孤軍奮闘する守備隊のために、陸海軍ができるのは特攻作戦だけだった。爆弾と一体となった若者たちの特攻機が、つぎつぎと突っ込んでいった。沖縄戦では、12回にわたる特攻作戦が行なわれた。戦死した特攻隊員は2600人を超えた。

▼陶芸家 中里逢庵さん(当時21歳 航空機整備見習士官)
「特攻機は運転が未熟だから、ベテランの乗った先導機が沖縄まで先導し、目的地に着いたら特攻機を残して、帰ってくるシステムなんですよ。ところが、一機、250キロの爆弾を積んだまま帰ってきたことがあって、着陸の仕方は教えていないから、みんな逃げましたね。ところが、何とか無事着陸して、私のところに来て泣くんですよ。何とか死なせて下さいと言って…。」

▼裏千家前家元 千玄室さん(当時21歳 特攻隊員)
「みんな出撃前に遺書を書くんですが、「お母さん先立つことをお許しください」など、母親に当てたものが多かったね。上官は、二言目には貴様らはどうせ死ぬんだからと言うんですよ。みんな、しらけたところで、私が京都に向かって、「お母さん!」と叫んだら、みんな立って自分の故郷の方に向かって「お母さん!」と叫んでいるの。ぼろぼろ涙流して。死ぬのは怖い。しかし、口には出せない…。」


◇新聞見出し
”B29約100機九州へ、艦上機30機も来襲”


特攻機の前進基地は、主に九州にあった。米軍は、九州各地の基地と軍需工場に空襲を繰り返した。

▼映画監督 黒木和雄さん(当時14歳 航空機工場に勤労動員中)
「いつもの警戒警報が出て、工場から防空壕に避難するため歩いていた時、空から黒いものが舞い降りてきた。カラスかと思ったが、轟音と爆風で真っ暗になった。立ち上がった時、一緒にいた友人の一人が尻もちついて、頭蓋骨が割れて、脳漿が流れ出るのを見たんですね。防空壕の中で、お母さんと叫んで震えていたんですよ。」


◇新聞見出し
”義烈空挺部隊、敵中に着陸、北、中飛行場を夜襲。敵地施設を爆砕す”

 米軍に一矢を報うべく、特別任務を与えられた部隊があった。義烈空挺隊。任務は沖縄本島の北、中飛行場に強行着陸し、飛行機や基地を破壊した後、ゲリラ戦に入るものだった。
 5月24日、義烈空挺隊は、熊本の飛行場から沖縄に向け出発した。出撃した12機のうち、4機がエンジン不調で不時着、7機は沖縄直前で撃墜、残る1機がかろうじて飛行場に胴体着陸、米軍機9機を破壊した。
 米軍も大きな死傷者を出していたが、攻撃を緩めることはなかった。強大な火力と兵力で、陣地を一つ一つ潰していく。守備は大砲は残っていたが、砲弾が底をつこうとしていた。5月26日、守備軍司令部のある首里城の目前に迫った。沖縄の中学生や師範学校生で組織された鉄血勤皇隊も守備軍の一翼を担わされていた。

◇新聞見出し
”地上戦闘とみに急迫、那覇、首里に敵侵入”


▼元沖縄県知事 太田昌秀さん(当時19歳 鉄血勤皇隊員)
「首里から撤退するとき、箱型の機密文書を持って行けと命令されたが、体調が悪く途中歩けなくなった。指揮官は貴様歩けないならたたき切ってやると日本刀を抜いた。その時学友が戻ってきて、私の担いでいた箱を代わって持ってくれた。這うような格好で摩文仁(まぶに)についた。箱を開けてみたら、隊長の下駄まで入っていて、唖然としたですね。」


 司令部が撤退して4日後の4月31日、首里地区全域が米軍の手に落ちた。圧倒的物量を誇る米軍は、沖縄戦を優位に戦う一方で、日本本土への空襲を激化させていった。6月15日の大阪空襲をもって米軍の大都市への焼夷弾攻撃は第一段階を終了、以後、空襲は地方都市へと広がっていく。

★沖縄守備隊の最後
震える沖縄の子供
砲弾に倒れた人
米軍、沖縄の制圧終わる
◇新聞見出し
”本土決戦一億の肩にかかる。我々大陸作戦の利。挙国全戦力投入も可能”


▼俳優 佐野浅夫さん(当時19歳 肉薄攻撃隊員)
「爆弾背負って戦車の下に飛び込む。今で言えば自爆テロですね。その訓練ですよ。戦車の代わりにリヤカーを使っての訓練ですよ。あほなことを。」

▼画家 安野光雅さん(当時19歳 陸軍船舶部隊員)
「銃剣も鉄砲も弾もない。ズボンはいてレインコートを着ていた。上陸用舟艇を隠すところを作るのが当面の仕事。船といってもベニヤ板でできていた。こんなもので米軍の鉄の船とでは戦争にならない。しかしその時は、そういうことは考えませんでしたね。」

 沖縄の米軍は進撃を続けた。守備軍の兵力は、首里を脱出するとき5万だったが、退却の途中で2万を失う。軍と行動をともにしていた民間人15000人も犠牲になった。6月18日、負傷兵看護のため従軍していたひめゆり学徒隊にも解散命令が下された。

▼作家 船越義彰さん(当時20歳 地元青年)
「米軍の船から投降を呼びかけられた。「これから何分間か艦砲射撃を止めるから、泳いできてください」捕虜になった人が、「アメリカ兵は絶対殺しません。怪我した人には病院もあります」と。みんな行くなというのに、泳いでいった人がいた。そしたら、何のことない味方の陣地からバンバン銃を撃った。卑怯者ということでしょう。すると、アメリカ兵がボートを出して助けたんです。どっちが敵で、どっちが味方ですか…。

 6月19日、守備軍は指揮不能となり、中島司令官は、兵団ごとの戦闘を命令、6月21日には、陸軍大臣から決別の電報が届く。「貴軍の忠誠により、本土決戦の準備完了す」。6月23日、牛島司令官自決。沖縄守備軍の組織的戦争は、この日をもって終了した。沖縄におけるアメリカ軍の戦死者はおよそ1万2000人あまり、日本側の戦没者はおよそ18万8000人、そのなかで沖縄県民の犠牲は12万2000人に及んだ。
 この頃すでにアメリカは、原爆投下候補都市を選定。トルーマン大統領は、12月1日の九州上陸作戦を承認した。日本の破局が迫っていた。 

所感:
 昭和20年4月1日、沖縄中部付近の海上には、海が真っ黒に見えるほどの米軍の大船団が集結したという。沖縄には、一応10万の守備隊がいたが、それを迎え撃つ戦力も、兵器銃弾の補給力もなかった。本土決戦に向けて、なるべく長く時間を稼ぐのが任務とは!飛び立つ事しか習っていない、九州からの若者特攻機の自爆攻撃が、唯一の反撃とは!

 その間に、本土はB29のじゅうたん爆撃で、大,中都市中心に焼き尽くされた。大本営発表による新聞の見出しも、かなりの誇張がありそうだ。米軍が、日本民族を抹殺しようとしたとは思われない。これで本当に本土決戦ができただろうか。政府軍部の判断の甘さを考えざるを得ない。

 私とほぼ同年代の著名人による貴重な生の証言内容を、将来を見据えて、お互いきっちりとかみしめたい。そして後世に語り継ぎたい。 




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