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| 〜 国際社会と闘った男たち(1)〜 | |||
| 日本軍が、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争で、アメリカとの決定的な破局は、近代日本が進めてきた外交政策のパタンを示すものでもあった。真珠湾に至るまで、日本の外交はどのような道筋をたどってきたのであろうか。ペリーの黒船来航以後、日本は、考え方も風俗習慣も違う欧米列強と伍して、国際社会に乗り出し、その荒波に翻弄されることになった。 外国人の犯罪を裁けない不平等条約の改正に挑んだ明治の外務大臣陸奥宗光、人種差別の撤廃という理想を掲げて奮闘した大正の外交官牧野伸顕。揺れ動く国際情勢の中で、苦悩し奮闘した外交官たちの勇気、英断そして誤算。日本の命運と今までの道筋を担った外交官たちの決断を描く。 |
| 1.明治の陸奥宗光…不平等条約の改定 |
やがて日本は、明治維新を成し遂げ、新政府が誕生。近代国家の建設を急速に推し進めていく。しかし江戸時代から続いている不平等な条約は、残されたままだった。明治初年、13歳に満たない少女が、イギリス人に暴行されるという事件が起きた。この事件の犯人を、日本人は裁くことができなかった。担当したイギリスの裁判官は、6ヶ月の禁固刑という判決を下す。判決を聞いた日本国内の世論は沸騰した。「何としても、不平等条約を改正せよ」。それが、明治日本の悲願となった。しかし、西洋諸国は、日本をまだ法律も整備されていない未熟な国だと断定し、条約修正交渉の席に着こうとしなかったのである。 何とか、日本を西洋に追いつく国にしたいと、多くの日本人が海外に旅たった。その一人が、陸奥宗光である。 |
その時、陸奥40歳。寸暇を惜しんで、40の手習いに励む陸奥の心の支えとなったのは、日本に残してきた最愛の妻、亮子だった。亮子は没落した武士の娘といわれ、明治維新の後、花柳界で出合った二人は、程なく結婚。亮子は、陸奥にとってかけがえのない伴侶となり、政治闘争で獄中生活を送った時も、彼を支えつづけた。2年近くに及んだ陸奥のヨーロッパ滞在、その間に、妻亮子に届いた手紙は50通に及ぶ。 1886年、陸奥帰国。4年後、陸奥は、山縣有朋内閣の農商務大臣となる。陸奥が抜擢されたのは、イギリス仕込みの政治手腕を見込まれてのことだった。陸奥は、直ちに国内政治の混乱の収拾に乗り出す。そのために、陸奥がとった道は、たてまえばかりが先行する議会の場を離れ、反対勢力と直接本音で話し合うという方策だった。陸奥は、野党の代表と取引し、議長の席を譲ることで協力を取り付ける。現実を見つめ、合意と妥協の下に、政治を進めようとしたのである。 |
陸奥は、イギリス公使青木を通じて、イギリスと交渉を始める。しかし、予想どおり、イギリスの態度はかたくなだった。「日本は、まだ、法律が整備されていない。そのような国に裁判権を認めるわけにはいかない」と言うのである。法律の整備をどう進めるかで難航、陸奥は、毎日のようにロンドンの青木と連絡をとり、交渉の指揮をとった。 1894年、事態は、思わぬ展開を見せた。イギリスが態度を軟化させ、改正に応じてもよいと言ってきたのである。ただし、それには条件があった。「条約を改正するのであれば、改正後も、函館を貿易港として使用することを認めよ」。このイギリスの要求の裏には、緊迫する国際情勢があった。当時ロシアは、シベリア鉄道を建設し、極東進出を進めていた。アジアにおけるロシアの強大化を恐れたイギリスは、函館を貿易港として確保し、これに対抗しようとしたのである。陸奥は、決断を迫られた。「函館の条件さえのめば、条約改正に応じるに違いない。この国は、この千載一遇の好機を逸してはならない」。6月21日、陸奥は、ロンドンの青木公使宛に打電する。「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と。7月14日、ロンドンから返電が届いた。それは、イギリスが、不平等条約の改正に応じると言うものだった。 1894年(明治27年)7月16日、ロンドンで、それまでの不平等条約に代わる、日英通商航海条約が調印された。以後、日本は、アメリカとも同様の条約に調印したのを手始めに、ドイツ、イタリア、フランスなどとも、同様に条約を改正。陸奥外務大臣の時代に、15カ国すべてと条約改正を成し遂げ、欧米諸国と対等な立場にたつ礎を築くことになった。偉業を成し遂げた陸奥は、次のような言葉を残している。「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と。 |
| 2.大正の牧野伸顕…人種差別の廃止 |
1919年1月11日、日本代表団はパリに到着。会議の主要な議題は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本のいわゆる5大国で開く首脳会議によって決定されることになっていた。その5大国を牛耳っていたのは、アメリカ大統領トーマス・ウイルソンである。ウイルソンは、講和会議の場に、それまでの歴史になかった全く新しい提案を持ち込んた。世界の平和を維持する機関として、国際連盟を設立しようと言うのである。 ウイルソンの提案に対し、各国の代表は、次々に意見を述べる。質問の矛先は、日本の代表牧野にも向けられた。牧野は困惑した。パリ会議は、あくまでも戦争の後始末であり、列強各国の利権争いや植民地の分割が重要な議題であろうと思い込んでいた日本代表団は、国際連盟という全く新しい発想に対して、どうかかわるべきか、何ら具体的な方策を考えてきていなかったからである。有効な発言ができないまま、会議から取り残される日本。やがて、サイレント・パートナー(沈黙の隣人)と揶揄されるようになる。 国際連盟に対して、日本として、何か画期的な提案を盛り込むことができないか。連夜、資料と首っ引きで頭をひねった牧野は、やがて、人種差別廃止という理念を、国際連盟の規約に盛り込んではどうかと言う提案を思いつく。 |
1919年2月13日、牧野は、人種差別廃止という画期的な提案を胸に秘めて、会議の場に望む。ところが、この日、議長のウイルソンが、国際連盟について議会の協力を取り付けるため欠席。代わりに議長を務めることになったのは、イギリス全権の一人、ロバート・セシル。牧野が提案するや否や、セシルは猛反対した。人種差別廃止は、イギリスの国益に反するからである。当時、イギリスは、アジア、アフリカに多くの植民地を有していた。人種差別廃止の規約とあれば、イギリスは、有色人種の人々に、イギリス人と同等の権利を認めざるを得ず、ひいては、植民地の独立を招くことになる。議長セシルは、採決の必要なしと断定し、日本案を却下する。 そんなある夜、アフリカのリベリア人が牧野を訪れ、「人種問題で奮闘くださってありがたい。自分たちの迫害を受けている実態はこうだ。しっかりやって欲しい」。また、アイルランド人の女性がきて、「自分の国は、イギリスから歴史的にひどい目にあっている。我々の境遇を察して演説してもらいたい」と牧野に頼んだ。日本が提出した人種差別廃止案は、はからずも、大きな反響を呼んでいたのである。 |
日本側の読みはあたった。賛成をためらっていた各国のうち、まずイタリアが日本案に賛成を表明、続いてフランスも賛意を表す。相変わらず反対のイギリスを除き、会議の大勢は決していた。ところが、議長ウイルソンは、「民族平等の原則は、すでに連盟の基本的原則になっている」と言葉を濁して、採決を渋る。日本の人種差別廃止案に反対する国内世論を気にしたウイルソンは、賛成するわけにいかなかったのである。「ここで、ごまかされてはならない」。牧野は言い放つ。「この案は、日本国民のゆるぎない意思である。採決を」。ウイルソンは、しぶしぶ採決を取った。賛成は、日本、フランス、イタリア、中国など11票。反対または保留は、イギリス、ポーランドなど議長を除いて5票。11対5で、日本案の圧勝であった。 その時、議長ウイルソンの口から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。「日本の提案は、成立しなかった。全会一致の賛成が得られなかったので、採決されない」と。会議は騒然となった。「これまでは、すべて多数決だったのに、なぜ、今回に限って全会一致を必要とするのか」と言う牧野の抗議に対し、ウイルソンは平然と答えた。「このような重要な問題は、全会一致でなければならない」。間発をいれず、ウイルソンは、否決を宣言した。牧野は、「日本案に対し、過半数の賛成票があったことを、議事録に記述するよう希望する」。これが、ウイルソンに対する牧野の精一杯の抗議だった。 1919年6月28日、パリ郊外のベルサイユ宮殿で、26カ国が講和条約に調印。国際連盟は、国際条約の第1条において、設置を宣言される。しかし、その後、国際連盟を提唱した当の国であるアメリカが、「議会の反対を理由に不参加」を表明。国際連盟は、当初の理想とはかけ離れた形で成立せざるを得なくなったのであった。 |
世界の荒波にもまれながら、初めて国際社会に乗り出した日本。、明治時代の陸奥が、長年の懸案だった各国との不平等条約を解決、大正時代の牧野が、第1次大戦の講和会議に5大国の一員として出席、人種差別廃止の提案をし、多数決を勝ち取った。これら日本外交官の勇気と英断はすばらしいものと言わねばならない。 それに対し、植民地の利権にしがみつき、人種差別廃止に反対するイギリス。議長国アメリカが、不意に全会一致でないとして人種差別廃止案を否決したり、自ら提案した国際連盟に結局不参加を表明するなど不可解な行動が目に付く。この雰囲気が、昭和の時代に引き継がれていったのだろう。 そういえば、アメリカのこれら自己中心とも見える行動が、平成の今でも、ちらほら見える気がするのは残念なことである。今の外務省は、小さな利権などで、ごたごたしている場合ではない。 |
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