「きみはヒロシマを見たか」
〜広島原爆資料館〜

(昭和57年(1982年)8月、NHKテレビ放送より)

 広島市の中央部にある平和記念公園の一角に、原爆資料館がある。原爆の爆心地だった場所に、世界に向かって核の悲惨さと平和の大切さを訴える記念の場所として造ったものである。昭和30年に開館した資料館には、原爆のすさまじさを証言する被爆者の遺品やさまざまな被爆資料が集められ、私たちに原爆許すまじを訴えている。館長ほか被爆者たちのすさまじい生の体験を、声と貴重な写真を見ながら原爆の実態を考える。              

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■世界初の原爆投下
広島原爆リトルボーイ(3m)
広島上空で炸裂した原爆
三位一体の遺品
御幸橋の被爆者たち(1)
御幸橋の被爆者たち(2)
 平和公園の入口にひときわ目に付く建物、これが広島平和記念資料館、通称広島原爆資料館である。人類初めての閃光を広島のあの日を物語る被爆資料がこの建物に収められている。被爆資料は6000点にも上り、そのうち600点が常時展示されている。
 資料館の最初の展示物は、広島型原爆リトルボーイの実物大の写真である。リトルボーイ、小さな少年と名付けられたこの一発の原爆が、広島を変えたのである。

 昭和20年8月6日、リトルボーイを積んだB29がテニアン島を飛び立った。資料館に保存された時計は8時15分を指して止まっている。当時は会社の始業時刻は8時、人々が働きだしたばかりの時刻だった。原子爆弾は原爆ドーム近くの上空550mで炸裂した。市街地は一部の鉄筋コンクリートの外側だけを残して、木造家屋はすべて全壊、全焼した。当時、日本で7番目の大都市、広島の人と物のすべてが壊滅した。原爆は、強烈な熱線と爆風と放射能によって、恐るべき被害をもたらしたのだ。

 この日、広島市立中学校の生徒のうち、1,2年生350人は建物疎開の仕事に従事、学校では1年生1クラスが登校日、いつものように校庭で朝礼を受けていた。高橋原爆資料館館長もその一人だった。爆心地から1,4kmにあった校舎は、一瞬で押しつぶされ、全焼した。また、爆心地から800mの所で建物疎開に当っていた生徒の殆どが亡くなった。遺骨の代わりにわずか14点の遺品が、資料館に残されただけだった。

▽高橋館長:
 「ここにある遺品は、私の学校、広島市立小学校の生徒のものです。私達はこの遺品を三位一体の遺品と呼んでいます。3人の遺品でやっと一つの資料として形作られています。帽子とバンド、学生服とズボン、ゲートルそれぞれ別人のものです。私は学校で被爆したが、彼らは爆心に近いところで動員学徒として作業をしているときに、被爆して死んでいったのです。私は、この3人の遺品の前に立つのが、最もつらい気持ちがします。」


 5枚の写真が展示されている。これは中国新聞の松重カメラマンが撮影したもので、当時市内で撮影されたのは、この5枚だけだった。ここには、傷ついた被爆者、火傷した被爆者の姿が写し出されている。そのうち2枚には、動員学徒たちの凄惨な姿が写されている。

▽松重カメラマン:
 「これは爆心地から2,5kmの御幸橋の所での写真です。子供たちの皮膚は火傷でズルッと向け、破れて垂れ下がっていました。はだしで足の裏も火傷、橋の両側にびっしりとうずまるくらい、並んでいました。これにカメラを向けるのは、仕事とはいえ残酷なことでしたね。」

▽ある婦人
 「セーラー服を着ているのが私です。地獄でしたね。お化けのような人が、橋の方からみな両手を挙げてどんどん逃げてくるんです。皮膚をぶら下げて。着物がぶら下がっていると思ったんですが、皮膚でした。髪は総立ち、黒焦げの子供を抱いて、揺り起こすように泣き叫んでいました。」

■熱線による被害
石段に残った人の影
座っていた人と石
被爆直後の人の再現
 原爆は、炸裂直後直径280mの火の玉となり、そのため爆心地では、爆発から3秒間、鉄を溶かす温度を遥かに超える4000度前後に達したものと推定されている。瓦はいずれも表面が溶け、酸素などの気体が抜け出て泡状になった。

 一瞬の閃光は、さまざまな物の表面に遮蔽物の影をくっきりと残した。爆心地から280mの住友銀行ビルの、花崗岩でできた石段の上に影がある。人が座っていたため直射を受けなかった部分が影となって残った。人の影である。この石段に焼き付けられた人の影は、年々薄くなっている。
 この蒸発したといわれる死の影の主を、私が運んだという人がわかった。

▽遺体収容に当った中島さん:
 「手は丸こげ、皮膚は垂れ下がり、顔は真っ黒。休んでいる状態でした。その遺体を抱きかかえて、収容所の方に持っていきました。おそらく女性だと思います。」

▽影の人の娘さん:
 「これが石段の破片です。私の母が石段に座っているのを見ていた近所の人がいました。ピカが落ちる5分くらい前だったそうです。遺骨がないので、代わりに石段の石を、銀行からもらいました。」


 強烈な熱線は爆心地からおよそ2km以内は全焼、熱線ではかろうじて一命を取り留めた負傷者たちも、炎の中で焼け死んでいった。また3kmの範囲では、衣服や木などは自然に発火し、燃え上がっている。衣服をまとっていない人の皮膚のやけどは、3、5kmにまで及んでいる。

 やけどの治まったあと1ヶ月から3ヶ月で、盛り上がりケロイド状になった。10代の子供たちに、最も多くケロイドが発生したといわれる。資料館に展示されている蝋人形は、被爆直後の人の姿を再現したもので、手から垂れ下がっているのは、焼け爛れた皮膚の一部である。幽霊のようと言われた所以である。

■爆風による被害
爆風で切断された鉄骨
顔に刺さったガラス片の摘出
資料館の建った被爆中心地
 原爆のエネルギーの35%が熱線に、50%が爆風に使われたと分析されている。爆心地から380m7階建ての鉄骨の建物が、強烈な爆風の圧力により切断された。この鉄骨には、1uあたり20トンを超える圧力が加わったとされる。

 爆心地から1kmの所にあった避雷針は、爆心地の方向に曲がっていた。アメリカの行なった実験によると、原爆の爆発とともに爆発点は数10万気圧になり、周りの空気が大膨張して爆風となる。爆風が外に広がるにつれて内部の圧力が逆に下がり、爆風が爆心側に吹き返す現象が起きる。この避雷針は、爆風の引き戻し現象の貴重な資料となった。

 爆風による被害で見逃せないのは、ガラスの破損によるもので、遠く27kmまで及んでいる。爆風により無数のガラス片が人々の体に食い込んだ。戦後長い間、被爆者の体に食い込んだままになっていたガラスのかけらが多かった。

▽被爆者(女):
 「被爆して怪我したときはわからなかったんですが、何年か経って顔のほうから小さなガラス片が、砂のような形で大分出てきました。2cm以上の大きなものが数個、頬から出てきました。左目は失明してしまいました。」

 昭和20年12月、アメリカが10数名にインタビューした声のテープが、持ち帰って保存されている。
▽全滅した市立高女の宮川校長と思われる声:
 「たくさんの生徒たちは、眼球がとび出し、口は爆風のために裂け、顔も頭の毛も焼け、体中の着物も焼けて、一瞬で丸裸になっていた。みんな道路や川渕に倒れて死んでいました。地獄の様相だったね。」

 こうして子供たちの遺品が、原爆資料館に数多く保存されることになった。この原爆資料館が建っている所は、あの日、市内で最も多い動員生徒が犠牲になった所である。

■放射能による被害
白壁に残った黒い雨
脱毛した頭髪
黒い爪
原爆資料館
▽館長:
 「この白い壁は爆心から3,7kmにあった民家の土蔵に降った黒い雨の跡です。この黒い雨には、非常に多くの放射能と砂塵が含まれていました。これによって多くの被爆者が無残にも死んでいきました。原爆の特徴は、この放射能による被害なんですね。友人も体にあおぶくれの膿が出、口、鼻からも血膿を出して死にました。私自身も家に帰って3週間は失神状態でした。」


 放射線は骨髄など造血組織を破壊し、歯茎や皮膚の出血班が数多く見られた。21歳の兵士も皮膚に出血班が現れ、2時間で亡くなった。外傷がなく比較的元気だった人たちも、被爆後2〜8週間の間に髪の毛が抜け落ちる現象が起こった。資料館には当時脱毛した頭髪が展示されている。

▽当事者の山下さん:
 「突然熱が出て床につきました。猫の毛みたいなものが床についているので、頭をなでたらさらさらと髪が落ち、びっくりして母が3度ほど櫛を入れたら、そっくり抜けたんです。資料館にあるものです。当時髪が抜けたらだめだといわれていたので、絶望感におそわれたのを覚えています。」

 この山下さんは、その後、原爆後遺症による甲状腺がんに苦しみ、これまで3回の手術を受けてきた。今も再発の恐れがあるため、2週間に一度の病院通いを欠かせない。原爆病院21年間の入院患者のうち、4人に一人が癌だった。黒い爪の生えた人もいる。なぜか血管が通っていたため切ることができず、切ると鮮血がとび散ったという。

▽高橋館長:
 「原爆資料館を訪れる若者たちには、戦争や原爆は遠い昔話であるとか、あの時代に生まれなくてよかったというものが多い。しかし、今の核兵器は私たちの受けた原爆とは全く比較にならないほど、質、量ともに発達しています。今まさに世界の人類は核恐怖の時代の中にいることを、しっかり自覚しなければならないのです。」

 「みなさん、広島の原爆資料館をじっくり見てください。そして被爆の実態に直接触れていただき、すべての核兵器が、1日も早くこの地球上からなくなることに、共に力を尽くそうではありませんか。このような資料館が、絶対、二度と造られてはならないのです。」

所感:
 33年前に制作された番組であるが、現在でも、高橋館長をはじめ、たくさんの被爆者の証言が生々しく心に響く。若い人々は、原爆資料館に保存されている遺品や被爆資料を、是非見て日本の過去を振り返り、これからの世界を考えてほしい。

 館長の言われるとおり、広島原爆と今の核兵器では質も量も比較にならないくらい厳しい。しかも、B29による絨毯爆撃もさることながら、原爆は無差別爆撃の最たるものである。今どこかの国で核兵器を使ったら、地球は破滅しかねないのが現状だ。北朝鮮をめぐる6ヶ国会議での核兵器の廃棄の議論も、まだまとまりを見せていない。

まもなく、広島原爆投下60年目を迎える。言われて久しいが、唯一の被爆国日本が、世界の核兵器廃絶と被爆体験の風化防止に向けて、より積極的な働きを期待したい。
                                  (平成17年8月5日 記)


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