アメリカ被爆兵士の告白

 1946年から1962年にかけて、アメリカでは、300回もの核実験が行われ、多数の兵士が、モルモットのように実験に立ち会わされた。
 比較的爆心地に近い地上や塹壕の中で被爆した人、爆撃機から核爆弾を投下した人、軍艦上で水中や大気中の核爆発を体験した人など、陸海空の兵士たちが、今、当時の体験を語る。

 彼等の多くは、あの実験によって、どうして肉体的にも精神的にも、終わることなく自分たちが苦しめられ、我が子まで苦しめられるのか疑問を抱いている。

無防備の兵士たち
2キロ離れた塹壕の中で
核爆発の瞬間
熱い地面を歩いて爆心地へ
被爆した飛行機
豚の死骸を集める
元アメリカ陸軍 ロン・ドラン:
 自分から進んで、モルモットになったわけではありません。上層部は、各部隊から何名かずつ無作為に選んだといっていました。核実験についてのオリエンテーションがあるので、出席するようにといわれました。事故がおきても訴えないという誓約書のようなものに、サインをさせられました。拒否すれば、軍法会議にかけられると思い、サインしました。

 当日現場に行くと、仮説テントが張ってあり、実験について大尉から説明がありました。彼は、「君たちを、危険にさらすようなことは絶対しない」といいました。どのくらい放射線を浴びるのか、一人が質問すると、「レントゲン写真を撮るよりも、少ないくらいだ」と答えました。そんなわけはない、それくらいはみんな知っていました。次の日の朝、私たちは、トラックに載せられました。確か、朝の4時くらいだったと思います。そこから40キロほど移動しました。そしてまもなく爆発が起きました。朝5時20分、まだ夜明け前でした。爆発のとき、私たちは、爆心地から2キロほど離れた塹壕の中にいました。体を守るようなものは、何一つ与えられませんでした。ただ、うずくまって目を閉じ、手で目を覆うように言われました。爆発の瞬間、あたりは昼間よりも明るくなり、目を覆う自分の手の骨が、透けて見えました。すぐに衝撃が、襲ってきました。一端通り過ぎたあと、山にあたって跳ね返り、一度目より強い衝撃が戻ってきました。

 上空のヘリを見ながら、私たちは、演習のため爆心地に近づいていきました。まだ半分も行かないうちに、足が熱くなり始めました。ブーツを見ると、靴底が熱で丸まって、剥がれかかってました。それほど地面が熱かったんです。実験場では、レンガの家が2軒と新車が数台、一定の間隔で配置されていました。羊や豚、牛もいました。私たちは、爆発でできた穴から180mほどの場所につき、あたりを見回しました。レンガの家は、跡形もなく消え去っていました。羊の毛は燃え、豚はキーキーなきながら、走り回っていました。右手方向には、豚の死骸がころがっとぃました。実験のために植えられた木、車や家の中に置かれたマネキンなど、すべて跡形もなく消えていました。それを見届けてから、私たちは、トラックに戻りキャンプに帰りました。

 キャンプでは、ガイガーカウンターを持った兵士が待っていて、私の体を軽くなぞりました。最初のうちは、どれだけ被爆したかを計るフィルムバッジを、身につけていました。しかし、その後の実験では、もうつけていませんでした。私の任務は、核爆弾の威力を測定する、準備をすることでした。車など所定の位置に配置し、実験が終わると、それを改修してキャンプに持ち帰リました。キャンプでは、科学者たちが、どこにおいてあったものがどのくらい被爆し、どのくらい破壊されているかを調べていました。私たちには、放射能から身を守るものは、一切与えられませんでした。
ニュースキャスターが、取材にきていました。彼らマスコミは、13キロも離れたところにいて、目を守る大きなゴーグルをつけていました。私たちには、何も渡されていなかったのに。何もです。

 実験のあと、私は肺をやられ、胃から出血しました。関節炎、胆嚢の障害、尿路疾患、心臓も悪くなり、発作をおこしたこともあります。あの実験で、モルモットにされた翌日、歯茎から出血しました。2週間後には、歯がぐらぐらし始めて、指で触るとポロっと抜け落ちてしまいました。7本もの歯が抜けました。胃の調子はどんどん悪くなり、大量に出血したため、手術を受けました。胃潰瘍だといわれました。それまでは、どこも悪くなかったんです。

 これまで、たくさんの人に、この話をしてきました。でも、みんな肩をすくめて、受け流すだけでした。私たちの政府が、そんな事をするなんて、とても考えられない、作り話だと。

墓場への疾走
空中での核爆発
きのこ雲の下部
きのこ雲の上部
元アメリカ空軍 トム・サリバン:
 私は、爆撃機RBー36に乗っていました。RB−36は、爆弾そうのうち、2つが撮影用に改造された特殊なものでした。実験の日は、30時間ほど飛びつづけました。編隊は、全部で10機、測定をしながら、ネバダ州に向かいました。150mの高度差を保ちながら、5機ずつに分かれて飛びました。私は、左側の列の最後尾につき、高度13000mで飛行しました。そこに原子爆弾を積んだ爆撃機B−50が合流してきました。予行演習を行った後、いよいよ爆弾の投下に向かいました。

 爆撃機内の会話は、レシーバーから聞こえていました。もちろん、B−50の爆撃主の声もです。彼のコードネームは、プレイボーイでした。いよいよ爆弾投下をするとき、彼は言いました。「こちらプレイボーイ、これから墓場への疾走を行う」それが本番への合図でした。ほんの数分前のことのように、はっきりと覚えています。彼は、秒読みをはじめました。「5,4,3,2,1…この野郎」。爆弾は落ちませんでした。原因はわかりません。思わず、顔を見合わせました。一体どうなるんだ。爆撃主は、何とか手動で落としましたが、明らかに予定外のところに落ちていきました。地上360mで爆発するはずが、それより数百mも上空で爆発しました。

 爆発地点を見下ろすと、ちょうど、きのこ雲が形成され始めるところでした。オレンジ色の、巨大なバスケットボールみたいでした。それはどんどん大きくなって、次第にこっちにせまってきました。衝撃波は、2度受けました。1度目は、爆弾が爆発した瞬間、そして2度目は、地面にあたった衝撃波が跳ね返ってきて、機体にぶつかったときです。私の乗った機は、カメラを積んで最後尾についていましたから、Uターンしてくる頃には、きのこ雲に達しているという予測でした。でも実際は、きのこ雲は18000mに達し、さらに上昇を続けていました。司令官は、きのこ雲の中は通らないといいました。あの決断には感謝しています。きのこ雲の周囲を旋回し、中は通りませんでした。

 基地に戻ると、すべての飛行機が、水で洗われました。それから乗組員全員が検査を受け、機内からは、測定器が運び出されました。新聞には、この実験のことが記事に載りました。大成功だったと。しかし、本当のところは、大成功とはいえなかった。

溶けた戦車
爆発で首の後が焼かれるように
巨大なきのこ雲が
戦車の変わり果てた姿
吹き飛ばされた飛行機
元アメリカ陸軍 パット・キャンベル:
 キャンプ、デザートロックは、見渡す限りの砂漠でした。到着後私たちは、車両を止めて、テントを設営しました。やがて、別の部隊がやってきました。そして、私たちのテントの隣に、同じようにテントを設営し始めました。キャンプにやってきたのは、陸軍の部隊ばかりでした。あまり仕事はなかったのですが、私たちは、パトロールを割り当てられました。軍需品を輸送する鉄道の終点、ラスベガスまでのパトロールです。

 実験のとき、私たちは、爆弾が投下される地点を凝視していました。爆弾が飛行機から投下される直前、後ろを向いて座り、膝を立て、手を頭の後ろで組むように言われました。爆発の瞬間、首の後ろは、ガスバーナーで焼かれるように熱くなり、次に、すごい圧力がのしかかってきました。興奮したのか、一人の兵士が、爆発の直前立ち上がりましたが、風圧で地面にたたきつけられました。爆発がおさまるまで、私たちは、爆心地に背を向けていました。やがて振り返ると、そこには、巨大なきのこ雲がそそり立っていました。あの雲は、とても美しかった。あらゆる色が、ほとばしり出ていました。きのこ雲は上昇を続け、そのてっぺんは、氷に覆われて輝いていました。

 実験場の爆心地一体には、飛行機や戦車が、距離や角度を変えておかれていました。爆発のあと、データをとるためでしたが、大抵は熱すぎて、側には寄れませんでした。爆発の威力で、爆撃機の向きが変わっていたこともありました。爆心地のほうを向いておかれていたのに、90度向きが変わっていたのです。一番驚いたのは、戦車の変わり果てた姿でした。爆発のあとで戦車を見に行くと、回転する砲台が溶け、底の部分とくっついていたのです。爆風と熱で、戦車が一つの鉄の塊にと化していました。

 ある日私は、二人の隊員といっしょに、ジープに乗り込みました。実験のために置かれていた、戦車を見に行ったのです。司令官の車も一緒でした。途中でガイガーカウンターの針が振り切ってしまいましたが、隊員たちは、戻ろうとはしませんでした。

 現場から戻ったとき、私はフラフラになっていました。身につけていたフィルムバッジを取り上げられ、しばらくキャンプから隔離されました。

 私たちは、実験の作戦名すら明かされていませんでした。あんなに多くの核実験が行われ、大量の核爆弾が使われていたことさえ、知らなかったんです。後で、記録を見て知ったんですから。当時は、何も知りませんでした。

巨大なきのこ雲
爆発の衝撃で揺れる船
水中爆発で海面が盛り上がり
海面から離れた巨大なきのこ雲
上へ上へと伸びる塊
元アメリカ海軍 グレッグ・フォレスト:
 ハードタック作戦が行われたとき、私は、戦艦レンビルで甲板員をしていました。爆心地から10km離れた地点で、水中実験、大気圏実験を含め、一連の実験に立ち会いました。

 爆心地一体には、駆逐艦と思われる船が3隻並んでいました。1隻目は爆心地から1.5km地点に、2隻目は3km地点に、3隻目は5km地点に置かれていました。爆発のとき、私たちは、爆心地に背を向け、両手で目を覆うように言われました。爆発の瞬間、1.5km地点に配置された船が、突然飛び上がりました。一瞬、船体の下に水平線が見えたんです。船は落下し、そのまま見えなくなりました。続いて3km地点においてあった船も飛び上がりましたが、1隻目ほど高くは上がりませんでした。落下して大きく揺れながら、沈んでいきました。爆発のあと浮いていたのは、5kmはなれた船だけでした。

 実験は、その後も続きました。戦艦の大砲の側にいた私は、爆心地に背を向け、目を手で覆うように言われました。とにかく、それ以外に、身を守る方法は、何一つなかったんです。爆発は、7秒半ほど続いたと思います。ものすごい衝撃が、私たちを襲いました。私は、座っていた場所から、吹き飛ばされました。激しい衝撃を受けて、デッキまで転げ落ちたんです。それでも、すぐに飛び起きて、船を移動させました。船体に、ひびが入ったこともあります。水中実験のときです。水中実験では、爆発の瞬間は見えませんが、衝撃はすぐに感じます。爆発の直後、私は、数mも吹き飛ばされたんです。つけていたレシーバーも、どこかに行ってしまいました。自分の体は、全くコントロールできない状態でした。

 その時誰かが、海面が盛り上がっているぞと叫びました。目を凝らしてみると、確かに、少し膨らんでいる個所がある。そのふくらみは、見る見る盛り上がっていきました。大きく、大きく、大きく、そして塊となって海面から離れました。塊の底には、巨大な柱のようなものがあって、あらゆるものを吸い上げながら、上へ上へと伸びていきました。あれほど美しいものは、見たことがない。オレンジ、黄色、紫、緑、塊はいろんな色に輝いていました。私は思いました。ミケランジェロだって、こんな絵は描けないだろう。それは、美しいと同時に、この世でもっとも恐ろしいものだったんです。

 一端、放射能に犯されてしまったら、一生汚染されたままです。墓場に行くまで、汚染されたままなんです。私には、3人の子どもが生まれました。エニウエトクでの実験のあとです。上の娘は、10代のとき、心臓に穴があいているのがわかりました。次の娘も、心臓の弁に障害が見つかり、末の子は、知的障害の疑いがあります。

 私は、どんな形であれ、アメリカの役に立ったと誇りに思っています。ただわからないのは、どうして私たちを、終わることのない苦しみにさらしたのか。肉体的にも精神的にも、あの実験は私を苦しめ、私は、わが子を苦しめています。

作成者所感:
 昨年だったか、アメリカで模擬核実験をコンピュータ・シミュレーションで行い、核実験も進歩したものと、ある意味で感心したものだ。しかるに、広島、長崎に核爆弾投下後、15年以上もかけて行った各種核実験に、アメリカ軍兵士が、人体実験のように立ち会わされていたことは、始めて知った。
 それから40年以上たった今、彼らのナマの告白が、アメリカのプロダクションによって、明らかにされたことに、まず驚かされた。被爆した彼等の多くに、本人のみならず、子どもたちの世代にまで被爆の影響を受けている人がいる。放射能の本当の怖さは、被爆本人はもちろんだが、遺伝子レベルでの次世代への影響にあるような気がする
今になってアメリカは、世界の意向に反して、包括的核実験停止の批准を拒否するらしいって?


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