一兵士の従軍記録
〜祖父の戦争を知る〜

一人の兵士が、戦場で書き記した日記が残されている。昭和9年から昭和20年まで、日中戦争から太平洋戦争までの期間のうち、3度にわたり従軍した、述べ6年間の出来事がつづられている。そこには、激しい戦闘、厳しい軍隊での生活、兵士たちのゆれる心などが、克明に記録されている。日記を書いたのは、山本武さん。そこからは、一人の善良な農民が、苛烈な戦場の中で、平然と人を殺せる兵士に変わっていく姿が浮かび上がってくる。武さんは、戦場でどのような体験をし、戦後、その記録とどう向き合ったのか、そして、子や孫たちは、その思いをどのように受け止めようとしたのだろうか。

◆武さん2度目の招集
武さんの書いた陣中日記 許婚のはるえさん
出発する汽車の窓から 日の丸の旗に見送られて出発
昭和12年、1937年7月7日、北京郊外、盧溝橋でおきた日中両軍の衝突をきっかけに、日本と中国は、全面戦争に突入していった。戦場は、やがて中国全土へと拡大していく。日本から、健康な男子が次々と兵士として招集されていった。武さんが2度目に招集されたのは、昭和12年9月、当時24歳だった武さんは、町の青年会長を勤め、地域の若者のリーダー的存在だった。
武さんの日記。
「9月10日早朝、ついに私にもきた。いわゆる赤紙、召集令状である。この日のあることを、早くから期しているものにとって、特別な感激もなく、悲惨な覚悟とてもわかない。全く淡々とした気持ちで、午前中は親子3人で、稲刈りに出る。午後はやめにして、かねてから動員が降りたら、すぐ知らせるからとの約束もあり、許婚のはるえの家を訪ねる。」

武さんは、陸軍歩兵36連隊に入隊した。武さんは、短期間の訓練を受けた後、およそ1000人の兵士たちとともに、中国を目指して出発した。
苦戦する上海の戦況
行軍する36連隊 本格的な戦争に
クリークに浮かぶ死体 砲弾の恐ろしさを書く日記
火を噴く迫撃砲 ふるさとを思いをはせるひと時
大阪から船に乗った36連隊の目的地は、日中が激しい戦闘を繰り返していた上海だった。当時上海の日本軍は、中国の精鋭部隊に、苦戦を強いられていた。抗日の機運が高まる中で、中国軍の兵士たちの士気は旺盛だった。強固な陣地と、日本軍を遥かに上回る兵力、中国軍の頑強な抵抗の前に、戦線はこうちゃくしていた。36連隊は、そうした戦況を打開するための増援部隊として送り込まれたのだ。武さんは、上陸直後から、戦争の厳しさに直面する。

「9月30日、上海に上陸するや、落雷のごとき砲弾の炸裂する轟音に、まず肝を冷やされる。重い背嚢を負い、汗と埃にまみれながら行軍する。水筒の水は、瞬く間に飲み干して、のどは渇き口中は粘る。左側のクリーク内いたるところに、腐乱した敵兵が浮かんでいて、悪臭が鼻をつく。クリークの水は飲んではいけないとの再三の命令、かまわず飲もうと思うが、死骸の浮いているのを見ると、やはり手が出ない。」

上海に上陸してから10日後、武さんは、初めて本格的な戦争を体験する。手記には、次々と戦死していく戦友たちの姿、どうすることもできない武さんの悲痛な思いが記されている。
「10月9日、あまりのことに驚き、茫然自失、冷水を浴びたるような寒気を覚え、藪は重症危篤、川合は頭部を貫通され、どんぶりとひっくり返る。鼻や耳から鮮血がほとばしり、脳みそもはみ出て即死である。ああ、なんと悲惨なことであろうか。目前に、数10名が亡くなり、あるいは傷ついて倒れているが、収容するすべがなく、ただ悔し涙に咽ぶのみである。」

次々と死んでいく戦友たち、武さんの心の中には、やがて、中国兵に対する怒りや憎しみが渦巻くようになっていく。上海上陸から約2週間、激しい戦闘の後の、つかの間のひと時、武さんは、ふるさとに思いをはせることがあった。
「10月13日、ちょうど1ヶ月前、はるえと二人で映画を見に行き、話し合った思い出の日である。狭い壕の中で、遥かな彼女のことを思ったり、ふるさとの家族の顔をしのんだり、今ごろは稲刈りで、どんなに忙しいことだろうなどと思いながら寝転んでいる。夜に入って、また迫撃砲の集中砲火を受ける。」
中国兵への憎しみの戦争実態
一休みする日本軍 ぬかるみを歩きつづける
激化する市街戦 憎みても余りある
武さんの部隊は、多くの戦死者を出しながらも、中国軍の陣地を一つずつ攻略していった。武さんは、徐々に日常の感覚を失っていく。
「10月14日、朝早く裏のクリークに飯盒炊さんに行く。クリークはどんより濁って青みがかった汚水であり、そこにだんだん腐乱していく敵兵の屍が浮いており、それを向こう側に押しやって水を汲み米を研ぐ。向こう側の兵は、その屍を、またこちらへ押しやるといった状態であり、内地では想像もできないこと。」

武さんの部隊は、中国軍の防御の頼みとする河川やクリークを突破し、占領地域を広げていった。それに伴い、捕虜となる中国兵の数が多くなっていく。武さんは、ある日、上官が捕虜を殺害する様子を目撃する。
「11月1日午後8時過ぎ、部落に入り、歩哨を立て一夜を明かす。夜半、中国軍正規兵1名を捕まえる。朝、小隊長が軍刀の試し切りをすると、竹やぶの中に連れて行き、白刃一閃ひらめき、敵の首は斬り落ちるかと見ていたのに、手元が狂ったのか、腕がまずいのか、刀は敵兵の頭にあたり血が出ただけで首は跳ばない。慌てた小隊長殿は、刀を振るって滅多打ちにし、やっと殺すことができて、見ていた我々もほっとする。やがて、冷たい雨がしょぼしょぼ振り出し、ぬれた体には寒さがこたえる。」

「12月11日、地下室に、8名の敵兵が武装した姿で集まっている。我々を見、銃剣を向けられるや、何ら抵抗せず両手を上げて降伏する。
直ちに死刑執行
死刑執行で飯もおいしく
真中に武さん
調べてみると、この兵たちは、田中分隊長を狙撃したやつらとわかる。相談の結果、直ちに殺すことに決め、田中分隊長ほかの墓標の前に連れて行き、死刑執行する。気持ちよい。夕食のとき、みんなに話した。俺は元来、きわめて内気な恥ずかしがり屋で、小心者だ。子どもの頃、かえるや蛇1匹殺すことはしなかった。それが、誠に平気にできるし、これで亡き戦友も浮かばれると思うと、後味が悪いどころかかえって気持ちがよく、飯もおいしくいただけるんだから、戦争とは、どんなものをも悪魔にしてしまうんだなあ。」

長男「親父は、とてもやさしい人でした。子煩悩で孫たちもかわいがるし、近所にも、敵ができるような人ではありませんでした。一方、戦争では、人がやってはならないことも、やらなければいけない。人間とは、変わるものだなー。ある意味ではショックでしたね。」

その後、武さんの部隊は、南京を攻略、徐州作戦に参加する。ここに中国軍の主力が終結していると察知して、日本軍は、これを包囲殲滅しようとした。日本軍は、民衆の支援を受けた、中国軍のゲリラ戦に悩まされる。
「5月十六日、落伍者を残したまま、午前2時前進を開始する。半里も行かぬうち、平穏だと思っていた町は、砲弾の音で、戦いが始まったらしい。敵兵が一斉蜂起して襲撃をはじめ、わが軍は悲惨な状態にあるという。この付近の一般の住民は、良民のような姿をしているが、家の中に銃を隠し持ち、手榴弾もあるから、よくよく注意するよう伝えられる。」

武さんは、徐州作戦で体験した話を、晩年にいたるまで、胸に秘めていた。それは、兵士と民衆の見分けがつかないための、混乱した戦場で起きた悲劇だった。戦後30年以上経って、武さんが話すことを躊躇した戦場での最も苦い記憶、体験は、日記の中に示されている。昭和13年5月20日、徐州郊外での出来事である。
「午前8時頃、わずか3時間の睡眠で出発、山を越えて東方に向かう。途中、部落に火を放ち、敵の拠点となるのを防ぐ。さらに中隊長命により、農村といえども、女も子どもも片っ端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に、50人、60人。かわいい娘、無邪気な子ども。泣き叫び手を合わせる。こんな無残なやり方は、生まれて初めてだ。ああ、戦争はいやだ。」

長男「親父が夜中に涙を流すことが会って、眠れない夜があるんですよ。それは想像ですけど、思い出したくない体験が、睡眠中に目を覚まさせるんだろうと思っています。」
戦後の手記執筆
手記にまとめる
戦後の農民武さんの家族
手記の自費出版
戦後、一農村の平和な生活に戻った武さん。しかし、武さんは、戦場から持ち帰った心の重荷から、解き放たれることはなかった。武さんは、つらい記憶と正面から向き合い、自らの体験を手記にまとめ始めたのは、中国から帰還して、およそ30年後だった。当時、武さんは、60歳を過ぎていた。残された時間が尽きる前に、自分が体験した凄惨な戦場の事実を、記録にとどめなければならない。武さんは、死の間際まで手記を書きつづけた。
「一兵士の従軍記録」、武さんの手記を読み、その経験を重く受け止めた息子たちは、戦争の実態を広く伝えるため、自費出版に踏み切った。

5男「いかに戦争というものが、残酷で、家族を崩壊し、自分を抹殺してしまうものなのかを、知ってもらいたいという気持ち。それを、我が子へ孫へ伝えておきたいという、心境だったんだと思います。」
長男「なぜ、公表したのかですが、そういう事実があったということが積み上げられて、正しい戦争に対する認識がどこかで育つときに、この公表が価値をもつだろうという考え方ですね。」
女孫「あのおじいさんが、そんな事ができただろうか。考えられません。」
男孫「おじいさんが経験した悲惨さは、我々にはわからないことなので、実際経験した人たちが、口を開いて記録に残してくれることが増えれば、もう少し、戦争観が変わってくる気がするんですけどね。」

「月日の経つのははやいもの、もう6月だ。今田植えの最中であろうと国元を思う。さわやJかな初夏の風が、心地よくほほをなで、沿線の田畑では、ちょうど麦刈りの真っ最中、時たま水田があって、田植えにいそしんでいる。1ヵ月半前、行軍したときは、部落民はほとんど見えず、まして田畑で働くものなど、一度も見かけなかったのに、漸く戦火が収まると、早速、麦刈り、田植えに精を出す農民たち。私も、農民である以上、同じ仲間として同情もし、戦争の中で生き抜く彼らに、敬意と激励を与えたいと思う。」

日中戦争前夜から、太平洋戦争終結まで、述べ6年間におよんだ、武さんの戦争体験、それは、兵士としての責務をになわされた一人の農民の、心の葛藤の日々でもあった。武さんが、戦場で書きつづけた日記、その中に、中国人と筆談をしたと思われる文章が記されている。戦争は、日中両国にとって、もっとも不幸な出来事である。今後は、中国と日本は、ともに和し、ともに発展していくべきである。
武さんは晩年、長い戦争と正面から向き合い、記録に残そうとした。子や孫たちは、その思いをそれぞれに受け止め、武さんの記録を心に刻んでいる。
作成者所感:
一人の兵士が、戦場の中で日記を書き記すというだけで驚くべきことだ。その日記の中に、善良な農民、市民だったものが、平気で人を殺すように変わっていく実態が、赤裸々に記されている。
韓国の討論会で、「ベトナム戦争中、韓国軍が残虐行為を行ったのではないか」との質問に対し、退役軍人は、「ゲリラ戦争だから、民間人を謝って殺したかもしれないが、かっての日本軍のように、組織的な虐殺とは違う」と強調したという。考えてみれば、原爆一発で、何人の一般市民がなくなっただろうか。
戦争になれば、結局は、兵士も住民もない殺し合いにならざるを得ないのだ。歴史的に見ても、戦争とはそういうものだということを、老いも若きもあらためて認識したい。戦火の収まったあとの、武さんの日記の穏やかなこと。


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