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〜 国際社会と闘った男たち(2)〜 | |||
3.昭和の松岡洋介…日独伊三国同盟締結の誤算 |
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1893年の春、13歳の松岡は、アメリカ西海岸に到着。ここで待っていたのは、最初の寄宿先で、いきなり薪割りを命じられるという体験だった。この家では、松岡は留学生ではなく、使用人の一人としか見ていなかった。皿洗い、農作業など重労働をして、学費を稼いだ。時には、人種差別も体験した。松岡の心の支えとなったのは、次の寄宿崎のベバリッジ夫人だった。ベバリッジ婦人は、松岡を、自分の息子と分け隔てなく接し、励ましてくれたという。 1898年、松岡はオレゴン大学に入学。クラスで2位という優秀な成績を収める。クラスメートは、松岡をこう評した。「駆け引きに長けたポーカーの名手」。松岡は、後でこう語っている。「アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない」。 1901年、アメリカの大学を卒業し、日本に帰国する。そして、外務省に入省、外交官として中国、アメリカなどに勤務する。 |
11月、満州国建国を認めるか否かをめぐり、スイス、ジュネーブで、国際連盟の臨時総会が開かれた。このとき松岡は、日本代表団の主席全権に任命された。本会議で、日本は非難を浴びる。議場では、満州国建国は認められないという意見が相次ぐ。これに対し松岡は、得意の英語で反論し、これは、「日露戦争での10万の英霊の犠牲と、満州事変で確保したものである」との日本の立場を訴えた。 そんなある日、日本政府からの指示が届いた。「もし、満州国建国が認められなければ、国際連盟からの脱退もやむなし」。松岡は電報を送り返した。「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらず」と。松岡自身は、あくまで、国際連盟に残るべきだと考えていたのである。 2月24日、決議が行われた。満州における中国の主権を認め、日本の占領を不当とする決議案は、賛成42の圧倒的多数で可決される。反対は、日本の投じた1票のみだった。可決直後、松岡は演壇に登り、次のように発言した。「この会議で採択された勧告を、日本が受け入れることは不可能である」。松岡は席を立って退場する。その一月後、日本は、国際連盟脱退を通告する。 1933年4月、松岡は失意の中に帰国。しかし、そこで思いもよらぬ光景を目にする。交渉に失敗した松岡を待っていたのは、国民の大歓声だった。新聞は、次のように報じた。「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は始めて、[我は我なり]という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」。松岡は、一躍、国民的英雄となっていたのである。 |
1937年7月、中国北京郊外で、日本軍と中国軍が衝突、日中戦争がはじまる。日本は、中国各地に進攻、これに対しアメリカは、中国を援助し日米関係は悪化していく。 1939年1月、ドイツから日本に、新たな提案がもたらされた。日独伊防共協定を発展させ、強固な同盟にするというものである。内容は、「三国の中の一国が、今後三国以外のある国から攻撃された場合、軍事的に援助することを義務付ける」。それは、日本が、ソ連だけでなく、イギリスやフランスそしてアメリカをも、公然と敵視することを意味する。「はたして同盟を結ぶべきか否か」日本政府は、何回となく会議を開くが、結論が出なかった。そのさなか、8月23日、衝撃的な出来事が起こる。 ドイツが、突如ソ連と接近し、互いの勢力圏を侵さないとする、独ソ不可侵条約を結んだのである。ちょうどその頃日本軍は、ソ連軍と満州国国境を巡って、ノモンハンで衝突していた。そのソ連軍が、こともあろうにドイツと条約を結ぶ。それは、これまでソ連を敵視して進められてきた、日本とドイツとの同盟関係を、根底から覆すものだった。8月28日、時の平沼総理は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として、内閣を総辞職する。日本の外交は、完全に行き詰まってしまったのである。 1939年9月1日、ドイツはポーランドに進攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、第2次世界大戦が始まった。9月17日、ソ連もまたポーランドに進攻、ドイツとソ連は、東西からポーランドを分割する。 |
7月17日、近衛文麿が総理大臣として組閣の命を受けた。近衛は、新内閣の外務大臣として、松岡洋右を抜擢する。新内閣の外交方針の話し合いの席上、松岡は、「まず、ドイツとイタリアとの関係を強化すべきだ。アメリカに対しては、無用の衝突を避けるよう努力する。しかし、アメリカが、力をもって干渉してきた場合には、断固これを排除する」と主張した。さらに、「日本がこれまで敵対してきたソ連をも、三国同盟に組み込みたい。ドイツとソ連はすでに不可侵条約を結んでいる。日本が、さらにソ連と協定を結べば、相手が4国では、アメリカも手出しができないはずだ」これが、松岡の思惑だった。 7月22日、近衛内閣が発足。松岡は、次の約束を取り付けた。「外交に関しては、すべて自分に一任してほしい」と。松岡は、外務省の大改革を行う。大使や公使など、40人を更迭するという空前の人事異動だった。三国同盟の障害となる、外務省の親アメリカ、イギリス派を一掃したと報じられた。 同盟の交渉を再開したいという松岡の呼びかけで、ドイツからスターマー特使が来日。9月9日夜、極秘の交渉が行われた。当時、ドイツの外務大臣だったリッペンドロップも、ソ連を加えた4国同盟の構想を抱いていた。松岡の気がかりは、目論見どおり、ソ連と協定を結べるかどうかだった。スターマーは、次のように約束した。「ドイツは、三国同盟締結後、日本とソ連とを結ぶ、誠実な仲介者となる用意がある」と。 松岡は、ドイツが、やがてイギリスを落とし、ヨーロッパ全体を手に入れることを予想していた。イギリスは、そうはいかなかった。 |
1940年9月27日、ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国同盟の調印式が行われた。ドイツ、リッペンドロップ外務大臣、イタリヤ、チアリ外務大臣、そして日本の来栖ドイツ大使が次々とサインする。ついに、日独伊三国同盟が締結された。直ちに、東京の外務大臣官邸に伝えられた。松岡は、ドイツ大使、イタリヤ大使そして日本政府の要人を招いて、盛大な祝賀会を催した。 しかし、恐れていたことが起こった。原議長の危ぐのとおり、三国同盟に対し、アメリカが厳しい経済制裁で日本に答えた。ルーズベルト大統領は、鉄鋼やくず鉄など、日本にとって欠かせない原材料の輸出を禁止。日本とアメリカの対立は、決定的なものになった。 1941年3月26日、松岡は、ドイツベルリンを訪れる。松岡は、ヒトラーを訪問、日本とソ連との仲立ちを、ドイツが努めるという約束の実行を迫った。ところがドイツは、交渉の仲介を拒絶したのである。この時ヒトラーは、ソ連攻撃を決意し、ひそかにその準備をすすめていた。松岡は、それを知る由はなかった。ソ連を味方に引き入れなければならない。 4月7日、松岡は、モスクワに乗り込み、友好的な条約を結ぶための交渉を始める。1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれた。日独伊三国同盟にソ連を協力させる松岡の構想は、大きな前進を遂げたかに見えた。その幻想はあえなく敗れた。わずか2ヵ月後、ドイツは、突如ソ連に進攻、ソ連を加えた4国で、アメリカに対抗しようとする松岡の構想は崩壊した。 松岡は、政府内で信望を失う。7月16日、近衛内閣は、アメリカに対し、強硬姿勢をとりつづける松岡外務大臣を除くため、一端総辞職する。近衛は、アメリカとの交渉継続を図ろうとしていた。11月26日、アメリカは、日本に対し、「中国からの全面撤退や三国同盟の否認など」を要求、日米両国の妥協は絶望的となった。 1941年12月8日、太平洋上の空母からとびたった日本軍攻撃隊は、ハワイ真珠湾を急襲、アメリカとの戦争が始まった。その日、開戦を知った松岡は、友人にこう語ったという。「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。これを思うと、死んでも死にきれない」と。 |
8月15日、天皇のラジオ放送で、戦争の中止が告げられ、9月2日、日本政府および軍代表は、降伏文書に署名した。あくる1946年5月3日、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が開かれた。松岡は、出廷を求められたが、かねてから患っていた肺結核の悪化により、わずか3日しか足を運ぶことがなかった。1月あまり後の6月27日、松岡洋右死去。66歳の生涯だった。 1933年、松岡53歳のとき、松岡が青春時代を過ごしたアメリカ、オレゴン州のポートランドを、再び訪れた。それは、この地にベバリッジ婦人の墓を建てるためだった。若き日、アメリカで苦労を重ねる松岡に対し、初めて対等に接し、勇気付けてくれたベバリッジ婦人に、感謝の意味をこめて墓を建てたのである。松岡は言った。「余は、かって人生の発育期をこの国で過ごし、生涯忘れべからざる愛着の情をもつにいたった」と。 後に、アメリカと日本の深刻な対立を招く、日独伊三国同盟を結んだ松岡洋右のこの言葉。日本が国際連盟を脱退するにいたったジュネーブ臨時総会からの帰り道のエピソードである。 |
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