そして日本は焦土となった
〜都市爆撃の真実

 無防備な都市の住民が、爆撃の恐怖にさらされた第2次世界大戦。世界で100万人を超える市民が空襲で犠牲となった。 今世紀に入っても、空爆による市民の犠牲があとを絶たない。
 都市爆撃の原点となった60年前の戦争を、市民はあらためて問い直そうとしている。一般市民を狙う爆撃は、本当に許される行為なのか。最悪の都市爆撃とされるのが、日本の66都市を焼き払った大空襲である。
 アメリカ軍は、倫理的な葛藤を抱えたまま、事実上の無差別爆撃へとふみきった。戦後60年、新たな資料と証言から、日本を焦土に変えた都市爆撃の全貌に迫る。

■昭和45年3月10日に始まった日本焦土作戦の実態
焦土作戦で焼かれる
爆撃の犠牲者
富山の爆撃目標エリア
空襲追悼集会
 アメリカ・アラバマ州の空軍基地に、1世紀に及ぶ機密資料が保管されている。新たに見つかった第2次大戦中の資料から、日本を焦土にした爆撃作戦の詳細を追うことにした。

 1945年3月10日の東京大空襲に始まり8月15日の終戦当日まで、5ヶ月に40万人もの市民が犠牲となった。町を火の海にする空からの集中攻撃、後のアメリカの戦いの基準になるとされていた。

 日本全国の都市を撮影した膨大な偵察写真。いずれも町の真ん中に奇妙な黄色の円が描かれている。爆撃目標エリア、B29は半径120kmのこの円の中に焼夷弾を投下するよう命令されていた。ここに住む人をめがけ、5万発のの焼夷弾が降り注いだのである。

 米軍資料から米軍焦土作戦の実態が明らかになった。「B29は北太平洋のサイパン、テニアン、グアム3島から発進する。日本までおよそ2,400キロ、7時間の飛行となる。硫黄島で進路を変更の後、目標上空へと侵入する。攻撃目標は東海道線南北の人口密集地域。各隊は複数のエリアで同時に攻撃せよ」

 6月5日、130機のB29が神戸に襲いかかった。各目標エリアで発生した火の手は、巨大な火災となって市街地の56%を焼き尽くした。
目標横浜:市街地は工業、商業、住宅地などを合わせた特徴を持つ。横浜には57機のB29が4波に分かれて侵入した。
目標名古屋:人口密集地を狙った爆撃は5回に及び1回2,000トンの焼夷弾が投下された。
大都市に続いて地方都市が破壊される。富山への攻撃はもっとも徹底的な攻撃となる。市街地の破壊率は実に99%にも達した。2時間で3,000人近い市民が犠牲になった。

 当時空襲を体験した中山さんは当時15歳。東京大空襲に遭った後、疎開で身を寄せた富山で再び悲劇に見舞われた。避難するさなか、幼い妹と母親を見失い、翌朝二人の変わり果てた姿を目にした。
「頭の半分は真っ黒こげで骨も焦げたような状態で死んでいて…」

 目標エリアの外側にあった軍需工場は狙われることなく、市街地だけが徹底的に焼き払われていた。地方都市の一つ一つまで、市民もろとも焼き尽くそうという日本焦土作戦の詳細が、資料に克明に記録されていた。
  

■話し合われた空爆ルールと最初に破ったドイツと日本
空戦法規
ドイツ爆撃により小都市壊滅
 市民を戦争に巻き込んではならないルールは、第2次大戦以前から存在していた。1922年オランダ・ハーグに、軍事大国だったイギリス、アメリカ、日本など6カ国が集まり、戦争のルールが話し合われた。
この時「空戦法規」が合意される。「攻撃は軍事目標に限る。市民を爆撃してはならない」。無差別爆撃の禁止が、はっきりとうたわれていた。

 1930年代後半、このルールを最初に二つの国が破った。ナチスドイツと日本である。1937年ドイツ軍は新型爆撃機の威力を試すため、スペイン北部の小都市を爆撃した。町は3時間で壊滅。死者の数は2,000人にのぼった。

 その3ヵ月後、日中戦争が勃発。日本軍は、長距離爆撃機による中国都市への爆撃を開始する。爆弾は市街地に落下し、重慶では1万人を超える人が犠牲になった。日本もドイツも市民を狙うつもりはないと言明したが、アメリカを始め世界は、無差別爆撃だと激しく非難した。

 これによって、女性や子供を含む大勢の市民が、空からの爆撃によって無慈悲に殺された。しかし第2次大戦には、アメリカが史上最悪の都市大爆撃といわれる日本焦土作戦に踏み切ることになる。

■アメリカでの無差別爆撃派と精密爆撃派との葛藤
ペンタゴンの戦略分析委員会
じゅうたん爆撃
日本の熱心な消火訓練
 日本に対する焦土作戦は、何時どのようにして計画されたのか。当のアメリカでも検証が始まった。1944年9月、ペンタゴンの一室で開かれた戦略分析委員会だった。委員会には軍の幹部のほか科学、経済、心理学などさまざまな専門家が集められていた。

 空軍の参謀は、「私は航空機工場こそ、もっとも重要な攻撃目標だと確信している。ドイツでも航空機産業をたたいた結果上陸進攻が早まった」

 この時期太平洋では、アメリカの爆撃作戦が実現しつつあった。44年夏サイパンに続いてグアム、テニアンを占領したアメリカ軍は、巨大な飛行場を建設。新型の長距離爆撃機B29で、11月には日本への直接攻撃の開始が決められた。

 攻撃開始まで残り2ヶ月、戦略分析委員会では、後の焦土作戦につながる議論が提起される。「結局日本の消耗を早めるなら、6大都市へのじゅうたん爆撃こそ有効でしょう。ドイツの都市より燃えやすく、遥かに効果的だと推測されます」。

 一方空軍は「都市へのじゅうたん爆撃は目標を限定することなくその地域を破壊するもので、事実上ハーグの空戦法規で禁止された無差別攻撃だ。米軍がヨーロッパ戦線で精密攻撃という手法で軍事目標だけを破壊するものだった。国際ルールを逸脱するじゅうたん爆撃には批判的である」と。

 この意見は空軍内に波紋を広げ、翌日には反論が出されている。
「アメリカ国民は、無益に人殺しなどをしたくはない。敵とはいえ、民間人の苦痛を考えると気が沈む。しかし戦争それ自体が非道なのだ。残虐な敵に対し、いつでもフェアルールにこだわる必要があるだろうか」

 その頃日本では、空襲への準備のため国民は隣組への参加が義務付けられ、熱心な消火訓練が繰り返されていた。しかし数ヵ月後には、その想定の甘さを思い知ることになる。 

■イギリス・ドイツ間の爆撃の様相
ドイツ市民の死体
ドイツの空襲追悼会
 ヨーロッパでは、ハーグの戦争ルールは崩れだしていた。ヨーロッパの爆撃戦の主役となったのは、イギリス空軍だった。当初はイギリス、ドイツ空軍とも精密爆撃を試みていた。しかし、ドイツの誤爆をきっかけに、じゅうたん爆撃の応酬が始まる。イギリス側の死者は1年で4万人を超えた。イギリスは爆撃隊を増強し反撃を開始する。ハンブルク、エッセン、ケルンなどの都市を報復として次々と爆撃した。犠牲者はハンブルクだけで35,000人。ほとんどが一般市民だった。

 軍の内部資料によると、一人の物理学者が提言する。「ドイツの58都市をじゅうたん爆撃し2,000万人の家を奪えば、市民の士気はくじかれ戦争は早期終結する」と。チャーチルはこの提言を受け入れたのである。

 爆撃で撃墜され、捕虜となって連行されたイギリス空軍兵は、列車の中から、じゅうたん爆撃の現実を目の当たりにした。「何マイルも続く廃墟でした。見えているのは、人の足だろうか手だろうか。私は恥ずかしくなりました」と。

 じゅうたん爆撃の犠牲となったドイツ市民は30万人以上にのぼった。アメリカはイギリスからのじゅうたん爆撃への参加要請を拒否していた。

■無差別爆撃へと向かうアメリカの爆撃戦略
戦略分析委員会報告
B29量産体制
新型焼夷弾
ハンセル精密攻撃失敗
 対日戦争の早期解決の道を探り爆撃開始を目前にして、戦略分析委員会では、これまで邪道としていたじゅうたん爆撃が、にわかに現実味を帯びてきた。
 「日本の都市は火災に脆く、日本人は火を恐れている。一体攻撃をした後避難民が戻ろうとした所を再び狙えば、彼らの恐怖心はさらに増すはずだ」

 一方現地部隊からは、なおも国際ルールを守るべきだという意見が相次いだ。「じゅうたん爆撃を実行すれば、我々はナチスが言ってきたとおりの野蛮人だと証明することになる。民間人を狙う攻撃になることは明白で、犠牲者の95%は一般市民となる」と。

 攻撃開始を翌月に控えた10月半ば、戦略分析委員会のまとめた対日爆撃の方針は、「優先目標は航空機産業およびじゅうたん爆撃を想定した工業市街地」。精密爆撃とじゅうたん爆撃二つが両論併記されたまま、攻撃開始の日を迎えることになった。

 11月末、100機を超えるB29が集結、日本爆撃が始まった。第一目標は東京の中島飛行機製作所、ハンセル司令官の攻撃は全く目標をはずれ失敗する。爆撃の障害となったのは、日本上空のジェット気流だった。これにより、精密攻撃を見限るべきとの声が一気に強まった。B29の大量生産と新型焼夷弾の開発が背景にあった。

 新型焼夷弾は、ゼリー状のガソリンをつめた小型爆弾が、あたり一体にばら撒かれ広い範囲を焼き尽くす。日本の都市に使用すれば、住民の60%を殺傷するといわれ、じゅうたん爆撃支持者たちを勢いづかせた。ハンセル司令官は、じゅうたん爆撃に傾くワシントンの動きに直訴したが、逆に空軍司令部から名古屋市街地の爆撃実行の決定的指令が届いた。1月、ワシントンの空軍司令官は、ハンセルの解任を決定した。

 じゅうたん爆撃を指揮したのはルメイ司令官だった。「爆弾を落とす者は、眠っている子供が瓦礫に押しつぶされたり、3歳の少女が炎につつまれお母さんと泣き叫んだりする光景に苛まれるかもしれない。しかし国家が望む任務を全うしたいのなら、そうした事は一切忘れるしかないのだ」と。

 マリアナ部隊を引き継いだルメイに、正式命令が下った。「日本の都市に対する焼夷弾作戦の詳細は、貴官の責任において具体化せよ」と。また無差別攻撃を報じるメディアに「我が軍の方針の変更は一切なかった。攻撃は軍事目標のみであり、今後もこれは変ることはない」と説明した。 

■B29による日本本土じゅうたん爆撃と正当性
じゅうたん爆撃による死体
黒焦げの親子の死体
世界の反戦運動
 2月下旬、司令部からじゅうたん爆撃の指示を受けたルメイは、具体的な実行計画に取りかかる。人口密度の高い地域はどこか。そこを焼き尽くすのに、どれだけの焼夷弾が必要か。またルメイは作戦文書に「これは市民に対する無差別爆撃ではない。重要産業、戦略目標への攻撃である」と記した。

 歴史を変える3月9日午前5時15分、新型焼夷弾をつんだ300機を超えるB29の日本焦土作戦の開始である。日本側に対策を立てる間を与えないために、徹底的な集中攻撃となった。東京、名古屋、大阪と10日間で連続的に300機の大編隊が襲いかかった。10日間で1万発の焼夷弾が降り注いだ。

 多大な犠牲にもかかわらず、日本は徹底抗戦の姿勢を崩さなかった。新たな攻撃目標が、めぼしい軍事目標の存在しない地方都市からリストアップされた。7月、空軍司令部に調査報告が寄せられた。じゅうたん爆撃は軍需産業への打撃とはならず、戦争解決に決定的な影響を持たないと。攻撃はさらに大きく過酷なものとなって、市民の頭上に降り注いだ。

 8月6日、9日、B29が二つの都市に原子爆弾を投下した。その6日後、戦争は終わった。アメリカのリストにあった66都市が焦土となった。しかし、戦後、爆撃が無差別殺戮だったのかどうか、連合国側で問われることはなかった。

 空からの攻撃は、空軍将校たちが予測したとおり、その後の戦争の主役となった。市民の犠牲の前に、爆撃は軍事目標だったと釈明が繰り返された今、改めて都市爆撃の正当性を問う声が、世界中から上がっている。

 無防備な市民を襲う空からの脅威。世界は何を学んだのか。60余年前の戦争は今もそれを問いかけている。

所 感
 1945年3月10日、私は中学2年。早朝、B29、1機が1発だけ盛岡駅周辺に新型焼夷弾を落とした。火のついた油脂片が、家々の壁や縁の下に飛び散り、みんなで消火した事を覚えている。

 60余年前、新型焼夷弾によって無防備な市民を犠牲にする日本本土じゅうたん爆撃の是非が、アメリカの中でこれほど喧々諤々と議論されていたとは以外だった。結果はともかく、さすがアメリカである。しかし、20世紀になった今、これらの議論が生かされているのだろうか。イスラム教徒によるテロには、どう対処すればよいのだろうか。

 今は新型焼夷弾どころではない。原水爆その他の新兵器を、どの国がどれだけ持っているのか、考えただけで寒気がする。日本もまたアメリカの核の傘の元にあるといわれる。かけがいのない地球の人々を、全世界で何とか守ってもらいたいものだ。現在の国連は、相変わらず第2次世界大戦の戦勝国が中心となっている限り、信頼できるものではない。

 世界の人々は、60余年前の日本人の経験を無駄にしないよう、学びなおしていただきたいものだ。    


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