| 人間魚雷・悲劇の作戦 〜回天特別攻撃隊〜 |
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| 山口県周南市大津島。太平洋戦争の末期、海軍が開発したある秘密兵器が次々と運び込まれた。その兵器に乗るために、全国から400人の若者たちがやってきた。秘密兵器の搭乗員を募集するとだけ聞いて志願してきたという。 秘密兵器人間魚雷回天。人間もろともに体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈める極限の兵器である。搭載された爆薬は、空母をも沈められる破壊力を持つといわれた。出撃すると二度と生きては帰れない。終戦までに、104人もの搭乗員が海に散っていった。 太平洋戦争末期に行われた、海の中の特攻人間魚雷回天の真相に迫る。 |
昭和19年2月、海軍は人間を乗せた新型魚雷の開発に踏み切る。搭乗員が生存できる可能性を残すため脱出装置をつけることが条件だった。しかし戦局の悪化とともに、開発が難しい脱出装置は断念された。 搭乗員の命を犠牲にすることを前提とした兵器、人間魚雷の誕生である。 瀬戸内海にある大津島に、回天の訓練基地が作られた。全国から集まった400人の若者たち。志願したのは、海軍兵学校や予科練の出身者たちだった。若者たちは、ここで始めて新兵器の全貌を知ることになる。 人間魚雷回天、前方部分につめられた爆薬は、それまでの魚雷の3倍に相当し、空母を沈められるとされた。操縦席には自爆装置がついていた。気を失って前傾姿勢になれば、爆発する仕組みになっていたのである。たとえ命中しなくても、二度と戻ってはこられない兵器だった。 元搭乗員1:「覚悟はしていたけど、やっぱりギョッとしましたね」。 元搭乗員2:「いずれ死ぬんだと思うからね。早いか遅いかの違いだけど」。 通常回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間だった。身動きの取れない密室で、回天を操るのは困難を極めた。回天は水深5mで航行して目標に接近、一度浮上して目標物の位置を確認する。この時、敵から発見されないようにわずかな時間で確認することが求められた。その後何も見えない中、コンパスと時計だけを頼りに突き進むのである。訓練では海中に突入したり、エンジンが止まるなど事故が続出。実戦を前に15名が命を落とした。 元搭乗員1:「潜望鏡を上げたまま浮上して船の底にぶっつけて潜望鏡が折れる。折れると根元が開き、水が入って沈む。溺死です」。 元搭乗員2:「訓練即、死と隣り合わせです。大津島に近づいたとき、エンジンが爆発して沈没しました。太平洋だったら、1000mから2000mの海底に鎮座しておさらばでしょうね」。 |
この後回天は海軍に残された数少ない切り札として、強い期待を背負うようになる。レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、初の回天隊が出撃した。目標地域はアメリカの前進基地となっている、南太平洋のウルシーである。標的は環礁に停泊しているアメリカの艦隊だった。潜水艦が接近し、搭載されていた回天が次々と出撃した。しかし、目標に到達するのは至難の業だった。搭乗員には、詳細な地図も敵艦隊に関する情報も殆んどなかったからである。 元隊員:「まず一番難しいのは、真っ暗な時にどうやって水道まで行くか。入るのにコンパスだけだから、特眼鏡を上げてもわかりませんよ。地理だって初めてですよ。何回も来ている人だったら、多少違うかもしれない。難しすぎるんですよ」。 アメリカ側が撮った当時の写真である。回天の突入で炎上するタンカー。9人の命と引き換えに挙げた戦果は、この一隻だけだった。その後も同様の奇襲作戦が行われたが、戦果はほとんど挙がらなかった。作戦の失敗にもかかわらず、大津島では残された隊員たちが沸き立っていた。大本営は、回天隊は多大な戦果を挙げたと華々しく発表したのである。空母2隻、戦艦3隻轟沈などと。 当時大津島で訓練していた隊員: 「この時は、一隻しか沈めていないとは知らなかった。回天が5本とも戦果を挙げた事になっているんだから。我々も回天の威力たるや予想通りだと、意気に燃えたというところでしょうね」。 出撃を待つ日々を語る隊員1: 「何しろ次から次へと出撃していくと、飯食う人間が5人、6人と減っていく。そうすると飯食うのも侘しくなって、これは早く出ないと。悲しみとか死なんて、お互い語り合うこともない。これが当たり前だと受け入れていた」。 隊員2:: 「精神的に悩むときは、軍歌を歌って慰めた。あとは山に行って、軍刀で竹や木を憂さ晴らしに斬ってみたりして、自分の精神を癒していた」。 |
塚本さんの手記が残されていた。 そこには回天隊に志願したときの心情が綴られていた。 「俺が待っていたのはこの兵器だ。どうしても俺はこれに乗る」。この兵器とは人間魚雷回天。その反面、自分の決意が揺らぐ気持ちも綴られている。訓練生活で塚本さんは、迷う心を断ち切ろうとする。 「人間は弱い。自己を思うからだ。滅私、完全なる滅私生活へ。母を忘れよ」。 昭和19年11月、塚本さんの出撃が決まる。出撃が決まると搭乗員たちは、最後の帰省が許された。しかし回天の任務を話すことは、固く禁じられた。家族水入らずの時間は、一年ぶりだった。 戦後、塚本さんの遺品の中から、家族に当てた録音が見つかった。 「母よ、妹よ、そして長い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといって、あの崖下にススキを取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だっけ。こうやって、みな愉快にいつまでも暮らしたい」。 塚本さんの弟さんは、出撃を控えた兄の顔が今でも焼きついているという。 「死期はわかっていることです。それまで死ぬ訓練をしなければならないのは、並大抵の精神力ではできないと思う」と。 後に弟さんに遺品のハンカチが届けられた。 「兄貴がついているぞ。がんばれ。親孝行を頼む」。 昭和20年1月、塚本さんは、共に出撃した回天隊18名と共に命を落とした。 「愛する人々の上に、平和の幸を輝かせるためにも」。 海軍に入隊してから一年、書き続けた日記の最後の言葉であった。 |
回天作戦は修正を余儀なくされた。停泊中の艦船を襲うのではなく、アメリカ軍の補給路で潜水艦が待ち伏せし、航行中の船を狙うことにしたのである。標的が動いているため、命中率が低い難しい作戦だった。 昭和20年5月、航行中の艦船を狙う新たな作戦のもと、回天振武隊が出撃する。搭乗員は5人、大津島で半年間寝食を共にしてきた仲間だった。彼らが乗り込んだのは伊号367潜水艦だった。二度と生きて帰ることのできない回天作戦。出撃の判断は、潜水艦の艦長に一任されていた。軍医長は艦長から悩みを打ち明けられていた。 「司令部から、回天は魚雷だと思って使えと言われているが、、若い者を乗せてそういう気にはなれない」と。 当時海軍によって撮影された潜水艦内部の映像がある。温度が30度を超える狭い艦内で、100人を超える乗組員が任務についていた。この中で、搭乗員は出撃までの時間を過ごした。 「暑いの何のって、褌一丁で。朝だか昼だか夜だかわからない。いらいらしてくる」。 伊367潜水艦が出撃してから10日程後、前方にアメリカ艦隊を発見した。「回天用意」の号令と共に、5人が回天に乗り込んだ。5人は艦長の言葉に耳を澄ませて、出撃の瞬間を待っていた。 「最初の回天戦用意の号令がきたときは、緊張したね。いよいよ来たかと。2,30分経ってから、遠すぎて回天戦ができないとの命令。ほんとに緊張したね」。 「回天戦用意で今日死ぬかと思っても、1時間以上待って回天を下りろだ。緊張が毎日のようにあって、死ねない。早く何とかしてくれという感じ、つらくて。」 回天戦用意の号令が下っても、出撃停止になることがその後も繰り返された。 出撃して3週間後、伊367潜水艦は再びアメリカの船団を発見、回天戦用意の号令。ついに5人に出撃命令が下される。ところが、回天は基地を離れて1ヶ月近く経っていたため、十分整備ができず、故障で出撃できないものがあった。エンジンがかからなかった岡田さんは、仲間の千葉さんの出撃を見送った。「用意、撃てー」で千葉のバンドが外れ、回天がスーッと出て行った。出撃できたのは二人だけだった。 岡田さんは「その時は自分が情けなかったね。後ろを見たら2号艇が未だ残っている。帰るのは俺だけでないとほっとしたね」。 岡田さんたちが回天の爆発音を聞いたのは、予想された突入時間よりもかなり後の事だった。「40分経っての爆発音。40分経ったら中の酸素がぎりぎりだもの。とても成功したとは思えない。あれは自爆だ」。それを艦長が聞いて「俺は若い男を無駄死にさせた」と自棄になっていた。 |
終戦間際に南太平洋で生き残った竹林さん「戦時下ベッドの上下にいるときに、故郷という歌の中で”何時の日か帰らん”とあるが、俺たちにはないな。その言葉を聞くたびに、胸にじんと来る」と。 初の回天隊が出撃した11月、大津島では毎年追悼式が行われている。生き残った搭乗員たちは、戦後64年間仲間の死と向き合ってきた。回天の故障のため出撃できなかった岡田さんは 「この二人とも今日はお別れでね、お供えした酒をこれから一緒に飲もうと思ってね。日本は、ほんとに人間の命を粗末にした国だったね。自分で志願したとはいえ」。 「こうして生きさせてもらっていること自体、不思議でならない。自分で弾があたるまで舵とって進んで死ぬのは、人間くらいしかないよね」。 戦局を挽回するとうたわれた特攻兵器「人間魚雷回天」。作戦の開始から9ヶ月、撃沈した敵艦は確認されているだけで3隻。回天で命を落とした若者104名にのぼる。 |
| 所感: 人間もろとも体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈めようとする極限の兵器、人間魚雷回天。太平洋戦争末期、敗北を重ねた日本海軍が考え出した究極の海の特攻作戦だったが、アメリカ軍の防御体制の整備と共に、思うように成果が挙がらなかった。 考えてみれば、これは人間の命を犠牲にした苦し紛れの戦法といえるだろう。9ヶ月間で撃沈した敵艦は3隻、命を落とした若者は104名にのぼるとは…。故障のため出撃できなかった隊員が、日本ほど人間の命を粗末にした国はないだろうといっているのは当然である。 世界におけるテロ組織が、現在でも自爆テロを行っているという。国家外交の一つの手段として行う戦争と、暴力やその脅威による思想提示手段として行うテロとは基本的に異なる。とは言え、太平洋戦争末期の日本がそのような発想の先鞭をつけたと言われても、弁解の余地がない気がする。 |
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