中国北京郊外の盧溝橋で、日中間の衝突が起きた。いわゆる盧溝橋事件である。日中両国は軍隊を派遣、8年に及ぶ日中戦争の始まりとなった。この戦いの中、南京虐殺事件などで日本は孤立を深め、太平洋戦争への道を突き進んでいく事になる。
 最近、この戦争の実態を明らかにする重要資料が明らかにされている。戦いを有利にするため世界に働きかける蒋介石の日記、中国軍恐るるに足らずとした松井日本軍司令官の日記など、公開された資料と体験者の証言をもとに、真実を探る。

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★満州事変後の日中相互の見方
盧溝橋事件
蒋介石夫妻
盧溝橋事件勝利

 日中戦争の発端となった1938年7月の盧溝橋事件、その真相は今も明らかになっていない。この事件が起きると当時の近衛首相は直ちに不拡大方針を打ち出した。当時、日本の傀儡国家満州国は、強力な軍事力を持つソビエトと直接向き合っていた。

 しかし、陸軍参謀本部の中には「対支一撃論」と呼ばれる主張があった。即ち大軍で威嚇し攻撃すれば、中国はすぐに鉾を収めるというもので、この主張に押し切られ軍の派兵が決まった。

 これは6年前に起きた満州事変の影響ががあった。関東軍が、独断で戦争を拡大、わずか4ヶ月で中国東北部のほぼ全域を占領した。政府は、その後、関東軍の行動を追認、傀儡国家満州国が建国された。蒋介石は、軍閥や共産党との対立が続いていたため、日本軍への積極的な抵抗は命じなかったのである。

また、国民党の体制について日本は、党は堕落し党員は腐敗、中国は四分五裂して国家の体をなしていないと分析していた。

 しかし、中国は満州事変から6年、大きな変貌を遂げていた。軍閥との戦いに勝利し国家体制の整備を続けていた。蒋介石の日本に対する考えを示す日記が、「国民党史館」に保存されていた。「7月8日、(盧溝橋事件の翌日)日本は盧溝橋で侵略行為に出た。わが軍の準備ができてないと見て、屈服させるつもりか。今こそ応戦の決意を示す時だ」と。

 当時の蒋介石の秘書(109才)は、「蒋介石は、必ず国家は取り戻せる。「雪恥(日本に復讐する)」という文字を毎日書いていた」と。 

★上海での武力衝突と中国軍の精鋭と最新兵器
チェコ製軽機関銃
ドイツ軍事顧問団リーダー
中国兵のドイツ式訓練
防御陣地が描かれた地図

 1938年8月、盧溝橋から1月後に上海で新たな武力衝突が起こった。当時上海には、欧米諸国や日本が権益を持つ租界があり、3万人の日本人も暮らしていた。この居留民保護を目的とする日本軍が5千、蒋介石はこれを上回る精鋭を送ってきた。日本陸軍は10万を超える陸軍を送り、戦火は一気に拡大する。

 陸上自衛隊金沢駐屯地に設けられた資料館に、保管されている「第9師団歩兵第7連隊戦闘情報」に作戦情報が詳細が記録されている。10月22日の死傷表によれば、2週間の戦闘で兵士2566人中、死者450人、負傷者405人。兵士の損耗率は53%に達している。

中国軍は予想を上回る強力な武器を持っていた。国軍歴史文物館(台北)の元中国兵(82)によれば、「チェコスロバキア製の軽機関銃」を使った。この銃は毎分550発、命中精度は当時最高水準を誇っていた。武器はドイツから来ました」と。

 ドイツの軍事資料館には、蒋介石が開戦前から、ひそかに進めていた軍備増強政策を物語る記録が残されていた。蒋介石の下には、30人に上るドイツの軍事顧問団がいた。リーダーは歩兵部隊の育成の第一人者として知られていた。彼によれば、「中国兵の士気は高い。徹底抗戦の構えは整っている」と。

 当時、日本と防共協定を結んでいたドイツ。その一方で日本に敵対する中国に軍事支援を行っていた。ナチスドイツの総統ヒトラーは、「日本との協調関係は維持する。しかし、武器などの中国への輸出も、偽装できる限り続ける」と。ドイツからは、装甲車や戦闘機などが大量に輸出されていた。

 ドイツ式ヘルメットをかぶり、軍事訓練を受ける中国兵士たち。リーダーは最新兵器の使い方を教え、精鋭部隊を育成した。

 また盧溝橋事件の半年前に作成された地図によれば、この下の地域、南京、上海では、すでに防御陣地が築かれていた。上海の西に防御線を敷き、首都南京を守る体制を強いていたのである。「中国北部でいくら戦争をしても誰も注目しません。国際都市上海で戦争をすれば、国際世論を喚起できます」と。

 蒋介石は、日記に、「アジアの問題は、ヨーロッパ、世界各国と共同で解決する。そして、侵略者日本を処置する」と書いている。 

★激戦の上海戦と日本軍の大規模増援
西への進撃を禁じた制令線
アメリカ大統領ルーズベルト
増援部隊、杭州湾に上陸開始

 水路(クリーク)が網の目のように走る地形を利用した上海での戦いは、激戦となった。主戦場となった郊外には、クリークが網の目のように走り、ドイツに学んだ中国軍は、この地形を利用した防御体制を敷いていた。

 狙撃兵に左腕を打ち抜かれた第9師団の機関銃兵Kさんは、「家は男一人、家を守るためには、片腕でも、両足なくしても内地に帰らなきゃ。一発の弾丸ぐらいで死んでたまるか」と。中国は一撃すれば屈服するという言葉とは裏腹の現実に、兵士たちは敵愾心を募らせていた。

10月20日、東京の参謀本部は大規模な増援部隊の派遣を決定する。この軍の決定は戦いの早期終結を図るため、戦場を上海付近に限定した。そのため蘇州と嘉興を結ぶ線を引き、その線を越えて西に進軍することを禁じた。これを「制令線」と言った。陸軍増派の決定は、政府にも大きな決断を迫ることになった。

 戦いがここまで拡大した以上、正式に宣戦布告し、国際法上の戦争にすべきかどうかには問題があった。日本は当時国際法上の戦争にしたくない事情があった。鍵を握っているのはアメリカ。当時アメリカは、国際都市上海を爆撃する日本に批判を強めていた。日本は石油や兵器の材料の多くを、アメリカに依存していた

 しかし、アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁じた中立法があった。もし日本が宣戦布告すると、アメリカがこの中立法を発動する恐れがあった。結局日本は戦いを支那事変と称し、国際法上の戦争ではないという立場をとり続けた。

 11月5日、およそ7万の増援部隊が上海の南、杭州湾に上陸を開始、これを機に形勢は日本軍有利に傾いていく。
 

★上海陥落と南京攻撃をめぐる現地軍と政府のかけひき
四行倉庫
国際会議での中国代表
上海陥落

 蒋介石はアメリカやヨーロッパに働きかけを強め、戦局の打開を図ろうとする。この時期、戦争の拡大を恐れる欧米諸国が、ブリュッセルで国際会議を開こうとしていた。蒋介石はその場で日本の不当性を訴え、制裁措置を発動させようとした。

 川沿いに建つ「四行倉庫」が最大の激戦地となった。この倉庫の対岸には、欧米諸国の租界があった。欧米諸国のメディアは、四行倉庫の攻防戦を撮影し世界に伝えた。これこそが蒋介石の狙いだった。

 秘書の日記にある蒋介石の言葉に「この場所を死守させる。そうすれば、世界中の人々に感動を与えることができる」と。しかし、ブリュッセルで開かれた国際会議は、蒋介石の期待を裏切り、各国の日本との関係悪化を決定的なものにする経済制裁の発動に、踏み切ろうとしなかったのである。

 四行倉庫での激戦は4日間で終わった。ここで蒋介石は、ドイツ式の精鋭部隊を失った。日本軍は、11月上旬上海を陥落させた。

 この辺で一度交代を期待する兵士の思いをよそに、M現地司令官らは戦地拡大に動き出していた。11月22日、司令官は参謀本部に電報を送った。「制令線に軍を留めることは、戦機を逸するのみ。南京に向かう追撃は可能なり」と。一気に首都南京を攻め落とすことを進言したのである。

 参謀本部は制令線を超える追撃は、命令逸脱行為であるとしたが、現地に呼応するS作戦部長は、昭和天皇を前にした大本営御前会議で、独断で「新たなる準備態勢を整え、南京その他を攻撃することも考慮しています」と報告した。Sはこの発言について叱責されたものの、何ら処分を受けることはなかった。

★ソビエトの姿勢と南京攻撃の実態
南京攻撃開始
ソビエトの即時出兵拒否電報
12月13日、南京陥落
軍服を脱いで便衣に着替える

 12月1日、軍中央は南京攻撃を正式に命令する。現地軍の独走、そして軍上層部による追認と、満州事変と同じ構図が繰り返された。20万を超える日本軍が一斉に南京に向かって進撃。この時の日本軍の決定により、日中の戦争は、なしくずし的に全面戦争へと拡大していくことになる。

 11月30日、蒋介石の新たな挽回の方策、それはソビエトに参戦を促すことだった。ソビエトは当時蒋介石の要望に答え、武器の供与を行っていた。スターリンは中国に当てた電報の中で、「兵器の供給は1億中国ドルまで増やすことができる。戦闘機200機、戦車200両も供給することができる」と。さらに12月5日、「ソビエトは出兵するが、最高会議の承認が必要である。会議は遅くとも2ヵ月後には開催される」と即時出兵はできないという回答だった。スターリンは日本のほか、ヨーロッパで勢力を拡大しつつあったドイツ軍に、神経を尖らせていたのである。

 蒋介石は、南京郊外の農村に400を越える陣地を築き、防衛ラインを敷いた。南京から15kmの郊外の村で、12月上旬激しい戦闘が始まった。12月7日、蒋介石は南京防衛軍およそ10万を残し、自らは戦線の立て直しを図るため、南京を離れた。相前後して、ドイツ軍事顧問団や国民政府の幹部も、城外に逃れていった。

 12月10日、日本軍は総攻撃を開始し、中国防衛軍司令官が逃亡、残された中国兵は指揮系統を失い大混乱に陥った。攻撃開始から3日後、南京は陥落した

 南京城内に入った通信兵Kさんの日記によれば、「日本兵は思いがけない光景を目にする。あたり一帯に正規兵の被服、兵器などが散乱、放置してある。中国兵の奴らは、便衣(普段着)に着替えたらしい。」と。13日、城内掃討の命令が下った。「青壮年はすべて敗残兵または便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕、監禁すべし」

 中国では大学など研究機関で、そのとき何が起こったのか、実態調査が進められている。ある村人は「父は木に縛られて殺されていました。父は腰紐のついた野良儀を着ていました」と。また、他の大学の調査では、南京周辺で、日本軍による国民の殺害、強姦、放火などの被害が証言として記録されている。

 掃討命令を受けたNさん(91才)は「城内に10万か20万の敵がおり、全部便衣に着替えて一般の住宅などに逃げこんだ。これは正規軍人、これは一般人と分けられると思いますか?」

★国際法に基づく捕虜の扱いと虐殺問題
難民区国際委員会
連行された若者
近衛首相

 当時城内には、戦火に巻き込まれた人々を保護するため、難民区が設けられていた。日本軍は難民区の中にも、中国兵が潜んでいるとして掃討対象とした。難民区を運営する国際委員会は、捕まえられた中国兵は捕虜と認められるため、人道的に扱うよう求めた。

 日本は、当時、捕虜の扱いについて定めた国際法を批准していた。この国際法に対して陸軍省は、「日中両国は国際法上の戦争状態に入っていないため、捕虜などの言葉の使用は避けるように」と指示している。上海から南京にいたるまで、日本は宣戦布告せず、日中両国間の事変としたまま戦線を拡大した。従って、捕虜の取り扱いを定めた国際法が、機能する状態ではなかったとしたのである。

 皇族も参加する南京入城式が2日後に迫った15日、新たな掃討命令が下った。連隊は難民地区の敗残兵を、徹底的に捕捉、殲滅せんとす。逮捕、監禁命令が、捕捉、殲滅に変わっている。

 戦争参加者の話、「掃討地区の若者を捕捉して、5人づつ縛って揚子江沿岸に連行、射殺した」。「捕捉してつれてきたものたちが、一斉に川に飛び込んだんですよ。対岸に逃げるつもりだったのか。それで一部射撃したんです。その時、私も一人斬りました。なかば、虐殺ととられても…」

 軍の公式記録では、第7連隊の掃討は12日間続き、その間刺殺、または射殺した敗残兵は6670人と記録されている。

 そのころ日本では、南京陥落を大々的に報じて国民は祝賀ムードに沸き返っていた。近衛首相は声明を発表「日本は、今後中国の国民政府を相手としない」と。この声明により日中両国は外交による対話を失い、戦争は解決の糸口を見せないまま長期化していく。

★虐殺フィルムでアメリカの非難と行動
アメリカの雑誌「LIFE」
惨殺された中国人
八露軍を率いる毛沢東
徹底抗戦する蒋介石

 蒋介石は屈服せず、新しい首都を重慶と定め、徹底抗戦の決意を新たにしていた。また、こうも語っている。「私は屈服して滅亡するより、戦って死ぬことを選ぶ」と。

 南京陥落は多くの外国人によって目撃され、国際社会に波紋を広げていくことになる。あるドイツ外交官が、アメリカ人宣教師によって撮影された説明書つきフィルムと共に、衝撃的な歴史的資料として本国に多くの報告書を送っていた。ヒトラーは報告書が送られた1938年、軍事顧問団の中国派遣を打ち切り、日本との関係を深めつつあった。

 このフィルムのコピーがアメリカに渡っていた。当時、日本軍の勢力拡大に神経を尖らせていたアメリカでは、このフィルムの上映会が繰り返し行われた。撮影した宣教師の解説をもとに、字幕が付けられている。「何人もの民間人がロープで縛られ、川岸や池のふち、空き地に連行され、機関銃や銃剣、手榴弾で殺された」。このフィルムにメディアも注目し、日本の残虐行為を非難する記事があふれた。

 蒋介石はアメリカの世論に注目、メディアをはじめアメリカ社会への働きかけを強めていく。アメリカでは日本製品の不買運動が広がり、1939年、政府は日本との貿易を制限する政策をとり始める。毛沢東率いる八露軍も日本軍に対するゲリラ戦を展開していく。

 南京陥落から4年後の1941年、日本はアメリカとの全面戦争に突入、中国も日本に宣戦布告する。日本は盧溝橋から始まった事変から世界戦争へと突き進んでいった。中国は一撃で倒せるという誤った見通し、そして軍の独走を止めることのできなかった国のあり方。日本の戦線はアジアから太平洋へと拡大し、国民は次々と戦線へ動員されていった。

 日中戦争から太平洋戦争終結までの犠牲者は310万人、中国の犠牲者は1000万人を超えるといわれている。日本人が国を挙げて邁進した昭和の戦争の結末だった。

所感:
 戦争の拡大の原因としてあげれば、まず、軍の中国をまとまりのない国と判断した「対支一撃論」に政府が押し切られたこと。続いて上海の西、南京には進行しないと線を引いた政府の「制令線」を破って、南京に侵攻した軍を抑えられなかった政府の甘さ。
 また、ドイツの軍事顧問団などの強力な支援と、ソビエトの武器支援が大きかったこと。

 南京での残虐行為については、事実は事実として、戦争に参加したKさん(91歳)の「城内の中国兵が軍服を脱ぎ捨てて便衣に着替え、民家にもぐりこんだ。誰が兵隊か、誰が民間人か見分けられると思いますか?」の言葉が印象に残る。今のイラクの現状が眼に浮ぶ。

 何といっても、文民統制(シビリアンコントロール)つまり、文民の政治家が軍隊を統制するという政治の基本の大切さを、痛感させられる戦争だったと感ずる。